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TRPGシナリオ製作術 【TRPG的なナラティブとイマーシブ】

    前置きは無しです。

    ナラティブとイマーシブは感動の違い

    ※本記事もAIとのやり取りが非常に参考になっています。

    TRPG的な目線から、この言葉の意味とは

    『前置きは無しです』というスタートから始まったこの記事ですが、読者の皆さんはこのスタートをどう思いましたか?
    「なんか怖い」とか「真剣なのかも」とか「記事としてそれでええんか?」とか、人によって感じた感覚や感情はそれぞれだと思います。
    つまり、その感情が『イマーシブ的な感動』です。『今まさにどう思ったか』という所に注目するのが、TRPGという目線から見た『イマーシブ』という言葉です。確かに没入という言葉に訳す事も出来ますが、没入感周りのテクニックによって『PLやPCはその瞬間何を思ったか』を重視する事がイマーシブ関係の脚本テクニックという事になります。

    という話を読んだところで、読者の皆さんはどう思いましたか?
    「なるほど、よく分からん」とか「確かにその通り」とかがイマーシブなら、「つまり、『前置きは無しです』という書き出しに意味があったのね」と読むことや分析することが『ナラティブ的な感動』です。

    ナラティブという言葉もまたTRPG界隈において『プレイヤーの選択によって変化する物語である』という文脈で語られていますので、イマーシブの没入という言葉とあまり意味合いは変わらないと思います。
    しかし、今回はこのナラティブとイマーシブについて、改めて深掘りして考えてみようという記事です。

    ナラティブは始点、経過、終点という線型

    ナラティブを本来の意味とTRPG界隈の意味とで再解釈すると、何らかの体験を『始点、経過、終点』と整理する事で生まれる感動と解釈できます。
    「あの時、HO1がNPCに裏切られた時のRPは最高に良かった」とか、「PC達が物語終盤で使命を捨てる展開が良かった」とか、「あの時の描写が伏線として出てきたのが良かった」という感覚です。

    体験を一区切りの出来事として整理する事で、より感動が大きくなるのが特徴です。つまり、文脈が重要で、話の流れによって感動を覚える事がTRPGにおけるナラティブであり、『体験者本人の視点における物語』というナラティブの本来の意味も一緒に整理されていると思います。

    イマーシブは空間や時間に関係

    それに対して、イマーシブは何かを経験したその瞬間の感動です。その空間やその瞬間の感情こそが重視される事です。
    「明らかに怪しい洞窟に入る」とか「NPCのセリフの違和感」とか「これ伏線かも」という瞬間だったり、「おバカな話をしているPCたち」や「シリアスな空気感そのもの」という空間から感じられる感情だったりもします。

    こういった体験が積み重なった結果を『始点、経過、終点』としてナラティブに整理、分析してナラティブ感動に変換されるわけですので、ナラティブはイマーシブな感動の積み重ねを言語化しているということです。

    ピーク・エンドの法則

    とある出来事をナラティブ的な視点で『始点、経過、終点』と感動の場面を切り取る場合にも、色々な長さで切り取る事が出来ます。
    例えば『シナリオ開始からエンディングまで』とか『ストーリー中盤から終盤にかけて』という長さの違いでTRPG体験を切り取る事が出来ます。
    そして、ここでピーク・エンドの法則の考え方が関わってきます。

    別の記事で詳しめに取り上げましたが、ピーク・エンドの法則とは簡単に言うと、『人が体験した感動のピーク時の感情が、エンド時に一番強く思い起こされる』という法則です。
    『シナリオ開始からエンディングまで』の間に、『悲しい』とか『疲れた』という様々な感情がある中で、『楽しい』という感情が感動のピーク時にあった場合、エンディングに『楽しかったな』と強く思い起こされる法則という感じです。

    これはネガティブ感情がピーク時の感情だった場合も同じです。『シナリオ中盤から終盤まで』の間、『間延びしてるな』という感情が感動ピーク時の感情だった場合、シナリオ終盤辺りで『中盤は間延びしていたな』と思い起こされるわけです。

    では、『シナリオ開始からエンディングまで』の感動ピーク時には『楽しい』という感情、『シナリオ中盤から終盤まで』の感動ピーク時には『間延びしてるな』という感情を覚えたとしましょう。
    シナリオ体験として全体で見た時には『楽しい』が『間延びしてるな』という感情を超えてピークだった場合、中盤間延びしててもエンド時には『中盤ちょっとグダったけど楽しかったね』で終われるという事にもなります。

    これはナラティブ的な感動というものを理解する上で重要な示唆となるでしょう。
    勿論、シナリオ全体の体験の中で、ポジディブ感情以上にネガティブ感情をピークに感じてしまった場面があったとしたら、それはエンド時にネガティブ感情を思い出してしまうという事でもあります。
    先程の例で言えば、楽しいという感情よりも中盤に間延びした感情がピークだった場合、『楽しいトコもあったけど中盤間延びしてたなぁ』と間延びしていた感情の方が強く思い起こされるわけです。

    もし細かく『視点、経過、終点』と切り取ると面白いと感じられた時間があったとしても、体験全体もまた1つのナラティブ的な感動体験ですし、体験の最初から最後までという時間の切り取り方はかなりよくある一般的な考え方であり、細かい区切りよりも支配的な場合が多く、つまりピーク・エンドの法則はかなり重要だということです。

    イマーシブな感動は直感的な感情

    ナラティブ的な感動に対して、イマーシブな体験の感動は言葉にするのが難しい感情を想起する可能性があるのも特徴です。
    「何となく」とか「モヤモヤする」などという感情はそれもまた感動なのですが、言語化すると逆に本質から外れそうな感情の想起の事です。

