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ピロートークはベランダで④

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    8,井上(美咲すら)


     土曜日、アラームの人工的な音によるものではなく、自然と目が覚めた。
     足は機械的にリビングに向かう。

     美咲が里帰り出産のため、吉野にある実家に帰っているから、家の中はがらんとしている。

     美咲お気に入りのクッションやブランケットまで回収されたソファを見て、少し寂しい気持ちになった。

     俺は通勤用バッグから、会社のスマートフォンを取り出して通知を確認する。

     特に連絡はなくて、胸をなで下ろした。昨晩、枕元に置くのを忘れていたのだ。

     今日は会社の待機当番であり、自然災害や大規模な事故があれば呼び出される。
     そして一時間以内に参集しなければならない。

     ここから車で二時間半ほどかかる吉野には、当然顔を出すことはできない。


     結局、俺は近所のショッピングモールに行くことにした。
     土日の間に買い物を済ませておこうという気持ちと、どうしても平日様々な人から言われた鈴木の件が気になってしまったのだ。

     買いたいものの中では、比較的体積が小さいからと、ショッピングモールではまず最初に本屋に向かう。

     本屋に行くのは久々だ。
     陳列順がわからないだろうと、目的の本を見つけられるか不安だったが、その心配は無用だったらしい。

     俺と鈴木の噂を流した、課長のデスクにあった本。是空栞ーー鈴木の書いた本。

     それは入口からほど近いところに、平積みにされていた。紹介のポップもある。
     係長の言っていた話題になっているという話は、どうやら本当らしい。

     俺は大量にあるそれを一冊手に取った。
    「不理解の愛」鈴木の本を買うのはデビュー作以来だ。


     帰宅後、買ったものを片付けると、俺は共用のタブレットに手を伸ばした。
     実際に鈴木の本ーー不理解の愛を読む前に、家計簿をつけておこうと思ったのだ。

     タブレットで家計簿アプリを立ち上げ、連携している銀行口座やクレジットカードの更新ボタンを押す。

     今日の買い物は反映されていないだろうが、平日のランチ代なんかは更新されるだろう。
     新着の入出金に目を通し、カテゴリを選択していく。

     それが終われば、ついでに毎月の家計状況も見る。
     今月は奈良と大阪を何度も往復しているから、交通費が嵩んでいる。

     そのまま下にスクロールしていけば、本という項目を見つけた。
     俺も美咲も滅多に本なんか読まないから、かなり珍しい。

     俺の買った本はまだ反映されていないし、美咲だ。産休中で暇だったのだろうか。

     アプリを閉じようとして、ふとその金額が気になる。七百十五円。

     今日買った、不理解の愛と全く同じ金額だ。 
     本って、どれでも値段とか一緒なんだっけ?
     普段買わないからわからない。少し怖くなる。

     スマートフォンを立ち上げて、指を動かす。
    『本買った?』そう送ろうとしてやめた。
     一体何の質問だと美咲も思うだろう。

    『鈴木の本が話題らしいから買ったんやけど、もしかして美咲も買った?』15:28

     こっちの方がまだマシか。送信ボタンを押す。

     すぐに既読がついた。
     そもそも美咲はいつも返信が早い。

     スマートフォンを見ていたら、トーク画面が急に着信画面に切り替わった。

    「もしもし。どうしたん?」
    『翔太は、これいいって鈴木さんに話したの?』「え?」
    『っていうか何でこんなこと話したの?』
    「なんの話?」
    『そもそも私、まだ鈴木さんと続いてたなんて知らないんだけど!』

     まただ。

    ーー鈴木と続いてる。

    「続いてないし、鈴木とは付き合ってないって」

     何度も聞かれすぎて、少し邪険な声になった。

    『付きあ……え?』
    「なんて?」
    『置き換えじゃなくて……。え、もしかして二重……』「は?」
    『鈴木さんとも……同じように付き合ってるってこと?』
    「だから付き合ってないって」

     同じこと二回言わすなよ。声に苛立ちが乗る。
     それに気づいたのか、美咲の声も硬くなった。

    『じゃあ、あの本って何!』

     返事を聞かず美咲は電話を切った。
     俺は掛け直そうとして、思いとどまる。

     そもそも、美咲は「鈴木の本」という言葉に反応して電話をかけてきたし、電話を切る間際にも「あの本」と言った。

     じゃあ、先に読んだ方がいいんじゃないか、コレ。

     俺は不理解の愛を読み始め、僅か五秒で目眩がしてくるのを感じた。


    9,不理解の愛(プロローグ)


