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連載 加藤光泰と大洲藩加藤家の歴史                             第9章 歴代十三人の大洲藩主

    第9章 歴代十三人の大洲藩主(概略)
    第四章から第七章にかけて幕藩体制下における大洲藩主の動向を追った。
    第八章では明治以降の近代加藤家の家族についての情報を整理してみた。
    その結果、加藤家は近代になっても大洲藩時代と変わらず家督継承を重視した婚姻や養子縁組を続け、旧大名家などとの関係を重んじていたことがわかった。

    しかし、一方で、嫁いだ娘が実家の母と強い絆を保っていたことが具体的に確認できた。また、孫や従兄弟・従姉妹など、二世代にわたって縁組関係が持続し、直系と傍系、父方と母方の区別なしに関係が広がっていたことも明らかになった。
    これらのことは大洲藩時代の記録からはあまり読み取れない事柄であった。これを念頭に置きながら、本章では、改めて歴代十三人の大洲藩主を俯瞰し、個々の藩主ではなく全体を通して見えてくる傾向や特徴について考察する。

    とくに家督継承に焦点を当て、さらに家督を継がなかった男子により創出される分家の存在も取り上げる。
    また親族のネットワークについて考えるために藩主の母の実家との関係、藩主の娘の嫁ぎ先との関係についてあらためて検討する。

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    上に示した一覧は、十三人の大洲藩主の家督継承時の年齢、死亡年齢、在位期間について整理したもので、さらに出自の区分や(嫡出か庶子か)、養子、正室の実家、成人した子女の数などもまとめている。『加藤家系譜』には歴代藩主の生年、母の出自、家督を継承した年、婚姻した正室の実家、死亡年などは必ず記されてた。なお参考までに、世子のまま亡くなった泰義も一覧に加えた。

    9-1 家督継承と分家の創出

    大洲藩の家督継承
    大洲藩では年若くして藩主となる例が多かった。
    二十歳以上になって家督を継いだのは四代泰統(やすむね)のみで、十歳代での継承が十名、さらに十歳未満での継承も二名存在する。

    家祖加藤光泰(みつやす)が初めて城持ちとなったのは天正十一年(1583)、四十七歳の時であった。
    木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に仕え、十五年余り戦場での功績を重ねた末のことである。

    光泰の嫡子の貞泰(さだやす)は、伯耆米子六万石を経て、元和(げんな)三年(1617)、伊予大洲六万石の城主となった。
    家督継承年齢は十五歳であるが、大洲藩主となったのは三十七歳のときであった。

    初代大洲藩主の貞泰までは戦場で戦って城主という地位を勝ち得てきた。
    大名としての責任と権威にふさわしい年齢となると、光泰や貞泰のように十分に戦功を重ねた三十代から四十代の壮年期ということになろう。
    しかし江戸時代の大洲藩主には、それに該当する者は一人もいなかった。

    二代藩主の泰興(やすおき)は十二歳で将軍との「初御目見得はつおめみえ」を果たして公的に嫡嗣として認定された。
    十三歳で藩主となるが、若すぎるとの理由から将軍家への拝謁には家老が付き添った。
    十五歳になって従五位下、出羽守に任じられ、成人藩主として認められた。

    当時の「成人」の定義は曖昧であるが十五歳が一応の目安と考えられる。
    十五歳以上で藩主となったのは七名であった。
    ただし、十五歳で光泰の家督を継いだ貞泰は若年を理由に甲斐二十四万石の国主は継承できず、美濃黒野四万石に所替えとなっている。

    家督を継承する年齢が早いのは、先代の藩主が若くして死去することと関連している。
    大洲藩主は一般に短命であった。
    五十歳を超えて藩主の座にあったのは二代泰興と三代泰恒(やすつね)の二名のみである。
    六代泰衑(やすみち)は五十七歳で死去しているが、三十五歳のときに隠居しており、藩主としての在位は長くない。
    十三代泰秋は長寿であったが、家督を継承してわずか五年で版籍を奉還している。

    以下に、二代泰興から十三代泰秋までの家督継承についてまとめてみる。

    二代泰興は、父が四十四歳で死去したため十三歳で家督を継いだ。
    若年ゆえの苦労も多く、弟への領地分知を巡って母法眼院(ほうげんいん)と対立することとなる。
    泰興は五十年以上藩主の座にあった。

    その間に嫡子の泰義は官位を得て、父が江戸に参勤中には世子(せいし)として藩務を担った。
    藩主と成人世子の二者体制は約二十年続いている。
    このように経験を積んだ世子が次期藩主となるのが理想といえるが、大洲藩では泰義以外に世子が長く藩務を担った例はない。

