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アムネリウスは宇宙(そら)を舞う

    病気の母と暮らす兄妹、レオとキーカ。
    夢を忘れた少女ポーラと姉のミクネ、親切な農夫セト、
    花好きのアスタ、穏やかな少年マートル。
    彼らはそれぞれ孤独や喪失を抱えながら日々を生きていた。

    そして謎の少女イオと旅人ローム。

    そんな世界の中心には、巨大な樹「アムネリウス」がそびえ立っている。

    ある出会いをきっかけに、
    止まっていた時間が少しずつ動き始める。
    忘れていた夢、言葉にならない想い、誰にも見せなかった願い。
    それらはやがて光の粒となり、
    人と人の間を静かに結びつけていく。

    「光の粒が集まるとき、アムネリウスはそらを舞う」

    これは、想いが星々を駆け巡る生命(いのち)の物語。
    登場人物たちの想いが響き合い、宇宙へと広がっていく銀河おとぎ話。


    本文
    その時、目の前に光る景色が広がってゆく。

    空も。大地も。花々も。木々も。
    全てが淡く輝きながら、ひとつの景色へ溶け込んでいく。
    いや、そうではない。
    自分自身もまた、その景色の一部になっているのだ。

    温かい。懐かしい。
    初めて見るはずなのに、なぜか知っている。
    そんな不思議な感覚。

    そして――。

    ◇

    来る災厄の時に向かって――。

    この土地には、昔からそんな言い伝えがあった。
    誰が言い始めたのかはわからない。
    何が起きるのかもわからない。
    ただ年老いた人々は時折、そう口にした。

    来る災厄の時に向かって。。。

    レオはその言葉が好きではなかった。
    災厄と言われても実感がない。
    何より、今を生きるだけで精一杯だった。
    11歳のレオは朝早くから街へ出る。
    仕事は清掃員。

    石畳の道を掃き、落ち葉を集め、
    時には荷運びも手伝う。
    稼ぎは多くない。

    それでも家には病気の母がいる。
    働かなければならなかった。
    家では9歳の妹のキーカが家事をしている。

    料理。洗濯。掃除。
    本来なら大人がする仕事を、幼い肩で背負っていた。

    近所のおばさんやおじさんも助けてくれる。
    野菜を分けてくれたり、壊れた道具を直してくれたり。
    だから何とか暮らせていた。

    それでも余裕はない。ある日の夕暮れ。
    仕事を終えたレオは母の部屋を訪れた。

    窓から差し込む光が、静かに床を照らしている。
    母はベッドに横になったまま、ゆっくりと目を開いた。

    「レオ」

    「なに?」

    母は少しだけ微笑んだ。そして言った。

    「お行きなさい」

    「どこへ?」

    「光る森へ」

    レオは首をかしげた。

    光る森。そんな場所は聞いたことがない。

    「どこにあるの?」

    母は答えなかった。ただ窓の外を見つめている。

    その視線の先には、街の向こうに広がる景色があった。
    夕日に照らされた巨大な樹。
    この世界の誰もが知っている大樹。

    けれどレオはまだ知らない。
    その樹が何なのかを。

    そして自分が、そこへ向かうことになることも。
    まだなにも知らなかった。


    町はずれに、小さな家があった。
    石造りでもなければ立派な家でもない。
    風が吹けば軋み、雨が降れば屋根が鳴る。
    そんな古びた家だった。

    そこにセトは一人で暮らしていた。
    レオが生まれるずっと前から、この土地で生きてきた男だ。
    今は53歳。

    近所の子供たちは皆「セトおじさん」と呼んでいた。
    もちろんレオとキーカも。
    二人にとってセトは、物心ついた頃から当たり前にいる存在だった。

    困ったことがあれば相談する。
    重い荷物があれば運んでくれる。
    壊れた椅子があれば直してくれる。

    どこにでもいる優しいおじさん。
    そんな人だった。
    3年前までは。

    レオが八歳だった頃。
    セトの妻が亡くなった。

    レオの母と同じ病だった。
    長い闘病生活の末の別れ。

    それ以来、セトは少し変わった。
    以前のようによく笑うことがなくなった。
    話す言葉も減った。
    近所の人たちも気づいていた。

    けれど誰もそのことを口にはしなかった。
    どう声をかければいいのかわからなかったからだ。

    それでもセトは変わらずレオとキーカを気にかけていた。
    薪を届ける。
    壊れた道具を直す。
    食料を分ける。
    何かあれば真っ先に駆けつける。

    まるで本当の父親のように。
    子供はいなかった。
    だからなのか。
    それとも別の理由なのか。

    誰にもわからない。

    ただ一つ確かなのは、セトが二人を大切に思っていることだった。

    ある日の夕方。
    仕事帰りのレオは町はずれの道を歩いていた。
    すると見慣れた後ろ姿が目に入った。

    セトだった。

    家の前に置かれた古い椅子に腰を下ろしている。
    いつもなら手を振る。

    「よう、レオ」

    そんな声が飛んでくる。

    けれど今日は違った。
    セトは空を見上げていた。じっと。

    まるで何かを待っているように。

    レオは少しだけ立ち止まった。その時だった。
    風に乗って、かすかな声が聞こえた。

    「……光る森に行きたい」

    独り言だった。
    誰に向けた言葉でもない。

    セト自身ですら気づいていないような小さな声。
    レオは首をかしげた。

    光る森。
    母も似たようなことを言っていた気がする。
    けれど聞き返す前に、セトはいつもの顔に戻っていた。

    「おう、レオ。仕事帰りか?」

    「う、うん」

    「頑張りすぎるなよ」

    そう言って笑う。少しだけ。
    昔よりも小さな笑顔で。
    レオはその笑顔を見ながら思った。

    セトおじさんは大丈夫なのだろうか、と。
    けれど答えはわからない。

    空だけが静かに色を変えていく。

    そしてセトは再び空を見上げる。
    夕焼けの向こう。
    遥か彼方にある何かを探すように。

    まるでそこに、もう一度会いたい誰かがいるかのように。



    アムネリウスの樹は、今日もそこにあった。

    空へ。どこまでも空へ。
    大地を忘れたかのように伸び続ける巨大な樹。
    人々はそれを見上げる。

    畏れながら。親しみながら。そして何も知らないまま。
    その樹が何なのかを。

    イオは静かに立っていた。

    丘の上。風の通り道。
    アムネリウスの樹を最も美しく眺められる場所。
    彼女は昔からそこが好きだった。
    理由はわからない。

    気づいた時には、そこに立っていた。
    気づいた時には、樹を見ていた。
    まるでそれが当たり前であるかのように。

    イオは目を細めた。
    夕陽が樹の表面を赤く染めている。

    葉が揺れる。枝が揺れる。
    けれど彼女の目には、それ以外のものも見えていた。
    人々の感情。
    想い。
    記憶。
    悲しみ。

    それらは目には見えないはずなのに、イオには見えた。
    色ではない。
    形でもない。
    けれど確かに存在している。

    誰かが泣けば。
    誰かが失えば。
    誰かが別れを経験すれば。
    そこには必ず何かが生まれる。

    イオはそれを見つめる。
    近づく。
    触れる。
    そして知る。

    まるで解剖するように。
    一枚ずつ剥がしていくように。
    その奥に何があるのかを。

    イオはそれをリカイしていた。

    理解ではない。もっと別の何か。
    言葉にできない感覚。

    悲しみを見れば、
    その悲しみが何から生まれたのかわかる。
    怒りを見れば、
    その怒りの奥にある願いが見える。
    孤独を見れば、
    その人が本当に求めていたものがわかる。