    「クリエイターが創作を書き出したら終わりよ」

     麗はそう言って、煙を吐き出す。

     十四階建て高層マンションの七階。
     目の前には安価なホテルの看板が光っている。

     ずり落ちかけの拓也のTシャツに、二時間ほど前に一度脱ぎ捨てたパンツ。ビル風に髪が揺らされた。

     拓也は麗の創作論を興味が無さそうな顔で聞き、同じように電子タバコを咥えている。

     だけど麗はそれで構わない。

     ホテルから見えるかもしれない。
     音が隣に聞こえていたかもしれない。
     隣のベランダに人が出てくるかもしれない。

     だからそんな格好で外に立つな。

     散々言われてきたその言葉を拓也は言わず、一緒にベランダに立ってくれる。

     それだけでいい。

     理解なんていらない。
     理解できないから止めようなんて、甘ったれた行動しかできない男が、世界に何人いることか。

     麗を理解できないとわかっていて、それでも隣にいてくれるこの人がどれだけ貴重か。

     世界は知らないだろう。

    10,井上(翔太も)


     読み終わる頃には、目眩は吐き気に変わっていた。より酷くなったという意味ではない。

     気持ち悪さの性質が変わった。

     俺は美咲の言いたかったことを百パーセント理解して、改めて電話をかける。

    『……もしもし』
    「不理解の愛読んだ。俺は話してないし不倫もしてない」
    『……』
    「俺も今、めちゃくちゃ気持ち悪い」
    『……わかった。信じるからね』

     不理解の愛は恋愛小説だ。

     小説家の麗と、サラリーマンの拓也。
     クリエイターと、現実と向き合って働くリアリスト。
     フリーランスと、会社に帰属するサラリーマン。
     様々な二人の対比は、理解できない部分を洗い出し、許容していく。

     その主人公の拓也が、まるで俺なのだ。
     いや、まるででは済まない。完全に俺だ。

     俺の私生活、美咲との思い出。
     俺を観察してそのまま文字に起こしたらこうなるんじゃないかというくらい、俺なのだ。

     現実と違うのは、結婚相手の言動が美咲よりも鈴木に近いことだけだ。

     そしてそれが、逆に気持ち悪い。

    『ちなみにさ、鈴木さん以外には、話してる?』
    「鈴木以外?」
    『同期から噂で聞いた翔太を小説にしたのかなって』

     美咲に言われ、その可能性もあるのかと思い直す。それにしても気持ち悪いが。

    「あぁ。他の話はともかく、雪の日の話はしてない。皆ゲームきっかけやと思ってるし」

     大雪の中、美咲と二人でサイレンを鳴らしながら車を走らせた。
     そのことを知ってる人は多いけど、それが付き合うきっかけになったとは誰にも話していない。

    『……その話は、私も誰にもしてない』
    「そうなん?」

     女子はその手の話が好きだと思っていた。

    『皆には翔太からだって言ってるから。私からアタックしたって言うの、なんかやだし』
    「……マジで怖いな。ちゃんと鈴木に苦情入れた方がいいか」
    『うん……。ちょっと美化されてるのが、増々怖いんだよね』

     美咲は真剣なトーンで言う。
     美化されているとは俺は感じなかった。

    「美化?」
    『え? あの雪の日、実際の翔太はもうちょっと情けなかったよ。忘れてる?』

     からかうように言われるが、記憶の残り方や捉え方は人それぞれだと思う。

    「そうやっけ? でもそれって怖いか?」
    『美化してるってことは、好意のフィルターがかかってるのかなって』

     それはないだろ。咄嗟にそう思ったけど、根拠もないし口には出さない。
     代わりに話題を変える。

    「ところで、鈴木の連絡先持ってる?」
    『持ってないの?』

     美咲の驚いた声が聞こえる。
     福岡保全の時に俺と鈴木が仲良かったことを知っているからだ。

    「探したけどなかった」
    『そうなんだ。待ってね。……写真送ったんだけど、右端の子鈴木さんだよね?』

     通話をスピーカーにして、美咲から送られてきた写真を見る。
     インスタのスクリーンショット、撮りたかったのは結婚式の写真だろう。そして真ん中には、見知った同期。挙式が沖縄だったから、妊娠中の美咲は断っていた。

    「鈴木やな。平田、大阪支社やし来週聞いてみるわ」
    『お願い』

     方針が決定した。
     だけどなんとなく電話を切るのがもったいないような気がする。

    「そういえば、星野が美咲のこと心配してたで」
    『そうなの?』
    「なんか、美咲が病んでるって」
    『だってそれは……不理解の愛読んだら、病むじゃんね』

