小説『S』
Sは天を仰ぐのが趣味だった。
身重な体でも彼は欠かさず天を仰ぐのを日課にしていた。浜辺に煌めく残照を浴びて。それを見て私はもうやめればいいのに、と思ったし、実際言いもしたのだがSは聞く耳を持たず、二ヶ月後流産した。
「ひのひかりをしんこうするのはいけないことですか」
Sは掠れた声で呟いた。いかんことはないけどねえ、と医者が首を傾げた。
「とにかく、君は忠告を無視した。そのことの責任は考えるべきだよ」
そう言われても、Sは茫然としたまま何の反応も示さなかった。
私達は二階に住んでいた。五階からの飛び降り自殺を目撃してからというものSは変わってしまった。後から聞いたところによるとあれは人間ではなく等身大のマネキンを誤って落としたらしいのだが、そう言い聞かせてもSは頑なに聞き入れようとしなかった。
「わたしをなぐさめようとする、そのおきもちはありがたいのですが、おきづかいはむようです、あれはにんげんでした、わたしにはわかるのです」
優しくSはそう言って私の弁を否定するのだった。
五階の住人である藤平《ふじひら》さんのことを私はよく知らないが、何でも世界的に有名なファッションデザイナーのようで、そんなに偉い人ならば何故マンション住まいなのだろうと私達は不審がった。或る朝ゴミ捨てに出かけたところ、私は藤平さんがマンションの入口の前で五、六人の主婦の前で何か滔々と演説しているのに出くわした。
「奇蹟を信じるのです」藤平さんは歯を見せて俳優の様に笑いつつそう言った。「全ての出来事《イヴェント》は演出《パフォーマンス》だということを忘れてはなりません。私は神に愛されている。それを自認することが浄化への第一歩です」
数日後藤平さんは聴衆の一人であった主婦にゴルフクラブで後頭部を殴打された。即死だったという。逮捕された主婦は連行される際ずっと浄化だ浄化だと喚いていた。私はその話をSにしなかった。
やがて再びSが妊娠したと分かり、彼はあの浜辺の病院に入院することになった。もう天を仰ぐのはやめようねと私が言うと、Sは白濁した瞳をこちらに向けて、あなたのいうとおりにします、と告げた。
出産予定日は雨が降っていた。私はSの病室をそっと出て廊下の窓辺に寄りかかり、雨の音に耳を澄ました。
「奇蹟を信じるのです」
私はそう呟いた。Sの絶叫が廊下に響き渡った。