
沈黙の女
序章 雨の画廊、女の背
雨が降っていた。
私はその日、絵を見るつもりで出かけたのではない。四条のあたりで人と会い、帰りに雨脚が強くなったので、目についた小さな画廊へ入っただけである。
硝子戸を引くと、外の音が急に遠のいた。中には濡れた傘の匂いと、乾いた紙の匂いと、古い木の匂いがあった。
壁には何枚かの日本画が掛かっていた。花、橋、鳥、女、秋草。どれも悪くはなかったが、私の足を止めるものではなかった。
奥に一枚、未完成の絵があった。
女の後ろ姿である。
顔は描かれていない。座敷の隅に、女が少し斜めに座っている。白い襟足が、暗い背景の中で、ほんのわずか光を持っていた。肩は薄く、背は丸く、右手は畳の上に置かれている。その指の力の抜け方に、私はしばらく目を奪われた。
未完成であることは明らかだった。着物の模様も、襖の影も、まだ途中である。けれど、その足りなさが、かえって女を遠ざけなかった。描き切られていないからこそ、こちらが何かを入れてしまう余地がある。
私はその絵を見ながら、女の顔を想像しなかった。
むしろ、顔などない方がよいと思った。
顔があれば、人はすぐ語り出す。目が語り、口元が語り、年齢が語り、暮らしが語る。こちらの都合を破ってくる。
ところがその女は、何も言わなかった。
ただ背を向けて、畳の上に手を置いていた。
その沈黙が、よかった。
その時の私はまだ、自分が何を好ましく思ったのか、よく分かっていなかった。ただ、女が何も言わないということに、何か深い安らぎを覚えたのである。
画廊の主人が近づいて来た。
「まだ途中でして」
私は頷いた。
「柳原春堂という者の絵です。近ごろ困っておるようで、未完成のまま預けていきました」
「モデルはいるのですか」
「いるそうです」
「名は」
主人は少し考えた。
「水城雪乃、と聞いております」
水城雪乃。
私はその名を聞いた時、女の肌を白く想像した。
会ったこともない女に、もう色をつけていたのである。
雨は硝子を伝っていた。
私はその場で絵を買うとは言わなかった。
ただ、作者に会いたいとだけ告げた。
一、 ただの女であること
柳原春堂は、細い男であった。
四十を少し越えたところだというが、頬が削げて、実際より老けて見えた。堀川に近い町家の奥の部屋に住み、そこには絵具と膠と、冷えた灰の匂いがあった。
「先生があの絵を」
春堂はそう言って、少し笑った。嬉しそうではない。困ったようでもない。何かを先に知っている者の笑い方であった。
「あの絵の女に会いたい」
私が言うと、春堂は筆洗の水を捨てながら答えた。
「会わん方がよろしいかもしれません」
「なぜ」
「あの人は、絵で見るほど上等な女ではありません」
「上等でない?」
「ええ。喋るとすぐ分かります」
「何が」
「ただの女やということが」
ただの女。
その言葉は、私の興味を損なわなかった。むしろ強めた。
「なら、あの絵は何だね」
春堂は私を見た。
「削ったんです」
「何を」
「いろいろです」
そう言って、彼はそれ以上説明しなかった。
春堂の部屋には、描きかけの絵が何枚も立てかけられていた。女の顔、手、着物の袖、枯れた芙蓉、古い扇。どれも完成していない。完成していないものの中にだけ、まだ言い訳の余地が残っているようだった。
「雪乃という女は、どういう暮らしをしている」
私が尋ねると、春堂は肩をすくめた。
「暮らしというほどのものはないでしょう。大阪で部屋を借りたり、人の世話になったり、絵のモデルをしたり、たまに店へ出たり。ほんまのところは、本人に聞いても分かりません」
「嘘をつくのか」
「嘘というほど上手でもありません。人に合わせるだけです」
「なぜ君はその女を描いた」
春堂はしばらく黙った。
「黙っている時だけ、ええんです」
その答えに、私は何も言わなかった。
黙っている時だけ。
それは、私が画廊で感じたことと同じであった。
私はその時、少し不安になるべきだった。
だが、ならなかった。
ただ、会いたいと思った。
二、 雪乃という名の白さ
大阪の料理屋であった。
二階の座敷には古い柱時計があり、障子の外には濡れた瓦の匂いがした。春堂と私が先に着き、雪乃は少し遅れて来た。
「すみません、遅うなりました。電車が混んでまして」
そう言って入って来た女を見て、私はわずかに失望した。
肌は白い。髪も黒い。首も細い。けれど、私が絵から勝手に作っていたような、古風で沈んだ女ではなかった。襟元は少し緩み、帯はきちんと締めているようでいて、どこか甘い。座る時、畳の縁も気にしない。
「先生いうから、もっと怖い方か思いました」
雪乃はそう言って笑った。
笑うと急に幼く見えた。品がないというほどではないが、町の女の軽さが出る。
料理が運ばれる間、雪乃はよく喋った。
前の仕事で約束の金を払ってもらえなかったこと。質屋へ持って行った帯が思ったより安かったこと。隣の部屋の女が夜中まで三味線の稽古をしてうるさいこと。神戸に叔母がいると言ったかと思うと、少し後には堺の親戚の話をした。
話はすぐ変わり、ところどころ辻褄が合わなかった。
春堂は黙って酒を飲んでいた。
私は、これがあの絵の女かと思った。
ところが、女中が皿を置き、雪乃がふと話をやめた瞬間である。
障子越しの白い光が、彼女の頬と襟足にかかった。口が閉じられ、目が伏せられた。ただそれだけで、さっきまでの軽い女が消えた。
雪乃は黙ると美しかった。
美しいというより、余分なものが消えた。金の話も、嘘も、笑いも、電車で遅れたことも、すべてが遠ざかった。そこには、あの絵に近い女がいた。
私は、その瞬間だけを欲したのだと思う。
「先生?」
雪乃が声を出した。
すると、すぐに現実の雪乃が戻って来た。
私は何でもない顔をした。
けれど、その時すでに、私は一つのことを覚えていた。
この女は、黙らせると美しい。
三、 菓子折と沈黙
京都へ戻ってから、私は春堂を屋敷へ呼んだ。
「続きを、うちで描きなさい」
春堂は驚かなかった。
「雪乃さんも、こちらへ?」
「モデル料は私が出す。君にも制作費を渡す」
「ありがたい話です」
春堂は頭を下げたが、その声に弾みはなかった。
数日後、雪乃が久世邸へ来た。