    だからイオは不思議だった。
    なぜ人々は自分自身のことを知らないのだろう。
    なぜ自分の心を見ようとしないのだろう。

    イオには、それがよくわからなかった。
    そして同時に。
    自分自身のこともわからなかった。

    なぜ見えるのか。
    なぜ感じるのか。
    なぜ理解できるのか。
    誰も教えてくれなかった。

    イオ自身も考えなかった。
    空が青い理由を考えないように。
    風が吹く理由を考えないように。

    ただ、そういうものだと思っていた。
    その時だった。
    風が吹いた。

    アムネリウスの樹の葉が大きく揺れる。

    イオは顔を上げた。
    遠く。
    街の方角。
    微かな悲しみが流れている。

    ひとつではない。
    いくつも。
    病に苦しむ母。
    働き続ける少年。
    夢を忘れた少女。
    誰かを失った農夫。

    それらが静かに漂っている。
    イオは目を閉じた。
    悲しみ。
    人はそれを嫌う。
    避けようとする。
    忘れようとする。

    けれどイオは知っていた。

    悲しみは終わりではない。
    悲しみの奥には必ず何かがある。
    失いたくなかったもの。
    守りたかったもの。
    愛していたもの。

    だから悲しみは不思議だった。

    見れば見るほど。
    触れれば触れるほど。
    消えるどころか美しく見える。
    まるで夜空の星のように。

    イオは小さくつぶやいた。

    「アムネリウスは、そらを舞う」

    誰に向けた言葉でもなかった。
    昔から知っている言葉。

    誰に教わったのかも思い出せない言葉。
    ただ口から零れ落ちた。

    そしてイオは再び樹を見上げる。
    巨大な幹。
    果ての見えない枝。
    無数の葉。

    なぜだろう。
    時々。本当に時々。

    その樹が呼吸しているように見えることがあった。

    風ではない。
    揺れでもない。
    もっと大きな何か。

    生きているような感覚。
    見守っているような感覚。

    そんなはずはない。
    樹は樹だ。
    昔からそこにあるだけ。
    誰もがそう言う。
    だからイオもそう思っていた。

    だけど。
    それでも。
    どうしても。

    樹の近くにいると落ち着くのだ。
    まるで帰る場所にいるように。

    理由はわからない。
    わからないまま。
    イオは今日もアムネリウスの樹を見上げる。

    そして知らない。
    自分が何者なのかを。

    なぜ悲しみを見ることができるのかを。
    なぜアムネリウスの樹に惹かれるのかを。
    なぜ、誰よりも近くにいるのかを。

    まだ何も知らない。
    ただ巨大な樹だけが、
    風の中で静かに葉を揺らしていた。



    ミクネは最近、妹の変化に気づいていた。
    最初は些細なことだった。
    朝食を食べたことを忘れる。
    昨日話した内容を覚えていない。

    お気に入りだった花の名前が出てこない。
    笑いながらごまかしていた。
    ポーラ自身も。
    ミクネも。

    けれど、それは少しずつ増えていった。
    そしてある日。
    ポーラは自分の部屋を見渡しながら言った。

    「ここ、私の部屋だよね?」

    その時、ミクネは初めて不安になった。

    この世界では誰もが知っている。
    記憶を失う病。
    忘却病。

    人は記憶によって生きている。
    覚えているから自分でいられる。
    覚えているから誰かを愛せる。

    覚えているから明日へ進める。

    だから記憶を失うことは、
    生きているまま少しずつ消えていくことを意味していた。

    そして。

    その病は突然生まれるものではない。
    長い時間をかけて心の奥に沈んだ悲しみ。

    受け止めきれなかった想い。
    言葉にならなかった感情。
    それらが静かに積み重なった先で発症すると言われていた。

    ミクネには心当たりがあった。
    ずっと前から。
    本当は知っていた。

    ポーラは自分の本当の妹ではない。
    親を失った二人は偶然出会った。

    同じ家で暮らした。
    同じ食卓を囲んだ。
    同じ季節を過ごした。

    いつしか姉妹になった。
    血は繋がっていない。
    けれどそんなことは関係なかった。

    少なくともミクネにとっては。

    しかしポーラは違った。
    ある日、偶然その事実を知ってしまった。

    それ以来だった。
    どこか無理をして笑うようになったのは。
    以前よりも甘えるようになったのは。

    以前よりも姉の顔を見つめる時間が増えたのは。

    ポーラは怖かったのだ。
    今まで信じていたものが崩れることが。

    たった一人の家族を失うことが。
    だから記憶を閉じた。
    自分でも気づかないうちに。

    ミクネは知っていた。
    ポーラが知っていることも。
    苦しんでいることも。
    それなのに何も言えなかった。

    「血なんて関係ないよ」

    その一言が言えなかった。

    なぜなら…
    ミクネ自身も怖かったからだ。

    もしポーラが離れていったら。
    もし本当に一人になったら。

    そう考えるだけで胸が締めつけられた。
    だから知らないふりをした。
    気づかないふりをした。

    その結果が今だった。

    夕暮れ。
    窓の外が赤く染まっていた。
    眠るポーラの横顔を見ながら、ミクネは唇を噛む。

    どうすればいいのだろう。
    何を伝えればいいのだろう。

    その時、ふと昔の会話を思い出した。
    セトおじさんだった。

    数年前。
    何気ない雑談の中で聞いた言葉。

    「光る森に行けば……」

    そこから先は覚えていない。

    いや、セト自身も最後までは言わなかった気がする。

    ただ、その時の表情だけは覚えていた。

    どこか懐かしそうで。
    どこか悲しそうで。

    そして少しだけ希望を見つけた人の顔だった。

    ミクネは窓の外を見る。
    遠く。
    夕陽に照らされた巨大な樹。
    世界の中心に立つアムネリウスの樹。

    理由はわからない。
    何があるのかもわからない。

    だけど今は、その場所しか思い浮かばなかった。

    「ポーラ……」

    眠る妹の手を握る。
    血は繋がっていない。

    それでも。

    それでもポーラは私の妹だ。
    その言葉を今度こそ伝えなければならない。

    そう思いながら、
    ミクネは静かにアムネリウスの樹を見つめていた。



    花は正直だ。
    水が足りなければ元気をなくす。
    陽の光がなければ伸びない。
    大切に育てれば応えてくれる。

    だからアスタは花が好きだった。

    街の少し外れ。
    石畳の道が緩やかに曲がる場所に、
    小さな花屋がある。

    朝になれば色とりどりの花が店先に並び、
    人々が立ち寄る。

    子供たちは花の名前を聞きに来る。
    おばさんたちは世間話をしに来る。
    おじさんたちは特に用事もないのに立ち寄る。

    そんな店だった。

    そして店主のアスタは街でも評判だった。

    明るい。
    よく笑う。
    頼まれごとを断らない。
    困っている人を放っておけない。
    誰からも好かれている。

    本人もこの街が好きだった。
    街の人も好きだった。
    本当にそう思っていた。

    だけど…

    それとは別に。
    もっと好きな存在がいた。
    ミクネだった。

    店の前を通るたびに目で追ってしまう。
    少しだけ話せただけでうれしくなる。

    笑ってくれると一日中気分がいい。

    そんな自分を少し情けなく思いながらも、
    どうしようもなかった。

    「またセトじいが小うるさいこと言ってきてさ」

    アスタがそう言った…
    それを聞いたミクネは笑う。

    「レオにもよく言ってるよ。あれしろこれしろって」

    「ああ、言いそう」

    二人で笑った。
    本当に他愛もない話だった。

    それなのにアスタはうれしかった。
    ミクネは時々こうして立ち寄ってくれる。

    疲れている時も。
    落ち込んでいる時も。
    気づけば隣にいる。

    そして決まって言う。

    「気にすんな」

    背中を軽く叩きながら。
    まるで男友達みたいに。

    けれどアスタは知っていた。

    ミクネは優しい。
    誰よりも優しい。

    妹を見る時の目を見ればわかる。
    言葉より先に手が動く。
    自分より先に相手を気にする。

    そんな人だった。
    だから好きになった。

    いつからかは覚えていない。
    気づいた時には好きだった。

    そして気づいた時には、その想いを押し込めていた。
    理由は簡単だった。

    失いたくなかった。

    今の関係を。
    今の距離を。
    今の時間を。

    だから口にはしない。
    これでいい。
    そう思うことにしていた。

    店の奥に戻る。
    壁には古い鏡が掛かっている。

    その前を通った時、胸元で何かが揺れた。
    小さなペンダント。
    アスタが物心つく頃から持っているものだった。

    いつから持っていたのか覚えていない。
    誰にもらったのかも知らない。
    ただ、ずっと身につけていた。

    金属は少し歪んでいる。
    表面には細かな傷。

    昔、よく転んだからだろうか。
    あるいは最初からだったのか。

    それすらわからない。

    アスタは指先で軽く撫でた。
    傷のような跡がある。
    文字にも見える。

    けれど読めない。
    途中で消えている。

    昔から気になっていたが、深く考えたことはなかった。
    ただの傷だと思っていた。

    「アスター!」

    外から子供の声が聞こえる。
    アスタは顔を上げた。

    「今行く!」

    そう返事をして店を飛び出す。

    太陽の光。
    花の香り。
    笑い声。
    賑やかな街。

    アスタは笑った。
    いつものように。

    誰にも気づかれないように。

    心の奥にある静かな寂しさを隠すように。

    まるで、その笑顔を絶やさなければ大切なものは
    消えないと信じているかのように。



    アムネリウスの樹は今日も静かだった。

    風が吹く。
    葉が揺れる。
    光が枝の隙間を通り抜ける。

    何も変わらない。
    昨日と同じ。
    1年前と同じ。

    ずっと昔から同じ。
    けれど人々は違った。

    毎日変わる。
    毎日何かを失う。
    毎日何かを手に入れる。

    そして今日もまた、悲しみが生まれていた。

    イオは丘の上から街を見下ろしていた。

    遠くに見える家々。
    行き交う人々。
    聞こえるはずのない会話。
    見えるはずのない感情。

    その全てが静かに流れている。

    イオは観る。
    考えない。
    評価しない。

    ただ観る。

    それが当たり前だった。
    悲しみは今日も存在していた。

    病気になる者。
    別れを経験する者。
    叶わなかった願い。
    届かなかった言葉。
    失われた時間。

    街のあちこちから立ち上るそれらは、
    まるで霧のようだった。

    誰も見ていない。
    誰も気づいていない。
    けれど確かに存在している。
    そして増えていた。

    少しずつ。
    ほんの少しずつ。
    まるで春先の草木のように。

    静かに。
    確実に。
    広がっている。

    イオは不思議だった。

    なぜだろう。
    もし悲しみが不要なものなら。
    なぜ人は作り続けるのだろう。

    人は危険を避ける。
    痛みを嫌う。
    苦しみから逃げようとする。

    それなのに。
    悲しみだけは違う。
    何度も作る。
    繰り返し作る。
    自らその中へ入っていく。

    家族を作る。
    友を作る。
    誰かを好きになる。
    何かを守ろうとする。

    失う可能性があるのに。
    傷つく可能性があるのに。