    そして先代が長命である場合にも問題も起こる。
    嫡子の泰義(やすよし)は父に先立ち四十歳の若さで死去してしまうのである。

    三代泰恒(やすつね)は泰興の嫡孫であった。
    十一歳で初御目見得を済ませ、十五歳で従五位下、遠江守に任じられたが、藩主となったのは十八歳のときである。
    先代泰興の隠居による継承であった。

    大洲藩において隠居による家督継承は泰興と六代泰衑(やすみち)の二例のみで、また嫡孫による継承は泰恒しかいない。

    四代泰統(やすむね)は、父が五十九歳で死去、二十七歳で藩主となった。
    先代泰恒は、せっかく授かった嫡子が早世、その後は正室との間に男子が得られなかったため、庶子の泰統が家督を継承した。
    庶子の藩主は、これが初めての例となる。

    藩主は少なくとも五十歳代までは務め、二十歳を過ぎた後継者に跡を譲るのが望ましいとすれば、泰恒と泰統の間での家督継承が理想的といえる。
    二人の年齢差は三十二歳であった。
    しかし、泰統は三十九歳で病死し、これ以降、大洲藩では若年の藩主が続く。

    五代泰温(やすあつ)は十二歳で藩主となった。
    秋月藩黒田家との縁約が五年後に解約となるという事情もあり、正室を迎えたのは二十三歳で、かなり遅かった。
    結局、嫡男を得ることなく三十歳で病死、大洲藩加藤家は初めて他家から養子を迎えることとなった。

    六代泰衑(やすみち)は十八歳で分家の池之端加藤家から婿養子として迎えられ、大洲藩加藤家の家督を継承した。
    しかし泰温の嫡女が早世したため、実際には婿養子ではなかった。
    一方、泰温の死の直後に遺児の泰武が誕生していた。

    養子としての立場が微妙になった泰衑は、あえて他家から正室を迎えず、遺児を自分の養子に迎えて元の加藤家の血筋に戻すことを考え、泰武が十八歳になると早々に隠居して家督を譲った。
    こうして二代続けて養子による相続が行われるが、混乱はさらに続いた。

    七代泰武(やすたけ)は在任六年、男子が得られないまま二十四歳で病死し、再び養子が必要となった。

    八代藩主となったのは先々代泰衑(やすみち)の庶子で十六歳の泰行(やすゆき)であった。
    泰武は泰衑の養子となっていたので、名目上は泰行の兄になる。
    つまり順養子という形の家督相続であった。
    泰衑は血筋を本来の系統に戻すつもりであったのに、結局自分の血筋が引き受けることとなった。
    そして泰行は半年後に十七歳で死去、再び養子による家督相続となった。

    九代泰候(やすとき)も泰衑の庶子で四男にあたる。
    十歳のとき実兄の順養子となって家督を継いだが、官位を受け藩主としての務めを果たすのは五年後であった。
    そして、二十八歳で病死した。

    十代泰濟(やすずみ)は先代泰候の実子で、四代続いた養子による家督継承はここで終わった。
    しかし、泰濟が藩主となったのはわずか三歳のときである。

    この間の養子関係はかなり複雑なので整理しておく。
    最初の泰温と泰衑の関係は、分家とはいえ、他家との養子縁組であった。
    しかし、次に三回続いた養子縁組は、他家との間ではなく兄弟間の順養子である。
    二番目の泰衑と泰武の関係は、形式上は兄の家督を弟が継ぐ順養子であった。
    泰衑は泰温の養子となったため、その後に生れた泰温の実子の泰武は系譜上は弟になるからである。

    三番目の養子縁組となった泰武と泰行の場合も同様の順養子であった。泰武は泰衑の養子となったため、泰行の兄として位置づけられていた。

    最後の養子縁組となる泰行と泰候の関係だけは、実の兄弟による文字通りの順養子であった。

    十代泰濟(やすずみ)は四十六歳で死去した。
    三代続いた短命の藩主に比べれば在任期間は長かった。
    それでも家督を継いだ泰幹(やすもと)はまだ十三歳であった。

    十一代泰幹は四十一歳で病死し、泰祉(やすとみ)が九歳で家督を継いだ。
    藩主が若くして死去すると、次代が成人前に藩主となるという悪循環が繰り返されることとなる。
    十二代泰祉は二十一歳で病死し、再び養子による家督継承が必要となった。
    十三代泰秋(やすあき)は十八歳で、実兄である泰祉の順養子として家督を継いだ。

