
袋ビールの国で知った、日本の息苦しさ
バンコクの道端で渡されるミルクティーは、ビニール袋に入っている。中国・青島で出会った生ビールもそうだった。金魚すくいの帰りのように、黄金色の液体を袋に詰め、そこにストローを刺してぶらぶらと持ち歩く。
バンコクの袋ティー文化は、さらに面白い。大量の氷と液体が入ったビニール袋を、薄い紙袋に入れ、それをさらに小さなポリ袋に収める。カップという「型」に頼らない、袋の重なり。
そのままバイクのハンドルに掛けられる、不格好で、合理的なかたちだ。
青島でビールを買うとき、店員さんは「カップにする?」と聞いてくれた。けれど私は首を横に振った。
袋に直接注がれたビールを受け取ると、冷気はすぐに手のひらへ逃げていく。代わりに私の体温が、液体をゆっくりとぬるくする。物理的な正しさで言えば、カップの方が優れているのだろう。それでも私は、その不完全さに惹かれていた。
中身を届けるために、余計なものはいらない。その事実が、むき出しのまま手の中にあった。
かつて青島では、袋にビールを注いで持ち帰るのが当たり前だったという。私はその時代を知らないが、鍋を持って豆腐を買いに行く、そんな昔の日本の風景を思い浮かべた。
ひるがえって、今の日本の街を思い出す。完璧に磨かれたコップと、お辞儀の角度まで整えられた接客、そして「毎日70点のメイク」。物だけでなく、人までもが過剰に包装されている。
私たちはずっと、検品されてきた。スカートの丈、髪の色、爪の長さ。一つひとつチェックされ、基準から外れれば弾かれる。社会に出ても、それはなくならない。
化粧をしなければ失礼とされ、自分を出しすぎれば浮いてしまう。そこにあるのは評価ではなく、通過か排除かという判定だけだ。
もしそれが、はみ出さないように整えるためのものだとしたら。
余白ごと押し込める、シュリンク包装のようだと思った。
一方で、タイで見た装いは少し違っていた。
普段はすっぴんで、袋の飲み物を手にしている。中身が自分であれば、それで足りる。私はその光景に、少し救われていた。
バンコクに着いた朝、私は日本と同じように、駅のトイレで顔を整えた。人前に出るための、70点の化粧。
けれど外に出た瞬間、熱気がそれを溶かしていく。汗と一緒に、あっけなく流れ落ちていった。
それでも彼女たちは、特別な日にはきちんと装う。
それは誰かに届かせるための、選び取られたかたちだ。
検品が、はみ出さないことを見るのだとしたら。
装いは、本来、誰かに届くためのものだったはずだ。
完璧なコップがなくてもいい。
袋ビールのままでいい。
検品の外に出たとき、ようやく中身で向き合える。
世界は、完成品よりも、本物を見ている。
たとえそれが、結露で濡れたビニール袋に入っていたとしても。