    それでも人はやめない。

    むしろ求める。

    なぜだろう。

    イオは目を閉じた。

    悲しみが見える。
    数え切れないほど。

    形は違う。
    大きさも違う。
    色も違う。
    けれど、どれも似ていた。

    よく見ると。
    どの悲しみにも何かが残っている。

    消えないもの。
    最後まで残るもの。
    言葉にできない何か。

    それは不思議だった。

    悲しみだけを取り出そうとすると上手くいかない。
    必ず別の何かが混じっている。

    切り離せない。
    まるで最初から一つだったかのように。

    イオはアムネリウスの樹を見上げた。

    巨大な樹。
    誰もが知っている樹。
    けれど誰も知らない樹。

    風が吹く。
    葉が揺れる。
    その瞬間。
    イオはふと思った。

    悲しみは本当に消すべきものなのだろうか。

    もし不要なものなら。
    もっと昔に無くなっているはずだ。

    人は学ぶ。
    改善する。
    不要なものを減らしていく。
    それなのに。

    悲しみだけは残り続けている。

    何百年も。
    何千年も。

    もしかすると。
    悲しみには役割があるのではないか。

    イオはその考えに少し驚いた。

    初めてだった。
    観測した結果から何かが浮かび上がってきたのは。

    けれど、それ以上はわからない。

    役割とは何だろう。
    何のために存在するのだろう。

    なぜ人は悲しむのだろう。
    なぜ失うのだろう。
    なぜ忘れるのだろう。

    そして…

    なぜ、それでも前を向くのだろう。

    答えは見つからない。
    見つからないまま、イオは再び街を見る。

    病に苦しむ母。
    働く少年。
    眠れない農夫。
    妹の手を握る少女。
    笑顔を絶やさない花屋。

    その誰もが悲しみを抱えている、
    けれど。。。

    本当に見えているものは悲しみなのだろうか。

    イオは知らない。
    まだ知らない。
    ただ観る。
    ただ見つめる。
    ただそこに在るものを受け取る。

    そして静かに呟いた。

    「悲しみは……本当に悲しみなのだろうか…」

    風が吹いた。
    アムネリウスの葉が揺れる。

    けれど答える者はいない。
    答えはどこにもなかった。

    あるいは…

    最初からそこにあったのかもしれない。
    まだ誰も気づいていないだけで。



    アムネリウスの樹は今日も空へ枝を伸ばしていた。

    風が吹く。
    葉が揺れる。
    光が差し込む。

    何も変わらないように見える。
    けれど世界は少しずつ変わっていた。

    誰にも気づかれないほどゆっくりと。

    それでも確実に,
    その変化を見ている者がいた。

    旅人ローム。

    そう呼ばれたこともあった。
    だが本当は違う。

    ロームは旅人ではなかった。
    少なくとも本人はそう思っていない。

    歩いているだけだった。
    確かめるために。

    ただ、それだけのことだった。

    今日も丘を歩く。
    森を歩く。
    街を歩く。
    足を止める。
    また歩く。

    目的地はない。

    それでも迷わない。
    どこへ向かえばいいのか知っているからだった。

    丘の上に少女が立っている。
    いつもの場所。
    いつもの姿。

    いつものようにアムネリウスの樹を見上げている。

    イオは何かを見ている。
    人々の中に生まれるものを。
    人々の中に残るものを。

    失われたもの。
    忘れられたもの。
    言葉にならなかったもの。
    その全てを。

    ロームは知っていた。
    イオが何を見ているのか。

    なぜ見ているのか。
    けれど声はかけない。
    かけられない。

    少女は気づかない。
    振り返ることもない。

    そこに誰かがいることを知らない。
    ロームだけが見ている。
    ただ見ている。

    それでよかった。

    風が吹いた。
    イオの髪が揺れる。
    アムネリウスの葉が揺れる。

    街から人々の声が聞こえる。
    ロームはその景色を眺めた。
    長い時間。
    数え切れないほどの時間。
    何度も見てきた景色だった。
    それでも同じものは一つとしてない。

    悲しみも。
    喜びも。
    後悔も。
    願いも。
    全て違う。

    だから見続ける。
    だから確かめ続ける。

    アムネリウスの樹は育っているだろうか。
    ちゃんと根を張っているだろうか。

    この星は大丈夫だろうか。
    人々は気づけるだろうか。

    その問いを抱えながら。
    ロームは再び歩き出した。

    街へ向かう。
    途中、小さな男の子とすれ違う。
    少年は花を抱えていた。
    少し疲れた顔。
    けれど足は止まらない。

    ロームは何も言わない。
    ただ通り過ぎる。

    市場の近くでは老婆が座っていた。
    誰かと話している。
    楽しそうに笑っている。

    ロームは少しだけ足を止める。
    そしてまた歩く。

    ある時は老人として。
    ある時は子供として。
    ある時は名もない旅人として。
    誰かの隣を通り過ぎる。
    人々は覚えていない。

    顔も。
    名前も。
    会話も。
    気づけば忘れている。
    最初から存在しなかったかのように。

    それでよかった。
    覚えられるためにいるのではない。
    導くためでもない。
    救うためでもない。

    ただ確かめる。
    それが役割だった。

    やがて夕暮れが訪れる。
    空が赤く染まる。
    アムネリウスの樹が影となって大地に伸びる。

    ロームは立ち止まった。
    遠くに巨大な樹が見える。

    静かだった。
    何も語らない。
    昔からそうだった。
    これからもそうだろう。

    けれどロームは知っている。
    静かなものほど多くを語ることを。
    風が吹く。
    葉が揺れる。

    そして、どこからともなく光が舞う。
    ほんの一瞬。
    誰も気づかないほど小さな光。

    ロームは目を細めた。

    「あと少しだ、まもなくその刻は来る」

    誰に向けた言葉でもない。
    独り言だった。
    それだけを確認すると、再び歩き出す。

    まだ出会っていない誰かのもとへ。
    まだ語られていない物語のもとへ。

    そしていつか。

    光の粒が集まりアムネリウスがそらを舞う、その刻まで。



    マートルはあまり笑わない。
    そう言う人もいた。
    けれど正しくは少し違う。

    笑わないのではない。
    最初から微笑んでいるように見えるのだ。

    怒ることもない。
    声を荒げることもない。
    だから時々、人々は不思議そうな顔をする。

    何を考えているのだろう。
    何を見ているのだろう。
    そんなふうに。

    レオもその一人だった。
    何度か話したことがある。
    偶然出会っただけだった。
    それでも嫌な感じはしなかった。

    優しい。
    静か。
    少し不思議。

    そんな印象だった。

    マートルはほとんど街へ出ない。
    街外れの一軒家。

    その日も一人で歩いていた。

    風が吹く。
    草が揺れる。
    遠くにアムネリウスの樹が見える。

    その時だった。
    一人の旅人が通り過ぎた。
    若い男だった。
    見覚えはない。

    けれどどこか懐かしい。
    そんな不思議な感覚があった。

    旅人は立ち止まる。
    そしてマートルを見た。

    まるで昔から知っている相手を見るように。
    少しだけ首を傾げる。

    「まだ、ここにいるの?」

    マートルは答えない。ただ見つめ返す。

    旅人も気にしなかった。
    むしろ納得したように微笑んだ。

    しばらくしてから空を見上げる。
    そして静かに言った。

    「アムネリウスは、まもなく開花の刻を迎える」

    それだけだった。
    旅人は歩き出す。
    一切こちらを振り返らない。

    名前も告げず
    理由も説明しない。

    ただ去っていく。

    マートルはその背中を見送った。

    不思議な人だった。
    意味も分からない。
    だけど…

    なぜだろう。
    その言葉を聞いた瞬間。
    胸の奥がわずかに揺れた。

    開花の刻。

    アムネリウスが舞う。

    その言葉が妙に懐かしかった。
    まるで昔にも聞いたことがあるような。

    いや、聞いたのではない。
    知っている。
    そんな感覚。

    そして次の瞬間。
    ふいに思った。
    アムネリウスの樹はもうすぐ開花する。

    確信に近かった。
    根拠はない。
    なのに分かる。

    マートルはアムネリウスの樹を見上げた。

    巨大な樹。
    遥か空へ伸びる枝。
    その姿を見た瞬間。

    頭の奥で何かが軋んだ。
    忘れていた何かが。
    遠い昔の何かが。

    そして――

    景色が途切れた。


    二十四年前。
    まだアムネリウスの樹が今より少し若かった頃。

    一人の少年がいた。
    マートル。
    七歳の時に母を亡くした少年。

    優しかった母。
    温かかった手。
    それらは少しずつ記憶の奥へ沈んでいった。

    そして十歳になった頃。
    忘却病が発症した。
    忘れたくないものから消えていく。

    それは残酷だった。
    けれど病は止まらない。
    時間は止めどなく過ぎてゆく。

    そして十七歳。
    マートルは息を引き取った。
    トールマン博士は見送った。

    ただ静かに、叫ぶことなく、泣くこともなく
    受け入れたわけでもなかった。

    ただ見つめていた。
    長い時間をかけて。
    そして一つの研究へ没頭した。

    人造機械人形。
    人の形をした器。
    何度も失敗した。
    何度も作り直した。

    ようやく完成した。
    マートルによく似た機械人形。

    けれど…

    それはマートルではなかった。
    似ているだけ。

    記憶もない。
    心もない。
    ただの器。

    博士は知っていた。
    死者は生き返らない。
    帰ってくるはずがない。

    そんなことは最初から分かっていた。
    だから悲しくはなかった。
    絶望もしなかった。

    ただ一つだけ。
    もう一度会いたい。
    それだけだった。

    理由も何もいらない。

    誰かに認められる必要もない。
    ただ、会いたい。
    その想いだけだった。

    あまりにも純粋でまっすぐな想い。

    その時だった。
    トールマン博士の目の前いっぱいに広がる光。

    世界そのものが光になったようだった。
    まばゆく照らすあたたかい光。

    「おはよう、お父さん」

    博士は振り返る。
    そこに立っていたのは
    マートルだった。

    「朝食は何にしようか?」

    いつもの声。
    いつもの顔。
    いつもの微笑み。

    そしてトールマン博士は
    光に包まれていった。


    マートルはふと気がついた。
    目の前にはアムネリウスの樹。
    旅人の姿はもう見えない。
    どこへ行ったのかも分からない。

    だけど…

    今なら少しだけ分かる気がした。
    なぜ自分がマートルなのか。
    なぜその名前なのか。
    難しい理由ではなかった。
    特別な意味でもなかった。

    ただ。

    父が呼んでくれたから。
    母が呼んでくれたから。

    それだけだった。
    それだけで十分だった。

    マートルは空を見上げる。
    そしてアムネリウスの樹を見る。

    巨大な樹の表面が。
    ほんのわずかに、淡く、静かに、
    光り始めていることに気づいた。



    レオは今日も朝から働いていた。
    街の石畳を掃く。
    落ち葉を集める。
    壊れた柵を運ぶ。
    大人たちに混じって仕事をする姿は、
    もう珍しくなかった。