    改めて振り返ると、大洲藩では藩主に後継者となる実子の男子がいないため養子が家督を継承するという例が少なくない。
    十二回の家督継承で、五回は実子以外の養子が家督を継いでいる。
    ただし、分家である池之端加藤家から養子に迎えられた第六代泰衑を除けば、残る四回は弟が家督を継ぐ順養子の形をとっていた。

    また、歴代十三人の大洲藩主で先代の嫡男はわずか三人に過ぎない。泰恒は嫡孫である。また、泰衑は養子で、他家の嫡男であった。
    しかも嫡男が藩主を継承したのは五代泰温までであった。七代藩主泰武以降の七名は、いずれも正室ではなく側室が生んだ庶子であった。

    藩主は、すみやかに他の藩の大名家から正室を迎えて嫡男を儲ける。
    その子はしかるべき年齢に達すると将軍家への初御目見得によって公的に嫡嗣として認定される。
    その後、叙位官職を受けて世子(せいし)となり、やがて先代が隠居あるいは死去すれば新たな藩主となる。

    この条件はそれほど厳しいとは思わないが、実際にはそう簡単ではなかった。
    驚くべきことに、大洲藩加藤家では、初代から第十三代藩主に至る二百五十年余の間、これらをすべて満たした家督継承は一度もなかったのである。

    大洲藩加藤家の分家
    次に、家督を継承しなかった男子について見ておきたい。
    大洲藩の歴史の中では一般に無視される存在である。

    初代貞泰の弟である光直(みつなお)は加藤家で最初に分家を興した。
    まだ貞泰が美濃黒野の領主であった頃、「関ケ原の合戦」において、光直は徳川方の人質として江戸に送られた。
    家康はこれを高く評価し、戦後になって徳川幕府の旗本として処遇し、美濃国大野郡公郷村(くごうむら)三千六百石を光直に与えた。
    光直は、二代泰興の代に新谷藩内分をめぐる内紛の調停に関与し、加藤家の親族代表としての役割を果たしている。
    『加藤家系譜』には分家した光直家の系譜が幕末にいたるまですべて記録されている。

    二代泰興の弟の直泰も分家を興した。
    直泰は大洲藩領内に一万石の分知が認められ、新谷(にいや)藩の初代藩主となった。
    新谷藩の最後の藩主は第九代の加藤泰令で、後に子爵を授けられている。

    所領を分知されると「支藩」と呼ばれ、所領は本藩から差し引かれるのが通例であるが、大洲藩の場合は、まだ幕府において分知の定めが明確になっていなかったため、所領は六万石のままとし一万石は内分として扱われた。
    また支藩という呼称も用いられなかった。

    新谷藩の分知に際しては数年に及ぶ兄弟間の内紛があり、ようやく親族の調停によって決着したという経緯があったためか、大洲藩と新谷藩の関係はやや微妙であった。

    それでも大洲藩加藤家は新谷藩加藤家としばしば縁組を行なっている。
    大洲藩の世子であった泰義の庶子泰觚(やすかど)は新谷藩加藤家の直泰の養子となり二代目の藩主となった。
    大洲藩三代藩主の泰恒の七男泰廣(やすひろ)も新谷藩の養子となり新谷藩四代藩主の座を継いでいる。
    また六代藩主泰衑(やすみち)の五女並(なみ)は新谷藩の六代藩主泰堅のもとに嫁いでいる。

    二代泰興には世子となった嫡男泰義の他に二人の庶子がいた。

    家督は嫡男の泰義が亡くなったため嫡孫の泰恒が継ぐことになったが、分家した次男の泰堅(やすかた)には三千石が与えられた。
    泰堅は高位旗本として大坂町奉行などにも任じられたが、配下の不始末により免職となり、子孫を残さず死去したため、この分家は一代で消滅した。

    同じく庶子で三男の泰茂にも分家が認められ三千石が与えられた。
    泰茂も高位旗本となった。後に「池之端加藤家」と呼ばれる。

    泰茂家と大洲藩加藤家はしばしば縁組を繰り返した。
    泰茂には嫡子がいなかったため大洲藩加藤家から三代泰恒の六男泰都(やすさと)が養子となって家督を継いだ。
    その泰都の嫡男藤馬が大洲藩五代泰温(やすあつ)の養子となった。
    第六代の泰衑(やすみち)である。
    さらに泰衑の六男泰豊が池之端加藤家の泰輔の養子となり家督を継いだ。
    この縁組の際に大洲藩は泰豊に三千石を与えている。

