海しかないと思っていた
淡路島には、海しかないと思っていた。
こんなに坂があるなんて、誰も教えてくれなかった。
「まだ半分やで」
ずっと先を走る諒が、振り返って言った。
「嘘つけ! もう半分以上来てるやろ!」
その少し後ろから、哲平が叫ぶ。
「どっちでもいい! 待って!」
私は息を切らしながら、二人の背中を追いかけた。
空は、腹が立つほど青かった。
白い入道雲が、山の向こうでむくむくと膨らんでいる。
坂が曲がるたび、白いガードレールの向こうに海が現れては消えた。
さっきまで同じ高さにあったはずの水面が、いつの間にかずっと下で光っている。沖には沼島が、濃い青色の影になって浮かんでいた。
潮の匂いに、日に焼けた草の匂いが混じる。
照り返しの強いアスファルト。
首筋を流れる汗。
焼けるような腕。
三十を過ぎた女が、真夏の昼間に、長い坂道を自転車で必死に上っている。
我ながら、何をしているのだろうと思う。
言い出したのは哲平だった。
久しぶりに三人の休みが重なったから、淡路島へ行こう。着いたら自転車を借りて、海沿いを走ろう。
海沿いと聞いていたから、平らな道を想像していた。
土生港を過ぎたあたりから、道は海を置いていくように上り始めた。
海と坂道は、両立するらしい。
学生みたいな提案をした哲平は、結婚してからも、遊ぶときだけは昔と変わらなかった。
思いついたことには全力で、困ったときには誰より頼りになる。女にモテるというより、なぜか男にモテる男だった。
諒は、その哲平に誘われたから来た。
たぶん、私が誘っても来なかっただろう。
男友達の誕生日には午前零時きっかりに連絡するくせに、女の子からのメッセージは平気で既読スルー。
顔がよくて、妙に冷たくて、それでもモテる。
腹立たしいことに、私も少しだけ、諒が好きだった。
「ちょ! 休憩!」
とうとう耐えきれず、私は前を行く二人に向かって声を張り上げた。
諒がうんざりした顔で振り返る。
「また? もう置いてこーぜ、哲ちゃん」
半分は冗談で、たぶん、もう半分は本気だ。
哲平は心配そうに私を見ながら、口元だけでいたずらっぽく笑った。
「どうする?」
二人とも、本当に置いていきかねない。
「……もう少し頑張る」
止まりかけた足に力を入れ、もう一度ペダルを踏み込んだ。
哲平は速度を落とし、私の隣に並んだ。
諒は一人で、さっさと先へ行ってしまった。
蝉の声が、山側から降り注いでいる。
海から吹いてくる風は生ぬるく、汗の浮いた頬を撫でただけで通り過ぎた。
暑い。苦しい。喉もからからだった。
それなのに、なぜか笑いがこみあげてきた。
いい大人が三人、真夏の島で、子どもみたいに自転車を漕いでいる。
置いていくとか、待ってとか、そんなことを言いながら。
ようやく坂を上り切ると、諒は日陰のない場所で、自転車の横に立っていた。
その後ろには、青い海がどこまでも広がっている。
「なんや、待ってくれてたん?」
息を切らしながら尋ねると、諒は即座に答えた。
「哲ちゃんをな」
「でしょうね」
哲平が声を上げて笑った。
私も笑った。
もう、笑うしかなかった。
「ほな、行くで」
諒は海を見ることもなく、さっさと自転車にまたがった。
「あ、また置いていく気だな」
哲平が言った。
「ほんと、女の子には冷たいよね」
ペダルに足をかけた諒が、振り返る。
「女の子?」
「何、その間!」
そう言い返せる距離が、私は好きだった。
私は笑いながら、もう一度ペダルを踏み込んだ。
白いガードレールに沿って走る、二人の背中を追いかける。
淡路島には、海しかないと思っていた。
けれど、あの夏を思い出すとき、最初に浮かぶのは海ではない。
腹が立つほど青い空と、どこまでも続く坂道。
潮と草の匂い。
そして、その先を走る二人の背中だ。
宵空さんの企画「みなさんのひと夏の思い出を教えてください」に参加します☺️
