
もうひとつの関ヶ原 第十話 最終話
第十話
豊臣の朝
第二の関ヶ原から、数年が過ぎた。
大坂城の石垣には、春の光が降り注いでいた。
堀の水面には桜の花びらが浮かび、城下からは商人たちの声が聞こえてくる。
舟が川を行き交い、荷車が通りを進み、子どもたちが寺の境内で笑っている。
大坂には活気があった。
あの戦の日々が嘘だったかのように、町には日常が戻っていた。
だが、本当に何もなかったわけではない。
最初の関ヶ原で流れた血。
第二の関ヶ原で失われた命。
徳川の屈服。
諸大名の不満。
三成への反発。
幸村に向けられた刃。
秀頼が初めて下した裁き。
そのすべては、見えない形で今の大坂を支えていた。
平和とは、戦がなかったことではない。
戦のあとに、人々が朝を迎えられるようにすることだった。
その朝を作るために、多くの者が傷つき、迷い、耐えてきた。
豊臣秀頼は、もう幼い若君ではなかった。
背は伸び、声は落ち着き、顔つきにも主君としての光が差していた。
まだ若さはある。
迷いもある。
だが、かつて大人たちの顔色ばかり見ていた少年ではない。
秀頼は評定の場で、自分の言葉を持つようになっていた。
石田三成が政務の案を示す。
加藤清正が武断派の立場から意見を述べる。
福島正則が不満を隠さず口にする。
宇喜多秀家が自家の功を主張する。
小早川秀秋が慎重に言葉を選ぶ。
上杉の使者が東国の事情を伝える。
秀頼は、それらを聞く。
すぐには決めない。
誰の言葉にも、すぐには流されない。
相手の顔を見る。
声の奥を見る。
何を恐れているのか。
何を守りたいのか。
何を隠しているのか。
真田幸村に何度も教えられたことだった。
「人の思いは、ひとつだけではございませぬ」
その言葉は、今も秀頼の中に残っていた。
ある日の評定で、東国の年貢と軍役をめぐって議論が起きた。
三成は、徳川を含む東国諸大名の軍役をさらに細かく管理する案を出した。
「豊臣政権の安定には必要にございます」
三成は言った。
「徳川は誓紙を出しました。秀忠殿は従っております。ですが、東国に火種が残っていることも事実。兵の数、城の修繕、諸大名との婚姻、それらを大坂が見ておかねば、再び同じことが起こります」
三成の言葉は正しかった。
加藤清正も、それを否定はしなかった。
だが、眉をひそめて言った。
「石田殿。締めすぎれば、また不満が生まれる」
福島正則も続いた。
「徳川だけではない。東国の大名たちが、大坂は自分たちを信用していないと思えば、いずれ別の火種になる」
三成は静かに言い返した。
「信用だけで政はできぬ」
「疑いだけでも政はできぬ」
福島が言った。
かつてなら、この時点で評定は荒れていただろう。
三成の理屈と、福島の感情がぶつかり、加藤が間に入り、幸村が言葉を添える。
だが、この日は違った。
秀頼が静かに口を開いた。
「三成の案は必要です」
三成は頭を下げた。
「ありがたきお言葉」
秀頼は続けた。
「ですが、加藤と福島の言うことも分かります」
三成は顔を上げた。
秀頼は言った。
「東国を見張るための仕組みは作ります。ただし、それを罰の形に見せてはなりません。徳川だけを締め上げるものではなく、豊臣の下で諸大名が勝手に兵を動かさないための共通の決まりとして整えます」
加藤が静かに頷いた。
「それならば、東国だけを疑う形にはなりませぬ」
福島も言った。
「徳川も飲みやすいでしょう」
秀頼は三成を見た。
「三成。文言を変えてください。徳川を監視する、ではなく、諸大名が豊臣の世を守るための決まり事とするのです」
三成は少しだけ目を細めた。
そして、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
その姿を、幸村は末席から見ていた。
もう、自分が口を挟む必要はなかった。
秀頼は、三成の正しさを捨てなかった。
加藤や福島の不安も捨てなかった。
その両方を見て、自分の言葉で道を選んだ。
