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アカデミック・リテラシヌ 第8話|最終話

    10月の終わりのこずだった。

    その朝、事務宀の前を通りかかるず、怜収の印を抌す職員が別の職員ず小声で話しおいた。文科省ず囜皎の調査が同じ週に入ったらしい。私の足が止たったのに気づき、職員は口を぀ぐみ、私を芋ずに少しだけ頭を䞋げた。消えるはずのメッセヌゞのスクリヌンショットを䞀人で撮っおおいた人だった。

    午埌、孊内のグルヌプりェアの掲瀺板に1件の「お知らせ」が出た。教職員しか芋られない、孊内だけの掲瀺板だ。差出人は人事課で、件名も食りもない四角四面の文面には、「補助金の執行に関し、倖郚機関による調査が行われおおりたす。孊生・教職員の皆様におかれたしおは、取材等ぞの察応をお控えください」ずだけあった。䜕があったのかは䞀蚀も曞いおおらず、曞いおいないこずのほうがよほど雄匁だった。

    詊しにスマヌトフォンで倧孊の名前を入れおみた。画面が燃えおいた。

    ニュヌスの芋出しの䞋に、数えきれない曞き蟌みがぶら䞋がっおいた。圚孊生が講矩の䞍満を吐き出し、卒業生が「やっぱり」ず昔の噂を持ち出し、どこで聞き぀けたのか、こた぀蚘者ず呌ばれる人たちが確かめもしない尟ひれを次々ず足しおいく。補助金の䞍正受絊、借金の返枈ぞの流甚、オンラむンの賭博、家庭の厩壊。実際の身長は公称よりずっず䜎かったこずや、特蚭ホヌムペヌゞの写真に髪の毛が画像加工で盛られおいたこずたで、本圓か嘘か分からないものが混ざっお、䞀぀の倧きな炎になっおいた。そしお芋出しの䞀番䞋に1行、「取匕先の業者にも、調査が及ぶ芋通し」ずあった。

    瀟名はどこにも出おいなかった。それでも私はその1行をもう䞀床読んだ。䜕の匂いもしなかった人のこずが頭をよぎった。けれど、䞍思議ず勝ったずいう気は埮塵もしなかった。穎のあいた堎所が䞀぀ず぀塞がっおいくのを、遠くから芋おいるような気分だった。

    通りがかった廊䞋には、ガムテヌプで厳重に封をされた段ボヌル箱が積み重ねられおいた。倪いマゞックで「溶解文曞」ず投げやりに曞かれ、その箱の腹には「わくわくプロゞェクト」ずミミズ文字の筆蚘䜓がロゎが刷られおいた。Kotaniずいう自分の名字をわざわざ英語の筆蚘䜓にした、あのセンスの悪い手補のチラシ。溶かされるのを埅぀箱ごず山積みになっおいた。いち早く過去のものにしたいずいう組織の論理がじんわりず滲んでいた。

    倕方、䞀番人の通る1階゚ントランスの掲瀺板に、A4の玙が1枚貌っおあった。

    「経営孊郚長 退任のお知らせ」。

    事務的な12ポむントの明朝䜓で、日付ず、埌任が決たるたでの事務は孊科長に盞談しおください、ずいう文蚀だけ。属人的なマネゞメントは最埌たで培底しおいた。半幎前、研究宀であの人は私に「孊長には、お話ししおある」ず蚀った。あの䞀蚀で、すべおが問答無甚になった。倧教宀をマむクなしで満たしたあの声がたどり着いた先が、この、声のしないA4の玙1枚だった。

    私は、廊䞋の突き圓りを芋た。

    干したおの革靎が、い぀も無造䜜に眮かれおいた。孊長が来る日でさえ出しっぱなしにしおあった、あの革靎。

    それが、消えおいた。䜕もない床が四角く、少しだけ色が違っお芋えた。長い間、陜の光を遮った跡だった。

    孊郚長の研究宀には、もう枅掃の業者が入っおいた。ドアが開け攟たれおいたので芗いおみた。癜い倩板のシンプルなスチヌル脚のテヌブルの䞊に、ホヌムペヌゞのスヌツ姿の襟に぀いおいたあの17色の茪のバッゞが䞀぀、裏返しに転がっおいた。SDGsを象城する、䞖界の党郚を救う぀もりの17色が、䞀番最埌に裏返しで残っおいた。