    誰もが口をそろえて言う。

    「偉い子だね」
    「しっかりしてるね」
    「お母さんも助かるだろう」

    レオは笑ってうなずく。
    それが正解だと思っていた。
    そうするのが当たり前だと思っていた。

    でも最近、胸の奥が少しだけ苦しかった。

    家に帰れば母がいる。
    キーカもいる。
    それだけで十分なはずだった。

    なのに時々思う。
    なぜ自分だけ働いているんだろう。
    なぜ母は病気なんだろう。
    なぜキーカは何も知らずに笑っていられるんだろう。

    その考えが浮かぶたびに、レオはあわてて頭を振った。

    そんなことを考えてはいけない。
    母はもっと苦しい。
    キーカはまだ小さい。
    自分が頑張らなければ。
    そう思う。

    けれど思えば思うほど、心のどこかが重くなった。

    ある日の夕方。
    仕事を終えたレオは
    一人でアムネリウスの樹を見上げていた。

    巨大な樹は何も語らない。
    風だけが吹く。
    その時ふと思った。

    もし母さんがいなくなったら。
    もしキーカが泣き続けたら。
    もしこの生活がずっと続いたら。

    胸が締め付けられる。

    そして初めて気づいた。
    自分は怖かったのだ。

    ずっと。
    誰にも言えないまま。


    気がつくとレオは知らない場所に立っていた。
    灰色の世界だった。
    霧のような光が漂っている。
    遠くには金色の粒がゆっくり流れていた。

    風もない。
    音もない。
    不思議な場所だった。

    レオは周囲を見回す。
    誰もいない。
    そのはずだった。

    「ここは初めてかい?」

    声がした。
    振り返る。
    若い旅人が立っていた。

    見覚えはない。
    けれどなぜか懐かしい。
    そんな気がした。

    「誰?」

    レオが聞く。
    旅人は少し笑った。

    「ただの旅人さ」

    レオは警戒した。

    「ここはどこなんだ?」
    「どこだろうね」

    答えにならない。

    レオは眉をひそめる。
    旅人はそんな様子を気にも留めず歩き始めた。

    「少し付き合ってくれないか」

    気づけばレオも歩いていた。
    遠くに小さな光が見える。
    弱々しく揺れている。
    今にも消えそうだった。

    「見えるかい?」

    旅人が聞く。

    「見える」
    「何に見える?」
    「ただの光…だと思う」

    旅人は小さく笑った。

    「そうか」

    しばらく沈黙が続く。
    やがて旅人が言った。

    「君は誰を守っているんだい?」

    レオは即答した。

    「母さんとキーカ」

    「そうか」

    旅人はうなずく。

    「じゃあ君は?」
    「え?」
    「君は誰に守られていたんだろうね」

    レオは言葉を失った。
    そんなこと考えたこともなかった。

    旅人は先へ歩く。

    金色の光が揺れる。

    「頑張るのは悪いことじゃない」

    旅人が言う。

    「でもね」

    少しだけ振り返る。

    「頑張ることだけが、生きることじゃない」

    レオは反論できなかった。

    なぜだろう。
    胸が痛かった。
    旅人は再び光を見る。

    「まだ残っている」

    小さくつぶやく。

    「何が?」

    レオが聞く。
    旅人は答えない。
    代わりにこう言った。

    「君は忘れたんじゃない」

    その瞬間。

    遠くの光が少しだけ強く輝いた。
    そして景色が崩れ始める。

    霧が流れる。
    世界が遠ざかる。

    最後に旅人の声だけが聞こえた。

    「まだ咲いていないだけだ」


    レオは目を覚ました。
    いつもの朝だった。
    窓の外から鳥の声が聞こえる。

    キーカが眠っている。
    母もいる。
    何も変わっていない。
    本当に何も。

    それなのに少しだけ違っていた。
    レオは静かに立ち上がる。
    昨日の旅人を思い出した。

    夢だったのかもしれない。
    本当にいたのかもしれない。
    分からない。

    だけど一つだけ心に残っていた。

    「君は誰に守られていたんだろうね」

    その言葉。

    レオは苦しそうに寝ている母を見る。
    それでもどこか穏やかな顔だった。
    自分は母を守っている。
    そう思っていた。

    でも、母もまた自分を守ろうとしていたのではないか。

    ふとそんな考えが浮かぶ。

    答えは分からない。
    今はまだ。
    それでもいいと思った。
    全部分からなくてもいい。
    ただ逃げるのだけはやめよう。
    怖いなら怖いでいい。
    苦しいなら苦しいでいい。
    ちゃんと見てみよう。

    自分の気持ちを。
    母の気持ちを。
    キーカの気持ちを。

    レオは窓の外を見る。
    遠くにアムネリウスの樹が見えた。

    朝日に照らされたその姿は、
    いつもより少しだけ大きく見えた。

    そしてなぜか
    本当にわずかだけれど。

    樹が光っているような気がした。



    ミクネはポーラの手を握っていた。
    以前より細くなった手。
    以前より軽くなった身体。
    以前より遠くなった視線。

    それでもポーラは笑う。
    まるで何も変わっていないかのように。

    「お姉ちゃん」

    そう呼ばれるたびにミクネは安心した。
    けれど同時に怖くもなった。
    その声が消えてしまう日が来るのではないか。

    その言葉が自分を呼ばなくなる日が来るのではないか。
    そんな考えを振り払うように、ミクネは笑顔を作った。

    ポーラも笑う。
    二人はいつも通りだった。
    だからこそ苦しかった。

    本当に苦しい時ほど、人は普段通りを演じてしまう。
    それが当たり前になってしまう。

    気づかないうちに。
    知らないうちに。
    少しずつ。
    何かを失いながら。


    その頃。
    花屋の前ではアスタが花の世話をしていた。

    今日も街の人が訪れる。
    今日も笑顔で迎える。
    今日も明るく振る舞う。
    それは昔から変わらない。

    だが最近、自分でも気づかないほど小さな違和感があった。

    なぜだろう。
    胸の奥にわずかな空白が残る。

    店の前をミクネが通る。
    ポーラの手を引いている。
    いつも通りの光景。
    そのはずだった。

    アスタは無意識に二人を見つめた。
    そして思う。
    失いたくない。

    その言葉だけが心に残った。
    理由は分からない。
    誰にも言わない。
    ただ風のように通り過ぎていった。


    レオもまた二人を見ていた。

    ミクネ母とどこか似ていた。
    何が似ているのかは分からない。
    笑っているのに。
    どこか寂しそうだった。

    レオは声をかけなかった。
    何も言わなかった。

    ただ見ていた。
    それだけだった。


    その帰り道。
    風が吹いた。
    レオは足を止める。
    何かが見えた気がした。

    ほんのわずかに金色に輝く。
    気のせいだと思った。

    だが翌日も。
    その翌日も。
    同じ光が見えた。
    風が吹くたび。
    葉が舞うたび。
    どこかで金色の光が揺れている。

    まるで世界の向こう側から誰かがこちらを見ているように。


    そして、それを見ていた存在がいた。
    アムネリウスの樹の遥か上。
    ただそこにいる少女。


    イオは静かに世界を眺めていた。
    いつものように。
    変わらない日々。
    変わらない悲しみ。
    変わらない人々。

    そのはずだった。
    だが違った。

    風が変わり始めていた。
    色が変わり始めていた。
    悲しみの流れが変わり始めていた。

    イオはただ観る。
    それが役目だった。
    そして気づく。

    風の中に光が混じっている。
    今まで存在しなかったはずの光。

    いや、存在していた。
    だが見えていなかった。
    それだけなのかもしれない。

    その瞬間、少女の髪が揺れる。

    風もないのに、光が流れる。
    金色のひかり。
    まるで世界そのものが呼吸を始めたようだった。

    イオはただ観ている。
    ただ観測している。
    だがその瞳だけがわずかに揺れた。

    初めてだった。
    自分自身が観測対象になったのは。
    光は止まらない。
    自分の中からあふれ出そうだった。

    アムネリウスの樹へ流れる。

    それは

    レオへ。
    ミクネへ。
    ポーラへ。
    アスタへ。
    誰も気づかない。
    今はまだ。
    誰もそのことを感じてはいなかった。

    だが確実に始まっていた。
    世界の奥底で。
    何かが。
    長い眠りから目を覚まし始めていた。

    イオはアムネリウスの樹を見上げる。

    雄々しく聳え立つそれは、今日だけは違った。
    樹の奥から微かな鼓動が聞こえる。
    心臓の音のように。
    呼吸の音のように。
    生命の胎動のごとく。

    イオは静かにつぶやいた。

    「開花の刻が近い」

    誰に向けた言葉でもない。
    ただ、そう感じた。

    そして少女の身体から流れ続ける金色の光は、
    以前よりもはるかに強く、はるかに遠くまで広がり始めていた。

    まるでアムネリウスの樹そのものが。
    自らの目を通して世界を見始めたかのように。



    世界が本来の姿を思い出し始める。
    それはある日突然訪れるものではない。

    空が割れるわけでもない。
    大地が揺れるわけでもない。
    誰かが世界の秘密を語り始めるわけでもない。

    むしろ逆だった。

    何も変わらないように見える。
    昨日と同じ朝が来る。
    昨日と同じ風が吹く。
    昨日と同じ人々が行き交う。

    だから誰も気づかない。
    何かが始まっていることに。

    いや、始まっているのではない。
    ずっと前から存在していたものが、
    少しずつ見え始めているだけなのかもしれない。

    レオは今日も働いている。
    病気の母と幼い妹キーカを支えるために。
    子供らしく生きることよりも先に、
    守ることを覚えてしまった少年。

    優しく、真っ直ぐで、誰よりも頑張り屋。
    けれど本当にそうだろうか。
    その笑顔の奥には何があるのだろう。
    本人さえ気づいていない何かが眠っているようにも見える。

    ミクネは今日も妹のポーラを支えている。
    記憶を失っていく妹。
    笑顔を忘れない姉。
    誰が見ても仲の良い姉妹。

    だが二人は本当の姉妹ではない。
    その事実を知っているのは二人だけ。
    そして二人とも、その事実から目を逸らし続けてきた。

    なぜなら失うのが怖かったから。
    だから二人は今日も姉妹であり続ける。

    たとえ世界が違う答えを持っていたとしても。

    花屋のアスタは街で評判の青年だ。
    明るい。
    優しい。
    面倒見がいい。
    誰からも好かれている。
    本人もそれを嫌がってはいない。