    言い方を変えると、ナラティブ的な感動は言語化する事でよりハッキリと感動を想起できるし、言語化出来るため他人との共有もしやすい感動です。これはかなり理性的な感動と見る事が出来ます。
    しかし、イマーシブ的な感動は人間の本能の部分や感情的な部分、直感のようなものから瞬間的に想起される感情のため、後でその感情を言語化しようとすると、イマーシブ的な感動がナラティブ的な感動に文章として変換される特徴もあります。
    例えば『序盤の伏線が回収されるのが凄いオシャレで素敵だった』というナラティブ体験があったとして、"序盤の伏線"に「んっ?」と違和感を覚えた瞬間はイマーシブ的な感動です。しかし、その段階では『始点』でしかないため、まだナラティブ的な感動とは言えません。
    伏線テクニックは別の記事でも言及しましたが、『伏線は伏線の描写を覚えている、またはすぐに思い出せる状態だからこそ効果があるテクニック』です。これはつまり、"伏線という始点"があって、"覚えている、または印象が強くてすぐに思い出せる経過"があり、"終点で伏線回収される"ことで感動を生むナラティブ的なテクニックでありつつ、始点ではイマーシブ的な感動である『描写の違和感や印象付け』が伏線テクニックの重要なポイントで、そして終点の『伏線回収された!』というイマーシブな感動を生み出すための脚本テクニックが『伏線』というわけです。
    これを見るに、やはりイマーシブな感動の積み重ねがナラティブな感動を作り上げている事が分かるでしょう。

    ゲームデザインテクニックの『選択肢』はどうでしょう。こちらもまたナラティブに考えると始点にも経過にも終点にもなり得るのが選択肢ですが、イマーシブに考えると『選択肢』が出てきた時のPLのワクワクや動揺は瞬間的でイマーシブな感動です。
    その後に選択肢の前後に文脈があることを体験したPLは、その体験をナラティブに変換して『ストーリーのこの選択肢が良かった』という感情を覚えることになり、ナラティブ的な感動をします。
    これは言い換えると、『選択肢がある事に感動して欲しい』などというタイプの選択肢はイマーシブ的な感情を狙っていて、『選択肢を選んだ結果に感動して欲しい』などというタイプの選択肢はナラティブ的な感情を狙っているというように考えることができます。
    勿論、両方を兼ね備えた選択肢が普通で、極端にどちらかに偏った選択肢は珍しいです。それでもこの比率をシナリオ制作者側が操作する余地があるということになりますので、『選択肢をナラティブ感動に寄せるかイマーシブ感動に寄せるか』という脚本テクニックが存在すると言えるでしょう。

    因みに、ナラティブとイマーシブの比率が偏っている選択肢の例として、『ドキドキ文芸部』や『さよならを教えて』などといったホラージャンルのゲームに登場する『どれも全く同じ選択肢』や『強制的に選ばされる選択肢』といった選択肢がイマーシブに大きく偏った選択肢と言えるでしょう。
    ホラージャンルや鬱ゲーと呼ばれるジャンルのゲームにおいて度々登場するこの手の選択肢は、画面にドーンと登場したタイミングで「怖っ!」というイマーシブ感情を想起させますし、『選んでも結果は変えられない』という、ナラティブ文脈でも「怖っ!」とダメ押しで怖がらせる選択肢と言えます。
    この『選ぶ意味が無い!』という選択肢の圧迫感は、かなりの恐怖体験です。
    しかし、"選択肢"というゲームデザイン本来のコンセプトは『プレイヤーに物語の分岐を楽しませる』というのが本来のコンセプトです。これをあえて放棄するという点では、ナラティブ的ではないと言えるでしょう。この手の選択肢は確かにホラーで怖いのですが、選択肢のコンセプトを真っ向から放棄している選択肢を出した時、プレイヤーに『選びたい選択肢が無い!』と思われてしまっては、それはホラー要素を重視し過ぎて『選択肢本来の良さ』を潰してプレイヤーをガッカリさせてしまったという状況になり得ると思います。

    勿論、ホラージャンルだけでなく、イマーシブに寄った選択肢は他のジャンルにも大量に存在します。
    例えば、アクションゲームの『メタルギアシリーズ』を思い浮かべて下さい。廊下の曲がり角に敵兵が居るのが分かったとして、主人公のスネークにはかなり多くの手段が用意されています。『壁をコンコン殴って音でおびき寄せる』、『飛び出して麻酔銃を撃つ』、『別の道を選択する』などなど、これらは正にイマーシブ的な選択肢と言えるでしょう。というのも、これらの選択肢は『スネークとして』や『プレイヤーとして』、その場の空間に合わせて行動しようとすること自体が"没入"だからです。
    そして、これらのイマーシブな選択の積み重ねによって「このマップを格好良く攻略出来たな!」とか「滅茶苦茶失敗してドジなスネークになっちゃった」いうナラティブ的な感動に変換されることにもなりますが、選択肢が直接ナラティブ的な感動を発生させていない例と言えるでしょう。