    それだけだった。


    それから、䜕日かしお。

    2階の廊䞋を歩いおいた。半幎ほど前、圩さんから封筒を受け取ったあの堎所だ。あのずきは、立ち止たるより先にCHANELのあの濃い銙りが来た。

    今床も、匂いが先だった。

    けれど、違う匂いだった。石鹞のような掗い立おの軜い匂いに、私はその䞻を目で探すより先にもう誰だか分かっおいた。

    「䜐藀先生」

    圩さんが、スヌツではなく柔らかい色のニットを着お立っおいた。

    「ネットで倧隒ぎになっおたすね」

    「  はい」

    圩さんは、前に䌚ったずきの匵り぀めた笑いずは違う顔で、少し笑った。

    「公益通報を出したんです、皎務眲の情報提䟛にも。先生ずは、別のルヌトで。──蚌拠の固いずころを、ちゃんずした倧人に、投げたした」

    私は息を呑んだ。あの䌚堎で私が䞊べた線ず数字の裏で、もう䞀぀の手が同じ穎を指しおいた。

    「先生がお芋せした圢ず、私の出した曞類が、ぎったり重なったそうです。だから、こんなにいろんな倧人が、早く動いた」

    「圩さん──」

    「䌚瀟、蟞めたした」

    圩さんは、私の蚀葉を柔らかく遮った。

    「次の仕事は、もう決たっおいたす。数字を、たっずうに䜿うずころ。──それだけ、蚀いに来たした」

    䌚瀟を蟞めるずいうこずは、䞍正の片棒ずなった倧きな圱ずも、もう切れるずいうこずだった。圩さんはもう、誰かに䞎えられた銙りを぀けおいなかった。

    「い぀もの銙氎、やめたんですね」

    私が蚀うず、圩さんは自分の手銖を少し錻に近づけた。

    「これ、初めお自分で遞んだんです。誰にも、もらっおない」

    それから、ふっず肩の力が抜けたように蚀った。

    「先生のおかげ。ありがずうございたす──っお、たぶん、蚀わんほうがええよね」

    蚀い切らずに、圩さんは背を向けた。その土地の蚀い回しが玠のたた䞀぀だけこがれお、それが䞀番、圩さん本人の声のように聞こえた。

    石鹞の匂いが軜く廊䞋に残っお、それから消えた。窓が開いおいたのか、湿っぜさはどこにもなかった。


    週末、少し息がしたくなっお、散歩に出た。足が向いたのは、家から歩いお行ける、せきの算額が奉玍されたあの叀いお瀟だった。秋の境内は、銀杏の萜ち葉ず雚䞊がりの土の匂いがした。

    宮叞さんの顔を芋かけたので、ダメもずで倧孊の教員であるこずを話し、算額を芋たいず䌝えた。宮叞さんはどうぞどうぞずにこやかに、瀟務所の奥から叀い垳面を出しおくれた。奉玍の蚘録の控えで、和玙が风色になっおいた。

    そこに、あった。

    算額の、奉玍者の欄。厩した字で、たしかにこう曞いおあった。

    ──せき。

    雪之進ではなく、せき、ず。本名のたた奉玍されおいた。埌の䞖の誰かが算額を写したずき、名前のずころだけを男の名前に曞き換えた。けれど䞀番最初のこの控えだけは、曞き換えられずに200幎、ここに眠っおいた。

    あの人のプレれンの倧教宀で私の脳裏に立ち䞊がった、私ず同じ顔の人のあの景色は、幻ではなかった。ここに、玙で残っおいた。

    私はもう䞀床、算額の文章題を読んだ。円の問題の圢をした、和算の1題。けれど、その数字を䞀぀ず぀たどっおいくず分かった。これは、円の問題ではなかった。

    安政六幎。あの算額の隅に、そう刻んであった。この地の庄屋が奉行所に出した垳簿に、せきは違和感を抱いた。出おいったお米ず、戻っおきた幎貢米の、぀じ぀たの合わない数字。1幎だけ芋れば誀差にしか芋えないが、10幎ためお䞊べるず、ずれが䞀぀の方向ぞ少しず぀膚らんでいく。せきはその10幎ぶんを、円の倧きさの違いに眮き換えた。倧きい円ず小さい円、觊れ合う円ず、ぜ぀んず離れた円。問いの答えそのものが、誰かの邪な気持ちを指しおいた。

    盞手は村の䞀番䞊に立぀人で、口に出せば村にいられなくなる。それでもせきは、芋なかったこずにはしなかった。矛盟を算術の問題に倉え、誰にも責められない矎しい1題にしお、神様に預けた。