玄関で篠子が迎えた。篠子は亡き妻・千鶴の妹で、千鶴が死んでから何かと屋敷のことを見てくれている。妻ではない。家族でもあり、他人でもある。その曖昧さが、長い間この家を支えていた。
雪乃は玄関先で、少しぎこちなく頭を下げた。
「お世話になります」
篠子は丁寧に返した。
「こちらへどうぞ」
その声は冷たかった。
雪乃が座敷に上がるまでには、少し時間がかかった。彼女は玄関で裾を直し、濡れた足袋の先を気にし、髪に手をやり、またすぐ忘れたように笑った。
篠子はそれを見ていた。
「お座敷へ上がる前に、少し身なりを整えてください」
篠子が言うと、雪乃は素直に、
「すみません」
と答えた。
しかしその素直さは、しつけられた者の素直さではなく、その場をやり過ごすための軽い素直さであった。注意されるとすぐ謝る。けれど翌日にはまた同じことをする。篠子はそこに、雪乃のだらしなさを見た。
私も初めはそう思った。
けれど座敷に入り、雪乃が膝に手を置いて黙ると、そのだらしなさは、どこかへ消えた。玄関で足袋を気にしていた女も、電車賃の愚痴を言っていた女も、急に遠くなった。
春堂は黙って筆を動かした。
私は、春堂の筆先よりも、雪乃の指を見ていた。
指は細いが、特別に美しいというほどでもない。爪も完璧に整えられているわけではなく、時には薄く紅が残っているだけで、端が少し荒れていた。だが、畳の上に置かれた時、その指は妙に静かであった。
「もう少し、力を抜いて」
春堂が言った。
雪乃は言われた通りにした。
その時、私は思わず、
「よい」
と言った。
雪乃は顔を上げた。
「今のでええんですか」
私は少し不快になった。
声を出した瞬間、先ほどまでの形が崩れたからである。
「そのままで」
私は言った。
雪乃は口を閉じた。
私は安心した。
制作が終わると、私は雪乃に包みを渡した。
「帰りに持って行きなさい。北浜の菓子だ」
「え、よろしいんですか」
雪乃は目を輝かせた。
「今日はよく座れていた」
その一言を、私は何気なく言ったつもりであった。
だが、雪乃は覚えた。
黙っていれば、褒められる。
黙っていれば、菓子をもらえる。
黙っていれば、この老人は優しい。
私は命じていない。
叱ってもいない。
ただ、黙った女にだけ、少し余分に優しくした。
それが、最初であった。
篠子はその菓子折を、玄関で雪乃が抱えるのを見ていた。
「よかったですね」
篠子はそう言った。
雪乃は無邪気に笑った。
「先生、優しいです」
篠子は微笑んだ。
その微笑みは、雪乃に向けたものではなかった。
四、 躾けられる女
雪乃は久世邸に通うようになった。
最初のうちは、来るたびによく喋った。電車の話、隣室の女の話、質屋の話、村瀬という名をまだ出さないままの、どこかの男の話。話の多くはつまらなかった。
私はそれを聞きながら、時々、指で煙草盆の縁を撫でた。
雪乃はそれを見て、少しずつ声を落とした。
ある日、雪乃はいつもより早く来た。
「今日はちゃんと来ました」
そう言って笑った。
私は「それはよかった」と答えた。
その日は、彼女はよく喋った。早く来たことを褒められると思っていたのだろう。ところが私の顔色が思ったほど柔らかくならないので、途中から黙った。
その沈黙がよかった。
制作後、私は封筒を渡した。中には約束より少し多く入れてあった。
雪乃はすぐ気づいた。
「今日は、多いですね」
「長く座ってくれたから」
「黙ってたから?」
私は答えなかった。
雪乃は封筒を袖にしまった。
その次から、雪乃は少しずつ学んだ。
よく喋る日、私は「疲れただろう」と言って早めに帰した。
静かに座る日、私は「もう少し」と言って時間を延ばした。
喋りすぎた日は茶だけを出し、静かだった日は帰りに菓子を持たせた。
乱れた帯で来た日には篠子に直させ、きちんと座った日には私が「よい」と言った。
何一つ、命令ではなかった。
だからこそ、いやらしかった。
雪乃は、私の前でどうすればよいかを覚えていった。
その様子を、篠子は見ていた。
雪乃が黙ると私の顔が柔らぐ。
雪乃が笑うと私の目が遠ざかる。
雪乃が金の話をすると私の指が煙草盆を撫でる。
雪乃が黙って膝に手を置くと、封筒が少し厚くなる。
篠子はそれらを一つ一つ見た。
見たくないのに、見ていた。
雪乃の話は、たいてい退屈であった。
それは彼女に中身がないということではない。彼女の話には、生活だけがあったのである。
隣の女が新しい帯を買った話。
家主が小言を言った話。
質屋の主人が前より渋くなった話。
電車の中で見かけた学生の話。
村瀬が酔って帰って来た話。
その村瀬が、翌朝には妙にしおらしく謝った話。
それらは、どれも絵にならなかった。
私は聞いているふりをした。
「それで、その方はどうしたのかね」
などと適当な相槌を打つと、雪乃は調子に乗って、さらに話した。
その声は悪くない。少し湿りがあり、笑うと喉の奥に幼い響きが出る。だが、言葉が多すぎた。言葉が多くなるほど、彼女は私の中の雪乃から遠ざかっていった。
ある日、雪乃は隣の女と米屋の若旦那の噂を話し始めた。
「ほんまに、ようやりますわ。あの人、旦那さんおるんですよ。それやのに――」
そこまで言った時、私は煙草盆の縁を指で撫でた。
雪乃は言葉を止めた。
「こういう話、お嫌いですか」
「嫌いというほどではない」
「でも、先生、今、遠いお顔になりました」
私は少し驚いた。
雪乃は私を見ていた。
見られていたのである。
「私は、そんな顔をしたかな」
「しました」
雪乃は笑った。
「ほな、黙ります」
そう言って、彼女は口を閉じた。
その瞬間、また美しくなった。
私は胸の中で、ほっとした。
その安堵を、雪乃は見逃さなかった。
雪乃はだんだん、座敷へ入る前に自分を整えるようになった。
玄関で、少し息を整える。
廊下で、声を低くする。
座敷へ入る前に、襟元へ手をやる。
畳に座ると、まず私の顔を見る。
そして、春堂が筆を取る頃には、彼女はもう、ほとんど喋らなくなっていた。
それは、芸のようでもあった。
私はその変化を喜んだ。
篠子は、それを恐れた。
ある時、制作が終わって雪乃が帰った後、篠子が言った。
「あの方、近ごろお静かになりましたね」
「よいことだ」
私は言った。
「絵には向いている」