    だが彼自身はまだ気づいていない。
    その明るさの中に、
    自分でも見たくない寂しさが混ざっていることに。

    そしてポーラとの不思議な縁にも。

    今はまだ誰も知らない。
    知らなくていい。
    物語は急がない。
    ゆっくりと歩いていく。


    セトは空を見上げている。
    以前より少しだけ言葉が減った。
    以前より少しだけ遠くを見ている。
    亡き妻を想う男。

    けれど本人はその想いの正体をまだ知らない。

    悲しみなのか。
    寂しさなのか。
    それとも別の何かなのか。
    答えはまだ見つかっていない。

    イオはただ観ている。
    誰とも話さない。
    誰にも触れない。
    誰かを助けることもしない。

    ただ観る。
    悲しみを。
    迷いを。
    揺れる心を。

    そして今、彼女自身にも変化が訪れていた。

    風が変わり始めている。
    金色の光が現れ始めている。
    それは誰か一人の変化ではない。
    世界そのものの変化だった。

    だからイオは観測を続ける。

    静かに。
    ただ静かに。

    旅人ロームもまた歩いている。
    どこから来たのか。
    どこへ向かうのか。
    誰も知らない。
    本人すら語らない。

    けれど彼は知っている。

    アムネリウスの樹が何を待っているのかを。
    そして光の粒が何を意味するのかを。

    だがそれを語ることはない。
    語ってしまえば意味がなくなるからだ。

    人は答えを与えられて変わるのではない。
    気づいた時に変わる。

    だからロームは待っている。
    その瞬間を。

    そして世界の中央には
    今日もアムネリウスの樹が立っている。

    遥か昔から。
    誰よりも静かに。
    誰よりも長く。
    人々は言う。

    「光の粒が集まるとき、アムネリウスはそらを舞う。」

    だが誰も知らない。
    アムネリウスとは何なのか。

    樹の名前なのか。
    伝説の名前なのか。
    それとも別の何かなのか。

    登場人物たちは知らない。
    読者もまだ知らない。

    けれど確かなことが一つだけある。

    それは、この物語に登場する誰もが
    アムネリウスが向かう旅の途中にいるということ。

    レオたちはまだ、気づいていない。

    けれど風は変わり始めている。
    金色の光は増え始めている。
    そして世界は静かに呼吸を始めている。

    開花の刻は近い。

    だがその前に。

    彼らは自分自身と出会わなければならない。
    本当に出会うべき存在と。

    そして本当に見つめなければならない想いと。


    …では、そろそろこの物語を閉じる
    最後の幕が上がる刻が来たようです。
    けれど、それは終わりではなく
    新しい旅立ちの始まりでもありました。



    マートルは街を歩いていた。

    見慣れた道だった。
    石畳の道。
    川へ続く小さな坂道。
    遠くに見える山並み。
    風に揺れる草花。

    何も変わっていない。
    けれど、どこか違って見えた。

    違っていたのは景色ではなく、
    自分自身なのかもしれない。

    マートルは空を見上げた。

    アムネリウスの樹が静かにそびえ立っている。

    昔からそこにあった。
    今日もそこにある。
    変わらないはずなのに、なぜだろう。
    どこか懐かしいような気持ちが胸に広がる。

    自分はもうマートルではない。
    そんな思いが心のどこかにあった。

    トールマン博士が作った機械人形。
    誰かの代わり。
    誰かに似せて作られた存在。

    そう思っていた。
    だけど今は違う。

    マートルは立ち止まる。

    風が吹いた。
    とても優しい風だった。

    そして自然に口元がほころぶ。
    父は自分をマートルと呼んでくれた。
    それだけで十分だった。

    その時だった。

    「マートル?」

    聞き覚えのある声がした。
    振り向くとレオが立っていた。
    少し汗をかきながら荷物を抱えている。
    いつものレオだった。

    「レオ。」

    「ひさしぶりだね。」

    「……?」

    レオは少し不思議に感じた。
    何かがおかしい。
    でも何がおかしいのか分からない。

    いつも通りなのだ。

    声も、表情も、立ち方も全部。

    それなのに。
    なぜか少しだけ違う。
    そんな不思議な感覚が胸に残った。

    「元気だった?」

    とマートルが聞く。

    「まあな。」

    レオは笑った。

    「マートルは?」

    「うん。」

    「元気だよ。」

    二人は少しだけ話をした。
    特別な話ではない。

    この街に起きたこと。
    セトのこと。
    アスタの花屋のこと。
    そんな他愛もない話だった。

    やがてレオが歩き出す。

    「じゃあ、またな。」

    いつもの言葉だった。
    いつもと同じ別れだった。

    マートルもほほえむ。

    「うん。」

    「じゃあまた。」

    レオは手を振りながら去っていく。
    その背中を見送る。

    見えなくなるまで。
    静かに。
    ずっと。
    そして、ふと思った。

    父だけではなかった。
    母だけでもなかった。

    今までどれだけの人が自分を
    マートルと呼んでくれただろう。

    レオ。
    セト。
    アスタ。
    街の人たち。
    みんな当たり前のように。
    何の迷いもなく。
    自分の名前を呼んでくれた。

    マートル。

    そう呼んでくれた。
    その事実が胸の奥に広がっていく。
    名前を呼ばれること。
    名前を覚えていてくれること。
    それはなんて温かいことだったのだろう。