幸村は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
この方は、もう立ち始めている。
評定のあと、三成は幸村の隣に来た。
「真田殿」
「はい」
「今日、そなたは一言も申さなかったな」
幸村は少し笑った。
「申す必要がございませんでした」
三成は秀頼が去った方を見た。
「若君は、変わられた」
「はい」
「いや、変わられたのではないな」
三成は静かに言った。
「育たれたのだ」
幸村は頷いた。
二人はしばらく黙って廊下を歩いた。
大坂城の廊下には、春の光が差し込んでいる。
かつては同じ廊下に、重苦しい疑念が満ちていた。
今も疑念がないわけではない。
だが、明らかに空気が違っていた。
秀頼が自分の言葉を持ち始めたことで、大坂城の中心に少しずつ芯ができていた。
三成はふと足を止めた。
「真田殿」
「はい」
「私は、そろそろ役目を変えねばならぬ」
幸村は三成を見た。
「役目を、でございますか?」
三成は頷いた。
「これまでは、私が前に立って政を引っ張ってきた。嫌われようが、反発されようが、豊臣を保つためには必要だと思っていた」
「はい」
「だが、若君が自ら裁き、自ら政を見るようになられた。ならば、私は若君の前に立つのではなく、後ろで仕組みを支えるべきだ」
幸村は静かに聞いていた。
三成は続けた。
「これからの豊臣に必要なのは、石田三成の政ではない。秀頼公の政だ」
その言葉には、寂しさがあった。
だが、同時に誇りもあった。
自分が守ろうとした若君が、自分の手を離れ始めている。
それは家臣にとって、寂しくもあり、これ以上ない喜びでもあった。
幸村は深く頭を下げた。
「石田殿が支えたからこそ、今の若君がおられます」
三成は苦く笑った。
「そなたがそれを言うか」
「本心にございます」
「私は、そなたが嫌いだった」
三成はあまりに率直に言った。
幸村は少しだけ笑った。
「存じております」
「今も、時々嫌いだ」
「それも存じております」
三成は少しだけ笑った。
「だが、そなたがいなければ、若君はここまで人を見ることを学ばれなかった」
幸村は首を横に振った。
「私は、少しおそばにいただけにございます」
「その少しが、政では大きい」
三成は言った。
「私は数字を見た。米を見た。領地を見た。兵を見た。だが、そなたは顔を見た」
幸村は答えた。
「石田殿が数字を見てくださらねば、豊臣は立ち行きませぬでした」
三成は静かに頷いた。
「ならば、互いに足りぬものを持っていたのだな」
「はい」
「気に入らぬが」
「はい」
二人は同時に小さく笑った。
かつて二人は警戒しあっていた。
三成は、幸村を危険な男と見ていた。
幸村は、三成を人の痛みに鈍い男と見ていた。
その見方が完全に消えたわけではない。
三成は今も厳しい。
幸村は今も三成に遠慮なく言う。
だが、その間には、同じ主君を支えた者だけが持つ信頼が生まれていた。
その日の午後、秀頼は幸村を城下へ誘った。
かつてのように身分を隠して出るのではない。
今は、秀頼自身が町を見に行くことが政の一部になっていた。
もちろん、警護はある。
だが、行列を大きくしすぎず、町の人々の顔が見える距離を保つ。
それは幸村が提案し、秀頼が続けてきたやり方だった。
大坂の町は賑わっていた。
米屋には俵が積まれ、魚屋には朝に上がった魚が並び、鍛冶場からは槌の音が響いている。
子どもたちは秀頼の姿に気づくと、少し離れた場所から頭を下げた。
秀頼は足を止めた。
「顔を上げてください」
子どもたちは恐る恐る顔を上げた。
秀頼は微笑んだ。
「よく遊び、よく食べてください」
子どもたちは驚いたあと、笑った。
その笑顔を見て、秀頼も少し笑った。
幸村はその横顔を見ていた。
かつて、秀頼は町を知らなかった。
戦で腕を失った者の家族を見て、勝っても失うものがあると知った。
米代を求める町人の声を聞き、豊臣への不満を知った。
あの時の少年は、今、その町へ自分の足で立っている。
「真田殿」
秀頼が声をかけた。
「はい」
