「母はここにいるのに、母の気配が家から消えていく」/Saying the Long Goodbye~アルツハイマー病の母と、父と私の備忘録~⑦
自分の大好きな人が目の前にいる。
話しかけることもできる。
存在を近くで確かめられる。
それだけで満足なはずなのに……。
それでも、なんだか寂しい。
そんな経験をしたことはありませんか。
私の母は、アルツハイマー病を患ってはいますが、健在です。
話しかければ返事をしてくれるし、笑うこともあります。
今、田舎に月に一度の介護帰省中です。
母と同じ屋根の下にいます。
それなのに、ここにいると、なんだかとても寂しい気持ちになります。
なぜなら、
帰省するたびに、家の中から少しずつ「母の気配」が消えているからです。
1.洗面台から消えた母の気配
お恥ずかしい話ですが、私はソファで寝落ちして、化粧をしたまま寝てしまうことがたまにあります。
それに引き換え、母は「肌に悪いから」と、帰宅すると必ず洗面台へ向かう人でした。
美容室ですすめられたクレンジングオイルを使い、そのあとウォッシングフォームで洗顔。最後は水でしっかりすすぐ。
それが母の日常でした。
今回の帰省では、荷物を軽くしようと、自分のクレンジングを持ってきませんでした。
母のものを借りようと洗面台のキャビネットから手に取ると、クレンジングオイルにはカビが生え、ウォッシングフォームは固くなって出てきません。
そういえば、帰省してから数日。
母が洗面台で顔を洗う姿も、歯磨きして口をすすぐ姿も見ていません。
洗面台から、いつの間にか母の気配が消えていました。
2.洗濯機のまわりから消えた母の気配
母は、家事の中でも特に洗濯が好きでした。
洗って、干して、取り込んで、畳む。
一枚しかなくても、すぐに洗ってしまうほどの「洗濯潔癖症」。
そんな母を、私は昔から見てきました。
でも最近は、ほとんど自分で洗濯をしません。
洗濯機のまわりにも、
「あ、お母さん、洗濯したんだな」
と思うような気配がありません。
以前なら、
「また洗ったの?」
「また乾かしてるの?」
なんて思うこともあったのに。
洗濯機の置いてある脱衣場で、母と鉢合わせになることが全くなくなりました。
洗濯機のまわりから、母の気配が全く感じられません。
3.台所から消えた母の気配
母は料理が好きな人ではありませんでした。
それでも、台所は間違いなく「母の場所」でした。
洗って水切りに置いておいた食器が、次に見るときれいに拭かれて定位置に戻っている。
シンクを使えば、最後には水滴まできれいに拭き取られている。
それが、わが家のいつもの台所でした。
今、洗い物をするのは父か私です。
洗った食器は水切りに置かれたまま。
シンクに水滴が残っていても、母が拭きに来ることはありません。
台所からも、母の気配が消えていました。
4.お仏壇から消えた母の気配
母は、先祖や亡くなった人をとても大切にする人でした。
仏壇の掃除を怠らず、いつもきれいにしていました。
誰かに言われてすることではなく、母にとって当たり前の習慣だったのだと思います。
今、その仏壇にほこりがたまり、枯れた仏花が残っています。
お線香の香りもしません(火を使わなくなったことには安心する気持ちもありますが)。
お彼岸に誘ったお墓参りにも、なんだかんだと理由をつけて、母は行きませんでした。
ほこりのたまった仏壇と、お墓参りに行かなくなった母。
それを見て思いました。
母が長い間大切にしてきた思いや習慣まで、少しずつ母から離れていっているんだな、と。
5.庭から消えた母の気配
母は、庭や家の周りを掃くのが好きでした。
葉っぱが落ちれば、ほうきを持って掃く。
それも、見慣れた母の姿でした。
今、庭にはたくさんの葉っぱが落ちています。
誰にも掃かれないまま。
掃かれずに残った葉っぱが、以前そこにいた母の姿を思い出させます。
家の中だけではなく、
庭にも、家の周りにも。
いつの間にか、母の気配を感じる場所が少なくなっていました。
6.でも、母はちゃんとここにいる
不思議です。
母は、ちゃんとここにいます。
寝室をのぞけば母がいる。
声をかければ返事をする。
笑ってくれることもある。
それなのに、長い間この家で暮らしてきた「母」という人の気配は、家のあちこちから少しずつ消えています。
洗面台で顔を洗い、歯を磨く母。
洗濯をする母。
台所をきれいにする母。
仏壇を整え、先祖を大切にする母。
ほうきを持って庭や家の周りを掃く母。
どれも当たり前すぎて、以前は意識したことすらありませんでした。
でも、今になって気づきます。
あの何でもない日常の風景は、ずっと続くものではなかったんだな、と。
7.認知症は「できなくなる」だけではなかった
認知症というと、
「できていたことが、できなくなる」
ということに目が向きます。
でも最近、それだけではないことに気づきました。
何かをしなくなるたび、その人の日常の気配も一つずつ薄れていく。
顔を洗わなくなれば、洗面台から。
洗濯をしなくなれば、洗濯機のまわりから。
台所を片づけなくなれば、台所から。
仏壇を整えなくなれば、仏壇から。
庭を掃かなくなれば、母の痕跡はなく、そこには落ち葉が残る。
本人はそこにいるのに、その人が暮らして、いろいろなところに残していた気配は少しずつ薄くなっていく。
そして、それが、こんなに寂しいことだとは思いませんでした。
8.Saying the Long Goodbyeの意味の再考
この連載につけた“Saying the Long Goodbye”。
この言葉の意味を、私は頭ではわかっていたつもりでした。
でも、“Saying the Long Goodbye”とは、
その人の人格や記憶に長い時間をかけて「さよなら」と言い続けていくだけではないかもしれない。
その人が、いつもいた場所に、いなくなる。
その人が習慣にしていたことが、習慣でなくなる。
そして、日常の中から、その人の気配が少しずつ消えていく。
その人の日常の気配に少しずつ、長い時間をかけて、さよならしていく。
今朝も、母が起きてきたのは9時を過ぎてからでした。
以前なら、6時過ぎに始まっていた母の一日が、なかなか始まりません。
いたはずの時間に、いたはずの場所にいない。
していたはずのことを、していたはずの時間にしていない。
一つひとつは、小さな変化です。
「さよなら」を言うような出来事は、何も起きていないのかもしれません。
それでも、
小さなお別れが、日常の中で静かに積み重なっていく。
本人は、間違いなくまだそこにいるのに。
だからこそ、寂しいのかもしれません。
9.おわりに
母は今日も、実家にいます。
声をかければ返事をしてくれます。
だから、今いる母を「できなくなった人」のようには扱いたくもありません。
できなくなったことばかりを数えたくもありません。
それでも、使われなくなった洗面台や洗濯機。
母が片づけなくなった台所。
ほこりのたまった仏壇。
そして、葉っぱが落ちたままの庭。
以前は気にも留めなかった、そこにあった「母の気配」が、今ではとても愛おしく思えます。
母は、まだここにいます。
だからこそ、今ここにいる母との時間を大切にしたい。
掃かれずに残った庭の葉っぱを見ながら、そんなことを思いました。