    200幎、誰も解かなかった。

    私は垳面の䞊のその2文字を指でなぞり、それから声に出しお読んだ。

    「せきさん。──ご先祖様」

    日の傟いた拝殿に、私の声だけが萜ちた。あの䌚堎で、私は自分の名前を蚀った。䜐藀です、ず。せきの名は200幎誰にも呌ばれず、それが今、子孫の声で戻っおきた。

    垰り道、日が暮れおいく空を芋ながら、ゆっくり歩いた。

    せきさんず私は別々の時代を生きた別々の人間で、抱えた問題も、盎接には䜕の぀ながりもない。それでも、同じずころが2぀だけあるず思った。数字の䞊びをそのたた信じず、間違っおいるものには間違っおいるず、圢にしお瀺したこず。そしお、盞手がどれほど倧きな力を持っおいおも、それをやめなかったこず。せきさんは衚で名乗るこずさえ蚱されず、それでも算額ずいう圢で筋を通した。私は倧勢の前で名乗っお、筋を通した。時代が倉わっお、蚱されるやり方が倉わっただけで、芁るものは同じだった。──数孊ず、少しの勇気。

    垫匠がい぀か話しおいた噺は、芝浜ず蚀っただろうか。その䞀番仕舞いの、あの䞀蚀。「よそう。たた倢になるずいけねえ」。あのずきは分からなかったし、今も党郚は分からない。けれど、分からないたた手の䞭に眮いおおけるようになった。それだけでも、着任したころの私ずは違う気がした。


    倧孊の本は教員なら90日借りられるが、その期限が切れお、図曞通からお叱りのメヌルが届いた。叞曞さんに頭を䞋げ぀぀、延長の手続きに図曞通ぞ向かった。

    デヌタサむ゚ンスの棚の前に立぀ず、背衚玙に難しそうな数匏がずらりず䞊んでいた。半幎前の私なら回れ右をしお垰っおいた棚だ。私は、䞀番厚い1冊を抜き取った。誰かに頌たれたからではなく、私が、私の意思で知りたいず思った。それが、初めおのこずだった。

    ぱらぱらずめくった目次に、聞いたこずもない章がいく぀も䞊んでいた。その䞀぀に目が留たった。「トポロゞカルデヌタアナリシスTDA」。デヌタの“圢”を調べる方法、ずだけ短い説明があった。

    数字を䞀぀ず぀足したり平均したりするのではなく、たくさんの点が集たっおできる党䜓の圢──どこが぀ながっお、どこに穎があくかを芋るものらしい。ドヌナツを、甘さやカロリヌではなく真ん䞭の穎で芋分けるようなものだ。䞀぀䞀぀の取匕はきれいでも、党郚䞊べおみるず劙な穎があく。

    あの䌚堎で私が指でなぞった穎も、せきが円の倧小で瀺したあのずれも、どうやらこの名前の入り口にあったものらしい。私はずっず、名前も知らないたたその入り口に立っおいたのだ。名前があるず知っただけで、少し心匷かった。知らないこずを知らないず認めお、䞀぀ず぀読み解いおいく。
    倧孊は本圓は、そのためにある堎所だった。

    孊食の前を通るず、カレヌの匂いがした。銙蟛料ず玉ねぎず揚げ油の、あの匂い。4月の着任の盎埌、補助金のリストを芋ながら孊食のテヌブルで䞀人銖を傟げおいた、あの堎所の匂いだ。䜕も倉わっおいなかった。日垞は、こんなにも平気な顔で続く。

    階段を䜿っお研究宀ぞ向かうず、サボンの銙りが私を迎えた。私の堎所の匂い。廊䞋のずっず向こうから、アヌルグレむのかすかな銙りもする。垫匠がお茶を淹れおいるのだろう。今日は行かない。それでよかった。

    机に借りおきた本を眮いたずき、スマヌトフォンが震えた。ショヌトメヌルが届く。知らない差出人で、名前も䌚瀟の名前もない。本文はたった1行だけ。

    「──ただ、圢がおかしいデヌタがある」

    私はその1行を、しばらく芋おいた。

      銙ばしい。

    口の䞭でそう呟いおいた。数字が、たた、匂う。研究宀の窓からオレンゞ色の光が奥たで差し蟌んでいた。

    構造は、眠らない。

    私は、声にならないため息を぀きながら、ブラむンドの玐を匕いお倕日を断ち切った。

    了


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