    しかし、池之端加藤家の分立以降、大洲藩加藤家では新たな分家は生じていない。
    分家が成立したのはいずれも十七世紀の貞泰と泰興の時代である。
    次の世代の世子泰義や三代泰恒の男子で大洲藩の家督を相続しなかった者は、いずれも加藤家の分家側から求められて養子となった。

    四代泰統(やすむね)以降は藩主が儲けた男子の数が少なく、本家を維持するだけでも困難な状況になっていた。
    先に示した一覧表を見るとわかるように、六代の泰衑は六男と多くの男子に恵まれたが、それ以外は男子がいないか一人という場合が続いた。

    泰衑の儲けた六名の男子はすべて養子縁組を行なっている。
    二人が大洲藩加藤家、一人が分家の池之端加藤家、その他に下野(しもつけ)の喜連川(きつれがわ)家、新発田藩の分家横田溝口家、黒羽藩大関家の養子となって家督を継いだ。
    どの藩でも継承者の確保には苦労していたことがうかがえる。

    久々に複数の男子に恵まれた十代泰濟(やすずみ)の長男泰幹は大洲藩の家督を継ぎ、次男の濟健は禄八千石の旗本杉浦家、四男濟忠は池之端加藤家の養子となった。

    十一代泰幹の二人の男子はいずれも大洲藩家督を継ぎ、十二代の泰祉(やすとみ)、十三代泰秋となった。

    分家の創出は、当初は家督継承者以外の処遇策であり、本家を支える機能を持っていた。
    また大きな存在意義としては、本家で家督継承が困難になったときに養子の供給先となることが期待され、たしかに池之端加藤家から養子となった泰衑が六代藩主となった。

    しかし、実際には分家の側の新谷藩加藤家や池之端加藤家が本家から養子を迎えることの方が多かった。
    分家も男子が得られず家督継承に苦労していたのである。
    このような理由から、池之端加藤家が分家となって以降、新しい分家は出来なかった。
    すでに分家は三家も存在しており、これ以上分家を増やす必要はなかった。むしろ他家に養子を出して新たな縁組関係を築く方が有益な選択であったといえる。

    ところで分家に関しては『加藤家系譜』にどのような形で掲載されていたのかを簡単に触れておく。
    加藤光直家の系譜は貞泰の弟の位置を起点としている。
    まず光直に関する簡単な記載があり、その後、十一代にわたる継承者の名前が列記されていた。
    分家の系譜が一括して挿入される形式である。
    この光直家の系譜が終わると、あらためて貞泰の次代の記録となる。

    新谷藩加藤家の系譜は二代泰興の弟の位置から始まる。
    やはり初代新谷藩主直泰の後に九代にわたる家督継承者の名が列記される。光直家に比べると情報量はやや多いが詳細な記述はない。

    次に分家を興した加藤泰堅は、二代泰興の子女の代に詳しい記載があるが、後継者を残さず死去したためこの分家は途絶えた。

    池之端加藤家の系譜は、泰興の三男泰茂を起点としている。
    泰茂の次世代は、本家からの養子である泰都の記録が「實は遠江守泰恒の男子なり。室は谷口長右衛門正次の娘・・・」として続く。
    その次の代は、長男として藤馬・泰衑の名があり、
    「遠江守泰温の養子となり家督を継いで、豫洲大洲城主となり禄六万石を領す。始め実父泰都方に在るとき・・・」
    として、将軍家重の御扈従(おこじゅう)になるまでの履歴が記されている。

    このように、池之端加藤家は大洲藩加藤家と養子縁組を結んだためか、やや詳細な記述になっている。
    その後は藤馬(泰衑)の弟の位置に池之端加藤家を継いだ泰啓の記録があり、以降、代々の家督継承者の名前のみが列記される。
    大洲藩主となった泰衑の本記は、『加藤家系譜』のかなり後の頁にあり、五代泰温の長子の位置に掲載されている。


    9-2 藩主の母の実家および娘の嫁ぎ先

    藩主の母の実家との関係
    『加藤家系譜』には藩主がいつ、どの家から正室を迎えたのかが詳しく記されている。
    縁約のみで婚姻が成立しなかった場合にも、その旨が記載され、また正室が死去した後に継室を迎えたときも、その相手の家の情報が記録された。

    歴代の大洲藩主にとって、確実に家督を次代に継承させるためには、子を儲けることが最重要課題とされた。
    そこで、できるだけすみやかに他家から正室を迎えることになる。

    しかし、藩主の婚姻は単に嫡男を得るためだけではなかった。
    藩主の縁組は、双方の家にとって強固な縁戚関係を築く契機であった。
    とくに嫡男が生まれ、それが次代の藩主となれば、先代藩主の正室の実家は新藩主の母の実家という二重の絆となり、二世代にわたって強い縁組関係が持続することになる。

