
きみの瞳にカンパリ【掌編】
【掌編】きみの瞳にカンパリ
重い夜は、グラスの底で静かに揺れていた。
カウンターには、磨かれた光が細く流れている。
琥珀色の酒、透明な氷、濡れたレモンピール。
古いジャズが、店の奥でけだるくほどけていた。
女は、少し泣いていたのかもしれない。
目のふちが、かすかに赤かった。
泣いたあとの赤なのか、店の灯りがそう見せているだけなのか、男にはわからなかった。
女はグラスの縁に指を添えたまま、何も言わなかった。
その沈黙は、夜によく似合っていた。
男は、女を見て言った。
「今夜は飲もウォッカ」
女は、ゆっくりと顔を上げた。
女のグラスの中で、赤い酒が揺れている。
その赤が、女の瞳に、ほんの少しだけ映っていた。
痛みのように。
酔いのように。
言いかけたまま飲み込まれた、言葉のように。
男は、静かに言った。
「きみの瞳にカンパリ」
女の睫毛が、ゆっくりと影を落とす。
グラスの中で氷が鳴る。
その小さな音だけが、ふたりのあいだに置かれた沈黙を支えていた。
男は、女の横顔を見つめた。
「ジンジンしちゃって、頬も赤ラムわ」
女は少しだけ目を伏せた。
笑ったのか、泣きそうになったのか、男にはわからなかった。
夜の灯りは、人の表情を少しだけ甘く見せる。
窓の外では、車のヘッドライトが濡れた舗道をなぞっていた。
街はまだ眠らない。
女が席を立とうとした。
男は、少しだけ身を乗り出した。
「もうスコッチだけ」
女の指先が止まった。
グラス越しに見える女が、美しかった。
「グラス越しのきみが、すテキーラ」
女は何も言わなかった。
けれど、その沈黙は拒絶ではなかった。
甘い夜。
苦い酒の底に、甘さが沈んでいるような夜だった。
「その気持ち、わカルーア」
女が、何かを言いかけた。
そのときだった。
バーテンが、白いナプキンの上にグラスを置いた。
氷が澄んだ音を立てる。
「あちらのお客様からです」
夜の流れが止まった。
男は、ゆっくりとバーテンを見た。
女は、赤い目のまま男を見ていた。
カウンターの光だけが、何も知らない顔で揺れている。
男は低い声で言った。
「ちょっとマティーニ……」
ふたりの時間を止められた男の胸には、名前のつかない熱があった。
愛と呼ぶには早すぎて、
恋と呼ぶには軽すぎて、
酔いと呼ぶには眩しかった。
男は、最後の言葉を置いた。
きらびやかな夜の底へ、静かに沈めるように。
「おれのハートが……ボジョレヌーボー」
きみの瞳にカンパリ
終