「あの時、初めて城下へ出た日のことを覚えていますか?」
「もちろんにございます」
「私は、何も知りませんでした」
「これから知ればよいと申し上げました」
秀頼は懐かしそうに頷いた。
「私は、少しは知れたでしょうか?」
幸村はすぐには答えなかった。
町を見た。
戦を見た。
人の怒りも、恐れも、欲も、悲しみも見た。
徳川秀忠の顔も見た。
三成の孤独も見た。
加藤や福島の忠義と不満も見た。
だが、天下を知り尽くしたとは言えない。
そんな日は来ないのかもしれない。
幸村は静かに答えた。
「若君は、知ろうとされております」
秀頼は幸村を見た。
幸村は続けた。
「知り尽くすことより、知ろうとし続けることが大切にございます」
秀頼は少し考え、やがて頷いた。
「では、これからも見続けます」
「はい」
「豊臣の城だけではなく、豊臣の町を。大名の顔だけではなく、町の人の顔を」
幸村は深く頭を下げた。
「それが、若君の世を作ることでございます」
「私の世」
秀頼はその言葉を静かに繰り返した。
その日の夕方、大坂城へ戻った幸村のもとへ、上田から使者が来た。
父・昌幸の容体が悪いという報せだった。
幸村は書状を読み終え、しばらく動けなかった。
昌幸は、ここ数年で確かに弱っていた。
それでも、幸村の中では、父はいつまでも鋭い目で先を見ている男だった。
徳川を翻弄し、小早川の心を動かし、豊臣の勝利の流れを作った老狐。
その父が、病の床にある。
幸村は淀殿と秀頼に願い出て、上田へ向かう許しを得た。
秀頼は静かに言った。
「すぐに行ってください」
「ありがたきお言葉」
「真田殿の父上は、豊臣にとっても大切な方です」
幸村は深く頭を下げた。
大坂を発つ前、三成が見送りに来た。
「急げ」
「はい」
「昌幸殿に、礼を伝えてくれ」
幸村は少し驚いた。
「石田殿が、父に?」
三成は真面目な顔で言った。
「関ヶ原で、安房守殿の密書がなければ、小早川はどうなっていたか分からぬ。上田で秀忠を止めたことも大きかった」
三成は少しだけ目を伏せた。
「私は、あの方を厄介な老狐と思っていた。今もそう思っている」
幸村は苦笑した。
三成は続けた。
「だが、豊臣が今あるのは、あの老狐の一手があったからだ」
幸村は深く頭を下げた。
「必ず伝えます」
幸村は急ぎ上田へ向かった。
道中、父との記憶が何度も蘇った。
上田城の櫓で、徳川の陣を見下ろした夜。
小早川へ密書を送った時の横顔。
勝っても戦乱は終わらぬと言った声。
大坂へ向かう幸村に、秀頼を見よと言った言葉。
味方の顔をした敵がいる。
敵の顔をした味方もいる。
見誤るな。
父の言葉は、いつも難しかった。
だが、その難しさの中に、幸村の道があった。
上田に着いた時、昌幸は床に伏せっていた。
以前より痩せていた。
頬はこけ、声も弱くなっている。
それでも、目だけはまだ鋭かった。
「来たか」
「父上」
幸村は枕元に座り、深く頭を下げた。
「大坂はどうだ?」
昌幸は、まずそれを聞いた。
幸村は少し笑った。
「父上らしいお尋ねにございます」
「わしの体のことなど、見れば分かる」
昌幸はかすかに笑った。
「大坂はどうだ?」
幸村は答えた。
「秀頼公は、立ち始めておられます」
昌幸の目が少し細くなった。
「そうか」
「第二の関ヶ原で、戦場に立たれました。徳川家康に負けを認めさせ、その後、徳川を滅ぼさず、秀忠殿に家を残す裁きを下されました」
昌幸は静かに聞いていた。
「それは、若君の言葉か」
「はい」
「石田の言葉ではなく」
「はい」
「お前の言葉でもなく」
幸村は少し間を置いて答えた。
「はい。秀頼公ご自身の言葉にございます」
昌幸は目を閉じた。
その顔に、わずかな安堵が浮かんだ。
「ならば、豊臣はまだ持つ」
幸村は胸が熱くなった。
「父上。石田殿が礼を申しておりました」
昌幸は目を開けた。
「石田が?」
「はい。関ヶ原の密書、上田での働き。父上の一手があったから、今の豊臣があると」
