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アクマハ アクマデ アクマデ アクマ


    #創作大賞2026 #エッセイ部門


    ~アクマハ アクマデ アクマデ アクマ~

    「宗教なき学問は、賢き悪魔をつくる」

    これは、私が20才頃に買い求めた、とある女性が書いたエッセイ集にあった一節です。
    その方のお母さまが常々、ことあるごとに“つぶやいていた”と書かれていました。
    以来、何十年。なぜか、ことあるごとに、私の脳裏に甦ってきたのです。

    まさしく、言い得て妙。
    モノゴトの核心を突く言葉だと思います。

    ではなぜ、それほどまでにその一節が、私の「アタマ」から離れなかったのか?
    なけなしの思い出をひっくり返してみたところ――


    ありました!余程ショックだったのか、記憶の奥底に封印されていたデキゴトが......。
    それは、小学生にして「詐欺」に遭ったこと。

    小学校4年生くらいの頃だったでしょうか。
    父親から

    「もうそろそろ、プラモデルは卒業したらどうか?」

    みたいなことを宣告されて以後、なにがキッカケで取り組み始めたのか覚えていませんが、当時、私は半田ごてを使ってラジオとかを作る電子工作にはまっていたのです。
    同じく、雑誌の名前も覚えていませんが、その中にあった広告に「自作するテレビゲームキット」があり、とてもココロ惹かれたのでした――

    毎日のように雑誌を開いては、その広告を眺めていた気がします。
    今思えば、つまみを回してテニスもどきやカーレースもどきができるという、当時としては最先端で、かつ結構なお値段。
    けれど、今となっては、5才の子どもでも見向きもしないレベルのゲーム機でした。

    それを、親にねだって買ってもらって、挙句、それが詐欺だったという......。
    いくら待っても届かない。
    まあ、最終的には届きまして、最後のむずかしいところだけ親戚の兄に手伝って貰いながら完成したのですけど。
    親からはついぞ、直接的には

    「あれは、詐欺だった」

    みたいな話は聞かなかったのですが、後々どこかで、そうだったのだと知ったのでした。
    それが、オトナや世の中を素直に信用しなくなったひとつの大きなキッカケだったのだと思います。
    潜在意識に封印しちゃいましたけど......。

    逆にいうと、それまでの私は「お世辞やウソも見抜けない」ほど、人が発する言葉や態度をそのまま鵜呑みにするくらいの子どもだったのです。
    その他にも、年齢を重ねるごとに、誰もが自然に抱く世の中に対する不信感の数々。
    そんなこんながあったことで、私にはいつからか「モノゴトを斜に構えて見る」というクセがついてしまったようでした。

    話を戻しましょう。

    もちろん、ここでいう「宗教」は、特定の宗教や教義を指すものではなく、別な言葉に置き換えるならば「志」が一番、当てはまるのかなと感じています。
    さらに、別な言葉に置き換えるとしたならば、広義的には「そもそも」とか「なんのために」が当てはまると思う次第であります。

    つまり、人が悪魔側に陥ってしまうその瞬間とは、その人の心の中にあったはずの「志」や「そもそも」「なんのために」が迷子になってしまっている状態なのだと思います。

    と言いつつ、これを書きながら思い出した“言い伝え”があります。
    それは、昭和の時代までよく使われていた

    「お天道様が見ている」

    という、あの言葉です。
    ここには、昔の人たちが当たり前のように共有し、大切にしていた「なにか」があったのかもしれない――

    そんなことを、あらためて思ったのでした。
    そういえば最近、こうした含蓄のある言葉、とんと聞かなくなりましたよね?

    (昭和世代としては、こういうことわざや慣用句、四文字熟語なんかに妙な安心感を覚えますので、最近あまり聞かれなくなったのは、ちょっとさみしい感じもするのであります。......ハイ)

    では、いつから日本は、こんなにも「志」や「お天道様」が見えなくなってしまったのでしょうか――

    最近、

    「今だけ。金だけ。自分だけ」

    という言葉を各方面からよく聞くようになりました。それは、「分離の時代の合言葉」なのかなと、私にはそう感じられて仕方ありません。

    「分離の時代」

    まあ、いきなりそんなことを言われたら、「?」ってなるのがフツーですよね。
    とはいえ、これからお話することは、それこそ

    「信じるかどうかは、あなた次第」

    っていう系のお話になるのですが―― (^^;