    明治期において、加藤家当主の泰秋は徳大寺家から福子(とみこ)を正室に迎え、やがて福子が生んだ嫡子泰通が大正期に家督を継いだ後も、加藤家と徳大寺家は二世代にわたる緊密な結びつきを保った。
    福子は徳大寺家の中では二歳年上の兄で西園寺家の養子となった公望(きんもち)ととくに親しかった。
    西園寺公望は明治三十九年(一九〇六)に内閣総理大臣となり「最後の元老」と呼ばれた政治家である。
    公望は加藤家に嫁いだ福子の娘や孫の縁組などにも気を配ったという。

    しかし、歴代の大洲藩主については、このような強い縁戚関係の絆はあまり読み取れなかった。
    藩主の正室の実家との関係が見えにくい理由の一つは、それが世代を超えて持続する例が少なかったことにある。

    「大洲藩の家督継承」で触れたように、先代の嫡男として家督を継いだのは初代貞泰、二代泰興と五代泰温の三人のみであった。
    三代泰恒は嫡孫であり、母は世子のまま死去した泰義の正室であった。
    それ以外の藩主は庶子、あるいは他家からの養子で「藩主の母」が存在しない。
    つまり、藩主の母の実家とは繋がりがなかった。
    嫡出と庶出のもっとも大きな違いはこの点にある。

    このような事情から、大洲藩では先代藩主の正室の実家が次の新藩主の母の実家となり、二世代にわたって強い縁組関係が持続するという例がほとんど見られなかった。

    まず、初代大洲藩主となった貞泰の母の実家について触れておく。
    貞泰の父光泰に嫁いだのは同郷の一柳(ひとつやなぎ)右近可遊(かゆう)の妹であった。
    可遊のもとには光泰の姉が嫁いでいたので、加藤家と一柳家とは二重の縁組関係にあった。
    一柳可遊は文禄の役では光泰の側近として傍にいたとされる。
    光泰の遺書の末尾には「委細は一柳右近へ申し渡しておく」と記されている。
    また、一柳可遊の従兄弟にあたる一柳直末と光泰とは、豊臣秀吉の傘下で同僚として戦った間柄であった。
    直末は北条征伐の際に戦死したが、その弟の血筋が後に大洲藩と同じ伊予地方の西条藩主および小松藩主となっている。

    さらに、可遊の嫡男の光吉は、貞泰が誕生する前に請われて光泰の婿養子となった。
    その後、光吉は加藤家の家督を貞泰に譲って家臣となり、甲斐国では筆頭家老として四万石の知行を得た。
    ただし、これは加藤家の大洲藩転封以前の話である。
    後に貞泰に従って大洲に移った光吉家は、その後も代々家老職を務めている。

    二代藩主泰興の母の実家は、但馬の出石(いずし)藩五万五千石の小出家であった。
    泰興は家督継承の際、母の強い意向を受け入れ、弟の直泰が成人したら一万石を分け与えることを承諾させられた。
    このことは親族の小出大和守、小出信濃守、竹中丹後守重門(しげかど)、加藤光直が署名した文書となっている。
    この文書からは藩主の母の実家である小出家、藩主の姉の嫁ぎ先である竹中家などが加藤家の家督問題に発言権を持っていたことがわかる。

    しかし、この約束は履行されずに十年以上が経過した。
    そこで改めて親族代表を「御扱衆おあつかいしゅう」と定め、その調停によって最終的に直泰が新谷藩を領知することになった。
    このときの親族代表は、小出大和守、小出大隅守、竹中左京、関兵部大輔、市橋下総守であり、やはり藩主泰興の母の実家である小出家が中心的な役割を果たしていた。

    三代藩主泰恒の母奈邉(なべ)は、遠州浜松藩三万六千石の太田家から嫁いできた。
    ただし、泰恒の父は世子の泰義で藩主とはならなかった。
    つまり、奈邉は先代藩主の正室ではない。
    太田家は徳川譜代の名門であり、奈邉の父である太田資宗は将軍家光の側近として知られ、『寛永諸家系図伝』の編纂に携わった当代一流の学識者であった。
    泰恒の父泰義が岳父の資宗から学問上の影響を受けていたことは伝えられているが、泰恒の代以降の太田家との関係については記録が残されていない。