篠子は返事をしなかった。
少しして、
「人には、どうでしょう」
と呟いた。
私は聞こえないふりをした。
篠子も、二度は言わなかった。
だがその言葉は、座敷のどこかに残った。
人には、どうでしょう。
雪乃は絵に近づいていた。
そのことを、私は美しいと思い、篠子は痛ましいと思った。
雪乃自身はどう思っていたのか。
おそらく彼女は、まだよく分かっていなかった。
ただ、この家では黙っている方がうまくいく。
その程度のこととして覚えていたのである。
人が壊れていく時というのは、たいてい、その程度のことから始まる。
五、 封筒の厚み、女の黙り方
雪乃は金に困っていた。
それは彼女が悪いというより、そういう暮らしをしていたのである。部屋代、着物代、借金、食事代、誰かへの返済、誰かからの借り。彼女の周囲には、いつも少しずつ足りないものがあった。
ある日、制作の終わりに、雪乃は言った。
「先生、少しだけ前にいただくことはできますか」
私はその言葉を聞いた時、顔には出さなかったが、胸の中で何かが冷めるのを感じた。
それは下品なことを言われたからではない。
むしろ、下品なことを言う雪乃が、あまりにも生きている女に戻ってしまったからである。
「何に使うのかね」
「部屋代です」
「先日、渡したばかりではなかったか」
雪乃は少し笑った。
「いろいろありまして」
その「いろいろ」という言葉の中に、村瀬の影があるようにも、別の男の影があるようにも思えた。
私は封筒を取り出した。
だが、すぐには渡さなかった。
「今日は少し、落ち着かなかったね」
私は言った。
雪乃は黙った。
「手も、よく動いた」
彼女は膝の上の手を見た。
「すみません」
「謝ることではない。ただ、絵にはならない」
雪乃は顔を上げなかった。
私は封筒を渡した。
中身は、約束の額だけであった。
いつもより多くはなかった。
雪乃は受け取り、袖にしまった。
「ありがとうございます」
その声には、少しだけ乾いたものがあった。
翌週、雪乃はほとんど喋らなかった。
座敷へ入る時から、彼女は静かだった。篠子が茶を出しても、軽口を言わず、春堂が手の位置を直すと、素直に従った。私はその日、彼女の首筋を、いつもより長く見ていた。
制作が終わると、私は封筒を渡した。
少し厚くしてあった。
雪乃はすぐ気づいた。
「今日は、多いですね」
「よく座れていた」
「黙ってたからですか」
私は答えなかった。
雪乃もそれ以上、聞かなかった。
ただ、次から彼女は、金の話をする前に一度、私の顔を見るようになった。
それは、彼女が何かを覚えたということであった。
私はそれを、しつけたつもりはなかった。
だが、しつけとは、命令によってだけ行われるものではない。
六、 亡き妻の部屋の匂い
雪乃は、悪気なく境界を越える女であった。
ある日、春堂が筆を洗いに行き、私が書斎へ立ったわずかな間に、雪乃は廊下の奥へ行っていた。
戻ると、篠子が低い声で言っていた。
「そこは入ってはいけない部屋です」
襖が開いていた。
千鶴の部屋だった。
古い鏡台、桐箪笥、櫛、帯締め、小さな写真。千鶴が亡くなってから、私はその部屋をほとんど動かしていなかった。掃除をするのも篠子だけである。
雪乃は困ったように笑った。
「すみません。綺麗なお部屋やったから、つい」
「つい、で入る場所ではありません」
篠子の声は震えていた。
私は雪乃を見るべきではなかった。
けれど見た。
千鶴の鏡台の前に立つ雪乃は、千鶴に似ていない。顔も違う。年も違う。声も違う。それなのに、古い鏡台の前に立つ白い首筋を見た時、死んだ女と若い女が、薄い紙の上で重なったように感じた。
私は怒れなかった。
「もうよい」
篠子が私を見た。
「お義兄様」
「知らなかったのだろう」
雪乃は黙っていた。
その沈黙が、またいけなかった。
私は彼女を許したのではない。
彼女が黙っていたので、許したくなっただけである。
その夜、私は千鶴の部屋へ入った。
鏡台の引き出しから櫛を取り出し、しばらく手に持った。櫛にはもう何の匂いも残っていなかった。
それでも私は嗅いだ。
何を探していたのかは、分からない。
七、 篠子、手巾を洗う
雪乃はよく物を忘れた。
扇子、手巾、安い簪、紙袋、時には財布まで忘れかけた。忘れたことに自分で気づくと大げさに慌て、気づかなければそのままだった。
ある日、白い手巾を座敷に残して帰った。
篠子はそれを見つけた。
湯呑みの縁には薄い紅がついていた。座布団には雪乃が座っていた浅いへこみが残っていた。畳には足袋の擦れた跡があった。
篠子は湯呑みを下げ、座布団を重ね、畳を軽く払った。
手巾だけが残った。
彼女はそれをつまみ上げた。すぐ捨てるつもりだったのだろう。しかし、白粉とも香水ともつかぬ匂いがした。
篠子は一瞬、手を止めた。
後から思えば、その一瞬が大事であった。
嫌悪は、見ないことではない。
見すぎることである。
その晩、篠子は私に言った。
「あの方を、あまりこちらへ入れない方がよろしいのではありませんか」
「なぜ」
「この家に合いません」
「座敷に座ると、妙に合う」
私がそう言うと、篠子は黙った。
その沈黙は、雪乃のものとは違う。雪乃の沈黙は空いている。篠子の沈黙は詰まっている。
「お義兄様は、あの方の何をご覧になっているのですか」
「形だ」
「形だけですか」
「形の中に現れるものだ」
篠子は少し笑った。
「便利なお言葉ですね」
その言葉は不快であった。
けれど不快であったのは、それが少し当たっていたからである。
雪乃の忘れた手巾は、しばらく篠子の手元にあった。
捨てたと言えば、それで済む。
洗って返せば、それも自然である。
しかし篠子は、どちらもしなかった。
それは不思議なことではない。人が何かに囚われる時、たいていは、捨てるほど強くもなく、返すほど素直でもない。
篠子はそれを、自分の裁縫箱の上に置いた。
初めは、次に雪乃が来た時に返すつもりだった。
だが雪乃が来ると、返し忘れた。
二度目も忘れた。
三度目には、返す気がなくなっていた。
手巾は白く、端に小さな刺繍があった。安物である。よく見ると、少し黄ばんでいた。美しいものではない。
それでも、篠子は時々それを見た。
ある雨の日、彼女はその手巾を洗った。
