
片葉の葦 第五話
第五話
七
午後六時。帰路を急ぐ者共で喧騒が深まる頃。「喫茶ケ・ハレ」には、瑠木川を中心に囲うようにして、鮒沢、白辻、八坂、僕の四名が座していた。八坂は冒頭から苛々している。
「この綺麗な姉ちゃんはいいけどよお、なんでお前らと仕事終わりのクタクタのときに顔合わせにゃならんのだ。しかもこのジジイは誰だ、知らねえジジイが混じってる」
「白辻先生だよ、白辻孝太郎」
鮒沢が嫌そうに応じる。白辻は居心地が悪そうに身をすぼめている。
「んあ?ああ、あの変態作家か」
「八坂お前──────」
「今回の謎は」
瑠木川はまた突然に、しかし自然に話し出す。罵詈雑言のバケツを構えていた八坂と鮒沢は途端に沈黙し、居住まいを正した。
「今回の謎は、八坂さん、鮒沢さん、白辻さん、小林芳雄さん、井野さんが、偶々同時期に同じ場所にいたがために生じたものなのです」
「おい、小林芳雄ってえのは誰でえ」
「お前は黙ってろって」
すると、入口の硝子扉が開いた。入ってきたのは、佐々塚と、その後ろに──────。
僕は、絶句した。
僕だけではない。その場にいる、瑠木川以外の全ての人間の思考が停止した。
錯覚か?人違いか?幻覚か?それとも──────。
白辻が、二人─────。
「は?おいおい、ジジイが瓜二つだぞ、なんだこれ」
「小林芳雄さん。ここから少しの間だけ、隆夫に戻って頂けますか」
瑠木川が優しく問いかける。小林芳雄は、手近の席に座り、コクリと頷いた。まだ皆、状況が理解できていない。
「隆夫って、あの」
「隆夫さん。あなたのお母様は、双子ですね」
「はい。一卵性で、妹がおりました」
「ならばそれがドッペルゲンガーの真相ですよ、井野さん」
「はあ?」
「隆夫さんのお父様、小林良夫さんは、遊び人で家にもほとんど帰って来なかった。もう一人いた女というのが──────隆夫さんのお母様、美代さんの双子の妹だったのです」
小林は俯いた。
全員が段々と落ち着きを取り戻す。瑠木川の謎解きは、もう始まっている。
「美代さんの旧姓は芦尾だ。そして、隆夫さんと美代さんの妹の間に生まれた子が、芦尾周だった。あなたのことです、白辻さん」
白辻孝太郎が芦尾周──────。佐々塚が威勢よく立ち上がる。
「おめえが芦尾かぁっ!てこずらせやがって」
「八坂さん、それはもうちょっと待ってください。まあ、こういう訳ですよ、井野さん。隆夫さんと白辻さんはそれで同じ見た目なんです。隆夫さんの蕎麦屋の前を横切ったのは、カンヅメでその町を訪れていた、白辻さんだった。ドッペルゲンガーではない」
あの千葉の老人が目撃したのは、間接的な双子だったのだ。小林隆夫がその存在を知らないのも不自然ではない。瑠木川は髪を耳にかけた。
「では、小林隆夫の物語から始めましょう。隆夫さん、あなたは異常なまでに巨人の存在を信じる。小さいころお母様に、悪いことをするとだいだらぼっちが出ると、言い聞かされたそうですね。隆夫さん。戦時中という不安な時期に、しかも片親だ。歪な信頼は、生まれやすい。あなたは、母親からの精神的な支配に囚われていたのではないですか。神々の姿がしばしば巨大な人として描かれるように、巨人というのは、いわば支配される側の感情の具現化です。だから、母親にその存在を説かれてしまうと、納得しやすかったのではないですか。たしかに、巨人はいると。あなたの中の小林芳雄という人格も、その関係で生じたものと推測します。例えば、家に帰って来ない夫の代わりとして、あなたを良夫と呼び続けていたとか。母親の言葉は絶対だ。しかし、あなたは、女癖が悪く家族を顧みない父親のようにはなりたくなかった。そんな中で、『怪人二十面相』の中に、小林芳雄という人間を見つけた。ああ、自分はこの人になればいいのだ──────と」