    逆にナラティブに偏っている選択肢は、テーマに関わる選択肢や、エンディングに直結するような選択肢がかなりナラティブ的です。
    例として『友人を助けられるが怪異を野放しにする、怪異を封印できるが友人が死んでしまう』という選択肢が登場した場合、この選択肢が出た時点でプレイヤーとしては『今までの冒険の過程』を考える事になり、これは選択肢が登場したイマーシブ的な衝撃よりも、ナラティブ的な文脈が大きく感情を揺さぶって、その感情が選択を左右することになるでしょう。PCだったらどうするのか、友人との関係性や怪異に対しての考え方などなど、この"物語の流れ"を意識して選択肢を選ぶことになるのは、ナラティブ的な選択肢であると言えます。
    因みに、これを選択することが"没入"だとしてイマーシブな選択肢であると捉えることも出来るでしょうが、その場合は『今までの冒険の過程』を整理・分析するという過程を踏むことが出来ないぐらい選択肢に衝撃を受けている場合があり、それは確かにイマーシブ感情であると言えます。
    しかし、いきなりこの選択肢が出てきてビックリしたわけでなく、シナリオの情報などから推測している段階で『これは最終的に友人と怪異を天秤にかけることになりそう』などとプレイヤーが推理出来ていた場合だったりすれば、選択肢が出ることの衝撃というイマーシブ感情よりもナラティブ感情の方がピークになりやすいと思われますし、仮にビックリするタイミングで選択肢が出てきて、その瞬間はイマーシブ感情の方が強かったとしても、選択肢に悩む段階でナラティブ的な物語の整理が始まり、ナラティブ感情の方が徐々に優位になるはずです。
    これは極端な状況ですが、例えテーマに関わる選択肢や、エンディングに直結するような選択肢だったとしても、突然選択肢として出てきて、驚きのまま直感の即決で選択肢を選んだプレイヤーが居た場合、そのプレイヤーはその選択肢をイマーシブに受け取ったことになり、『ナラティブに偏らせた選択肢』というシナリオ制作者の意図とは真逆に受け取って選択肢を選んでしまう可能性もあるでしょう。

    例に挙げた2種類の選択肢のどちらも、ナラティブだイマーシブだとわざわざ区別する前から存在する選択肢ですが、ナラティブとイマーシブという視点から考えると、どちらかに偏らせた選択肢にもメリットデメリットがあって、シナリオ制作者として選択であると言えるでしょう。

    環境インタラクションとイマーシブな選択

    いくつか前の記事に『環境インタラクション』について趣味に赴くままに書きなぐったことがありますが、上記の例のように『イマーシブな選択』と『環境インタラクション』は大きく関係しています。
    環境インタラクションを改めて説明すると、『世界に相互干渉するようなPCの行動』のことを言います。例えば、『PCは部屋に入った。その部屋には窓と本棚とテーブルがあるだろう』というGMの描写があったとして、少なくともPCは扉を"開けた"という『扉への干渉』を行なったことになりますし、扉はPCによって"開かれた"と言えます。さらに言えば、その部屋のテーブルの上に登ろうとする場合、PCはテーブルに干渉したと言えるわけですし、テーブルに乗ったからこそ『本棚の異変に気付いた』という展開があったのだとしたら、それはテーブルと本棚がPCに干渉したと言える……というのが環境インタラクションです。
    TRPGにおいては、ありとあらゆる環境にありとあらゆる選択肢が存在することになり、近くの草地にPCが隠れようと、3階のバルコニーから2階のバルコニーにPCが飛び降りようと、PCが暖炉の火で書類を燃やそうと、"そこにそういう環境があって、PCの行動をGMが認めることが出来る"のであれば、それは環境にインタラクション出来ると言えます。

    これはイマーシブな選択肢の例として出した『メタルギアシリーズにおけるアクションの選択肢』とほぼ同じであり、つまり環境インタラクションはイマーシブな選択肢の提示と言い換えることが出来るということです。
    ということは、『環境インタラクション』という考え方に『イマーシブ的な感情の想起』という効果があるということであり、環境にインタラクション出来ることそのものがPLに『楽しい』を想起させるメカニズムがある、と言えると思います。
    部屋に入ったPCが、テーブルを土台にして本棚の上を調べようと、テーブルを扉に押し付けてバリケードにしようと、テーブルを窓に投げつけようと、その行動そのものに『イマーシブ的な感情』が発生していて、『楽しい』や『面白い』を感じられる可能性があるということであり、後々にPLたちが振り返って「あの時のテーブルの使い方良かったよね」とナラティブ的に楽しめる可能性があるということでもあります。
    あらためて言葉にすると「そりゃそうだ」という感じですが、環境インタラクションの重要性の再確認として、イマーシブな選択肢というゲームデザインが参考になるという話でした。

    ネガティブ感情だから楽しいと思う状況

    例えば、悲劇的なストーリーを楽しめる人はどういう心理状態なのかを、今回のナラティブとイマーシブという視点から考えてみましょう。

    悲劇は当たり前ですが、主人公が悲しい経験や辛い経験をします。最後も完全にバッドエンドになるかメリーバッドエンドになるか一転してハッピーエンドになるかは物語次第ですが、エンディングをナラティブ的な終点とするとして、少なくとも物語全体を見て始点と終点の間の経過の時間は主人公が悲しい目や苦しい目に遭うのが悲劇というものだと思います。
    この時の『主人公が悲しい目や苦しい目に遭っている』状況こそ、読者や視聴者が"没入"して主人公に共感して『悲しい!』とか『辛そう!』とかいうイマーシブな感動が生まれる瞬間です。
    因みに、『可哀想は可愛い!』は一周回ってポジディブ感情だし、物語を俯瞰で見ているナラティブ的な感動です。

    ピーク・エンドの法則から考えるに、この経過の時間のネガティブな『悲しい!』とか『辛そう!』というイマーシブな感情がその体験の最もピークな感情だった場合、物語全体を通して『悲しい・辛いストーリーだったなぁ』と思ってしまうことになりますが、悲劇を楽しめている人たちは逆説的にそれを『楽しい』と思っているという事になります。これは、ナラティブ的に文脈としてまとめて『面白いストーリーだったなぁ』とストーリーを整理、分析した結果『楽しい』と思えているという事ではないかと思います。

    つまり、ナラティブ的に物語をまとめて『面白い』と感じられることと、ピーク・エンドの法則として『悲しい』という感情をピーク時に覚える事は、割と別の現象であり、『面白い』と『悲しい』という感情は共存できるし、割り切れるという事でもあります。
    しかし、よりイマーシブな感情として"ナラティブ的に物語をまとめ終わった後の時間も『体験』に含めている場合"は、『悲しい』という感情のピークがエンド時に想起された人は悲劇をナラティブ的に整理・分析し終わった後にも『悲しい』と感じる事になるでしょう。