洗っている途中で、何をしているのか分からなくなった。
人の忘れ物を洗っている。
嫌いな女の手巾を、自分の手で洗っている。
水の中で、薄い白粉の匂いは消えた。
篠子はそれを干した。
乾くと、手巾はただの布になった。
それが少し残念であった。
その時、篠子は自分を嫌悪した。
八、 黒髪に指を入れる日
春堂が遅れ、私も来客に呼ばれて座敷を離れた日があった。
座敷には篠子と雪乃が残った。
雪乃は鏡の前で髪を直していた。何度も櫛を入れ、うまくいかず、しまいには少し苛立って笑った。
「篠子さん」
篠子は返事をしなかった。
「すみません。ちょっと見てもらえませんか」
篠子は断ろうとした。
けれど、雪乃が鏡越しに困った顔をしているのを見て、後ろに立った。
髪に触れた。
黒く、重い髪であった。見た目より柔らかく、指を入れると水の中へ沈むようだったという。
「綺麗な髪ですね」
篠子は思わず言った。
雪乃は鏡の中で笑った。
「髪だけです」
その言葉は軽かった。
けれど篠子には、軽く聞こえなかった。
髪だけ。
首だけ。
指だけ。
黙っている時だけ。
この家で雪乃は、少しずつ部分に分けられていた。誰も雪乃全体を見ていない。篠子はそのことに気づきながら、自分もまた雪乃の髪を見ていることに気づいた。
篠子の指が、雪乃の首筋に近づいた。
白い肌に、細い後れ毛がかかっていた。
篠子は目を逸らした。
嫌いな女の髪に触れている。
しかし手を離すと、少し寂しかった。
雪乃は鏡越しに言った。
「篠子さん、優しいんですね」
「優しくありません」
「そうですか」
雪乃はそれ以上言わなかった。
その沈黙に、篠子は困った。
雪乃の沈黙は空いている。
そこへ、見る者が勝手に何かを入れてしまう。
篠子もまた、そこへ何かを入れかけていた。
九、 村瀬来る
村瀬亮一は、秋の初めに現れた。
その日、雪乃は朝から落ち着かなかった。何度も門の方を気にし、春堂に注意されると、すみませんと言って黙った。その黙り方にも、いつもの座敷の静けさはなかった。
下男が来て、門前に男がいると言った。
私は廊下へ出た。
門の外には、背の高い男が立っていた。帽子を斜めにかぶり、外套の襟を立てている。顔立ちは悪くないが、目元に疲れがある。若いのに、安い酒の匂いがしそうな男であった。
「水城雪乃さん、こちらに来てますやろ」
「君は」
「村瀬亮一いいます」
彼は私を見て、少し口元を歪めた。
「先生ですか」
その言い方だけで、私は彼を嫌った。
雪乃が廊下の奥から出て来た。
「亮ちゃん」
その呼び方に、私は胸を突かれた。
亮ちゃん。
そこには、私の知らない時間があった。私の知らない部屋、私の知らない金、私の知らない嘘、私の知らない笑い。
村瀬は雪乃に近づいた。
「ちょっと話ある」
雪乃は困ったように笑った。
「今日はあかんて」
「金、今日いるねん」
その声は低かったが、私にも聞こえた。
雪乃の顔が曇った。
私は言った。
「制作中だ」
村瀬は私を見た。
「制作、ですか」
彼はその言葉を少し笑った。
「たいそうなことで」
雪乃は村瀬の袖を引いて、外へ出た。
二人の声は門の向こうで小さく続いた。村瀬は怒っているようで、どこか頼りなかった。雪乃はなだめているようで、うんざりしているようでもあった。
私は座敷へ戻った。
絵の中の雪乃は、誰にも金を貸さない。誰にも「亮ちゃん」と呼びかけない。
そのことが、私を落ち着かせた。
村瀬が現れてから、雪乃は時々、座敷の中へ外の匂いを持ち込むようになった。
安い酒の匂い。
雨に濡れた外套の匂い。
煙草の匂い。
男の手が触れた着物の皺。
それらは、はっきり見えるものではなかった。
だが、私は感じた。
ある日、雪乃の袖口に、微かに煙草の匂いが残っていた。
私の煙草とは違う匂いであった。
私は何も言わなかった。
その代わり、制作中に一度も雪乃を褒めなかった。
雪乃は、途中でそれに気づいた。
「今日は、あきませんか」
私は春堂の絵を見たまま言った。
「少し落ち着かない」
雪乃は袖口を見た。
それだけで、彼女は察したようだった。
次に来た時、雪乃はその匂いを消していた。
消していたというより、消そうとしていた。
白粉の匂いがいつもより強かった。
私はそれを、少し哀れに思った。
しかし、その哀れみも、私にとっては都合のよい感情であった。
哀れに思うことで、私は自分の支配をやさしさに変えることができたからである。
十、 下卑た男、下卑た私
村瀬は数日後、雪乃のいない時に来た。
座敷に通すと、彼は遠慮なく座った。畳の上に置いた手の爪が少し汚れていた。私はそこを見て、すぐ目を逸らした。
「先生、雪乃にいくら払うてますの」
「君に関係あるのか」
「ありますわ。あの女、僕にも借りがありますから」
「君は金貸しか」
「違います。けど似たようなもんです」
村瀬は笑おうとして、うまく笑えなかった。
近くで見ると、彼は思ったより疲れていた。靴下の片方に小さな穴があり、外套の袖口も擦れていた。下品というより、貧しかった。
「雪乃を連れて帰りたいのかね」
私が尋ねると、村瀬は黙った。
「分かりません」
その答えは意外であった。
「好きなのか」
「好きやったと思います」
「今は」
村瀬は顔をしかめた。
「先生、そういう聞き方はずるいですわ」
彼はしばらく畳を見ていた。
「先生は、雪乃を綺麗に見てはるんでしょう」
私は答えなかった。
「あの女、そんな綺麗なもんやないですよ。嘘つくし、金にだらしないし、すぐ逃げるし、人に合わせて話変えるし」
「知っている」
「知ってて、何で」
村瀬はそこで言葉を止めた。
しばらくして、低い声で言った。
「先生は、綺麗な言葉を使うだけで、やっていることは僕と同じやないですか」
私は黙った。
「僕はあいつを引っ張って行こうとする。先生は座らせる。違うようで、同じやと思います」
その言葉には、勝ち誇った響きはなかった。むしろ、彼自身もそれを認めたくないようであった。
「君は雪乃をどうしたい」
私は聞いた。
村瀬は答えなかった。
その沈黙で分かった。
彼もまた、自分の知っている雪乃を手放したくないのだ。
彼が帰った後、私はしばらく座敷にいた。
下品な男だと思った。
情けない男だとも思った。