    四代藩主の泰統(やすむね)は庶子であったため母の実家との繋がりはない。
    泰統自身は、豊後岡藩七万四千石の中川久通の息女槌(つち)を娶った。
    久通は前橋厩橋(うまやばし)藩十五万石の酒井家から正室を迎えており、一方、大洲藩の三代藩主であった泰恒も、同じ厩橋藩酒井家から以津(いつ)を継室として迎えていた。
    中川家から嫁いできた槌の母と以津は姉妹関係にあり、つまり、伯母の嫁ぎ先である加藤家に嫁いだことになる。
    加藤家と中川家の婚姻は、酒井家から婚出した姉妹の絆によって、より深く結びついていたといえる。

    五代藩主泰温の母の実家は岡藩中川家で、さらに厩橋藩酒井家とも縁組関係があった。

    このように、大洲藩加藤家では泰温の代までは、藩主の母の実家は特別な存在であり、先代からの縁組関係を次世代に引き継いでいたといえる。

    ところが、六代藩主泰衑(やすみち)の代になると事情は一変する。
    泰衑は分家の池之端加藤家から迎えられた養子であり、その母は大洲藩とは直接の関係を持たない。
    さらに、泰衑は家督を先代泰温の遺児に譲る意向を持っていたため、正室を迎えることがなかった。

    その後、七代から十二代までの大洲藩主は、短命で死去した八代藩主を除き、いずれも他の大名家から正室を迎えたが嫡嗣には恵まれず、次代藩主の母として世代を超えた縁組関係を継続することがなかった。

    大洲藩の歴史を振り返ると、その後半期には藩主の母の実家との縁組関係が希薄という点が特徴的である。
    これは、嫡男が得られず庶子による藩主の継承が続いたという特殊事情によるものと解釈できる。

    藩主の娘の嫁ぎ先との関係
    藩主の婚姻相手は全国各地の大名家の娘であったから、互いの交流は困難と思われがちである。
    しかし、幕藩体制下では大名家の正室と嫡出子は常に江戸の藩邸に居住していた。
    したがって、他国の大名家に嫁いでも、住むのは同じ江戸市中の他の藩邸であり、距離はそれほど離れていない。
    娘が実家の母のもとを訪れたり、姉妹同士が互いの婚家を行き来したりすることは容易であり、実際には頻繁な接触があったと考えられる。

    明治以降の近代の記録によれば、加藤泰秋の娘は吉川家、土方家、窪田家などに嫁いだが、婚姻後も頻繁に実家を訪れていた。
    このような交流は公的ではないため藩の記録に残ることは少ないが、実際には重要な交流ネットワークを形成していた可能性がある。

    先に触れたように、二代泰興の時代に生じた新谷藩の内分問題で親族代表として二度にわたって調停役を果たした竹中家は、初代貞泰の娘の嫁ぎ先であった。

    三代泰恒の娘の弥代(やよ)は大納言徳大寺実憲(さねのり)の簾中(れんちゅう)として輿入れしたが、大洲藩加藤家では京都の公家の名家との縁組関係を大切にし、その後も、代々徳大寺家に礼を欠かさず関係を保ち続けたといわれる。

    そして百年以上も後の話になるが、幕末の動乱期において大洲藩内の勤王派が、かつての縁組関係を頼って権大納言(ごんだいなごん)徳大寺公純(きんいと)に働きかけ、天皇からの勅書を藩主の泰祉(やすとみ)に発出させた。
    それを契機に泰祉は度々宮中に参内し、宮廷警衛の任を務めるようになり、大洲藩は小藩ながら倒幕の動きに加わり、明治維新に積極的に貢献するようになった。

    さらに、明治期になって徳大寺公純の次女福(とみ)が加藤家当主の泰秋に嫁ぎ、再び縁組関係が結ばれた。
    徳大寺家との関係は加藤家に大きな影響を与えたために記録に残されたが、実際には、縁組関係を結んだ他の相手の家とも礼を欠かすことはなく、少なくとも数世代にわたって関係を保った可能性は十分に考えられる。

    七代泰武の娘(隼はや)の嫁ぎ先である白河藩松平家との関係もある程度わかっている。
    婚姻相手が松平定信であったことから記録に残されたのであろう。
    松平定信は御三卿の田安(たやす)徳川家出身で八代将軍吉宗の孫にあたる。奥州白河藩十一万石の養子となって家督を継ぎ、天明七年から寛政五年(1793)までは老中首座として「寛政の改革」を断行したことで知られる。この婚姻は大洲藩加藤家にとって重要な意味を持った。

    隼は、定信とともに頻繁に実家の大洲藩邸を訪れたとされる。
    藩邸には母が健在であり、そして九代藩主泰候(やすとき)の正室當(まさ)が庶子の作内(後の泰濟やすずみ)を江戸に引き取って育てていた。
    定信と隼は、まだ子に恵まれていなかったため、隼の実家にいた幼児の作内をことのほか可愛がっていたという。

