猫には見えている|漫画×小説『あわいの暮らし』#1
人は、ひとつの世界だけを生きていると思っている。
けれど、ときどき、もうひとつの「今」がこちらを覗く。
その気配には、たいてい猫が先に気づく。
猫と暮らしていると、ときどき、見なくていいものまで気になる。
何もない壁の隅。
誰もいない玄関。
夜になると、少しだけ開いている押し入れ。
けれど、猫が見ているからといって、こちらまで見る必要はない。
それを凪は、二匹と暮らし始めてから学んだ。
学んだはずだった。

テーブルの下で寝ていた黒猫のごまが起き上がり、白猫のしらたまの隣へ移動した。
それにつられるように、しらたまも身体を起こした。
二匹はそろって、暗い廊下を見ていた。
耳をぴくぴくと動かし、同じ一点をじっと見つめている。
ごまだけなら、気にしなかった。
小さな虫にも、隣の部屋の物音にも、すぐに反応する。
けれど、しらたまは違う。
虫が目の前を横切っても、気が向かなければ目さえ開けない。
そのしらたままで、ごまと同じ方向を見ている。
凪は、そっと廊下を振り返った。
何もいない。
もう一度、猫たちを見る。
二匹の視線は、まだ廊下の奥から動かなかった。

もちろん、二匹は凪の頼みを聞かなかった。
見なければいい。
何もいないのだから、動画の続きを見ればいい。
そう思ったのに、一度気づいてしまったものを、気づかなかったことにできるほど、凪は器用ではなかった。
空になった袋をテーブルへ置き、ゆっくり立ち上がる。
電気をつけても、やはり何もいなかった。
玄関の鍵は閉まっている。
廊下には、風ひとつ通っていない。
しらたまだけが、凪には見えない何かを目で追っていた。

しらたまの視線が、ゆっくりと玄関へ向かう。
次の瞬間。
カサ……
乾いた音がした。
凪とごまも、反射的にそちらを見る。
廊下の床に、小さな緑の葉っぱが一枚、落ちていた。

凪が手を伸ばすより先に、葉っぱが動いた。
風もない廊下を滑るように進み、リビングへ向かっていく。
しらたまが、そのあとをついていく。
凪も追いかけた。
ごまは凪の足元を離れなかった。
葉っぱは、閉じた窓の前で止まった。
しらたまが窓を見上げ、ひと声鳴く。
「……開けろってこと?」
返事はない。
凪は窓の鍵を外し、少しだけ窓を開けた。
夜風が部屋へ入り、カーテンをふわりと膨らませた。
葉っぱは風に乗って浮かび上がると、一度だけ凪たちの前で円を描き、そのまま夜の向こうへ飛んでいった。

猫には、私に見えないものが見えている。
たぶん、見えないふりもしている。