だが、その情けなさの中に、私と同じものが見えた。
それが不快であった。
十一、 女を削る筆
春堂の絵は進んでいった。
春堂は雪乃を見ながら、雪乃を見ていないような目をした。目の前の女ではなく、線と陰と余白を見ている。私はその目を羨ましく思った。
彼は溺れない。
だから描ける。
雪乃は相変わらずであった。
遅れる。
疲れたと言う。
金の相談をする。
村瀬の悪口を言う。
悪口の後で、少し村瀬を庇う。
話しすぎて、私の顔色を見る。
私が黙ると、自分も黙る。
雪乃は少しずつ覚えていった。
私の前では、黙っている方が得だと。
私はそれを教えたつもりはなかった。
けれど私の顔が、金の渡し方が、菓子折の有無が、帰りの車代の多寡が、彼女にそれを教えた。
ある日、雪乃は一時間近く、ほとんど喋らずに座っていた。
制作が終わると、私は封筒を渡した。約束より少し多く入れてあった。
雪乃はそれに気づいた。
「今日は、よかったんですか」
「とてもよかった」
「何が」
私は少し間を置いた。
「静かだった」
雪乃は封筒を指で挟んだまま、私を見た。
「私、静かな方がええんですね」
私は答えなかった。
その夜、絵の中の女は、現実の雪乃よりずっと美しく見えた。
現実の雪乃から、春堂は多くのものを削っていた。声、嘘、疲れ、金、村瀬、笑い、欲しがる手。それらが消えるたび、絵の女は私に近づいた。
私はそれを喜んだ。
その喜びが何であるかを、長く考えないようにした。
ある日、私は春堂に聞いた。
「君は、雪乃を美しいと思うか」
春堂は筆を置かずに答えた。
「思う時もあります」
「思わない時もある?」
「喋っている時は、あまり」
私は笑いそうになった。
「君も同じか」
春堂はそこで筆を止めた。
「同じかもしれません。ただ、先生ほど大事には思っていません」
その言葉は、私を少し不快にした。
「どういう意味かね」
「私は、要るところだけ描ければよろしいんです」
「残りは」
「捨てます」
春堂は淡々と言った。
その時、私は初めて、春堂の方が私より残酷なのではないかと思った。
しかしすぐに、そうではないと分かった。
春堂は、自分が捨てていることを知っている。
私は、捨てているものを美しい言葉で覆っている。
その違いであった。
十二、 千鶴の着物を着る女
絵の仕上げに入る頃、春堂が言った。
「着物を替えたい」
「今のではいけないのか」
「軽いんです。もっと古い、重いものが欲しい。女が少し負けるくらいの」
私はすぐに千鶴の箪笥を思った。
篠子は強く反対した。
「姉の着物を、あの方に着せるのですか」
「絵のためだ」
「姉は絵の道具ではありません」
「しまっておくだけでは、死んだものが死に直す」
篠子の顔が白くなった。
「お義兄様は、ひどいことを綺麗におっしゃいます」
私は返事をしなかった。
千鶴の着物を出した日、篠子はしばらく箪笥の前に座っていた。
箪笥の引き出しを開けると、防虫香の匂いが立った。古い絹の匂いと、しまわれ続けた時間の匂いが混じっていた。
篠子は着物を畳の上に広げた。
鼠色の地に、梅の枝が沈んでいる。千鶴が好んだ着物だった。
「姉は、この着物を着る時、いつも少し背筋を伸ばしていました」
私は黙った。
その記憶は私にもあった。
だが、私の中では、千鶴の背筋はすでに美しい形になっており、彼女がその時何を思っていたのかまでは残っていなかった。
雪乃はそれを着た。
女中が手伝い、最後に篠子が襟元を直した。篠子の指は震えていた。
雪乃は鏡の前に立った。
「これ、重いですね」
その一言で、篠子の顔がわずかに歪んだ。
千鶴にとっての着物は、雪乃にとってはただ重い布だった。
私はその事実に、少し苛立った。
だが、その重さに負けている雪乃は美しかった。
「似合いますか」
悪気のない一言である。
それが残酷だった。
千鶴ではない。
雪乃は千鶴ではない。
それなのに、千鶴の着物を着た雪乃は、私の中で、もう雪乃だけではなくなった。死んだ女と、生きた女と、私が作りたい女とが、同じ布の中で混ざった。
篠子は言った。
「姉を、そんなふうに使わないでください」
「使っているのではない」
私は答えた。
「残しているのだ」
「同じです」
篠子は静かに言った。
雪乃は黙っていた。
その沈黙のために、私はまた彼女を美しいと思った。
篠子の悲しみよりも先に、私はその美しさを見てしまった。
十三、 絵が女を奪う
絵が完成した日、空は曇っていた。
座敷には灰色の光が満ち、庭の池も、襖の引手も、畳の目も、すべてが少し湿って見えた。
春堂は絵を床の間に掛けた。
しばらく誰も声を出さなかった。
沈黙が、四人を別々に包んでいた。
私は、絵の中に自分の求めていたものを見た。
春堂は、仕事が終わった者の疲れを見せた。
篠子は、姉の着物を着た誰でもない女を見ていた。
雪乃は、自分の姿を借りて、自分ではない女が作られたことを見ていた。
その沈黙は、同じ沈黙ではなかった。
私の沈黙は満足だった。
春堂の沈黙は疲労だった。
篠子の沈黙は喪失だった。
雪乃の沈黙は、まだ名を持たなかった。
そこにいるのは、雪乃であった。
しかし雪乃ではなかった。
千鶴の着物を着て、座敷の暗がりに座る女。首筋は雪乃に近い。口元には千鶴の静けさがある。目元の影には篠子の耐えるようなものが入っている。
そして、それらの誰でもなかった。
その女は、実在の女たちよりも、私にとって都合がよかった。
何も求めない。
何も言わない。
老いない。
遅れない。
嘘をつかない。
村瀬を知らない。
私を見ることもない。
私は、そのことをまだ言葉にしなかった。
ただ、美しいと思った。
「私、こんな顔してません」
雪乃が言った。
その言葉で、初めて現実が座敷に戻った。
私はそれを煩わしいと思った。
それほどまでに、私はすでに絵の女を好んでいたのである。
私は言った。
「絵は、顔だけを写すものではない」
雪乃は私を見た。
「ほな、何を写したんですか」
私は答えられなかった。
雪乃はもう一度、絵を見た。
「綺麗ですね」
その声は、他人を見る声だった。
「でも、私やないみたい」
その通りであった。
私は雪乃を使って、雪乃ではない女を作ったのである。