昌幸はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「治部も、少しは人を見るようになったか?」
「はい」
「お前のせいか?」
「いいえ。秀頼公のおかげにございます」
昌幸は声にならない笑いを漏らした。
「よい答えだ」
幸村は父の手を取った。
かつて、策を書き、軍配を握り、徳川を惑わせた手。
今は軽く、小さくなっていた。
「父上」
「何だ?」
「私は、秀頼公のそばに居続けるべきでしょうか?」
その問いは、幸村の中に長くあったものだった。
秀頼は成長している。
三成は役目を変えようとしている。
加藤と福島は秀頼に従い始めている。
徳川は鎮まっている。
自分の役目は、まだある。
だが、いつまでもそばにいれば、秀頼は幸村の言葉に頼るかもしれない。
幸村自身もまた、秀頼のそばを離れられなくなるかもしれない。
昌幸は、幸村の顔を見た。
「お前は、どう思う?」
「離れるべき時が近いのではないかと」
「寂しいか?」
幸村は言葉に詰まった。
昌幸は静かに笑った。
「寂しいのだな」
幸村は目を伏せた。
「はい」
「それでよい」
昌幸は言った。
「寂しくなければ、人を支えたことにはならぬ」
幸村は胸がいっぱいになった。
昌幸は続けた。
「人を支えるとは、背負うことではない。立てるようになるまで、倒れぬ距離にいることだ」
それは、かつて父が言った言葉だった。
「立てるようになった者の前に立ち続ければ、今度は邪魔になる」
幸村は深く頷いた。
「はい」
「秀頼公が立てるようになったなら、少し離れよ」
「はい」
「だが、見捨てるな」
昌幸の目が鋭さを取り戻した。
「離れることと、見捨てることは違う」
幸村は父の手を握った。
「心得ました」
昌幸は静かに息を吐いた。
「幸村」
「はい」
「お前は、戦で名を残す男だと思っていた」
幸村は父を見た。
昌幸は続けた。
「だが、違ったな。お前は、戦を終わらせるために名を残す男になった」
幸村の目に、熱いものが込み上げた。
「父上」
「泣くな。まだ死んでおらぬ」
昌幸は弱々しく言った。
幸村は笑おうとした。
だが、うまく笑えなかった。
数日後、真田昌幸は静かに息を引き取った。
最期の言葉は、大げさなものではなかった。
「上田の風は、よいな」
それだけだった。
徳川を苦しめた老狐。
関ヶ原の流れを変えた知将。
真田の家を守り抜いた父。
その最期は、上田の風を感じながらの静かなものだった。
幸村は長く、父の枕元に座っていた。
涙は流れた。
だが、声は出さなかった。
泣くな。
まだ死んでおらぬ。
そう言った父の声が、まだ耳に残っていたからだ。
昌幸の死は、大坂にも伝えられた。
秀頼はその報せを受けると、しばらく黙っていた。
そして、自ら弔意の文を書いた。
真田安房守昌幸。
上田にて徳川を止め、関ヶ原にて豊臣を救う道を開いた功、忘れず。
その知略は、戦のためだけではなく、豊臣の明日を残すためのものであった。
豊臣秀頼、その恩を忘れぬ。
文を読んだ三成は、静かに目を伏せた。
「よい文にございます」
秀頼は言った。
「真田殿に、届くでしょうか?」
「必ず」
幸村が大坂へ戻ったのは、春の終わり頃だった。
城下では、新しい葉が風に揺れていた。
大坂城に入ると、空気が少し違って感じられた。
自分がいない間も、城は動いていた。
評定は行われ、政務は進み、秀頼は判断を下していた。
幸村がいなくても、豊臣は止まっていなかった。
そのことに、幸村は安堵した。
そして、少し寂しくもあった。
秀頼は幸村を迎えた。
以前なら、すぐに近づいてきたかもしれない。
だが、今の秀頼は上座で静かに待っていた。
主君として、家臣を迎える姿だった。
幸村は深く平伏した。
「戻りましてございます」
「真田殿」
秀頼の声は穏やかだった。
「昌幸殿のこと、残念でした」
「ありがたきお言葉」
「父上を亡くすとは、どのようなものですか?」
秀頼の問いに、幸村は少しだけ胸を突かれた。
秀頼もまた、幼い頃に父・秀吉を失っている。
だが、父の記憶は少ない。
幸村は静かに答えた。
