
たゆたうことを、肯定したい
水が苦手だった。
幼少期のわたしは、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。二項対立のはっきりした子どもだった。
水は大嫌いで、入浴時ですら湯が顔にかかるのを嫌がる。
小学校に入学してからは、プールの授業の日となると決まってストレスから高熱を出していた。
これはよくない、と危惧した両親によって、まちじゅうの小学校の先生たちが夏休みに開いてくれる5日間の水泳教室に放り込まれる事態となった。
そして迎えた水泳教室初日、緊張から顔色を失ったわたしは、頭痛・腹痛と戦っていた。
浅いプールでの準備体操で、向かいの知らない男性の先生がコミュニケーションのつもりで発したであろう「色白だねー!」(これはこれで今なら問題になる気もする)の一言から、「日焼け止めを塗っているのだろう、プールが汚れるじゃないか、と非難されているのか……?」と疑心暗鬼に。
激しさを増す頭痛・腹痛、ふくれあがる吐き気。
もはや、限界です。
わたしは白旗を上げた。
悔しかった。
わたしは大の負けず嫌いかつ、ええかっこしいでもあったのだ。
このまま同級生たちが笑いあいながら泳いでいる横をすごすごと帰って、日焼けしないままの夏休みを過ごしていいものだろうか?
見学に来ていた母と、1番の初心者クラス(水に顔をつけられるかどうか)を受け持つ先生との間で相談が交わされる中、真っ白な顔のままで「やります」と言った。
さて、決心して教室に飛び込んでみると、水が苦手な子に特化して教えてくれる先生はたいへん優しかった。
上級者のみんながしゃかりきにクロールなどを泳ぐ中、わたしたちはビート板を手に、プールの壁を蹴ってはぷかーっと浮かぶ蹴伸びをするのだけれど、この蹴伸びがなんとも気持ちいい。
水にたゆたっている。
たゆたう、自分の輪郭を感じる。
喧騒は遠い。
しずかだ。
背中を焼く激しい陽射しの中にあって、ひんやりとした水は、よっぽど味方みたいに思えてくる。
水っていいところもあるんだ、と思った。
結果として、私は12.5m、息継ぎなしのクロールを泳げるようになって小1の夏を終えた。
その後のわたしの水泳事情はといえば、すっかり苦手意識もなくなり、スイミングスクールで4泳法をマスターして幕を閉じるのだが、それはさておき。
水は、こわい。
そのことは、ゆるぎない事実として変わらずここにある。
足をすくわれそうになることもあったし、時に大自然としての水は人間に牙をむく。
けれど、わたしが水をたゆたう楽しさを知ったとき、それはスキとキライがまっぷたつに分かれていた自分から、少し成長できた瞬間でもあったのだ。
たゆたう。
揺蕩う。
水面などがゆらゆらと揺れ動いて定まらないさま。また、気持ちが定まらずためらうさまをいうのだという。
良い言葉かといえば、否定的な面もたぶんにあるだろう。
優柔不断と同義ともとれるかもしれない。
けれど、わたしは「たゆたう」ことを肯定したい。
ゆらゆらと揺れ動き、まどう中でこそ、立ちあらわれるものがあると感じるからだ。
そうして明らかになることがあったら、いい。
明らかにならないままでも、また。
わたしはこの春、体調を大きく崩して休養することになった。
からだは思いのほか休息を必要としていて、伏せる時間が多かった。
動かないからだを持て余して、ぼんやりとしたまどろみの中で、ゆるゆると思考する。そんな様子が、まるであのときの蹴伸びみたいだ。と気づいて、可笑しくなった。
からだはまだまだ重いけれど、この「たゆたい」の中で、いろいろなことを見定めたい。
もう、盛夏はすぐそこに来る。
たゆたうことを知った、あの夏を思い出す。