十四、 私は、あの絵に負けたのでございますか
夕方、座敷には私と雪乃だけが残った。
春堂は帰り、篠子も奥へ下がっていた。絵は床の間に掛けられている。
雪乃は絵の前に立っていた。
「先生」
「何かね」
「先生は、私より、あの絵の方がお好きなんですね」
私はすぐには答えなかった。
雪乃は振り向いた。
「私は、あの絵に負けたんですか」
責める声ではなかった。泣いてもいなかった。ただ、疲れたように静かだった。
私は彼女が泣くと思った。
泣けば、まだ扱いやすかった。
慰めることもできた。
金を渡すこともできた。
疲れているのだと言うこともできた。
しかし雪乃は泣かなかった。
ただ、私を見た。
その目に、私は耐えにくいものを感じた。
美しいからではない。
私を見ていたからである。
「勝ち負けの話ではない」
「そうですか」
雪乃は少し笑った。
「あの絵の私は、黙っていますもんね。お金も言わへんし、怒りもせえへんし、年も取らへんし」
私は言葉を探した。
「あれは君を描いたものだ」
「いいえ」
雪乃は首を振った。
「あれは、先生が好きな私です」
私は黙った。
「あの絵の私は、亮ちゃんのことも知らへん。遅刻もせえへん。お腹もすかへん。先生に嫌な顔もさせへん」
「君は少し疲れている」
そう言った瞬間、自分の言葉が逃げであることを知った。
雪乃は私を見た。
「先生、私が喋ると、少し遠いお顔をしはる」
私は顔を背けた。
「でも、黙ってたら、菓子くれはる。お金も少し多い時あります」
その時、座敷の空気がひどく湿ったように感じた。
私は、自分の行為を初めて他人の口から聞かされた。
それは、思っていたより醜かった。
「私、だんだん分かってきました。ここでは、黙ってたら大事にしてもらえるんやなって」
その言葉は、強くなかった。
静かだった。
だから逃げられなかった。
「私、絵になったらよかったんですね」
雪乃はそう言った。
その静けさは、私の好きな沈黙とは違っていた。
それは、もう私のための静けさではなかった。
十五、 生身の女、笑う
それから雪乃は、悪女になったのではない。
ただ、私が削り取ろうとしていたものを、隠さなくなっただけである。
いや、隠さなくなったというより、これまで私の前で油断しないようにしていたのを、やめたのである。
絵の前で饅頭を食べた。粉が膝に落ちた。
化粧の崩れた顔で来た。
眠いと言って欠伸をした。
村瀬の話をした。
金に困っていると言った。
千鶴の着物の袖を、少し雑に扱った。
私は苛立った。
「もう制作は終わっている。無理に来る必要はない」
「来たらあきませんか」
「そういう意味ではない」
「ほな、どういう意味ですか」
雪乃は、私を見るようになった。
見られる女が、見る女になった。
それが私は嫌だった。
彼女の反撃は、ただ生身でいることだった。
食べる。
喋る。
疲れる。
欲しがる。
嘘をつく。
笑う。
不機嫌になる。
誰かを思い出す。
それらは人間なら当たり前のことである。
しかし私は、それらを雪乃から取り去りたがっていた。
ある日、雪乃は絵の前に座り、口に菓子を入れたまま、絵を見上げた。
「この人、何も食べへんのですね」
私は黙った。
「お腹も空かへんし、眠くもならへんし、誰にも借金せえへんし」
雪乃は笑った。
「ええなあ」
その笑いは、軽かった。
しかし私は、その軽さに耐えられなかった。
絵の女が貶められたのではない。
私の作った女が、現実の女に笑われたのである。
その日から、私は雪乃が座敷にいる時間を、少し短くするようになった。
これもまた、命令ではなかった。
ただ、遠ざけたのである。
十六、 篠子の告白、篠子の罪
篠子は、しばらく何も言わなかった。
雪乃が絵の前で菓子を食べる日も、私が不機嫌になる日も、村瀬の名が出て座敷の空気が乱れる日も、篠子は黙って茶碗を下げた。
けれどその沈黙は、以前の沈黙とは違っていた。
雪乃が来たあとの座敷には、いつも何かが残った。
湯呑みの縁の紅。
座布団の浅いへこみ。
畳に擦れた足袋の跡。
白粉の匂い。
そして、私が雪乃を見ていた時間の名残。
篠子はそれらを片付けながら、私ではなく、座敷そのものを見ていた。
この家は、女を迎えているのではない。
女を少しずつ形に変えている。
そう思ったのかもしれない。
ある夜、篠子は一人で千鶴の部屋へ入った。
鏡台の前に座り、引き出しを開けた。そこには、もう櫛がなかった。私が持ち出していたからである。
篠子は空の引き出しを見た。
姉のものは、少しずつ私の夢の材料にされていた。
雪乃も、絵にされた。
自分もまた、どこかで見られ、使われていたのかもしれない。
しかし彼女は、ただ被害者だったわけでもない。
雪乃の髪に触れた時の感触を、まだ覚えていた。
忘れたいと思いながら、何度も思い出していた。
篠子は、そのことを誰にも言えなかった。
だから私に告げた言葉は、私への断罪であると同時に、自分への断罪でもあった。
ある夜、篠子は私の前に座った。
「お義兄様」
その声には、すでに別れが含まれていた。
「あなたは姉を愛していたのではありません」
私は顔を上げた。
「何を言う」
「姉が、あなたの美意識に逆らわなかったから、愛していただけです」
「言い過ぎだ」
「そうかもしれません」
篠子は静かに言った。
「けれど、雪乃さんを見ていて、そう思うようになりました」
「君は雪乃に嫉妬しているのか」
自分でも卑怯な言葉だと思った。
篠子は少し笑った。
「しています」
私は黙った。
「でも、雪乃さんにではありません。あなたが雪乃さんを見る目にです」
篠子は膝の上で手を重ねた。
「私はあの人を嫌っていました。今でも好きとは言えません。けれど、あの人が髪を直してほしいと言った時、私は触ってしまいました。嫌いなのに、見ていました。髪も、首も、声も。見たくないのに、見ていました」
篠子の声は少し震えた。
「だから、私も同じなのでしょう」
その告白は、私を責めるだけのものではなかった。
「でも、お義兄様は、それを美しい言葉で隠される」
私は何も言わなかった。
篠子は続けた。
「あなたは女を見ていたのではありません。女を使って、ご自分の夢を見ていただけです」
その言葉は、静かだった。