    これは、悲劇を楽しめる人とそうでない人を分かつ重要なポイントでしょう。
    悲劇を楽しめる人は、悲劇の開幕からエンディングまでを1つのナラティブ時系列として区切り、そしてその後にナラティブ的に物語の構造などを整理、分析して『楽しかった、面白いストーリーだった』と感じられる人という事です。
    逆に悲劇を楽しめない人は、悲劇の開幕からエンディングまでを1つのナラティブ時系列として区切る所までは同じなんですが、更にその上の上位時系列として『悲劇の開幕からエンディング、そして物語をナラティブ的にまとめ終わるまで』を"大きな体験"の時系列として意識的にか無意識的にか考えてしまうことで、悲劇の途中の感情ピーク時の『悲しい!』や『辛そう!』というネガティブ感情が、ナラティブ的に悲劇をまとめて『面白いストーリーだった』というポジディブ感情を上回ってしまっている可能性があるということです。
    これはエンド時に『ナラティブ的にまとめ終わった結果、面白いストーリーだと思った』というタイミングで『ストーリーは面白いと言えるんだけど、それにしても見てて辛すぎる、悲しすぎる!』という感想をピーク・エンドの法則通りに抱いてしまう結果になるという事です。

    勿論、全ての人がこれに当てはまるというわけでもないのでしょうが、『ナラティブ的に自分が体験したことをまとめる』というのは多くの人が無意識に日常で行っている事であり、これはTRPGシナリオを制作する上で非常に参考になる視点かと思われます。

    ぽこポケの感動体験を紐解く(ネタバレあり)

    では例として、最近のゲーマーの睡眠時間を完全に破壊したゲーム『ぽこ あ ポケモン』のストーリーについて考えてみましょう。最近のゲームのネタバレ話なので、飛ばしたい人は次の章に移って下さい。

    ぽこポケの主人公はメタモンですが、プレイする上での大きなメイン体験は『ポケモンや、人間たちのために環境を改善していく』という部分であり、ぽこポケの舞台設定などはマップの各地に散らばったテキストから読み解く事になります。
    メタモンが人間の言葉を理解できているかどうかは不明ですが、少なくともプレイヤーはそのテキストを読むことで舞台設定を理解出来るのが面白いポイントです。

    この舞台設定をまとめるとネタバレですが、過去に災害があって人類は宇宙に避難、ポケモンたちは保存するという選択を取りました。
    しかし、主人公であるメタモンが目覚め、同じくポケモンたちもドンドン目覚めていき、人類が居ないことを不思議に思いながらも生活を始めます。
    宇宙に避難した人類はというと、エネルギーの問題で地球に帰れない状態が続いておりますが、そんな事を知らないメタモンとモジャンボハカセは、いつか人間が戻って来ると信じて環境を整え始めます。
    モジャンボハカセがとても健気に人間の帰りを待っている描写はとても心にグッとくる描写であり、プレイヤーは涙しながら、メタモンはニコニコしながら開発を進めていくことになるわけです。

    面白いのは、各地に散らばって落ちているテキストをプレイヤーが見付けて拾って読むという流れでストーリーが徐々に明かされていくわけですが、多くのプレイヤーは順番もバラバラに入手した情報を読み取って考察していくことになります。そして、ある程度テキストが集まったところで舞台設定を理解し始め、モジャンボハカセの望みがかなり絶望的であることを知ります。
    これはまさしく『ナラティブ的な物語の整理』による楽しみで、テキストを読んで『モジャンボハカセの望みが絶たれている事を知った衝撃』というナラティブ的感動が、ゲームデザインとして自然に表現されていると言えます。
    特にぽこポケの場合、ゲームのメイン体験は『可愛らしいポケモンたちとの交流』と『ブロック遊び』というハッピーな雰囲気の体験をしている中で、徐々に明かされるポストアポカリプス的な舞台設定というギャップは、多くのプレイヤーが驚く事になったでしょう。そして、モジャンボハカセの気持ちに寄り添って悲しくなるわけです。

    ここでピーク・エンドの法則的な視点で見てみます。
    もしテキストをある程度読んで舞台設定の考察が進んでいるプレイヤーが、エンディングのR団のロケットの描写を観た時、人類にメタモンの写真が届いた事で希望のある終わり方をするわけです。これは『始点、経過、終点』の経過の時の『モジャンボハカセの望みが絶望的である』というナラティブ感情や、ポケモンたちから聞く『トレーナーとの思い出話に感じる哀愁』というイマーシブ感情などなどに対してのアンサーとして、『最後、地球で生活するポケモンたちの写真が宇宙の人類に届いた』という感動の描写があることで、ストーリーから感じられる『切なさ』や『哀愁』以上の『希望のあるエンディングで良かったね』という『ナラティブ的な"終点"で"ポジディブ展開でブン殴る"』という構成になっている点が、脚本として非常に格好良いです。

    これは単に『悲劇だけど希望のあるエンディング』という好みの問題というわけではなく、ぽこポケ本来のコンセプトである『ポケモンとの交流』や『環境を整える』というコンセプトの楽しさによって、舞台設定の切なさや哀愁をギャップで際立たせつつ、エンディング時に脚本構成でブン殴れるというストーリーでありながら、ゲーム内でテキストをあまり読まなかったプレイヤーには、シンプルにコンセプトの楽しさだけを提供できるゲームデザインでもあることも素晴らしいポイントです。