    作内(泰濟)は、三歳の時に父の泰候が病死したため大洲藩の家督を継いだが、国入りは許されず、実際には十年以上にわたって江戸の藩邸に留め置かれた。
    その間、父に代わりに松平定信の薫陶を受けて育ち、元服を迎えた作内の具足召初(ぐそくめしぞめ)式も定信が因親(ちなみおや)となっている。

    定信は娘の友(とも)を泰濟に嫁がせたので、大洲藩加藤家と白河藩松平家の縁組関係はいっそう強まった。
    また、泰濟の妹が会津藩松平家への嫁入りが解約となったことを気にかけ、自分の養女とした後、丹波亀山藩五万石の松平家に嫁がせている。

    なお、定信と隼の間に生まれた嫡男の松平定永は白河藩主を継いだ後、伊勢に所替えとなり初代桑名藩主となった。
    隼の婚姻は、このように白河藩、亀山藩、桑名藩などの松平家との交流関係へと発展した。

    松平定信は学問や文化活動を続けた文化人としても知られ、多くの大名と交友を深めているが、この交友人脈の中に加藤泰候(やすとき)・泰濟(やすずみ)父子の他、加藤泰衑(やすみち)の子で他家に養子に出ていた喜連川恵氏(きづれがわやすうじ)、大関増業(ますなり)なども含まれていた。
    定信のおかげで大洲藩加藤家の交流範囲が大きく広がったのである。

    藩主の娘の嫁ぎ先が、大洲藩加藤家に深く関わったもう一つの事例がある。
    十一代泰幹(やすもと)の長女千賀(ちか)が、嘉永(かえい)三年(1850)に長府藩の毛利元周(もとちか)に嫁いだ。
    長府藩は周防・長門を領国とする西国の大藩長州藩の支藩である。

    元治(がんじ)元年(1864)、蛤御門(はまぐりごもん)の変で敗れた長州藩および支藩は朝敵とされ、官位と江戸屋敷を没収、江戸にいた家臣は親類関係にある各藩の預かりとなった。
    このとき大洲藩は長府藩士の預かりを命じられた。このことから、藩主の娘の嫁ぎ先は親類と見なされていたことがわかる。

    さらに元治二年には、大洲藩主泰秋は宇和島藩主、龍野藩主とともに、長州藩主の毛利敬親(たかちか)および世子定広の「江戸呼び下し取扱い」という大役を命じられた。
    説得して長州から出国させ身柄を受け取るという難題であったが、結局、話が進まぬうちに長州再征となったため、沙汰止みとなった。
    こうした経緯もあり、やがて大洲藩は長府藩や長州藩との連絡を密にする。
    そして、慶應二年(1866)、幕府から兵庫の西宮警衛を命じられた大洲藩は、翌慶應三年に倒幕を目指す長州藩兵の西宮上陸に協力するようになった。

    藩主の娘の嫁ぎ先は親族縁者と見做され、何か事があればしかるべき役割を果たすことが求められたのである。
    こうして婚姻による縁組関係が、ときに家の命運を左右する重要な意味を持つこともあった。

    あとがき
     ふとしたことから手許にあった『加藤家系譜』が気になり、たまたま購入していた家史『北藤録』なども読んで加藤家の歴史を振り返り、あらためて知らないことが多いのに気づかされた。

    令和三年秋、私は東京の台東区御徒町に転居した。
    すぐ近くに御徒町公園がある。
    旧大洲藩上屋敷があった場所で、散歩の折に毎日のように通るようになった。
    かつて大洲藩の江戸における墓所であった海禅寺にも初めて訪れた。
    中屋敷、下屋敷、抱え屋敷などの跡地も徒歩圏内にある。
    大洲藩のことが身近に感じられるようになった。

    せっかく時間をかけて読み込んだので、私家版として本の形で残すことにした。
    誰かが一度まとめておけば、いずれ他の人にも何かの役に立つことがあるかもしれないと思ったからである。

    最初にまとめたのが『旧大洲藩加藤家の歴史』(336頁)と『資料編 旧大洲藩加藤家の歴史』(397頁)の二冊で、令和四年に完成させた[加藤2022]。
    分量が多いのは藤原鎌足に遡る遠い祖先の話も含めたためである。

    その後、新しく入手した文献や資料に目を通しているうちに、加藤家がどのような経緯で大名になったのか、また江戸時代の大名がどういう存在だったのかが少しずつ理解できるようになった。

