奴の名はイクサ
イクサ。それが奴の仇名だった。本名は確かイクオかイクヤ、もしくはイクヒロかイクヨシかイクノリか、はたまたイクゴロウかイクザエモンだったかもしれない。ともかく、彼はイクサと呼ばれていた。本町通りの鍼灸院の息子であり、K中学校の番長――それがイクサだった。
イクサの眼光は鋭かった。ものすごく険しい目で、なおかつ血走っている。生まれつきなのか寝不足のせいなのか、それとも実は泣き虫なのか。理由は分からないが、なぜだかいつも赤い目をしていたのだ。もちろん、本当の理由を尋ねることなどできはしない。なにしろ学校一のワルだったのだから。
しかしイクサは人気者でもあった。いつの時代でもおそらく同じだろうが、不良と呼ばれる連中は身体能力が優れている。イクサの場合は、特に走ることに秀でていた。運動会のリレーではアンカーとして走り、何人をも次々と抜き去った。その場にいた生徒たち全員、イクサの勇姿に目を見張り、拍手を送ったものだ。しかも驚くべきことに、走る時にもイクサは完全な不良スタイルだったのである。
ここで当時――1970年代の不良男子の学生服について書いておこう。まず上着、つまり学ランは、丈が膝ぐらいまである「長ラン」だ。そしてズボンはやたらと太く、思いっきり低い位置で穿く。ベルトの部分が急所に来るぐらいの位置だろう。
そんな格好じゃどう考えても歩きにくいと思うのだが、それが当時の不良スタイルだった。これは体操着の時も同様で、運動会でのイクサは思いっきりズボンを下げて走り、にもかかわらずぶっちぎりの速さだったのだ。イクサ、おそるべし。
ちなみに女子の不良スタイルは、裾が床に届きそうなロングスカートだった。何度も「アンタら、廊下を掃除しながら歩いてんの? すげー良い子じゃん」とツッコミを入れたくなったが、もちろんそんな言葉は口にしなかった。いや、口にできるはずがない。
当時のK中学は、他の中学校に比べて相当なワル集団だと思われていた。K中学では平凡だった生徒が他校へ転校したら番長になった、なんて噂話も耳にしたもんだ。もちろん、事実かどうかは不明だが。
イクサが中3の時、僕は中1だった。僕にとってイクサは手の届かない存在であり、手を伸ばそうとも思わない存在だった。できることなら顔を合わせたくないし、無関係のままでイクサに卒業してほしい。そんな風に願っていた。
とはいえ、イクサに憧れる部分も多かった。運動会での例でも分かるように、とにかくカッコいいのだ。背が高く、目つきが鋭く、運動神経が抜群に良い。当時の不良たちの間で流行っていたことに「自転車の組体操的アクロバット走行」ってのがあった。Aがサドルに座ってハンドルを握り、Bが後部の荷台に座る。BはCを肩車し、CはAの肩に手を乗せる。この状態で往来を走るのだ。これが5台も6台も続く場合は、ものすごく壮観だ。しかもCの上にもう一人が肩車で乗っていることも珍しくなかった。相当な技術と度胸が必要なワザのように思えるが、やっている連中はみんな平然とした面持ちだ。ヘラヘラと笑っている輩はいない。言葉も交わさず、彼らは黙々と見事な走りっぷりを見せるのである。
この組体操的アクロバット走行の中に、いつもイクサはいた。商店街の路上は不良たちのステージであり、その中の花形スターがイクサだったのである。
当時、僕は塾に通っていた。学習塾ではあったが「進学のために云々」という雰囲気ではなく、個人経営の牧歌的な塾だった。ある日、授業が終わって帰ろうとする間際、同級生のマコトが黒板に落書きをした。「ユウジのバカ」というような他愛ない落書きだ。ユウジというのは中2では一番のワルだと噂されている奴で、イクサたちが卒業したらおそらくトップの座を担うと予想されていた男だ。しかし、このユウジのことをマコトは嫌っていた。不良グループの下っ端だったマコトは、何度かユウジに意地悪されていたらしいのだ。
中1の僕らが帰って少し経つと、中2の連中が塾へ来る。その中にユウジもいる(不良なのに塾へ通ってるってのも牧歌的だが)。ユウジは落書きを見て憤慨するだろう。怒らせたら大変だぞ。そう言って仲間たちは落書きを消すように忠告したのだが、マコトは頑として譲らない。仕方なく僕らはマコトを残して塾を出て、いつものように近くの駄菓子屋でジュースを飲んだりしていた。マコトの奴、どうせユウジが来る直前に落書きを消すだろう。そんな風に言い合いながら。
しばらくしたら、マコトが血相を変えて店に飛び込んできた。
「みんな逃げろ! ユウジが追っかけてきた!」
僕らは大慌てで自転車にまたがり、それぞれ別々の方向へ一目散に逃げた。「別れて逃げろ!」とマコトが大声で叫んだので、それに従ったのだ。
数分後、僕は一人で暗い夜道を自転車でヨタヨタと走っていた。周りは田んぼで、街灯はない。胸がドキドキしている。息が苦しい。家とは反対の方へ来ちゃったから、そろそろ戻らなきゃ。そう思った瞬間、20メートルぐらい先に自転車の集団が走ってくるのが見えた。隠れようとしたが、遅かった。そいつらは僕に気付き、叫んだ。
「おらっ、お前、マコトか!」
呼び止められた僕は、思いっきりビビった。恐怖心で身体がガチガチになった。どうすればいい? 逃げようか? だが多勢に無勢だ。すぐに捕らえられるだろう。それに、もしも逃げることができても、この辺りの道には詳しくないから迷う可能性もある。どうすりゃいい?