「道を示す声が、遠くなるように感じます」
秀頼は目を伏せた。
「遠くなるだけで、消えはしないのですね」
幸村は顔を上げた。
秀頼は続けた。
「真田殿の中に、昌幸殿の声は残っているのでしょう」
幸村は深く頭を下げた。
「はい」
秀頼は言った。
「ならば、昌幸殿はまだ豊臣を支えてくださっています」
その言葉に、幸村の胸が震えた。
「ありがたきお言葉にございます」
それから数日後。
秀頼の成人を祝う儀が、大坂城で行われた。
諸大名が集まり、大坂は久しぶりに華やいだ。
かつては幼い主君を利用しようとしていた大名たちも、今は少し違う顔で秀頼を見ていた。
太閤の子。
豊臣の御旗。
それだけではない。
第二の関ヶ原で戦場に立った主。
徳川を滅ぼさず裁いた主。
三成を使い、加藤と福島をまとめ、幸村を信じた主。
その秀頼が、成人した。
広間には、三成、加藤、福島、宇喜多、小早川、上杉の使者、毛利の名代が並んでいる。
徳川秀忠からも祝意の文が届いていた。
そこには、短くこう書かれていた。
徳川秀忠、豊臣秀頼公の御成人を祝し、今後も豊臣の世を支える一大名として、領国を治めることを誓う。
その文を読んだ秀頼は、静かに頷いた。
「秀忠も、徳川を守っているのですね」
幸村は答えた。
「はい」
「家康は?」
「隠居先で、静かに過ごされていると聞きます」
確かなことは多くない。
だが、家康が再び兵を挙げる動きはなかった。
彼は本当に、自分の時が終わったことを受け入れつつあるのだろう。
秀頼は少しだけ目を伏せた。
「いつか、会って話してみたいものです」
幸村は驚いた。
「家康公とでございますか?」
「はい。敵としてではなく、負けを認めた人として。天下を望み、そして手放した人として」
幸村は深く頭を下げた。
「若君なら、いつか叶いましょう」
「もう若君ではありません」
秀頼は少し笑った。
幸村は一瞬、言葉を止めた。
そして、深く頭を下げ直した。
「失礼いたしました。秀頼様」
その呼び方に、秀頼は少しだけ寂しそうに笑った。
成人の儀のあと、秀頼は幸村を天守へ呼んだ。
夕方だった。
大坂の町が、金色の光に包まれている。
川は輝き、屋根は赤く染まり、遠くの山が静かに暮れていく。
二人は並んで城下を見下ろした。
しばらく、どちらも話さなかった。
やがて秀頼が言った。
「真田殿」
「はい」
「私は、太閤の子として恥ずかしくない主君になれたでしょうか?」
幸村は、その問いに胸を突かれた。
かつてなら、すぐに励ましたかもしれない。
立派にございます。
そう答えたかもしれない。
だが、今の秀頼には、飾った言葉は必要ない。
幸村は静かに答えた。
「秀頼様は、太閤殿下と同じ主にはなられませんでした」
秀頼は一瞬、言葉を失った。
幸村は続けた。
「だからこそ、よいのです」
秀頼は幸村を見た。
幸村は深く頭を下げた。
「太閤殿下は、戦の世を駆け上がり、天下を勝ち取られた御方にございます。ですが、秀頼様は、勝ち取られた天下を、どう残すかを選ばれる御方にございます」
「私は、父上を超えられますか?」
「超える必要はございませぬ」
幸村は言った。
「太閤殿下の世をなぞるのではなく、秀頼様の世を作られませ」
秀頼は長く黙っていた。
風が吹いた。
天守の上で、二人の衣が静かに揺れた。
「私の世とは、どのような世でしょう?」
「それは、私が決めることではございませぬ」
幸村は答えた。
「秀頼様が、これからお決めになることにございます」
秀頼は城下を見た。
大坂の町。
川。
人々。
寺の鐘。
商人の声。
子どもの笑い声。
そこに、秀頼が守るべきものがあった。
秀頼は静かに言った。
「私は、戦の続く世ではなく、静かに朝を迎えられる世にしたい」
幸村は顔を上げた。
秀頼は続けた。
「昨日と同じように店を開けられる。子どもが遊べる。兵が畑へ戻れる。大名が勝手に兵を挙げられない。けれど、押さえつけられて息ができない世でもない」
秀頼は少し笑った。
「難しいですね」
幸村の目に、熱いものが込み上げた。