「姉も、雪乃さんも、私も。あなたの中では、別々の女ではなかったのかもしれません」
私は怒りたかった。
しかし怒れなかった。
篠子は立ち上がった。
「私も、この家に長く居すぎたのかもしれません」
その背中は、急に小さく見えた。
十七、 村瀬の敗北
村瀬は、雪乃を連れて行こうとした。
門の外で二人が言い争う声がした。私は廊下の暗がりに立っていた。
「もうここへ来るな」
村瀬の声は荒かった。
「なんで」
「あの先生、お前を変なもんにしてる」
「変なもんて何」
「絵や。人形や。知らんけど」
村瀬は苛立っていた。だが、その苛立ちの奥には焦りがあった。雪乃を失うのが怖い男の声であった。
雪乃はしばらく黙っていた。
「亮ちゃん」
その呼び方は、以前より疲れていた。
「あんたも先生も、違うようで同じやわ」
「何がや」
「私を、自分の分かる形にしたいだけや」
「俺はお前を知ってる」
「知ってるから、何なん」
雪乃の声は低かった。
「先生は私を黙らせたい。あんたは私を昔のままにしたい。どっちも、今の私を見てへん」
村瀬は黙った。
しばらくして、彼は小さな声で言った。
「ほな、今のお前って何やねん」
雪乃は答えなかった。
その沈黙は、答えられない沈黙だった。
私は初めて、雪乃もまた自分の形を持てずにいるのだと気づいた。
村瀬は帰った。
雪乃は門の前にしばらく立っていた。
その背中は、最初に見た絵に似ていた。
だが、あの絵よりも疲れていた。
私はその疲れを、美しいとは思えなかった。
そのことが、私をいちばん浅ましくした。
十八、 不在の雪乃
雪乃は来なくなった。
初めの数日は、風邪かと思った。次に、村瀬と何かあったのだと思った。それから、私を避けているのだと思った。
やがて、理由を考えなくなった。
座敷には絵があった。
雪乃が来ないと、家は静かになった。金の話も、欠伸も、軽い笑いも、村瀬の名前も消えた。
残ったのは、絵の女であった。
私は、安堵した。
その安堵はひどいものだった。
ひどいと分かっていても、安堵した。
現実の雪乃がいなくなることで、絵の雪乃は邪魔されなくなった。彼女はもう、私を見返さない。私に問いを向けない。自分が絵に負けたのかと尋ねない。
雪乃が来なくなった後も、篠子はしばらく座敷を以前と同じように片付けた。
もう湯呑みの紅もない。
座布団のへこみもない。
手巾も落ちていない。
それなのに、彼女は畳の上を見た。
そこに何もないことが、かえって雪乃の不在を濃くしていた。
私は雪乃の行方を探さなかった。
春堂から一度、手紙が来た。
雪乃は大阪を離れたらしい、とあった。村瀬と一緒かどうかは分からない。誰かの世話になっているとも、別の店に出ているとも聞いた、と書かれていた。
私はその手紙を畳んだ。
探そうと思えば探せたのかもしれない。
しかし探せば、雪乃はまた生身の女として戻って来る。
私はそれを望まなかった。
それでも、一度だけ、私は大阪へ行こうとした。
朝早く起き、着物を替え、玄関まで出た。下男に車を呼ぶよう言いかけた時、ふと、見つけた後の雪乃を想像した。
安い部屋にいる雪乃。
誰かと笑っている雪乃。
私の知らない男の名を呼ぶ雪乃。
老けたように見える雪乃。
金を借りたいと言う雪乃。
あるいは、私を見て何も言わない雪乃。
私は外出をやめた。
「今日は出ない」
そう言って、座敷へ戻った。
その時、自分が雪乃を探したかったのではなく、探そうとする自分を一度だけ見たかったのだと分かった。
私は絵の前に座った。
あの女がいないことで、ようやくあの女は完全になった。
そう思った。
その考えは、畳に染み込む水のように、静かに私の中へ入っていった。
十九、 神戸の女より
雪乃が来なくなってから、ひと月ほど経った頃である。
私宛に、粗末な封書が届いた。
差出人の名は、水城雪乃であった。
その字は、下手ではないが、ところどころ形が崩れていた。
私は、しばらく封を切らなかった。
差出人の名を見ただけで、絵の女が少し遠くなったように感じた。
水城雪乃。
その名は、絵の中にある時は美しかった。
封筒の表に、少し崩れた字で書かれていると、急に生活の匂いを持った。
私は午後まで、それを机の上に置いておいた。
夕方になって、ようやく封を切った。
中には短い手紙が一枚だけ入っていた。
先生
お元気ですか。
この前はいろいろありがとうございました。
私は今、神戸の方にいます。
何とかやっています。
あの絵は、まだお家にありますか。
寒くなってきたので、お体に気をつけてください。
雪乃
それだけであった。
文学的なところは一つもなかった。
恨みも、懐かしさも、深い意味もなかった。
ただ、普通の女が、普通に近況を書いただけの手紙であった。
私はそれを読んで、ひどく困った。
絵の雪乃は、こんな手紙を書かない。
絵の雪乃は、神戸にいない。
何とかやっている、などと言わない。
寒くなってきたのでお体に気をつけてください、などという平凡な気遣いをしない。
その平凡さが、絵の沈黙を少し汚した。
恨みが書いてあれば、私は自分を責めることもできた。
懐かしさが書いてあれば、私は感傷に浸ることもできた。
金の無心が書いてあれば、私はまた封筒を用意することもできた。
しかし、そこには何もない。
ただ、雪乃が絵の外で生きていることだけが書かれていた。
何とかやっています。
その一文は、ひどく平凡で、ひどく強かった。
私はその手紙を、絵の前に置こうとした。
置けば、雪乃の痕跡を絵の中に戻せるような気がした。
けれどできなかった。
その紙は、生々しすぎた。
捨てようと思った。
しかし捨てられなかった。
結局、私は千鶴の櫛を入れていた引き出しの奥に、その手紙をしまった。
その晩、私は絵を長く見られなかった。
絵の女の沈黙の向こうで、雪乃の下手な字がちらついた。
何とかやっています。
その一文が、どうにも邪魔であった。
そして私は、その邪魔な感じを憎みながら、少し安心してもいた。
雪乃は、絵になり切らなかったのである。
その晩の絵の女は、美しくはあった。
ただ、その美しさが、少し嘘のように見えた。
二十、 篠子の出奔
篠子も屋敷を去ることになった。
「しばらく、知人のところへ参ります」
彼女はそう言った。