「あいうえおって言ってみろー!」
連中が叫んだ。あ、あいうえお? なぜ? あ、そうか、こっちがマコトなのかどうか確認するために声を出させようとしているんだ。マコトでなけりゃ見逃してくれるのだろう。ならば言おう。言ってみせよう。あいう……あれ、声が出ないっ。
「あいうえおって言えー!」
「ひゃ……あああ、あいうえおー」
何とか声を絞り出す。暗くて連中の姿は見えないが、緊張感がゆるむ気配を感じた。こっちがマコトじゃないことが分かったらしい。
「とっとと帰れ! マコトに会ったら、逃げるなと言っとけ!」
そう叫ぶと、中2の不良グループは自転車で去っていった。叫んだのはユウジだろうか。まあ、そんなことはどうでもいい。僕は自転車を漕ぎ始めた。真っ暗な田んぼ道を抜け、広い通りに出る。安堵感が押し寄せる。マコトは大丈夫だろうか。心配になる。しかしまあ、もともとマコトはユウジの舎弟みたいなもんだ。その造反劇に僕が付き合う必要はないだろう。
踏切を越え、本町通りへと進む。学生服を買った店。時計屋。布団屋。本屋。レコード屋。金物屋。ほとんどの店のシャッターが降りているが、街灯は煌々と光を放っている。人影はない。その中を僕はゆっくりと進む。ゆるいカーブを越えると、たまに家族で来るレストランが見える。そして文房具屋、郵便ポスト、コロッケが名物のスーパー、パン屋、和菓子屋と続く。その隣が鍼灸院だ。あわわわっ。
僕は愕然とした。鍼灸院の前の道路の真ん中に仁王立ちしている男がいるのだ。顔をはっきり見なくても、それが誰であるのかは即座に分かった。鍼灸院の息子であり、K中学の番長であるイクサだ。
中2のユウジは中3のイクサの子分だ。マコトによってメンツをつぶされかけたユウジは、何らかの形でイクサに連絡したのだろう。あるいは学校中のワル仲間たちへ一斉に連絡したのかもしれない。そして、マコトを捕らえるための包囲網を張った、と考えても間違いじゃないだろう。
イクサは道のど真ん中に立ち、前方を睨んでいる。僕はそちらの方向へ自転車を漕ぎ続けている。どこかで曲がろうか。だが、イクサとの間に、もう脇道に入る曲がり角はない。引き返そうか。いや、それはどう考えても不自然だろう。一気に駆け抜けようか。でも、明らかに逃げようとする姿勢を見せたら逆効果のような気がする。相変わらず他に人の姿は見えない。どうする、オレ。
うつむいている振りをして、上目遣いにイクサの顔を盗み見る。ものすごく怖い表情をしている。もともと怖そうな顔付きなのに、眉毛を細く剃っているからますます怖そうだ。呼び止められるだろうか? 殴られるだろうか? 無関係だと主張すれば放免されるだろうか? いや、無関係じゃないか。マコトは友だちだ。しかし、居場所を問われたって知らないわけだから答えようがないし……ああ、もうっ、ホントにどうすりゃいい?