    その瞬間だった。

    金色の光がマートルの周囲に現れた。

    最初は小さな粒だった。
    陽だまりに舞うほこりのように。

    けれど次第に増えていく。
    とても静かに。
    とても優しく。
    まるで誰かが迎えに来たかのように。

    マートルは目を閉じた。
    思い出していた。
    父の声を。
    母の声を。

    自分の名前を呼ぶ声を。

    嬉しそうな声。
    困ったような声。
    笑いながら呼ぶ声。

    そのどれもが温かかった。
    そのどれもが確かに存在していた。

    「レオ……」

    ふとつぶやく。
    何かを伝え忘れていた気がした。
    大切な何かを。

    けれど不思議と焦りはなかった。
    マートルは静かに笑う。

    風が吹く。
    金色の光が揺れる。

    そしてマートルは空を見上げた。

    「…伝えるの忘れちゃったな…」

    「大丈夫…」

    「レオはもう……」

    そこから先の言葉は風の中に消えていった。
    金色の光はさらに強く輝き始める。
    まるで朝日が世界を照らすように。

    その先にはアムネリウスの樹が見えた。

    マートルは目を閉じた。
    その表情は穏やかだった。
    ずっと探していた答えを見つけた人のように。

    いや、答えではない。
    ただ、そこにあったものに気づいた人のように。
    そして金色の光は空へ舞い上がっていく。

    アムネリウスの枝葉が風に揺れた。
    まるで誰かの旅立ちを見送るように。



    セトの家を訪ねた帰り道だった。
    アスタはいつものように花を抱えて歩いていた。
    すると後ろから声が飛んでくる。

    「おい、アスタ。」

    振り返るとセトが立っていた。
    腕を組み、少し険しい顔をしている。

    「なんだよ、セトじい。」
    「なんだよじゃない。」

    セトはため息をついた。

    「お前、最近ちゃんと寝てるのか?」
    「寝てるよ。」
    「嘘つけ。」

    アスタは笑ってごまかそうとした。
    だがセトは見逃さなかった。

    「お前な。」
    「失う前から失うことばかり考えてどうする。」

    アスタの表情がわずかに止まる。

    「……何の話だよ。」
    「さあな。」

    セトは空を見上げた。

    「ただな。」
    「近くにいるやつほど見えなくなることがある。」

    風が吹いた。
    アスタは黙ったまま立っている。
    セトは続ける。

    「いなくなってから気づくなよ。」
    「…会って…伝えとけ」

    「何を?」

    思わずアスタは聞き返した。
    セトは少しだけ笑う。

    「決まってるだろ。」

    しばらく沈黙が流れた。
    アスタは視線を逸らした。

    そして小さく言う。

    「……説教かよ。」
    「そうだ。」
    「小うるさいじじいだな。」
    「今さらか。」

    二人は少しだけ笑った。
    それが最後だった。

    アスタは知らない。
    セトも知らない。
    それが二人の最後の口論になることを。

    ―――

    セトは静かな家へ帰った。
    いつもと同じだった。
    扉を開ける。
    靴を脱ぐ。
    椅子へ腰を下ろす。

    それだけなのに、今日もまた思い出してしまう。
    妻のことを。

    食卓の向こう側に置かれた椅子。
    少し欠けたコップ。
    使わなくなった食器。

    もう何年もそのままなのに、捨てることも片付けることもできなかった。

    セトはコップを手に取る。
    小さな傷が付いている。
    ずいぶん前に落としてしまった時のものだ。

    その時、妻は笑っていた。

    「気にしなくていいよ」

    気づけばまた思い出している。
    思い出しては苦しくなる。
    苦しくなっては空を見上げる。
    そんな日々だった。

    「まったく……」

    思わず声が漏れた。
    その時、不思議なことを思った。

    どうして自分は、こんなにも悲しいのだろう。

    三年も経った。
    それなのに。
    まだ会いたい。
    まだ寂しい。
    まだ苦しい。

    なぜだろう。

    その答えは。
    あまりにも近くにあった。

    「そうか……」

    セトは静かにつぶやく。

    悲しいのは。
    寂しいのは。
    会いたいと思うのは。
    そこにいたからだ。

    長い間。
    本当に長い間。
    当たり前のように隣にいてくれたからだ。

    もし最初からいなかったなら。
    こんな気持ちにはならなかった。
    出会っていなかったなら。
    こんなにも悲しむことはなかった。

    「そうか……」

    セトは少し笑った。

    「そうか…今、悲しいんだな…」

    その言葉は静かだった。
    悲しみは消えていない。
    苦しさも消えていない。

    だけど…
    その苦しさの中には。
    確かに妻がいた。

    空いた椅子を見る。
    そこには誰もいない。
    それなのに…
    不思議と誰もいないようには思えなかった。

    「ずいぶん長いこと。」
    「そばにいてくれたんだな。」

    その時だった。

    セトの周囲に
    金色の光が現れた。

    やがて無数の光が辺りを照らし始める。
    それらは一本の道のようになっていた。


    家の外へ。
    街の向こうへ。

    アムネリウスの樹へと続く光の道。

    セトはゆっくり立ち上がる。
    不思議だった。
    驚きはなかった。
    怖くもなかった。

    ただ、懐かしかった。
    光の道の先。
    そこに誰かが立っていた。

    風に揺れる髪。
    優しい笑顔。
    見間違えるはずがない。
    何度も思い出した顔。
    何度も会いたいと願った人。

    妻だった。

    セトはじっと見つめる。
    涙は出なかった。
    代わりに自然と笑みがこぼれた。

    「なんだ。」
    「そんなところにいたのか。」

    光の向こうの妻も笑っているようだった。

    セトは一歩踏み出す。
    もう迷わなかった。

    「…そこにいたんだ。」

    風が吹く。
    金色の風が舞い上がる。

    セトは静かに歩き出した。

    「すぐそっちに行くよ。」


    その声はどこまでも優しかった。
    まるで長い旅を終えた人のように。



    アムネリウスの樹は静かに佇んでいた。
    その根元にイオは立っている。
    いつものことだった。

    風が吹く。
    葉が揺れる。
    遠くで誰かが笑う。
    誰かが泣く。
    誰かが誰かを想う。

    そのすべてをイオは観ていた。

    ただ観る。
    それが自分の役割だった。

    悲しみが生まれる。
    迷いが生まれる。
    失うことを恐れる心が生まれる。

    イオはそれを観る。

    なぜ生まれるのか。
    なぜ消えないのか。
    なぜ繰り返されるのか。

    ずっと観てきた、長い刻のあいだ。

    そして今日も、
    同じように観ているはずだった。

    なのに。

    「……?」

    イオは小さく首を傾げた。
    何かがおかしい。

    説明できない。
    理解もできない。
    けれど。
    確かに何かが違う。

    まるで誰かの視線を感じるような。
    そんな感覚だった。

    イオは空を見上げる。
    誰もいない。
    森を見る。
    誰もいない。
    それでも。
    見られている。

    そんな気がした。

    観ているはずの自分が。
    観られている。
    その奇妙な感覚。

    そして。。。

    その時だった。
    風が止んだ。
    というより止まったように感じた。

    金色の光が葉の間を流れていく。

    一筋、また一筋と。

    それは風ではなく。
    光そのものが吹いているようだった。

    そして。
    声がした。
    どこからともなく。
    近くでもなく。
    遠くでもなく。
    まるで最初からそこにあったかのような声。

    「本当に見たいものは見えたのかな?」

    イオは動かなかった。
    ほんのわずかだが、
    心の奥で何かが揺れた。

    見たいもの。
    その言葉の意味が分からない。

    観ることは知っている。
    理解することも知っている。
    だけど…

    見たいもの。
    その言葉だけは理解できなかった。

    「……?」

    なぜだろう。
    今までなら疑問にもならなかった。
    分からないなら分からないままでよかった。

    それだけだった。

    なのに今は。
    少しだけ。
    気になった。

    なぜそんなことを言うのか。
    誰が言ったのか。

    そして、
    なぜ自分は気になっているのか。

    その方が分からなかった。

    風が再び吹く。
    金色の光が舞う。

    その光はどこか懐かしく。
    どこか寂しく。
    そして不思議と温かかった。

    イオは胸の奥に生まれたかすかな揺らぎを見つめる。

    観測する側だったはずなのに。
    今はその揺らぎを観ている自分がいた。

    すると再び声が響いた。
    今度は先ほどよりも優しく。
    静かに。

    「アムネリウスは……まもなく開花の刻を迎える。」

    その言葉だけだった。
    イオは周囲を見渡す。

    誰もいない。
    姿は見えない。
    気配もない。
    ただ。

    その言葉だけが残っていた。
    開花の刻。

    なぜだろう。
    その言葉を聞いた瞬間。
    胸の奥が少しだけ苦しくなった。

    理由は分からない。
    分かる必要もないはずだった。
    なのに。

    イオはアムネリウスの樹を見上げる。
    光を帯び始めた巨大な樹。

    その姿を見つめながら。
    初めて思った。

    自分は、
    何を観ているのだろう。

    そして
    本当に見たいものとは
    何なのだろう

    金色の風が吹き抜ける。
    イオはただ立ち尽くしていた。

    だけど、その瞳だけは。
    今までよりほんの少しだけ遠くを見つめていた。



    その夜、ポーラは眠れなかった。
    窓辺に座り、膝を抱えながら外を見ていた。

    街は静かだった。
    遠くに見えるアムネリウスの樹も、
    いつもと変わらない。

    大きくて、とても静か。

    ずっとそこにある。
    ただ、それだけ。

    なぜか今日は何度も目がそちらへ向いてしまう。

    理由は分からなかった。

    風が吹いた。
    窓辺のカーテンが小さく揺れる。

    ポーラは目を細めた。

    「アムネリウスの樹が……」

    ぽつりとつぶやく。
    その続きを言おうとしたが、
    言葉にならなかった。

    何かを感じている気がする。
    でも、それが何なのか分からない。

    胸の奥が少しだけ落ち着かない。
    悲しいわけじゃない。
    苦しいわけでもない。

    ただ、何かを忘れているような。
    何かが遠くへ行ってしまうような。
    そんな気がしていた。

    ポーラは首元に手を当てる。
    そこにはいつものペンダント。
    小さな銀色のペンダント。
    ずっと身につけていたもの。
    いつから持っていたのかも覚えていない。

    これだけは失くしたくない物。

    なぜかは分からない。
    理由なんて考えたこともない。
    だけど大切だった。
    本当に大切だった。

    だから、よけいに不思議だった。

    今日に限って、そのペンダントを見ていると
    別のことを思ってしまう。

    誰かの顔、誰かの声。
    思い出せそうで、思い出せない。
    まるで夢の続きを探しているみたいだった。

    机の上には紙が広げられていた。

    ミクネの誕生日。
    何を贈ろうか?
    以前から考えていた。


    いろいろ考えて…どれもしっくりこなかった。

    もっと大切な何かがある気がした。

    ポーラは再びペンダントを見る。
    その時、
    胸の奥に小さな声が響いた気がした。

    今しかない、と。
    誰かが言ったわけじゃない。
    聞こえたわけでもない。

    ただ、そんな気がした。

    今しかない。
    その言葉だけが残った。

    「今しか……」

    意味は分からない。
    なのに、不思議と迷いはなかった。

    ゆっくりとペンダントを外す。

    月明かりを受けて、
    銀色の表面が静かに輝いた。

    そしてポーラはほほえんだ。
    少し寂しそうに。

    でも、どこか安心したように。

    「これにしよう。」

    そう決めた瞬間だった。
    遠くのアムネリウスの樹が風に揺れる。

    葉がさざめく。
    夜空の向こうで。
    何かが静かに動き始めたような気がした。
    けれどポーラは知らない。
    その意味を。
    そして、明日。
    このペンダントが、
    思いもよらない形で誰かの記憶を揺らすことになることも。
    まだ知らなかった。



    アスタは夢を見ていた。
    いつも見る夢だった。
    誰かがいる。
    姿は見えない。
    けれど、そこにいることだけはわかる。

    小さな家。
    やわらかな光。
    台所から聞こえる包丁の音。
    誰かが食事を作っているようだった。

    懐かしい匂いがする。
    温かい声も聞こえる。

    だけど…
    その声の主だけは思い出せない。

    「だれのために……」

    気づけばアスタはそうつぶやいていた。

    するとその誰かが振り返る。
    しかし顔は見えない。
    まるで光の中に溶けているようだった。

    その瞬間、アスタは目を覚ました。

    静かな部屋だった。
    誰もいない。
    聞こえるのは風の音だけ。

    いつもの朝。
    いつもの景色。
    そしていつもの一人きりの空間。

    アスタはゆっくりと起き上がった。

    なぜだろう。
    最近、あの夢を見る回数が増えていた。

    誰かがいる。
    なのに思い出せない。
    何か大切なものを忘れている気がする。
    そんな感覚だけが残る。

    窓を開けると少しだけ
    風が強く吹き込んだ。

    アスタは小さく息を吐く。

    「さて。」
    「今日も働くか。」

    そう言って花屋へ向かった。


    その日は少し特別だった。
    ミクネの誕生日。
    アスタは朝から落ち着かなかった。

    今年こそ。
    そう思っていた。
    毎年思っていた。
    そして毎年言えなかった。

    けれど今年は違う。

    花だけじゃない。
    もうひとつ渡したいものがあった。
    大したものじゃない。

    自分の気持ちを伝えたかった。

    花の手入れをしながら何度も言葉を考える。
    そして何度も失敗する。
    その時だった。

    店のドアが開いた。

    「は~な、くださいな。」

    聞き慣れた声だった。
    アスタは思わず笑う。

    「はいはい、今年も来たな。」
    「当然。」

    ミクネは得意そうに笑った。
    毎年同じやり取り。
    毎年同じ誕生日。
    そして。

    今年も同じように終わるはずだった。
    アスタが花を手に取ろうとした時。
    ふと視線が止まる。

    ミクネの首元。
    そこに小さなペンダントが揺れていた。

    その瞬間。
    アスタの呼吸が止まる。
    見覚えがあった。

    いや、見覚えという言葉では足りない。

    知っていた。
    ずっと前から。
    そんな気がした。

    「……?」

    ミクネが首を傾げる。
    アスタは慌てて視線を逸らした。

    「どうした?」
    「いや……その。」

    言葉が出てこない。
    なぜそんなに気になるのか分からない。

    ただ、胸の奥がざわつく。

    するとミクネがペンダントに触れた。

    「ああ、これ?」
    「妹のものなの。」

    アスタの心がざわめく。

    「妹……?」
    「うん。」
    「ポーラのものなの。」

    その名前を聞いた瞬間。
    なぜか胸の奥が少しだけ痛んだ。
    理由は分からない。

    いっしょにいるのを見たことはある。
    でも、話したことはない。
    それなのに。

    何かが引っかかる。
    ミクネは笑った。

    「変だよね。」
    「ずっと大事にしてるんだ。」

    アスタは何も言えなかった。
    そして無意識に胸元へ手をやる。

    そこには自分のペンダントがあった。
    古くなった銀色のペンダント。
    子供の頃から持っているもの。

    傷だらけで。
    少し歪んでいて。

    なぜ持っているのかも分からない。
    けれど捨てられない。

    アスタは見つめる。
    ミクネのペンダント。
    自分のペンダント。
    似ている。

    いや…同じだった。

    おなじペンダントがふたつ。

    その事実だけが静かに残る。
    誰も意味を知らない。

    ミクネも。
    アスタも。
    まだ知らない。


    「じゃあ、いつものこれね。」

    アスタは花束を差し出した。
    ミクネは嬉しそうに受け取る。

    「ありがと。」

    その笑顔を見て、
    アスタは用意していた言葉を飲み込んだ。

    また今年も。
    言えなかった。
    ミクネは手を振りながら帰っていく。
    花を抱えながら。
    春の風の中を。

    その後ろ姿を見送りながら、
    アスタはふと夢を思い出していた。

    あの家、あの食卓、あの声。
    そして…顔の見えない誰か。

    「あれは誰なんだろうな……」

    誰に聞くでもなくつぶやく。

    風が吹き花びらが舞う。
    その中にほんのわずかに
    金色の光が混じっていた。

    アスタは気づかない。
    けれどその光は確かにそこにあった。

    まるで長い長い旅路の先から、
    何かが近づいてくるように。


    イオはいつものように人々を観ていた。
    そこに生きる存在たちを。

    それらは風のように世界を巡り続けている。

    イオはそれを観る。
    ただ観る。
    それが自分の役割だった。

    だけど最近、
    ひとつだけ気になることがあった。

    いや…ふたつ。
    気になる存在があった。
    ひとりはポーラ。
    もうひとりは——。


    イオは静かに首を傾げた。
    不思議な感じがした。
    ポーラを見ていると。
    胸の奥がわずかに揺れる。
    その感覚を説明する言葉をイオは知らない。