    (もちろん、信じなくても大丈夫ですよー)

    実は、私なりにいろいろ情報を集めて眺めた結果、時代の流れがどうやら

    「分離の時代から、統合の時代へと移行したらしい」

    という情報を得たのです。

    ――と言っても、ますます「?」ですよね。(笑)

    私は逆に、読者の皆さんに

    「どう伝えたらわかりやすいのだろう?」

    と、アタマを悩ませました。(^^;
    例えば、土星の輪を思い出していただくと、少しイメージしやすいかもしれません。
    見えている輪っこの向こう側半分が「分離の時代」。
    そして、輪の一番端を頂点とするならば、そこを

    「スイー」

    っと通り過ぎて、こちら側の「統合の時代」へ移ってきた――

    そんなイメージです。

    伝わりますかね?

    もう少しわかりやすく、ストレートに表現すると、「分離」とは、

    「自分さえ良ければいい」

    という感覚なのかもしれないということ。
    逆に「統合」とは、

    「あなたも大切。私も大切」

    という感覚なのだということ。
    そう捉えたら、なにか見えて来るものがあるのではないでしょうか?

    そもそも、それ以前に、「統合の時代」だなんていう“たいそうな言葉”を持ち出さなくても、ひとことで言い切ってしまえば、

    「自分にやさしく。人にもやさしく」

    で、コトに当たっていくこと。
    ナニゴトも、常に“ここを原点”として進めて行けばいいだけ――

    それだけなんですよね。きっと。

    人は誰でも、悪魔でさえも

    「自分がかわいい」
    「自分が大切」

    な存在です。
    「アタマ」と「ハラ」が、一致(統合)しています。

    一方、「分離の時代」には、

    「他人はどうでも、自分さえよければいい」

    という思考回路が優勢になりがちです。
    それを象徴する言葉が

    「今だけ。金だけ。自分だけ」

    だったということなんですよね。きっと。

    だから、心配しなくていいのです。

    「自分にやさしく。人にもやさしく」

    「アタマとハラ」と「自分と他者」が相互に一致した人ほど、
    これからの時代

    「本当の自分らしさ」

    を前面に出して、素直に、自由に生きられるようになって行くのだと感じています。
    そして、そうした人が増えることで、誰もが生きやすい社会が少しずつ創られ、広がって行く――


    私は、そんな時代が来るのではないかと思っています。
    そう考えた時、ふと、先ほど思い出した「お天道様が見ている」という言葉の意味も、少し違って見えて来たのでした。
    あの言葉は、単に

    「悪いことをしてはいけないよ!」

    という犯罪抑止を暗に謳っているものではなく、

    「自分と同じように、人様も大切にしましょうね!」

    という

    「いい意味での『自己同一視』の暗喩(あんゆ)」

    が入っている気がしてならないのです。
    そう眺めて見ますと、この言葉は、まさにこれからの時代を象徴するであろう「統合」ととっても相性がいいように感じます。

    もちろん、そんな「仮定」をするまでもなく、やはり誰もが人として、一個人として、

    「もう少し居心地がよく、生きやすい世界」

    が少しずつ広がっていったほうがいいですよね?そのためには――

    「自分にやさしく。人にもやさしく」

    という考え方を基本として、あらゆるモノゴトを回して行くことが大切なのだなと、あらためてしみじみと感じるのであります。

    それにしても、なんですね。
    カミサマという存在がもし本当に実在するとしたならば、私はちょっと意地悪に質問してみたいのです。
    「なんで、こんなヘンテコリンな世の中をわざわざ創造したのでしょうかね?」
    「全知全能なのに!」
    って。

    かつて、どこかで聞いた話で――

    昔々、大昔。カミサマはもう、十分すぎるくらい満たされていて満足していました。
    しかしある時、なぜかふと、この“満たされている感”を

    「違った方向から眺めてみたい」
    「自分という存在を、別な角度から感じてみたい」

    と思いつき、この三次元世界とカミサマの分身・代役としてそこで生きる私たち人類を創造し、私たちの心と肉体を通して“それを体験、経験をする”という壮大かつ至極、大迷惑な計画を立て、実行に移したと......。

    しかも、戦争や貧困、災害や予測不可能なカオスな事態まで起きることも想定し、それらもすべて許可した上で――

    一体どれだけ人類に迷惑をかけたら気が済むのでしょうかね?
    ていうか、もしこれが本当であった場合、

    「カミサマほど、超マゾで大迷惑、かつアクマ的な存在はいないよねー」

    っていう認識に、だれでも必然的に陥ってしまうと思うのであります。
    それに元々、「アクマの素」も創造したのはカミサマですし。(笑)