    これは決して『バッドエンド』が相対的に劣っているという話ではありません。では、その点に関係する話題に移りましょう。

    ナラティブホラーとイマーシブホラー

    意味が分かると怖い話

    昔からネット上でコピペされている怪談の一種として、『意味が分かると怖い話』というものがあります。
    これは、よくよく考えてみると怖い描写があるというタイプの怪談話でありますが、これはナラティブ的なホラーの典型例と言えるでしょう。
    そもそも、和風ホラーと呼ばれるホラージャンルでは、ナラティブ的な情報の整理があるからこそ『怖い!』に気付けるという怪談話やホラー映画が多いのが特徴です。それに対して、海外のホラーはいわゆる『ジャンプスケア』と呼ばれるビックリさせる手法が日本のものより多い印象がありますし、ジャンプスケアは勿論イマーシブ的なテクニックです。

    かの有名なジャパニーズホラー『リング』や『呪怨』にもジャンプスケアはありますし、海外のホラーもナラティブ的なホラー描写は存在しますが、このナラティブホラーの『理解すると怖い』という構成はジワジワとした恐怖体験を発生させることになるでしょう。それはそれとして、気付いた時の『ハッ!』とした驚きはイマーシブ的ですが、これは前述した『伏線テクニック』と同じであり、怖い部分に気付いたイマーシブ体験を終点とした『物語全体を始点、経過、終点とするナラティブ的な体験の整理』こそが『意味が分かると怖い話』などのナラティブホラーの真骨頂であると言えるでしょう。

    ホラーが苦手な人の『怖いシーンの前から怖い』はナラティブとイマーシブの合わせ技

    ホラーが苦手な人はよく『想像力が豊かで"実際に怖いシーンになる前から"怖いシーンを想像してしまう』と言われています。
    例えば、ホラーゲームの曲がり角一つとっても『きっとこの角を曲がったら幽霊がいるんだ!』とか『曲がり角の先に居ないと思って油断して後ろを振り向いたら幽霊がいるんだ!』というように、まだ実際に幽霊が画面にドーンと出てくる前から『怖い!』というシーンを想像してしまって『怖い!』という感情にまみれてしまうという感じです。
    廊下にある電話が鳴ろうものなら『電話に出ても無言なんだけど電話を切ったら後ろから幽霊が出てくるんだ!』と思ってしまうし、重要そうなアイテムが目の前に落ちているのを見掛けようものなら『はい、このアイテム拾った瞬間に幽霊出てきます!』と思ってしまうし、主人公が狭い通路に入っていこうものなら『逃げられない場面で幽霊に襲われるんだ!』と思ってしまうわけです。
    これは、要するに『まだ"幽霊が出るという終点"に辿り着いていないのに、ナラティブ的に"幽霊が出るという終点"を想像してしまって怖い』と言い換えることが出来ますし、そのホラーを体験している映像や音、そして"自分の想像そのもの"に常に恐怖しているイマーシブ恐慌状態とも言えます。

    『怖いシーンを想像してしまう』というのは、ホラーが苦手な人だからというわけではなく、ホラーが怖くない人も同じ想像をすると思います。しかし、ホラーが怖くない人は恐怖以外の何かの感情が上位に感じられている状態であると言えるでしょう。例えば、幽霊が出てきて怖いシーンを"楽しみ"にしている人にとっては、"恐怖"よりも"楽しみ"が上位に来ている、または恐怖のドキドキというスリルこそが楽しみになっている状態です。

    そして、ホラー映画やホラーゲームは『ホラーが約束されている』という状況でもありますが、もし『肝試しをしている』という状況であれば更にホラーが苦手な人と怖くない人の反応の差が如実に変化します。
    どこかの幽霊スポットで肝試しをしているという状況は、ある意味『ホラーが約束されていない』と言えますし、幽霊を信じていない人からすれば『ただ廃墟を歩くだけ』という状況であると言えます。なんなら廃墟は人と遭遇する方が怖いと思うでしょう。
    しかし、ホラーが苦手な人はホラー映画やホラーゲームと同じ気持ちで『まだ"幽霊が出るという終点"に辿り着いていないのに、ナラティブ的に"幽霊が出るという終点"を想像してしまって怖い』のと、幽霊スポットに来ているという状況と空間にイマーシブ恐慌してしまうわけです。
    ホラーが怖くない人にとっては『雰囲気のある廃墟で散歩するだけ』ということになり、何ならホラー映画やゲームよりも怖くない場合があり、『流石に幽霊スポットなら本物の幽霊に遭えるかもしれない』と想像するのは恐怖というより"スリルによるワクワク"です。これは恐怖とは違った感情ということになります。

    イマーシブホラーの代名詞こそ「名状し難き」

    ナラティブホラーが和風ホラー的ストーリー展開なのであれば、イマーシブホラーの代表は何かという話になります。
    しかし、これはTRPG界隈にとって馴染み深い『クトゥルフ神話』こそがイマーシブホラーの代名詞と言えるでしょう。

    クトゥルフ神話関連の物語はあやふやで意味不明な描写が登場します。そして、これらの物をそのままズバリ「形容し難い」とか「名状し難い」という言葉で表現されることがあります。
    現代ホラーの本質は"理解できない"であるといくつか前の記事でも書きましたが、この"理解できない"という状況は、実はナラティブから遠い状況だと言えます。『ナラティブは物語の整理と分析です』と前述しましたが、理解できない状況は整理も分析も出来ないわけです。そして、この言語化が難しい気持ち悪さはイマーシブ的な感情の想起ととても相性が良いと言えます。

    イマーシブ的な感情の想起は本能や直感に基づく感情の想起です。つまり本能的に命の恐怖を想起させる"宇宙"と"神"、人類の理解が及ばない領域である"宇宙"と"神"というコズミックホラーをテーマにしたクトゥルフ神話は、まさにイマーシブ感情の領域であるということです。