心の中は千々に乱れまくっていたが、僕は平静を装って自転車を漕ぎ続けた。もうイクサまで3メートルだ。どうするどうなる、オレ。
イクサは微動だにしない。こっちはハンドルに身を預けるような姿勢で前に屈みながら自転車を漕ぐ。気付かれないようにしてイクサを見るが、イクサの視線が僕の方を向いているかどうか判別できない。真っ直ぐに前方を凝視しているようにも思えるし、横目で僕を睨んでいるような気もするのだ。噂で聞いたイクサの武勇伝を思い出す。ヨソの学校の不良ども数十人に一人で立ち向かったとか、先生を殴って入院させたとか。
2メートル、1メートル、0メートル。ついに僕はイクサの真横に来た。道路の真ん中に立つイクサとは1メートル半ぐらいの距離があるだろうか。イクサが僕にちょっかいを出す気配はない。そのまま僕は息を殺して自転車を漕ぎ、イクサから離れる。そして、その先30メートルぐらいの位置にある信号の前で停止した。
自転車にまたがったまま、僕は信号が青に変わるのを待った。振り向きたいが振り向けない。振り向いた時にイクサがこっちを見ていたら、卒倒してしまうかもしれないのだ。ようやく信号が青になり、僕は自転車を漕ぎ始める。さらに進み、街灯が点っていない辺りに来てから、僕は振り返った。イクサの後ろ姿が見える。まだ仁王立ちしたままだ。ホッ。危機は切り抜けた。イクサはマコトが来るのを待っているのだろうか。雑魚は相手にしない、ってことで僕を無視したのだろうか。良かった、雑魚で。
マコトが先輩たちに取っ捕まったという話は、すぐ翌日に伝わってきた。でも、マコトの姿を見る限り、さほど大したことはなさそうだ。目に見える範囲では、大怪我を負った様子もない。もしかしたら、脱いだらアザだらけかもしれないが。
どっちにせよ、その後もマコトはユウジの子分であり、ユウジはイクサの子分だった。多少の造反劇はあったかもしれないが、それに僕が巻き込まれることはなかった。おそらくイクサは僕のことなど知らないだろう。
やがて3月になり、イクサを含む不良グループは一斉に卒業した。卒業式の日も不良連中は全員が太いズボンを思いっきり低い位置で穿き、卒業証書を受け取る時も周りを威嚇しまくっていた。式の前後には一部の先生が「お礼参り」されたという噂も飛び交ったが、真偽の程は分からない。
イクサたちが去れば、次はユウジたちの時代だ。だが、ユウジたちは何もかもイクサたちの半分以下のスケールでしかなく、存在感が薄かった。自転車のアクロバット走行を見せることもなかった。おかげで学校のワル度数が一気に下がり、ずいぶん呑気な雰囲気になったような気がする。いかついツラの不良どもがたむろしていた場所は、普通の生徒たちの溜まり場となった。学校に平和が訪れた、と言ってもいいだろう。
私立高校に進んだイクサは、そこでも当然のように頭角を現したようだ。バイクの免許を取り、暴走族に入ったという噂を聞いた。その姿を実際に目撃したこともある。ナナハンなのかハーレーなのか定かじゃないが、デカいバイクにまたがったイクサは相変わらず、いや中学生の時以上にカッコよかった。スポーツ刈りだった頭(校則では本当は坊主刈りでなきゃダメだった)はリーゼントに変わり、眉毛はさらに細くなっていた気がする。もちろん、近寄って確認したわけじゃないが。
だが、そんなイクサに転機が訪れる。詳しいことは今でも知らないが、病気で長期入院することになったのである。高校は一年間休学することになった。そして一年後に復学したのだが、かつてのような覇気は感じられなかった……らしい。人づてに聞いた話なのでどこまで正確なのか分からないが、少なくともイクサが「番長風を吹かせる」といった行為に興味を示さなくなったというのは事実のようだ。かつての同級生がみんな一学年上になってしまい、付き合いづらくなったのかもしれない。それでもイクサはしばらく学校に通っていたようだが、結局自分から退学してしまったらしい。
それ以降のイクサについては、よく知らない。僕も高校を卒業して社会人として働くようになり、地元の知り合いと話す機会がほぼなくなってしまったのだ。だが、実家の近くでイクサの姿を見かけたことは3回ある。そして、3回ともイクサの姿は乗り物と共にあった。
1回目は僕が高校を出た頃だ。2歳上のイクサは20歳である。僕が自転車で走っていると、バイクに乗って走るイクサの姿が見えた。マフラーを改造してあるらしく、爆音を響かせている。仲間と一緒ではなく、一人きりだ。僕は視線を合わさないよう注意しながらも、イクサの姿を見つめた。髪型や顔付きは以前とさほど変わっていない。だが、またがっているバイクは、かつてのデカいものではなく、50㏄の「モンキー」だった。どこか淋しげに見えたが、それは僕の気のせいだったかもしれない。
次に見かけたのは、その1年後ぐらいだった。交差点で信号待ちをしていたら、斜め向かいにイクサの姿が見えたのだ。相変わらず怖そうな顔付きだった。周囲を威圧するような気配をまき散らしている。万一ぶつかったりしたら間違いなくボコボコにされるだろう。しかし、またがっているのはバイクではなかった。自転車である。しかも、いわゆる「ママチャリ」であり、あろうことか後ろに女性を乗せていた。こちらもイクサと同じく、思いっきりワルの匂いがする女だ。化粧も厚い。典型的な元番長と元スケ番、という感じである。
信号が青に変わり、二人が乗った自転車が前に進む。もちろん制服姿ではないが、女は長いスカート、イクサはダボダボのズボン。相変わらずなイクサのセンスに、僕はなぜか少しうれしくなった。
最後にイクサを見たのは、さらに1年後ぐらいだ。前と同じ交差点である。よく晴れた日だった。その時のイクサは、バイクにも自転車にも乗っていなかった。だが、その手はしっかりと乗り物を押していた。
イクサの隣には前に見た時と同じ女性がいた。二人とも髪型や服装は1年前と大差ない。どう見ても「ワルやってました」という出で立ちだ。でも彼女の方は、ずいぶん薄化粧になったようだ。そして、イクサより少しだけ後ろを歩いていた。
僕はイクサが押しているベビーカーを覗き見た。そこには、安心して眠る赤ちゃんの姿があった。