    「懐かしい。」
    もし言葉にするなら、そんな感覚に近かった。

    会ったことはない。
    触れたこともない。

    なのに、ずっと前から知っているような。
    そんな気がする。

    ポーラが笑う。
    するとイオも少しだけその姿を見つめる。

    なぜだろう、視線を向けてしまう。
    理由は分からない。
    ただもっと見ていたいと思った。

    そしてイオは気づく。

    「もっと見ていたい」

    そんなことを思ったのは初めてだった。

    観ることと。
    見ていたいことは違う。
    その違いが分からない。

    だけど、何かが違うことだけは分かった。

    イオは空を見上げる。
    アムネリウスの葉が風に揺れていた。

    その光景を見ながら、
    再びもうひとつの存在へ意識を向ける。

    キーカ。

    すると、今度は別の違和感が生まれた。
    見える。
    確かに見える。
    そこにいる。
    笑っている。
    歩いている。
    話している。

    なのに、何かおかしい。
    まるで輪郭だけが少し曖昧になっているようだった。

    いや、もっと別の何か。
    人を見ている感覚と違う。
    木を見る感覚とも違う。
    風とも違う。
    光とも違う。

    イオは初めて言葉を失った。

    理解できない。
    今までなら理解できた。

    悲しみも、喜びも、迷いも、
    すべて観測できた。
    なのに。

    キーカだけは違う。
    理解できない。いや…
    理解するための形が存在しない。
    そんな感覚だった。

    「あなたは……」

    思わずつぶやく。
    けれど続きは出てこない。
    キーカは何も知らない。
    いつも通り笑っている。
    ただそれだけ。
    それなのに…

    イオの中では小さな波紋が広がっていた。

    ポーラを見ると懐かしい。
    キーカを見ると分からなくなる。
    その二つの感覚はまるで正反対だった。

    だけど…
    なぜか、どちらも目が離せなかった。

    風が吹く。
    金色の粒子が葉の間を流れていく。
    アムネリウスは静かに揺れていた。
    まるで何かを待っているように。

    そしてイオもまた、
    知らないうちに、
    何かを待ち始めていた。

    それが何なのか、
    まだ自分でも分からないまま。



    ロームは空を見ていた。
    どこまでも続く夜空だった。
    無数の星々が静かに瞬いている。
    その光を見つめながら、ロームは小さく息を吐いた。

    遠い昔、いや…
    それがどれほど前だったのかさえ、もう思い出せない。

    数え切れないほどの星を見てきた。
    生まれる星。
    消えていく星。
    芽吹くことなく終わったアムネリウス。
    大きく育ちながらも、開花に届かなかったアムネリウス。

    あと少しだった星もあった。
    本当にあと少しだった。
    だけど届かなかった。
    光は集まらなかった。
    想いは繋がらなかった。
    そして星は静かに消えていった。

    ロームはそのすべてを見てきた。
    止めることもできず。
    ただ見送ることしかできなかった。

    風が吹く。
    ロームは視線を上げた。
    アムネリウスの樹が見える。
    その枝先には、
    まだ誰も気づかない小さな変化があった。

    葉の一枚一枚が、
    まるで夜空を映すようにわずかに揺れている。

    ロームは静かに微笑んだ。

    「そうか……」

    その声は風に溶けていく。

    「ここまで来たんだね。」

    まるで誰かに語りかけるように。
    あるいは…
    長い旅を続けてきた友に語りかけるように。

    ロームはアムネリウスを見上げた。
    そして小さくつぶやく。

    「これなら……。」
    「アムネリウスは星を渡れる。」

    その言葉を聞く者はいない。
    だけどロームの瞳には、確かな安堵が宿っていた。

    長い長い旅路の果てに。

    ようやく辿り着こうとしている何かを見届ける者のように。



    ミクネの誕生日の日。
    用事があって訪れたアスタは、そこで初めてポーラと出会う。
    何気ない挨拶の最中、ポーラはアスタの胸元の
    古びたペンダントに目を留めた。

    「……いっしょだ。」

    自分の持つペンダントと同じ形。
    しかも刻まれた傷や擦れ方までどこか似ている。

    ポーラは不思議そうに語り始める。
    二人のペンダント。
    途切れた文字。
    そしてずっと昔から見続けているという不思議な夢の話を。

    やがてミクネも加わり、
    ポーラは「見せたい場所があるの」
    今晩、二人を丘へ誘う。

    アスタにとっては初めて訪れる場所だった。

    けれど、道中で語られるポーラの夢
    ——光る船に乗って星々を旅する話を聞くうちに、
    胸の奥がざわめき始める。

    (どこかで聞いたことがある……。)

    そう思うのに思い出せない。
    知らないはずなのに懐かしい。
    初めて来るはずの場所なのに、
    なぜか帰ってきたような気持ちになる。

    その時だった。

    丘を吹き抜ける風が、ほんのわずかに金色を帯びる。
    誰も気づかないほどのわずかな変化。
    けれど世界は確かに動き始めていた。

    まるでアムネリウスが、
    静かに開花の刻へ向かって呼吸を始めたかのように。



    丘の上には静かな風が吹いていた。
    ポーラは空を見上げていた。
    まるで何かを待つように。

    いや…
    ずっと前から知っていたものを迎えに来たように。

    「ねえ。」

    ポーラはぽつりと言った。

    「わたしね、いつも同じ夢を見るの。」

    ミクネとアスタは黙って耳を傾ける。

    「起きると忘れちゃうの。」

    「でも最近ね。」

    ポーラは微笑んだ。

    「ちゃんと思い出せるようになったんだ。」

    風が吹く。
    丘の草花が揺れる。

    「今日が、その日なの。」

    ミクネの胸が小さくざわついた。
    何か変だ。
    いつものポーラなのに。
    どこか違うような感じ。
    まるでずっと遠くを見ているようだった。

    気づけば辺りには淡い金色の光が漂っていた。

    夕陽でもない。
    灯りでもない。
    風そのものが光をまとっているようだった。

    そして、
    その光は少しずつポーラの周りへ集まり始める。
    まるで帰る場所を知っているかのように。

    「ポーラ……?」

    ミクネが呼ぶ。

    ポーラは振り返った。
    その顔は不思議なくらい穏やかだった。

    「ありがとう。」

    その言葉にミクネの胸が締め付けられる。

    「…先に行くね」

    金色の光が強くなる。
    風が舞う。
    光が舞う。
    そして。

    ポーラの姿は黄金の輝きの中へ消えていった。

    まるで最初から光だったかのように。

    「ポーラ!!」

    ミクネは叫んだ。
    けれど返事はなかった。
    ただ優しい風だけが残っている。

    その時だった。
    隣にいたアスタの体からも金色の光があふれ始めた。

    「……」

    ミクネは言葉を失う。
    アスタは空を見上げた。
    そして胸元のペンダントを握りしめる。

    「そうか……」

    小さく呟く。

    「やっと分かったよ。」

    風が吹いた。
    どこか懐かしい風だった。
    ずっと昔から知っていたような。
    そんな風だった。
    アスタは微笑む。

    「ありがとう。」
    「おれも……行くよ。」

    金色の光がアスタを包む。
    その姿は静かに薄れ、
    やがて光の中へ消えていった。

    ミクネだけが残された。
    呆然と立ち尽くす。
    すると遠くで光が上がった。

    ひとつ。
    またひとつ。
    さらにひとつ。

    この世界のあちこちから金色の輝きが空へ昇っていく。

    風が舞う。
    光が舞う。
    世界そのものが呼吸を始めたようだった。

    ミクネは自然と空を見上げた。

    アムネリウス。
    その巨大な樹が淡く光っている。

    そして次の瞬間、景色が変わった。

    「…ここは?」

    分からない、だけど怖くない。
    とても静かで、穏やかだった。
    ずっと昔から知っている場所のようだった。

    向かうべき場所のような…
    そんな言葉が胸をよぎる。

    そこに、ひとりの少女が立っていた。

    ミクネはその姿を見つめる。
    初めて見るはずなのに。
    なぜか懐かしい。
    なぜか胸が痛い。
    なぜか涙が出そうになる。
    まるで…
    今、別れた誰かのような既視感。

    少女は静かにミクネを見つめた。
    そして小さくつぶやく。

    「……そう」

    「次はあなたなのね」

    ミクネは言葉を失った。
    少女を見つめる。
    そしてゆっくりと口を開く。

    「…私は…」

    その先の言葉だけが…まだ見つからなかった。




    イオはずっと見ていた。
    誰よりも長く。
    誰よりも近く。
    ポーラという存在を。

    最初は理由などなかった。
    ただ目が離せなかった。
    観測していただけだった。
    そう思っていた。

    ポーラが笑う姿を。
    ポーラが泣く姿を。
    ポーラが夢を語る姿を。
    ポーラが空を見上げる姿を。
    ただ見ていただけ。それだけのはずだった。

    だけど、今になって思う。
    本当にそうだったのだろうか。

    静かな風が吹く。
    どこまでも続く金色の光。
    世界そのものがやわらかく輝いていた。

    イオは目を閉じる。
    すると次々に思い出が浮かんでくる。
    丘の上で語られた夢。
    星々を旅する光る船。
    無邪気な笑顔。
    少しだけ寂しそうな横顔。