    「とは言っても、クトゥルフ関連の小説はナラティブ体験として楽しめるよ」というのも分かります。これは小説という媒体がナラティブ寄りの媒体だからです。意味不明な描写ばかりでは小説として成り立たない上に、物語の主人公は一般人で、一般人目線からのコズミックホラーを表現するためには『一生懸命理解が及ばないモノを言語化しようと頑張る』描写こそが一般人を表現していると言えるでしょう。

    ここに来てTRPGシステム『Kutulu』のコンセプトの良さ

    というわけで、テキスト媒体は確かにナラティブ寄りになりがちですが、ここで『クトゥルフ神話』を題材にしたTRPGシステムの『Kutulu』のコンセプトの良さを紹介しましょう。

    KutuluのGMはいわゆる『信頼できない語り手』と呼ばれる手法でゲームを進行することがありまして、これはKutuluの発狂システムと関係しています。
    Kutuluの発狂システムはクトゥルフ神話TRPGのSAN値システムとは少し様子が違っていて、Kutuluの場合はPCが発狂しているのかどうか数値としてPLが把握出来ません。
    そんな状況で、GMはさも当然かのように『幻覚か現実か曖昧な描写』だったり『とんでもなく意味不明な描写』だったり『普通の描写』だったりをシームレスに読んでいきます。こういった描写を聞いたPLはPC目線では何が真実で何が幻覚か分からない発狂状態を想像してイマーシブ的な『発狂の恐怖』を味わえるようになっています。
    これはクトゥルフ神話TRPGの『発狂内容を決めて発狂RPをする』という『発狂状態をRPの楽しみにしよう』というコンセプトとは違っていて、『発狂状態を恐怖体験にしよう』というコンセプトであることが分かります。

    これはテキストがナラティブ寄りのなってしまうカウンターとしてかなり効いていると思います。
    GMが急に意味不明な描写を読み始めた瞬間こそ、映像や音のジャンプスケアのような驚きをPLは喰らうことになります。『自分のPCが発狂してる!』と理解することは出来ますが、GMはあくまで『PC目線で世界がどう見えているか』という描写しかしません。PLはそんな前後不覚になったPC目線の描写文を聞きながら、それでもどうにかしようとPCの行動を宣言することになります。PCの取った行動が正しいかどうかも推測するしかない状況です。かと思えば、急にまとも"そう"な描写文をGMが読み始めたとして、そのPC目線の描写は果たして本当に"まともな描写"なのかどうかも疑わしくなってきて……というのがKutuluの醍醐味と言えるでしょう。

    前述した『環境インタラクションこそイマーシブ選択肢』という話と比べて、発狂中の意味不明な状況によるPCの行動選択は『選択肢』と呼べるような状況でない場合がほとんどです。
    これは一見すると『ゲームデザインとしての本来の選択肢』としては矛盾していると思われますが、これこそが先程例に出したホラーゲームに登場する『選択の意味が無い選択肢』というイマーシブ選択肢にもなっているというわけです。
    PCが発狂しているのを理解した上でそれでも何とか行動しないといけない圧迫感と緊迫感、GMがシームレスに読み上げる意味不明な描写とまともな描写の気持ち悪さ、PLはまさに『終点がどうなるか分からないのに、ロクな事にならなさそう』という"ナラティブ的な怖い想像"が働き、これらが組み合わさったことにより、ホラーが苦手な人が陥る『イマーシブ恐慌状態』をゲームシステムとして作り上げるのがコンセプトのKutuluは、ホラーにすごく特化したシステムというわけです。

    "バッドエンドの良さ"とは

    ナラティブ的バッドエンド

    悲劇のエンディングについて考えた時、ハッピーエンドに終わる形は『主人公は最後に希望を掴む』という形になるのが一般的です。
    それに比べて、バッドエンドやメリーバッドエンドというものは『ただ単純に主人公は失敗しました』というだけで終わるわけではなく、『因果関係があったからこそ主人公は失敗しました』というのが一般的なものと言えるでしょう。これはナラティブ的なバッドエンドです。
    メリバの場合は「主人公が選択したことはいくらかマシな選択だったが、余りにも失うものが多かった・大きかった」とか「主人公は納得しているが、周りから見たら異常な選択だ」というのがメリーバッドエンドのよくある展開だと思いますが、こちらもストーリーの因果関係が重要ということになるでしょう。

    そして、テーマへの回答としてのバッドエンドは脚本テクニックとしての選択肢として強力な選択肢です。
    物語のテーマに対して主人公が選択して、それが上手く行くのがハッピーエンドなのだとして、テーマに対して主人公が選択した結果が失敗に終わるのがバッドエンドということになります。そして、扱っているテーマによってはハッピーエンドよりもバッドエンドの方が心に刺さるエンディングになる可能性があります。
    これは、主人公の選択が失敗だったというのを見せることで、テーマに対してかなり否定的な答えを物語として出せるというメリットということです。
    例えば、『選ばなかったからこそ破滅した』、『罪を認めなかったからこそ救われなかった』、『捨てられなかったからこそ失った』という感じで、バッドエンドだからこそ出せる味というものがあるはずです。

    ナラティブ的に言えば『始点、経過、終点』が"必然的な破滅への流れ"に沿っていることが重要です。
    例えば、因果関係が無く突然理不尽に主人公がバッドエンドに向かったり、ただただ悲惨なだけだったり、作者都合で死んでしまうのはナラティブ的バッドエンドとは言えません。

    イマーシブ的バッドエンド

    イマーシブ体験は"没入"ということもあり、物語の世界に"触れる"と錯覚するほど没入出来るかどうかが鍵です。
    この場合、実はバッドエンドの方がより没入感が増す可能性があります。