    ――いや、そこまで設計していたのだとしたら、少しくらい責任を取ってほしい気もするのですがねぇ。(^^;

    しかし、ある時。
    と言ってもわりと最近なのですが――

    私たち人類が味わう痛みや苦しみ、喜びや悲しみを通して、

    「自らが『すでに、満たされていた』という事実を、別な角度や真逆の立ち位置から、実際に人間の肉体とこころを通して体験・経験する」

    ということが必然――

    ということは、

    「苦しみを感じていたのは、私だけではなかった」

    これに気づけた瞬間、長年、カミサマに対して積み重ねてきた恨み、つらみや疑問の熱量が、あっけなく瓦解したのでありました。

    ホントに、突然に――

    にしても、人は変われば変わるものですね。
    少なくとも、ここ10年くらいはずっと怒りが収まらず、本気でそれらを

    「これでもかッ!」

    っていうくらい、カミサマに投げつけていましたから。

    ところで、
    話はいきなり「カミサマ」から「アクマ」に飛びますが――

    「アクマハ アクマデ アクマデ アクマ」

    という表題の文字列ですが、

    実は、この中には

    「悪魔は あくまで 飽くまで 悪魔」

    と

    「悪魔は 飽くまで あくまで 悪魔」

    という2つの意味合いが混じっている言葉でもあったのですが――

    お気づきになりましたか?

    で、ちなみに、自分の解釈だけでは心もとなかったので、AIにも「その違い」を聞いてみたのですが、どうやら

    ①には
    “最後まで悪魔であり続ける”ような宿命的な響きがあり、
    ②には
    “しょせん悪魔だ”という断罪的な響きが強くなるとのこと。

    という回答(要約)でした。
    同じ言葉なのに、並び順が変わるだけで宿命にも、断罪にも見えてくる。
    言葉って、なんとも不思議なものですよね。
    そう感じるからこそ、言葉遊びがやめられないのだとも思うのです。

    いや、ほとんど中毒ですかね......。(^^;

    まあ、そういったわけで、くり返しになってしまいますが、少なくとも地球上では今後、「統合」という方向へ、あらゆるモノゴトの流れが移り変わって行くのかなと感じています。
    もし、そうであるならば、「分離の象徴」であるアクマの皆さん方は、この

    「アクマの消滅危機」

    に対して、これからどのようにその身を振っていくおつもりなのでしょうかね?
    とても興味深いものがあります。

    まあ、冗談はさておき、元々はダジャレ大好き、言葉遊び大好きな私がある時、ふと思いついただけの文字列ナノデスが――

    「自分の中にあるモヤモヤをいつか、文章としてカタチにしたい!」

    そんなこんなで構想うん十年。
    とある筋からこの「note創作大賞」のことを知り、それをキッカケにようやく文章としてカタチにすることができました。
    長いことアタマの片隅に居座り続けていたアクマさんに、やっと居場所を見つけてあげられたような安堵感を覚えたのでした。(^^;
    これで少しは、おとなしくしてくれるとよいのですが――。

    ところで、ダジャレはいつの頃からか「オヤジギャグ」という言い方に取って代わられた感がありますよね?
    正直、この言い方はキライなのですが、まあダジャレでもオヤジギャグでも

    「空気を凍らせる」

    ということがよくあります。
    というか、ほとんどですかねー。(^^;

    そして、ダジャレ好きの悪い(かわいい?)ところは、その編み出した言葉を

    「誰かに披露しないと気が済まない」

    という――(笑)

    そんなところが実に、「アクマデ アクマ」的なところなのかなと、自分でも思うのであります。

    最後に。
    世の中には、「名言」とか「格言」とか「ことわざ」などという、とても含蓄に富んだ言葉がたくさんありますよね?

    「宗教なき学問は、賢き悪魔をつくる」

    これを書きながらふと、そんな「言葉の玉手箱」の中に、この一節もぜひ書き加えていただきたいなと思った次第であります。
    叶うものであれば、私の作

    「アクマハ アクマデ アクマデ アクマ」

    も、こっそり――


    ということで、私の「アクマ的コトバ遊び」の旅は、今日も続くのであります。ちゃんちゃん!

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