    そして、誰かを信じる眼差し。

    イオは不思議だった。
    なぜそれを思い出しているのか。
    なぜそれを忘れたくないと思うのか。

    なぜ…
    胸の奥がこんなにも騒がしいのか。

    「……?」

    分からない。
    今まで感じたことのない感覚だった。
    ただ、どこか懐かしかった。

    まるで…
    ずっと前から知っていた場所へ帰るような。
    最初からそこへ向かっていたような。
    そんな既視感。

    イオは再び目を開く。

    その先に、光の航路が見えた。
    無数の光が流れている。
    風のように。
    川のように。
    空へと続いている。
    そしてその中を、
    ひとつの小さな光が進んでいた。

    ポーラだった。
    もう人の姿ではない。

    だけど、イオには分かった。
    あれが誰なのか。
    なぜだか分かった。
    ポーラは振り返らない。
    迷いもない。
    ただ真っ直ぐ進んでいる。
    ずっと見たかった場所へ向かうように。
    ずっと待ち続けていたものを迎えに行くように。

    イオはその姿を見つめていた。

    本当に長い間、
    観測し続けてきた。

    だけど今、初めて思う。

    とてもきれい。

    その言葉すら知らなかったはずなのに。
    なぜかそう思った。
    そしてその瞬間。
    イオの周りにも金色の光が集まり始める。

    静かだった。
    驚きもない。恐れもない。

    ただ、心地よかった。
    風が吹く。
    光が舞う。
    イオは最後にもう一度だけポーラを見た。
    その光はもう遠い。
    けれど不思議と遠く感じなかった。
    ずっと近くにいるようだった。
    ずっと。。。
    最初から、そうだったように。
    イオは小さく目を閉じる。

    そして。

    金色の風の中へ消えていった。
    まるで最初から光だったかのように。
    静かに。
    誰にも気づかれないまま。
    ただひとつの輝きとなって。



    その日の夜だった。
    家の中は静かだった。
    静かすぎるほどに。
    レオは母の枕元に座っていた。
    呼吸が荒い。以前よりも苦しそうだった。

    それなのに。。。
    母の表情はどこか穏やかだった。
    まるで何かを待っているように。

    母はゆっくりと目を開く。
    そして小さく微笑んだ。

    「レオ。」

    「なに?」

    レオは身を乗り出した。
    母は少しだけ遠くを見るような目をした。

    「光る森へはね。」
    「お母さんが先に行くね。」

    レオは言葉を失った。

    …先に。
    その言葉だけが胸に引っかかった。

    先にって…
    どういう意味だろう。

    聞こうとした、だけど聞けなかった。
    母はもう別の何かを見ているようだったから。

    遠い記憶。
    懐かしい景色。
    ずっと忘れていた何か。
    そんなものが少しずつ戻ってきているようだった。
    そして母は小さくつぶやく。

    「ありがとう。」

    その声はとても優しかった。
    部屋の中に金色の光が漂い始める。

    最初は一つ。
    やがて二つ。
    三つ。
    光は静かに舞いながら母の周りへ集まっていく。

    レオは不安になった。
    急に怖くなった。

    「キーカ!」

    立ち上がる。

    「キーカ!!」

    母が不思議そうな顔をした。

    「……キーカ?」

    「うん!」

    「いつも一緒にいるだろ!?」

    そして。

    「いつも遊んでる娘さん?」

    そう言った。

    「そうだよ!?」
    「すぐ呼んでくるから!」

    だが母は静かに言った。

    「…レオ…」

    「この家にはね、お母さんとレオの二人だけよ。」

    その瞬間だった。
    部屋の扉が開いた。
    キーカが駆け込んでくる。

    「お兄ちゃん!」

    「お母さん!」

    だけど、母の視線はキーカを通り過ぎていた。
    まるでそこに誰もいないかのように。

    レオの背筋を冷たいものが走る。

    キーカを見る。
    いつもと同じ。
    いつも通りの妹。
    なのに…

    どこか違う。
    体の輪郭が薄い。
    うっすらと向こう側が透けて見える。

    そして…
    金色の光がその周りを漂っていた。

    「……キーカ?」

    レオはつぶやいた。
    キーカも不安そうに笑う。
    だけど何も言わない。

    母はレオを見つめた。
    とても優しい目だった。

    「……ありがとう。」

    誰に向けた言葉だったのか。
    レオには分からなかった。
    次の瞬間、母の体が光に包まれる。

    金色の輝き。
    暖かい光。
    そして。
    母は消えた。
    目の前から。
    レオの世界から。

    「お母さん……?」

    声が震える。
    返事はない。
    光だけが残っていた。
    そしてその隣で、
    キーカもまた静かに微笑んでいた。

    「お兄ちゃん。」
    「もう大丈夫だね。」

    (何が…)

    (何が大丈夫なんだ…)

    言葉にならない。。。

    キーカは少し寂しそうに笑った。

    「じゃあ…行くね…」

    体がさらに透けていく。
    光の粒が舞う。

    「待って……。」

    レオの声は届かない。

    「行くって……」
    「どこへ……」

    意識が揺れる。
    世界が歪む。
    金色の光。

    いろんな思いが混ざり合う。

    そして…
    レオの意識は静かに沈んでいった。
    まるで深い眠りへ落ちるように。

    その先に、あの場所があった。

    わずかに金色に輝く空間。
    どこまでも静かな世界。

    その場所には、
    ひとりの旅人が待っていた。

    ロームだった。



    母とキーカが消えたあと、
    レオは深い眠りへ落ちていくような感覚に包まれていた。

    胸の奥が空っぽになったような気がする。
    それなのに不思議と恐怖はなかった。

    まるでここへ来ることが、いや――
    最初からここにいたことを思い出しているような感覚だった。

    周囲は静かな金色の世界。
    空とも地面ともつかない場所。
    遠くまで続く光の粒が、風のように流れていた。
    その先に、一人の旅人が立っている。

    ロームだった。
    レオは驚かなかった。
    二人とも、再会を約束していたわけではない。
    だけど、ここで会うことを知っていたような気がした。

    しばらく沈黙が続いた。
    そしてロームが口を開く。

    「…どうだったかな、この世界は…」

    レオは少し考えた。
    長い時間考えた気もするし、一瞬だった気もする。

    「…楽しかったよ…」

    そう答えたあと、少しだけ笑った。

    「大変だったけどね…」

    ロームは静かに頷いた。

    「…そうか…」

    その声はどこか嬉しそうだった。
    やがてロームはレオを見つめこう告げた。

    「…レオ…きみが次のロームだ」

    金色の風が流れた。
    だけどレオは首を横に振る。

    「…でもねローム…」

    その声は穏やかだった。

    「ぼくは次のロームにはならないよ」

    ロームは何も言わない。
    ただ続きを待っている。

    「今ならわかるんだ」
    「ぼくたちは別の何かになるんだって」
    「花かもしれない」
    「木や草かもしれない」
    「誰かになるのかもしれない」

    レオは光の向こうを見つめた。
    そこにはたくさんの気配があった。

    母
    キーカ
    セト
    マートル
    アスタ
    ポーラ
    ミクネ
    そして…イオ

    みんながどこかへ向かっている。
    消えたのではない。
    進んでいる。
    そんな気がした。

    「ぼくね」

    レオは小さく笑った。

    「もう一度やり直したいんだ」
    「もう一度、生きてみたい」
    「今度はもっといっぱい笑って」
    「もっといっぱい遊んで」
    「もっとたくさん誰かと話したい」

    ロームは静かに目を閉じた。
    否定しなかった。
    説得もしなかった。
    ただその言葉を受け止めた。

    長い沈黙のあと、
    ロームはわずかに微笑んだように見えた。

    「そうか」

    その一言だけだった。

    次の瞬間、ロームの身体が無数の光の粒へと変わり始める。

    風の中に消えるように。
    夜空へ還るように。
    金色の粒子は静かに舞い上がり、
    彼方へ消えていった。

    レオはその光を見送った。
    不思議と寂しくはなかった。
    なぜなら終わりではないと知っていたから。

    その頃、この星にある変化が起きていた。

    街の上空に。
    森の上に。
    海の向こうに。
    世界中に金色の光が溢れ始める。
    人々が見上げる。
    風が輝く。
    空が輝く。
    そしてアムネリウスの樹が光り始めた。

    伝承では開花と呼ばれていた。
    だが、それは花ではなかった。
    巨大な樹は輪郭を失いながら光へと変わっていく。

    枝も葉も幹も。
    すべてがまばゆい輝きへと姿を変える。

    それは樹の終わりではなく本来の姿だった。
    やがて光は樹だけではなく、大地へ広がる。

    山々へ。
    川へ。
    海へ。
    空へ。

    この星そのものが一つの巨大な光となっていく。
    世界が変わっていく。
    壊れるのではない。
    失われるのでもない。
    旅立つのだ。
    長い長い刻を超えて。
    星々の海へ向かって。

    レオはその光景を見つめていた。
    そして静かに歩き出す。
    急ぐ必要はなかった。
    時間というものが、
    もう意味を持たなくなっていたからだ。

    光の航路は彼方へ続いている。
    その先に何があるのか。
    誰も知らない。
    だけどレオは迷わなかった。

    一歩、また一歩。
    金色の光の中へ。
    まるで最初からそこへ向かっていたかのように。



    終幕

    たくさんの出会いがあった。
    たくさんの別れがあった。
    悲しみも、迷いも、
    言葉にならなかった想いもあった。

    そのすべては、
    やがて一つの光となりこの星を包み込んでいった。

    そして、この星の物語は静かに幕を閉じる。

    だけど、それで終わりではない。
    また別の星で始まるのかもしれない。
    あるいは、ずっと遠い未来に。
    もしかしたら、誰も知らない場所で。
    あるいは…
    どこかで見たことのある景色の中で。

    その物語を目にすることはないのかもしれない。
    その名を知ることもないのかもしれない。

    それでも、きっと…
    そこには誰かがいて
    誰かを想い
    誰かに想われ

    そしてまた、一つの物語が生まれる。

    小さな種から始まったその物語は、
    やがて大きな花を咲かせるだろう。

    金色の風とともに。
    黄金の輝きとともに。

    「アムネリウスは宇宙(そら)を舞う。」

    そして――


    これは…
    想いが星々を駆け巡る生命(いのち)の物語。


    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

     
     
    答えを集めるより、 自分だけの原理を育てたい。 AIとの対話を通して思想を磨き、 現実との対話を通して更新する。 その思考の軌跡を、 このnoteに残しています。

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