     電話越しにため息が聞こえる。

    「そういうときはさ、最初から俺に言えよ」
    『だって、忙しそうだったんだもん』
    「そんくらいで遠慮すんなよ。寂しいやん」

     冗談めかして言えば、次は笑い声になった。

    『じゃあ次からすぐ言うね。翔太、頼りになるなぁ』
    「解決の保証はせんけど。一緒に病むわ」

     笑い声は一段階、高くなる。

    『そういえばさ、仕事は落ち着いたの?』
    「うん、ちょっとは。けど次は、毎日のように田中さんに飲みに連れて行かれそう」
    『例の、面倒見の良い先輩ね。まあ私いないし、いいんじゃない』
    「美咲が大変な時にぃ?」
    『帰ったら、いっぱいこき使ってあげる。だから今は遊んでてもいいよ』

     美咲は、明るい声で言う。
     旦那に甘えるような響きと、信頼のおける相棒に背中を預けるような響きが同居している。

     共に働く同僚だった時に寄せられていた信頼と、付き合う直前に匂わせられていた好意。
     その甘酸っぱさを思い出した。


     同期である平田とは、業務上の関わりもなく、プライベートでも特に親しくはない。
     ただ、たまに美咲と遊ぶためうちに来ていたのと、俺と美咲の結婚式に参列してくれた。

     だから頼み事できるぐらいの下地はある。

     階段を一つ上がり、執務室を覗く。
     昼休みだから電気が落とされている。

     そんな暗い中で、ありがたいことに平田はスマートフォンをいじっていた。

    「ごめん、ちょっと今いい? 頼みたいことあって」
    「珍しい。井上くん、美咲と喧嘩した?」
    「違うわ。ちょっと外出れたりする?」

     昼休みの静けさでは、話し声が響く。
     俺は平田を廊下に誘導する。

    「鈴木の連絡先なんかなくなってて、教えてくれへん?」
    「あー」

     平田は納得したような顔をした。
     もしかして、有名人になった鈴木に近づこうとしている変なやつだと思われているのだろうか?
     少しヒヤッとする。

    「いいよ。っていうかあの子LINEの名前変えたから、そのせいじゃない? 皆戸惑うよね」
    「名前変えた?」
    「うん、しおりで検索して」

     LINEを検索すると、確かに出てきた。
     アイコンは桜で、誰かはわからない。一旦平田に見せてみる。

    「そう、それそれ」
    「ありがと、助かった」

     平田は笑顔を見せて言う。

    「いいよー。けど松尾くんに聞けば良かったんじゃない? 井上くんも仲良いでしょ」

     最近話したばかりの同期の名前が出てきて、俺は首を傾げた。

    「何で松尾?」
    「本人に聞いても否定されるんだけど、すずと松尾くん付き合ってると思うんだよね」
    「俺は付き合ってないと思うけど」

     松尾は、俺と鈴木が付き合っていると思っていた。
     その勘違いを思うと、松尾と鈴木が付き合っているとは思えない。

    「えぇ? さては井上くんすずの新刊読んでないでしょ?」
    「は?」

     平田は思わせぶりに人差し指を振る。

    「主人公、名字幸村なんだけど、回想で結婚前の旦那さんからゆきって呼ばれてるの。松尾くんもすずって呼んでたでしょ?」

     平田と鈴木は仲が良いのだろうが、同じ配属先になったことがないのだろう。

     鈴木が全社員に「新人賞取ったんで辞めます!」って化け物みたいなメールを送って退職して、俺たちは鈴木との仲の良さを見せないようにした。

     だから今、鈴木と呼んでいるだけで。
     かつて鈴木をすずと呼んでいたのは、松尾だけでも、俺だけでもない。


     整理できない疑問のせいで、無性に煙草が吸いたくなった。
     喫煙所になっている屋上から、ボーッと向かいのマンションを眺める。

     部屋が等間隔に並んでいる。
     横断歩道を挟んでいるからか、全く同じに見えた。
     洗濯物が見えないというのも、一因だろう。

     俺も住んでいるからわかるけど。年々増えている高層マンションでは、洗濯物が外から見えないようになっているのだ。

     しばらくそうしていたら、一つの部屋から男女がベランダに出てきた。
     並んで煙草を吸い始める。

     俺たちもこんな風に、目撃されていたのか。

     頭を振る。いや顔まではわからないし、それが原因なら、噂になるのが遅すぎる。

     わからないことはたくさんある。
     だけど一つ。俺と鈴木が結婚しているという噂の原因だけは、もうしっかりとわかっていた。

    「不理解の愛」は、小説家の鈴木と、サラリーマンの俺の物語だ。

    11,井上(鈴木は言う)