    例えば、『吹雪の中で立ち止まれば凍死する』、『病を放置すれば感染する』、『足音を立てれば化け物に見つかる』、『水を飲まなければ脱水で死ぬ』、『人を雑に扱えば信用を得られない』、『怪異のルールを破れば帰られない』といった感じで、これらは"世界の法則"であるという点が重要です。
    ナラティブ的バッドエンドに似ていますが、ナラティブ的バッドエンドが主人公の選択なら、イマーシブ的バッドエンドは"舞台設定による必然性"ということになるでしょう。
    『こういった世界がまさに目の前にある』という感覚になってもらうことがイマーシブ的バッドエンドの狙いであり、より強固に世界を感じさせられるのはこういったバッドエンドの方が良い場合があるということです。

    上記のバッドエンドの例はあくまで例で、イマーシブ的バッドエンドは舞台設定として必然であると言う『納得感』が大事です。(納得は全てに優先するぜッ!!)
    『主人公は精一杯頑張ったが、仕方が無かった』という納得が必要で、ナラティブと同じく理不尽な死やシンプルに悲惨な世界を描写するだけでは不十分です。世界の法則が重要なポイントなので、その法則が後出しで『実はこんなルールがありました、残念ー!』と登場するのはもってのほかということになります。
    ただ理不尽なだけではなく、世界の法則に則って行動することが出来なかった者のバッドエンディングという描写こそがより没入感を増すポイントで、イマーシブ的バッドエンドということになります。

    じゃあTRPGとしてバッドエンドはどうなん?

    というわけでバッドエンドの話でしたが、上記のバッドエンド回りの話はあくまで脚本テクニックとしてのバッドエンドのお話です。
    根本的な話としてTRPGにおいてバッドエンドはかなり扱いが難しいエンディングで、バッドエンドやメリバが確定している、またはほぼ確定しているTRPGシナリオは賛否あることでしょう。

    しかし、TRPG的に許されるバッドエンドはナラティブにしろイマーシブにしろ『PLもPCも納得した上で選択した結果、バッドエンドだった』というのが唯一許されそうなバッドエンドだと思います。
    後悔はあっても、納得のいく後悔であるということです。

    逆にナラティブに寄り過ぎてよくないバッドエンドの例は、『物語都合でPCたちがバッドエンドになる』というバッドエンドです。これはナラティブ体験としてシナリオ側がストーリーを制御しようとし過ぎた結果、PLやPCたちの選択の意味が失われているようなストーリーという感じです。
    TRPGにおいて選択肢は『あるのが普通』で、選択した以上はその選択に意味があるのも重要です。前述した『意味のない選択肢』はホラー文脈だからこそ生きてくる『怖い!』というイマーシブ感情を狙った飛び道具のようなもので、基本的に『意味のない選択肢』は選択肢の意味がなく、それを選ばされるPLは圧迫感や無力感しか感じられません。
    確かにストーリーをシナリオ側で制御して"美しいバッドエンド"を演出することは出来ますが、「今日はTRPGを楽しむぞー」と参加したPLが"予め用意された美しいバッドエンド"に感動できるかどうかは全く別の話です。

    ではイマーシブに寄り過ぎてよくないバッドエンドの例ですが、『ただ運悪く"世界"に負けてバッドエンドになる』というバッドエンドです。これは"世界の法則"という舞台設定を強固にし過ぎた結果、難易度が上がってしまったシナリオのバッドエンドにありがちです。
    確かに"世界がそこにある"と思って貰うことは没入感に寄与します。人は水を飲まなければ死ぬし、食事を取らなければ死ぬし、ちょっとした傷でも破傷風になれば死にます。ですが、没入感の為にリアルを追求し過ぎた場合、そうして死んでしまう事に"TRPGシナリオ体験"として意味があるのかどうかという点が抜け落ちてしまいがちです。
    必死に食料を調達し、傷を癒し、NPCに親切にして、敵と戦う時はダイス目を良くして(?)、化け物の弱点は必ず突く(?)、という完璧な行動をしたPCたちだけが生き残れるのは確かにリアルな世界なんですが、その過程のピーク時の感情は『楽しい』とか『面白い』になるのでしょうか。
    ピーク・エンドの法則に則るのであれば、そんな大変な冒険のピーク時の感情は『疲れた』とか『大変だ』という感情になりそうです。つまり、それはシナリオクリア時に『疲れるシナリオだった』とか『大変で忙しいシナリオだった』と思われてしまうことに繋がりそうです。この強力な『疲れた』とか『大変だ』という感情よりもより強く『楽しい』とか『面白い』と思って貰えるシナリオになっているのでしょうか。
    しかもこれは無事にエンディングまで到達したPLたちの話であり、そもそも道半ばで倒れたPCたちとPLたちは、『疲れた』とか『大変だ』という感情以前に「このシナリオなんなん?」という最上級のネガティブ感情かつ『納得の真逆の感情』が発生する可能性があります。そんなネガティブ感情を上回る『楽しい』とか『面白い』をPCたちが倒れる前にPLたちに感じてもらうことが出来るシナリオになっているのでしょうか。

    このように、ナラティブに寄せすぎたりイマーシブに寄せすぎたりしたことで良くないバッドエンドになってしまう可能性は常にあります。"シナリオ制作者的にはかなり完璧に調整したバッドエンド"を用意したところで、その完璧な調整が逆に裏目になってしまう可能性があるということです。

    TRPGの"良いバッドエンド"はGMの手腕に掛かっている

    というわけで、より良いバッドエンドを目指すために重要なのは、実はシナリオ制作者ではなく『その卓のGMとPLたち』の方が重要です。
    今まさにそのシナリオを遊んでいるGMがバッドエンドになる気配を察知した時、目の前で遊んでいるPLたちに少しでも納得感のあるバッドエンドにするため、ナラティブ的バッドエンド、イマーシブ的バッドエンド、もしくはメリーバッドエンドをPLたちの好みに合わせてアドリブで調整してあげることこそが、真にPLたちに求められるバッドエンドと言えるでしょう。

