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挨拶を忘れた夜



夜の散歩へ出かける前、私は神棚の下にいる二体の狼へ声をかける。

朝、仕事へ向かうときも同じだ。

「らんまるとふくまるのお留守番を、よろしくお願いします」

二体は石でできている。当然、返事はない。

狼に猫の留守番を頼むというのも、考えてみれば妙な話だ。
それでも、そう声をかけてから家を出ると、猫たちを残していく心配が少しだけ和らぐ。

いつからか、それが家を出る前の習慣になった。

◇

私は昔から、なぜか狼に惹かれる。
なかでも心に残っているのは、『シートン動物記』に登場する、ロボの伴侶・ブランカだ。

白く美しい狼だった。
けれど、彼女が罠にかかったことが、やがてロボの捕獲にもつながった。

ブランカさえ捕まらなければ。

かわいそうに思いながら、子どもの私はそう考えた。
それでも、ブランカを捜し続け、悲しみの中で警戒を失ったロボの姿から目を離せなかった。

狼は、こんなにも深く誰かを想うのか。

あの物語を読んでから、狼は私にとって、ただ格好いいだけの生きものではなくなった。
この国から姿を消してしまったニホンオオカミのことも、ずっと心のどこかに引っかかっていた。

犬や猫を好きな気持ちとは、どこか違う。

狼の写真や絵を見ると、胸の奥をつかまれるような、不思議な感覚がある。

以前、バイクで東吉野へキャンプに行ったとき、記録に残る最後のニホンオオカミをかたどった像を見た。

その像を見るために出かけたわけではない。

けれど今振り返ると、狼に惹かれてきた私が偶然その場所を訪れていたことを、少し不思議に思う。

山の上にある神社の夢を見たことがある。

そこには、大きな白い犬のようなものもいた。

その夢をきっかけに、気になるようになった場所がある。

埼玉県秩父市の三峯神社だ。
そこでは、オオカミが神様の使いとされている。

いつか三峯神社へ、狼たちに会いに行きたい。

やがて私は、二体の石の狼像を自宅へ迎えた。

初めから、猫たちの留守を頼もうと思っていたわけではない。
けれどいつの間にか、それが二体の役目になっていた。

半年ほど前、小倉美惠子さんの『オオカミの護符』という本を買った。

「何か大切なものを置き忘れてきたような気がする……」

そんな思いを抱いていた著者が、その「何か」に向き合おうとしたとき、古い土蔵の扉に貼られた一枚の護符が目に入った。

護符に描かれていたのは、「オイヌさま」と呼ばれるオオカミだった。

狼と、置き忘れてきたもの。その二つが結びついていることに、心を引かれた。

◇

ある夜のことだった。

いつものように家を出て、しばらく歩いてから気がついた。

「あ……今日は、狼たちにお願いするのを忘れた」

だからといって、何かが起こるとは思わない。
わざわざ戻るほどのことでもない。
少し気になりながらも、私はそのまま歩き続けた。
いつもの散歩道には、学校の横から遊歩道へ続く階段がある。

辺りは暗く、人の気配もなかった。

その階段を上りきったときだった。

ふいに、生暖かい風が頬に触れた。

同時に、獣のような匂いがした。

強烈な匂いではない。

犬に似ているようで、少し違う。

飼われている動物ではなく、もっと野生に近い何かを思わせる匂いだった。

私は足を止め、辺りを見回した。

けれど、動物の姿はない。

近くに犬を連れた人もいなければ、匂いのもとになりそうなものも見当たらない。

ほんの一瞬だった。

風が通り過ぎると、匂いも消えた。

そのとき真っ先に浮かんだのは、神棚の下にいる二体の狼だった。

挨拶を忘れた今夜に限って。

◇

あの匂いの正体は、今も分からない。

どこかにいた動物の匂いが、風に乗ってきただけかもしれない。
暗い夜道で、私の感覚がいつもより敏感になっていただけかもしれない。

二体の狼と結びつけたのも、ただの偶然だろう。

それでも、家を出る前には、必ず声をかける。

「猫たちのお留守番を、よろしくお願いします」

二体は今日も、神棚の下から何も言わず、こちらを見ている。

返事はない。

けれど私は、もう挨拶を忘れない。

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