小林は項垂れた。そして小さく、何もかもその通りです、と言った。
「おい、こいつの心の弱さなんざ今どうでもいいだろう。俺が知りてえのはこっちのジジイについてだ、芦尾について─────」
「しかしそんな感情も、母親の死と時の流れにより次第に薄れていった。巨人の存在も、小林芳雄という人格も、あなたは忘れかけていた」
瑠木川は八坂を無視して語り続ける。八坂は、フンと鼻を鳴らして腕を組んだ。
「そんなときに、町の近くで土砂崩れがあった。あなたは、とてつもない、違和感のような、圧迫感のような、そんなものを抱いたのではないですか」
「はい、私は──────」
「その土砂崩れを巨人の足跡だと、心の何処かで思ったのですね」
僕はあの日の夜道、宿の裏山が潰れていたのを思い起こした。巨人の、足跡。鮒沢も、白辻がそんな表現をしていたと、言っていた。
「そんな精神状態のときに、八坂さんがあなたの家を訪れた。八坂さん、あなたのもとに入った芦尾の目撃情報は、つまり隆夫さんの目撃情報だったのですよ」
「なに、ありゃあヤッパリ無駄足だったのけえ」
「そうでもないですよ、その時期に本物の芦尾周も、その町にいたんですからね。八坂さん。言動から察するに、あなたは今日まで芦尾さんの顔および隆夫さんの顔を、見ていない。張込み初日の訪問の時、あなたは隆夫さんに何をしたのです」
「ああ、だから俺の知恵を存分に活用した、孔明ばりの奇策さ。芦尾────小林だったのか、小林の家へ夜中に行ってだな、開いてた風呂の小窓からな、知合いの造形作家に作ってもらったとびきりキレイででっかい足をつっこんだ。『芦尾周ッ!』って言ってからな。俺は正攻法じゃあ、芦尾は自分が芦尾周だって認めねえと思ったんだ。男が芦尾だったなら、習性上その足にゃあ飛びつくだろう。だがなあ、実際は特に反応がなくってガッカリだったんだな」
「これが足洗邸の真相ですよ、隆夫さん、佐々塚さん──────」
「どういうことです」
佐々塚が眼鏡を押し上げる。
「芦尾周なんて名前を知らない隆夫さんは、八坂さんが『あしおあまね』と呼ぶ声を、『あしをあらえ』と聞き間違えたのですよ」
「ああ──────」
「隆夫さん。あなたはこの出来事で、巨人の存在を、完全に、決定的に、思い出した。同時に、再びあなたの母親があなたの心を支配した。あなたにとって、巨人の存在を信じることとは、自分が小林芳雄だと信じることなのです。再度小林芳雄となったあなたは、死ぬ前に母親の期待に応ずるべく、探偵事務所を立ち上げに東京へ行った──────。これが無燈蕎麦の真相ですよ、鮒沢さん、井野さん」
貼紙の「思い出しました。」という文言。千葉の老人への「やるべきことがある」という言葉。全ては、彼にとっての巨人に────。
「ここで芦尾周の物語に移ります。白辻さん。作品からもわかる通り、あなたは脚に対して強い執着心を持っている。片脚切断魔は、矢張りあなたですね。今までも定期的にこのような事件を起こしてきたのではないですか。そして、そこで得た片脚を見て、小説を書いた──────。あなたが寡作なのは、執筆のたびに新しい脚が必要だからなのではないですか」
「おいジジイ!おめえ自分が何をしたか───」