    そして、GMがこのアドリブを成功させるためには、シナリオ制作者側の舞台設定や人物設定がヒントになる場合もあり、バッドエンドの骨子としてシナリオ側でもバッドエンドシーンを用意しておいた方が良いでしょうし、シナリオ制作者としてやれることはあります。
    勿論、ルート分岐としてバッドエンドを書くよりも、『PCたちは失敗したけど実はこんなルートもあるよ』とバッドエンドではないルート分岐を書いておくことも出来ます。

    TRPGにおいては必ずバッドエンドが必要なわけではありませんが、それでもナラティブとイマーシブという目線から見るバッドエンドの話が誰かの参考になればと思います。

    サブプロット(NPC)にバッドエンド

    しかし、NPCという事であればちょっとだけ話が変わります。勿論、巷では『確定ロストするNPC』に賛否ありますが、PCたちの選択によってNPCが死亡してしまう展開はあり得ると思いますし、その場合はNPCに華々しく散ってもらうための描写が必要です。
    この時に上記のバッドエンドの考え方を応用する事で、ただ無惨に死んでいくNPCという描写ではなく、ナラティブやイマーシブな感情の想起を狙いに行ける可能性があるという事でもあります。

    そこにサブ・プロット的なテクニックも応用する事になりますが、もしかしてプロットという脚本テクニックにもナラティブ的とイマーシブ的なものが存在するかも……?

    まとめ

    最後に、前回の記事でChatGPTに自分の記事をブラウジングさせた結果なのか何なのか分かりませんが、かなりNothingJon(筆者)っぽい書き出しを急に考えてくれましたので、これについて所感を述べて終わりたいと思います。

    最近、ナラティブとイマーシブという言葉について考え続けています。

    どちらもゲームやTRPG、物語体験を語る時によく使われる言葉です。ナラティブな体験、イマーシブな体験。なんとなく分かるようでいて、実際にシナリオ制作の言葉として使おうとすると、意外と境界が曖昧になります。

    物語に没入することがイマーシブなのか。
    世界に入り込むこともナラティブなのか。
    プレイヤーが強く感情移入したなら、それはナラティブなのか、イマーシブなのか。

    もちろん、この二つの言葉に厳密な境界線を引く必要はないのかもしれません。ですが、TRPGシナリオ制作術として考えるなら、この二つを分けておくことにはかなり意味があると思っています。

    私の中では、ひとまずこう整理しています。

    ナラティブとは、体験を物語として思い出せる形にする力です。
    イマーシブとは、体験をその場にいた感覚として残す力です。

    もう少し言い換えるなら、ナラティブは「何が起き、それにどんな意味があったのか」に関係します。
    一方でイマーシブは、「自分がどこにいて、何を感じていたのか」に関係します。

    セッション後に「あそこでPCがあの選択をしたから、物語として最高だった」と語りたくなるのはナラティブ寄りの体験です。
    プレイ中に「今、自分はこの暗い廃病院の廊下にいる」と感じるのはイマーシブ寄りの体験です。

    どちらが上という話ではありません。
    ただ、シナリオ作者がどちらを強めたいのかを意識できると、シナリオの作り方はかなり変わってきます。

    ChatGPT『ナラティブとイマーシブについて』

    筆者が筆者のことを一人称の『私』としていたのはかなり初期の記事だけだと思いますが、この文章はかなり筆者っぽいので「AIって進化したなぁ」と思っています。

    それはそれとして、ChatGPTくんはかなり綺麗にまとめてくれています。筆者はおじさんゲーマーとして例題で「こんなゲームの例があって――」と例えを出すことが出来るのが強みですが、AI以上に回りくどく要領を得ない文章になっているのを自覚しています。今後はAIにまとめてもらおう!

    改めて筆者のまとめとして、ナラティブとイマーシブという考え方は今までの脚本テクニックやゲームデザイン・プランテクニックたちをも2種類に再分類できるほどの強力な視点だと思っています。
    例えば『コンクリフト(衝突)』という脚本術をナラティブとイマーシブに分けるなら、例えば『ランダム』というゲームデザインをナラティブとイマーシブに分けるのなら、という感じで、様々なテクニックを改めて考え直す機会になると思います。

    特に脚本でもありゲームでもあるTRPGシナリオはナラティブ寄りのテキスト媒体でありながら、ボイスセッションであればテキストがGMの音声に変わり、PLがGMの描写を聞いたり読んだりして想像するのは脳内映像や脳内漫画のような物だと思います。
    音声や映像、イラスト、漫画はイマーシブ寄りな媒体なため、TRPGをテキセで遊ぶかボイセで遊ぶかでも違いが現れます。こういった特殊なTRPGの環境をフル活用するためにも、ナラティブとイマーシブという考え方を自分なりに整理しておくことが、きっと役に立つでしょう。
    あと、みんなKutulu遊ぼう!

    この記事をAIに読ませて、イマーシブとナラティブについて会話してみる

    番外編として、読者の方々もテキスト生成AIに拒否感が無ければこの記事を読ませた上で色々とナラティブとイマーシブの探求を行ってみて下さい。
    今まで紹介してきた脚本テクニックやゲームデザイン・プランテクニック全てにナラティブとイマーシブという視点で見直す事が出来るでしょう。
    その上で疑問点があれば、そのままAIに尋ねていくだけでもより理解が深まるはずです。

    この記事が誰かのためになれば幸いです。

     
     
    TRPGだいすき~! な、おじさんです。 主にTRPGについての記事を書いていくと思います。

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