「戻るのか」
篠子は答えなかった。
荷物は少なかった。この家に長くいたはずなのに、彼女の持ち物は驚くほど少なかった。私はその時になって、篠子がこの家に自分の場所を作らずにいたことを知った。
出る前に、篠子は座敷へ入った。
絵の前に立った。
夕方で、障子の光は弱かった。絵の女の顔は半分、影に沈んでいた。
「この絵は美しいです」
篠子は言った。
私は黙っていた。
「けれど、ここには誰もおりません」
その声は、怒りではなかった。悲しみでもなかった。長く見続けた者の、疲れた声であった。
「雪乃さんも、姉も、私も。誰もおりません」
「では、何がある」
篠子は私を見た。
「あなたです」
私は何も言えなかった。
「この絵にいるのは、女ではありません。あなたの夢です」
篠子は静かに頭を下げた。
玄関の戸が閉まる音がした。
それから屋敷は急に広くなった。
広いというより、空になった。
私は座敷に戻った。
絵の女は、いつものように黙っていた。
私はその沈黙を少し恨み、少し愛した。
二十一、 ひとり、絵の前に老いる
それから私は、絵と暮らした。
朝、障子を開ける。
絵の前に花を置く。
昼には茶を飲む。
夕方には灯りを落とし、しばらく絵を見る。
ある日、私は千鶴の櫛を絵の前に置いた。
置いてから、自分が何をしているのか分からなくなった。
絵の女は千鶴ではない。
雪乃でもない。
篠子でもない。
それなのに私は、女たちの痕跡をそこへ集めようとしていた。
私は女を愛したのだろうか。
千鶴を。
雪乃を。
篠子を。
あるいは、女が黙っている時にだけ現れる、あの暗い光のようなものを愛しただけなのか。
そこまで考えて、私は考えるのをやめた。
分かったところで、何が変わるわけでもない。
生きた女は、私を見る。
私に問いを向ける。
私の嘘を知る。
私の老いを知る。
私が綺麗な言葉で隠しているものを、時に無造作につかむ。
絵の女は、それをしない。
私は、そのことに慰められた。
その慰めが罪であることを、知らなかったわけではない。
だが人は、罪であると知っているものから、必ず離れられるわけではない。
雪乃の手紙は、引き出しの奥にしまったままだった。
時々、私はそれを取り出した。
読み返すたび、何ということもない手紙だと思った。字も拙く、文章も平凡で、女の深い心などどこにもない。
それなのに、読み終えると絵を見ることが少し難しくなった。
だから私は、次第に手紙を読まなくなった。
読まないことで、絵の女はまた静かになった。
雪乃が去り、篠子が去った後、私は急に老いた。
人は一人になると老いるのではない。
自分を見る者がいなくなると老いるのである。
雪乃は私を見た。
篠子も私を見た。
村瀬でさえ、私を見た。
私はそれを嫌がっていた。
しかし誰も見なくなると、私の老いは急に形を失った。鏡に映る自分の顔だけが、私を見るものになった。
私は鏡を避けた。
代わりに、絵を見た。
絵の女は、私を見ない。
だから、私は安心して老いることができた。
ある日、茶を飲んでいる時、手が少し震えた。湯呑みの中の茶が揺れた。私はその揺れを見て、雪乃の手紙を思い出した。
お体に気をつけてください。
何でもない言葉である。
だが、絵の女はそんなことを言わない。
私の体など気にしない。
私が老いても、黙っているだけである。
私は一瞬、雪乃の手紙を取り出そうと思った。
しかし、やめた。
手紙を読むと、絵が遠くなる。
私は絵の近くにいたかった。
雨の日、座敷はよく湿った。
襖の陰が濃くなり、庭の池には黒い輪が幾つも広がった。私はその中で、絵の前に座っていた。
女は黙っていた。
私は、その沈黙のそばで老いていった。
終章 沈黙の女
久世恒一が亡くなったのは、それから三年後であった。
屋敷は親族の手で処分されることになり、残された絵の扱いについて、柳原春堂が呼ばれた。
春堂は久しぶりに久世邸へ入った。
家は暗かった。人が住まなくなった家は、ただ古びるのではない。何かを待つのをやめたように見える。
座敷には、例の絵が掛けられていた。
春堂はしばらく立って見た。
絵の女は、美しかった。
しかし、その美しさは、春堂にとって、以前とは少し違って見えた。自分が描いた時には、それは線と陰と余白の仕事であった。だが今、その沈黙の中には、久世恒一という男の長い晩年が、薄く染み込んでいるように見えた。
よく見ると、その女は誰でもなかった。
雪乃でも、千鶴でも、篠子でもない。
描いた春堂でさえ、そこに何を入れ、何を捨てたのか、もうはっきりとは言えなかった。
整理の途中、文机の引き出しから、久世の遺稿が見つかった。
原稿用紙数枚。筆跡は少し震えていた。
その下に、古い封書も一通入っていた。
差出人は、水城雪乃。
春堂は先に、久世の遺稿を読んだ。
女が美しかったのではない。
私が、女を美しく見なければ、生きていられなかったのである。
続きには、こうあった。
私はついに、女というものを愛したことがなかったのかもしれぬ。
ただ、女が黙っている時にだけ現れる、あの薄暗い光を、愛していたのであろう。
それが罪であるなら、私はその罪を、今もなお手放す気にはなれない。
春堂は原稿を閉じた。
それから、雪乃の手紙を読んだ。
短い、何でもない手紙であった。
先生
お元気ですか。
この前はいろいろありがとうございました。
私は今、神戸の方にいます。
何とかやっています。
あの絵は、まだお家にありますか。
寒くなってきたので、お体に気をつけてください。
雪乃
春堂はその手紙を、しばらく指の間に持っていた。
一度、絵の前に置きかけた。
しかし、すぐに思い直したように、もとの封筒へ戻した。
その手紙は、絵の前に置くには生々しすぎた。
しかし捨てるには、あまりにも生きていた。
庭の池には枯葉が浮いていた。障子の紙はところどころ黄ばみ、畳には湿った匂いが残っていた。
絵の女は、ただ黙っていた。
責めもせず、許しもせず。
その沈黙は、久世が愛したものであった。
そしておそらく、久世を最後まで逃がさなかったものでもあった。
ただ、引き出しの奥に戻された一通の手紙だけが、絵の女とは別の場所で、まだほんの少し、息をしていた。
《最後まで読んで下さり有難うございます。》