「はい。とても難しゅうございます」
「でも、それを目指します」
「はい」
「三成には仕組みを作ってもらいます。加藤と福島には武の重みを忘れぬよう支えてもらいます。小早川には、迷う者の気持ちを見てもらいます。徳川にも、豊臣の下で家を残す道を示してもらいます」
秀頼は幸村を見た。
「そして真田殿には」
幸村は深く頭を下げた。
秀頼は言葉を止めた。
何かを言おうとして、言えなかった。
その沈黙で、幸村には分かった。
秀頼も気づいている。
幸村が、そばを離れる時が来ていることを。
幸村は静かに言った。
「秀頼様」
「はい」
「私は、上田へ戻ろうと思います」
秀頼は目を伏せた。
しばらく、何も言わなかった。
やがて、静かに問うた。
「私が、もう真田殿を必要としていないからですか?」
その声は、主君ではなく、かつての少年の声だった。
幸村の胸が締めつけられた。
「いいえ」
「では、なぜ?」
「秀頼様が、私の言葉を借りずに立てるようになられたからにございます」
秀頼は唇を噛んだ。
「それは、寂しいことですね」
「はい」
幸村は正直に答えた。
「私も、寂しゅうございます」
秀頼は顔を上げた。
その目には涙があった。
だが、こぼさなかった。
「主君は、寂しくても許さねばならないのですね」
幸村は深く頭を下げた。
「時に」
秀頼は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「真田殿は、私を見捨てるのではありませんね?」
「決して」
幸村の声には、強い響きがあった。
「上田にいても、私は豊臣の家臣にございます。秀頼様が道を誤られそうな時は、たとえ遠くからでも申し上げます」
秀頼は小さく頷いた。
「きっと厳しいのでしょうね?」
「おそらく」
秀頼は少し笑った。
そして、涙を拭った。
「分かりました。真田幸村に、上田へ戻ることを許します」
幸村は畳に手をつくように、深く頭を下げた。
「ありがたき幸せ」
秀頼は言った。
「ですが、ひとつ約束してください」
「何なりと」
「豊臣が本当に危うくなった時は、必ず戻ってください」
幸村は顔を上げた。
「必ず」
その言葉は、誓いだった。
数日後、真田幸村が大坂を去る日が来た。
城門には、多くの者が集まっていた。
三成がいた。
加藤清正がいた。
福島正則がいた。
小早川秀秋もいた。
宇喜多秀家も、少し離れて立っていた。
淀殿も、奥から静かに見送っていた。
三成は幸村の前に立った。
「真田殿」
「石田殿」
「そなたがいなくなると、私に遠慮なく口を出す者が減る」
「加藤殿と福島殿がおられます」
福島が後ろで言った。
「わしらは遠慮など最初からしておらぬ」
加藤が苦笑した。
三成は少しだけ笑った。
「確かに」
そして、真顔に戻った。
「若君を、いや、秀頼様を、ここまで支えてくれたこと、礼を言う」
幸村は深く頭を下げた。
「私ひとりの力ではございませぬ」
「それでも、そなたがいた」
三成は言った。
「それは事実だ」
加藤清正が前に出た。
「真田殿。上田に戻っても、豊臣を支えてくれ」
「もちろんにございます」
福島正則は腕を組んでいた。
「たまには大坂へ顔を出せ。石田の顔ばかり見ていると、秀頼様も疲れる」
三成が眉を寄せた。
「正則殿」
福島は笑った。
幸村も笑った。
小早川秀秋は、少し緊張した顔で近づいた。
「真田殿」
「小早川殿」
「私は、あの松尾山の日から、ずっと考えております。自分は本当に豊臣のために立てたのか。それとも、真田昌幸殿の言葉に救われただけなのか」
幸村は静かに言った。
「救われた後、どう生きるかが大事にございます」
秀秋は深く頷いた。
「私は、これから示します」
「期待しております」
秀秋は深く頭を下げた。
最後に、秀頼が城門へ現れた。
全員が頭を下げる。
秀頼は幸村の前に立った。
もう、幼い若君ではない。
豊臣秀頼として、そこに立っていた。
「真田幸村」
「はっ」
「これまで、よく私を支えてくれました」
幸村は深く平伏した。