    『久しぶり。聞きたいことあるんだけど、話せる日とかある?』20:41

     何度も打ち直したメッセージ。
     送信してから一時間は、スマートフォンを気にしてしまった。

     そんな俺の労力とは全く関係なく、鈴木からは

    『今からでもいいわよ』22:49

    というサッパリした返信が来た。

     二時間経ってからの「今からでもいい」は回答として適切ではないと思う。

     だけど通知オンにしてマナーモードも解除していたから、すぐに気づいた。

    『じゃあ今からで』22:50

     そう返せば、鈴木から通話がかかってきた。

     スマートフォンを耳に当て、なんとなくベランダに向かう。

    「もしもし」
    『久しぶりね。一体どんな用件かしら?』

     四年ぶりの会話だというのに、鈴木のテンションはかつてと変わらない。
     近況を伺うつもりもないらしい。

    「不理解の愛読んだんやけど……。俺と美咲の馴れ初めって、どこで知ったん」
    『俺と美咲の馴れ初め……? 何を言っているの?』
    「いやだから、拓也のモデルって俺やろ」
    『違うわよ』

     鈴木は呆れたような声で否定する。

     そんなわけないだろ。

    「ベランダで、煙草吸うやつ」
    『えぇ、そこだけは使ったわ』

     鈴木はあっさりと肯定する。

     じゃあ、ベランダで煙草を吸うシーン以外は、別の人間がモデルだとでも言うのだろうか。

     鈴木にとっての俺と誰かがキメラのように合体した姿が、今の俺なのだろうか。

    「ベランダ以外は別の人?」
    『それも違う……と言えるわね』

     曖昧な言い方をする。それにあのモノローグは、鈴木の気持ちだったのだろうか。

    「違うんなら、お前俺のこと好きやったん?」
    『もっと違うわよ』

     鈴木は呆れたような声を出した。なんとなくそんな気はしていた。

     鈴木は表面上は普通だが、好きでもない男に対して愛のモノローグを書くぐらいの、変わったことをする。
     一度間違いがあったほどの近い距離では、鈴木の変な部分がよく見えていた。

    『不理解の愛、読んだのよね?』
    「読んだ」
    『クリエイターって、なぜか売れたら、創作の話を書き出すでしょう?』
    「まぁ……そう、か?」

     俺は小説を読まないから、正しいことはわからない。
     だけど音楽でも何でも、確かにそのイメージはある。

    『私の毎日は、執筆で終わるわ。ずっと創作のことしか考えていないの。だから、誰かの人生を生きなければならない』
    「だから、俺の人生を食い物にした?」

     それが何の言い訳になる。
     思わず強い言葉が出た。

    『いいえ、私の思う普通の人の、妻になったの。拓也は、前いた会社にーーあなたたちの会社にいそうな人よ』
    「それって結局、俺なんじゃ……」

     鈴木との会話は、のれんに腕を押しているような、手応えのなさを感じる。
     ベランダは蒸し暑く、首にじっとりと汗が浮かんだ。

    『まさか。この電話をしてきたのは、あなたで三人目よ。エンタメらしく誇張して格好良く見せているのに、自意識の激しい男ばかり』

     何も言えなくなった俺に、鈴木は続ける。

    『この会社って同じような人ばかりなんだもの。あなたたちまるで、ウォーリーみたい』

     その言葉が耳に刺さる。

     今、どうして平田が松尾と鈴木が付き合っていると思っているのか、わかった。

     星野を見て、この会社の女性社員は、皆似ていると思ったことを、思い出した。

     確かに俺たちは、ウォーリーみたいだ。

     だけど、それ以上に似ているものを、ちょうど今日見た。

     高層マンションのベランダ。
     等間隔に並ぶ、全く同じ建造物。

     ベランダに出た人間だけの、印象が強く残っている。

     外は全く同じように見えたマンション。部屋の中はきっと皆違うはずだ。
     俺の生活、美咲との関係性、内面。きっと皆と違う部分はあるはずなのに。

     鈴木の小説を読んで、俺のことだと思った俺が。俺たちが。
     一番自分のことを外側から見ている。

     パチンコとマンション、オフィスに街灯、そして車。
     高層マンションのベランダからは、上にも下にも光が灯っているのが見える。

     この光景すら、ホテルの看板が見えていた過去の景色と、何の違いもないような気がした。




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