
市場は眠らない …第二章 ワインの値段…
午前十時三十八分。
彼女は電卓を置いた。
三度目だった。
計算が間違っているわけではない。
結果が気に入らないだけだ。
輸入ワインの新しい価格表が画面に表示されている。
161.458
為替レートの欄に入力された数字が妙に冷たく見えた。
去年なら、このワインは3,800円で売れた。
一昨年なら3,200円だった。
いま同じ利益を確保しようとすると、4,700円になる。
彼女は椅子にもたれた。
窓の外では六月の光が揺れている。
誰も悪くない。
それが一番困る。
政府が悪いわけではない。
銀行が悪いわけでもない。
アメリカが悪いとも思わない。
けれど確実に誰かが困っている。
その誰かの中に、自分も含まれていた。
スマートフォンが震えた。
メッセージだった。
「今度の試飲会、値上げですか?」
常連客からだった。
彼女はしばらく返信できなかった。
値上げです。
その一言を書けば済む。
けれど、
値上げしたいわけではない。
誰だってそうだ。
彼女はワインが好きだった。
ボトルの向こうにいる人たちが好きだった。
収穫を待つ農家。
樽を磨く職人。
小さな畑を守る家族。
だから数字だけで決められない。
パソコンの画面には赤字の数字が並んでいる。
それでも彼女は価格を修正できずにいた。
利益を守れば、お客が離れる。
価格を据え置けば、自分の会社が苦しくなる。
どちらも正しい。
どちらも間違っている。
彼女は立ち上がり、店の奥に並ぶボトルを見た。
ブルゴーニュ。
アルザス。
シチリア。
遠い国からやって来たガラス瓶たち。
海を渡り、
港を通り、
税関を抜け、
ようやくここにいる。
彼女は一本のワインを手に取った。
ラベルの端が少し擦れていた。
誰かの食卓へ行くはずの一本。
記念日かもしれない。
仲直りの夜かもしれない。
プロポーズかもしれない。
その値段を決めるのが自分だった。
スマートフォンが再び震えた。
通知にはこう表示されていた。
USD/JPY 161.623
彼女は小さく笑った。
「そんなに急がなくてもいいじゃない」
もちろん返事はない。
市場はいつだって無口だった。