「だから待ってください八坂さん。白辻さん、あなたは浮気者の男しか殺さない。これは隆夫さんと同じく、父親への恨みの発露ですね。鮒沢さん。あなたは、白辻さんの部屋が臭いと、井野さんに訴えたそうですね。その臭いは、死臭でしょう。カンヅメ先の宿にも、白辻さんは脚を持ち込んでいたのです。白辻さん。あなたの作品では、脚に対して好意的な感情だけでなく、恐怖などマイナスの感情も見いだされる。これはあなたが、脚の腐敗していく過程を間近で見るからなのではないですか。あんなに美しかった脚が、醜くなっていく、その様子を。私は──────あなたの作品が好きなのですが──────どうもそう思えてならない。さて、ここで井野さんが登場します」
「僕?」
「ええ、井野さん、あなた何か自分が遊び人であることを示唆するような、そんな発言を白辻さんの前でしませんでしたか」
「え?」
僕は千葉での体験を思い出す。白辻と話したのは、夕食のとき。そのとき、僕は──────。
「たしか、自分に愛人がいるみたいな冗談を」
「十分です。五月に獲得した片脚も腐りきったそのころ。あなたが、次の標的に選ばれたのですよ。夜道を歩くあなたの後を、白辻さんはつけていた────」
あの夜感じた、背後の気配。あれは、まやかしではなく。僕は背筋に寒気が走るのが、よくわかった。
「あなたはやがて雑木林の道に入る。その林は、八坂さんが酒宴を開いていた場所なのです。これが狸囃子の真相です。騒いでいたのは、物の怪などではなく、八坂さんとその後輩だ。そして、八坂さん。送り拍子木の正体は井野さんです。あの夜、井野さんはよく鳴る下駄を履いていた」
八坂はぴしゃりと膝を打つ。どうもこの筋肉には、浅草の気がある。
「さて、井野さんを尾行していた白辻さんは、騒ぎ声が気になり林へ分け入る。そこには、送り拍子木に急かされて荷物を纏め始めている二人の男。その傍らに──────綺麗な脚が落ちていた。それで白辻さんは、『置いてけ』と言った。これが置いてけ堀の真相です、八坂さん」
二つの物語が、交錯した。
そしてすべての不思議が、不思議でなくなった。
残りの本所七不思議。送り提灯と、片葉の葦。
送り提灯。
夜道を歩く者の前に、提灯の灯りが、まるで人を送っていくように現れるという話。
僕はすると、白辻にとっての送り提灯だったことになる。
「片葉の葦は──────」
親の片方。小林良夫と小林美代。
人格の片方。小林隆夫と小林芳雄。
ドッペルゲンガーの片方。芦尾周と小林隆夫。
────脚の片方。
片葉の葦とは、こういう話だ。
ある夜。
ある男が、本所のお駒という娘を襲い、片手片足を切り落とし殺した挙句に堀に投げ込んだ。それ以来、その堀の周囲に生い茂る葦は、何故か片方の葉しかつけなくなったという。
「片方」が、「片方」を生む。
そういう、話なのだ。
僕は最後の不思議を瑠木川に問う。
「どうしてこうも、本所七不思議と符合するのでしょうか。何かの力が、働いているのでしょうか」
瑠木川は溜息をつく。
「あなたがそういう切り取り方をしただけですよ。本所七不思議に似たもの以外にも、白辻の部屋の臭いとか、蕎麦屋の貼紙の不自然な文言とか、夜道での気配とか、謎は色々あった。それに本所七不思議には様々なヴァージョンがある。例えば柳亭種彦版だと、小豆婆やら埋蔵の溝なんてのも含まれる。あなたは数ある中から、今回の件に当てはまりやすい歌川国輝版を恣意的に選び取ったのです。これに関しては全く不思議でも何でもない。あなたの勝手です」
僕にとっての巨人は、瑠木川かもしれない。シュンと落ち込んだ僕を、八坂と鮒沢は大いに笑った。
地上へ上がると人の活動がなく、あの日の千葉が脳裏に蘇った。辺りのコンクリートはすっかり冷えてしまっている。白辻は八坂に連れられて警察へ行った。小林はもう少し、探偵を続けてみるみたいだ。
鮒沢がふと、東京のごみごみした夜空に、指を立てた。僕は鮒沢の顔を確認してから、それを辿ってみる。
小さな星があちこちに撒かれる中。
月が半分、欠けていた。