「身に余るお言葉にございます」
秀頼は続けた。
「そなたは、私に剣だけでなく、人の顔を見ることを教えてくれました。怖いと言ってよいことを教えてくれました。敵を滅ぼせば終わるわけではないことを教えてくれました」
幸村は、額を伏せたまま目を閉じた。
秀頼の声が、胸に染み込んでいく。
「私は、まだ未熟です」
秀頼は言った。
「これからも迷うでしょう。間違えるでしょう。ですが、私は人の顔を見ることを忘れません」
幸村の目に涙が浮かんだ。
「秀頼様なら、必ず」
「だから、真田殿」
秀頼の声が少し震えた。
「安心して、上田へ戻ってください」
幸村は深く、深く頭を下げた。
「はっ」
それ以上の言葉は、すぐには出なかった。
幸村は立ち上がり、馬に乗った。
城門の外には、大坂の町が広がっている。
かつて初めて秀頼と見た町。
戦のあとを生きる人々の町。
今は、朝の光の中で動き始めていた。
商人が店を開ける。
子どもが走る。
舟が川を進む。
遠くで寺の鐘が鳴る。
幸村は振り返った。
大坂城の石垣。
天守。
そして城門に立つ秀頼。
三成、加藤、福島たち。
その姿が朝の光の中にあった。
幸村は深く頭を下げた。
そして、馬を進めた。
大坂城が少しずつ遠ざかる。
幸村の胸には、父・昌幸の言葉があった。
人を支えるとは、操ることではない。
立つべき時に、倒れぬ距離にいることだ。
秀頼は、立ち始めた。
だから、幸村は離れる。
見捨てるためではない。
秀頼が、自分の足で歩くために。
道中、幸村は一度だけ馬を止めた。
朝日が昇っていた。
新しい光が、田畑と道と町を照らしている。
戦場の赤ではない。
血の赤でもない。
一日の始まりを告げる、柔らかな光だった。
幸村は静かに呟いた。
「豊臣の朝か」
その言葉は、風に乗って消えた。
だが、幸村の胸には確かに残った。
最初の関ヶ原で西軍が勝った日。
豊臣の未来は、まだ霧の中にあった。
石田三成は勝ったが、孤独だった。
小早川秀秋は裏切らずに立ったが、迷いを抱えていた。
徳川家康は敗れてもなお天下を諦めなかった。
豊臣秀頼は、ただ守られる幼い若君だった。
そして真田幸村は、戦場にいないところから始まった勝利の先で、大坂城へ呼ばれた。
あれからも戦があった。
槍と鉄砲の戦。
政の戦。
心の戦。
味方の中の敵と向き合う戦。
恨みを次の世に渡さないための戦。
そのすべてを越えて、豊臣はまだここにある。
完全な平和ではない。
不満も、火種も、恨みも、きっと消えてはいない。
だが、それでも人々は朝を迎えている。
秀頼は、主君として立ち始めている。
三成は、前に立つ者から支える者へ変わろうとしている。
加藤と福島は、荒々しい忠義を豊臣の柱へ変えようとしている。
徳川秀忠は、天下を望まぬ徳川を背負おうとしている。
そして幸村は、上田へ戻る。
戦で散るためではない。
守り抜いたものを、遠くから見届けるために。
馬はゆっくりと東へ進んだ。
大坂の町の音が、少しずつ遠ざかる。
代わりに、鳥の声と風の音が近づいてくる。
幸村は手綱を握り直した。
その顔には、寂しさがあった。
だが、後悔はなかった。
彼が守ったものは、城ではなかった。
天下でもなかった。
ひとりの少年が、自分の言葉で朝を迎えられるようになることだった。
その少年は、もう大坂城に立っている。
豊臣秀頼として。
幸村は前を向いた。
朝日は、道の先を照らしていた。
豊臣の世は、まだ続く。
そして、その先にどんな困難があろうとも、幸村は知っていた。
あの城には、もう守られるだけの若君はいない。
人の顔を見て、恨みを恐れ、それでも裁きを下す主君がいる。
だから、大丈夫だ。
完全ではない。
危うい。
それでも、大丈夫だと思えた。
真田幸村は、静かに馬を進めた。
戦で名を残すことだけが、武士の生き方ではない。
主君のために死ぬことだけが、忠義ではない。
生きて支え、離れて見守り、必要な時にはまた戻る。
それもまた、武士の道だった。
大坂の空に、朝日が昇る。
豊臣の朝が、始まっていた。