    そこで、研究ノートや資料集ではなく、読み易い形に整理することを試みたのが『加藤光泰と十三人の大洲藩主』(277頁)である[加藤 2024]。
    こちらは令和六年に十数部を印刷し、友人や知人に配って読んでもらった。今回連載したのは、その改訂版で公刊を前提に大幅に書き改めたものである。

    今回扱ったのは三百年余の時の流れである。
    一つの家を興し、それを維持しようとする試みを追って気づいたのは、歴史を学ぶということは、ただ過去の出来事を知るのではなく、何がどのように変化していったのかを理解することが大事という点であった。
    『加藤家系譜』も家史の『北藤録』にもすべての事柄が記録されていたわけではないが、長い時間の中で全体を通して見るといろいろな発見があった。

    また、記録するということの重要性をあらためて痛感した。
    十八世紀の半ばに六代藩主の泰衑(やすみち)が『北藤録』を編纂しなければ、大洲藩加藤家の歴史はもっと簡単な形でしか伝わらなかったに違いない。
     

    参考文献・史料一覧
    (参考文献)

    大洲市誌編纂会『大洲市誌』1972年
    伊予史談会編『加藤嘉明公』松山市役所、1930年
    岩田幸子『笛ふき天女』講談社、1986年
    愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 近世 上』1986年
    愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 近世 下』1987年
    加藤恵美子『思出帖』三秀舎、1982年
    加藤泰建『旧大洲藩加藤家の歴史』2022年
    加藤泰建『資料編 旧大洲藩加藤家の歴史』2022年
    加藤泰建『加藤光泰と十三人の大洲藩主』2024年
    吉川重吉『吉川重吉自叙伝』芙蓉書房出版、2013年
    桑田忠親『武将の家訓』創元選書、1944年
    桜井久次郎『大洲秘録論攷』滴雨紀要第3編、滴雨草廬、1957年
    桜井久次郎「大洲藩」児玉幸多監修『新編物語藩史』第10巻、新人物往来社、1976年
    司馬遼太郎『播磨物語(四)』講談社文庫、2013年
    芳我明彦『大洲藩・新谷藩』シリーズ藩物語、現代書館、2016年
    土方梅子『土方梅子自伝』早川書房、1976年
    藤田達生「濃尾武士団と豊臣政権 「大洲加藤文書」の世界」『織豊期研究』第3号、68‐75頁、織豊期研究会、三重大学教育学部日本史研究室、2001年
    松田宗寿編「加藤嘉明」『鹿深遺芳録』滋賀県甲賀郡教育会、1907年

    (史料)

    『赤穂義人録』室鳩巣、扶桑文社、1910年
    『伊豫小松一柳文書 天正十三年九月』東京大学史料編纂所、『大日本史料』第11編20冊
    『江戸切絵図 東都浅草絵図』1849-62年、国立国会図書館所蔵
    『江戸切絵図 東都下谷絵図』1849-62年、国立国会図書館所蔵
    『江戸切絵図 本所絵図』1849-62年、国立国会図書館所蔵
    『大洲旧記・温故集』富永彦三郎、豫陽叢書九、豫陽叢書刊行会、1938年
    『大洲秘録』伊予史談会編、伊予史談会双書七、1983年
    『加藤家系譜』写本
    『寛永諸家系図伝』林羅山、写本、1641-3年、国立公文書館所蔵
    『讃岐伊予土佐阿波探索書』写本、1627年、愛媛県立図書館所蔵
    『新板江戸外絵図』1671-3年、国立国会図書館所蔵
    『新添江戸之図』1657年、国際日本文化研究センター所蔵
    『積塵邦語』佐々木源三兵衛、伊予史談会双書10、1984年
    『土芥寇讎記』、金井圓校注、史料叢書、新人物往来社、1985年
    『日本外史』頼山陽、博文館、1908年
    『藩翰譜』新井白石、写本、1702年、国立公文書館所蔵
    『藩制一覧表』修史局編、日本史籍協會、1928年
    『武功夜話』吉田蒼生雄(訳注)、新人物往来社、1987年
    『分間江戸大絵図』1772年、国立国会図書館所蔵
    『北藤録』加藤泰衑編、伊予史談会双書6、伊予史談会、1982年
    『明治天皇紀一』宮内庁編、吉川弘文館、1968年
    『毛利家系譜』写本

    今回で連載は終了です。長い間お付き合いいただきありがとうございました。


     
     
    長年、南米アンデスの考古学を研究してきました。今は別の分野にも挑戦しようと思っています。 四国の大洲に関心を持って調べています。江戸時代に藩主であった加藤家の歴史を追っています。

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