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気まぐれな猫|二通目「拝啓、森下様」

    はじめに

    こんにちは、あおです。

    連作ミステリー『気まぐれな猫』の二通目をお届けします。

    この連載は、「拝啓文芸部」のお題「気まぐれな猫」で書いた『犯人をいわない』をきっかけに、コメントでいただいたご指摘を受け、登場人物を引き継ぎながら新しい物語として作り直したものです。
    今後のシリーズは様々な企画のお題をテーマにストーリーを作っていきます。

    → 企画元のお題記事

    → 『犯人をいわない』

    まだ、お読みでない方はこちらの、連載の1話『気まぐれな猫|一通目「拝啓、気まぐれな猫様」』からお読みいただくと話のつながりがわかると思います。

    今回は、以前投稿した『拝啓、森下様』の手紙を、連載の中に組み込みました。すでに手紙を読んでくださった方にも、物語の一つの可能性として楽しんでいただけたらうれしいです。


    気まぐれな猫|二通目「拝啓、森下様」

     

    拝啓、森下様

     四十年前、喫茶「ローレル」の傘立てから、あなたの傘を盗んだのは私です。

     昭和六十一年六月十二日の夕方でした。黒い、骨の太い大きな傘で、柄のところに白い塗料で「森下」と書いてありました。私は十九で、金がなく、ずぶ濡れで、その店の軒先で雨宿りをしていました。店の客でもないのに傘立てだけを見ていました。

     傘立てには七、八本ありました。そのなかで、いちばん上等なのを取りました。

     ここまでなら、ただの傘泥棒です。四十年も黙っている必要はありませんし、こんな手紙を書く必要もありません。

     問題は、そのあとです。

     その晩、私は栄町の東にあった丸三運輸の資材倉庫に火をつけました。あなたの傘をさして行き、あなたの傘をさして帰りました。

     理由を書きます。たいした理由ではありません。私はその年の春からそこでアルバイトをしていて、三か月分の給料を払ってもらえませんでした。何度も言いにいって、最後は事務所から追い出されました。雨の日でした。

     それだけです。本当にそれだけです。

     倉庫は無人でした。誰も怪我をしなかったと、翌日の新聞で読みました。そのとき私は、ほっとしたのを覚えています。自分がほっとしたことを、いまでも許せません。

     向かいの家の方が、火が出る少し前に、倉庫の脇に立っている人影を見ていました。その人は警察にこう話したそうです。黒い大きな傘だった。柄のところに白い字で名前が書いてあった。モリシタ、と読めた、と。

     二日後に、あなたが捕まりました。

     新聞で名前を見たとき、私は意味が分かりませんでした。傘の持ち主が疑われるとは、思いつきもしなかったのです。十九の頭は、傘に名前が書いてあるということの意味を、まるで分かっていませんでした。

     あとから知ったことがいくつかあります。

     あなたは丸三運輸と、土地のことで前から揉めていたそうですね。あの晩、家に一人でいて、それを証明できる人がいなかったそうですね。

     そして、裁判であなたはこう言ったと聞きました。

     ──傘は、なくしました。

     本当のことです。あなたの言ったことのなかで、たぶんそれがいちばん本当のことでした。それが、いちばん嘘に聞こえたのだそうです。

     私は一度だけ、傍聴に行きました。

     平日の午後で、席は半分も埋まっていませんでした。私は後ろから三列目に座って、一時間ほどいて、帰りました。あなたの顔を見ました。あなたは一度もこちらを見ませんでした。

     その日、私は何も言わずに裁判所を出て、バスに乗って、家に帰って、晩ごはんを食べました。

     あなたは六年入っていたと聞きました。出てきたあと、奥さんは家にいなかったとも聞きました。栄町に戻ってこられて、それから三十年、同じ家にお住まいだったことも。

     私はその間、普通に暮らしました。

     これが私のいちばん悪いところです。苦しんでいたとは書きません。眠れない夜があったとか、そういうことを書く資格はありません。私は資格を取り、就職し、結婚し、子どもを二人育てました。平日は働いて、日曜は洗車をしていました。年に何度か思い出して、何度かは思い出さずに過ぎました。

     今年、下の息子が十九になりました。

     あの日の私と同じ歳です。あの子が傘を選ぶところとか、雨の日に玄関で靴を履くところを見ていて、急に、どうしようもなくなりました。

     あの事件の時効は、とっくに過ぎています。

     私はもう、裁かれません。いま名乗り出ても、警察は書類を一枚作るかどうかだと思います。そのことを、私は知っていて、この手紙を書いています。

     ですから、これは謝罪ではありません。

     謝罪というのは、こちらが何かを失うから謝罪なのであって、何も起きないと分かってから書くものを、謝罪とは呼べないと思います。私はただ、楽になりたいだけです。それを、あなたに押しつけようとしています。この手紙は、四十年前にあなたの傘を盗んだのと、たぶん同じことです。

     それでも出します。

     ご自宅の前まで、何度か行きました。表札はまだ「森下」のままでした。あなたが三年前に亡くなったことは、お寺の掲示で知りました。ですから、これを読んでいるのは、あなたではないのだと思います。

     どなたか存じませんが、お読みになったら、どうぞ煮るなり焼くなりしてください。警察に持っていってくださっても構いません。何も起きませんが、構いません。

     傘は、まだ持っています。

     四十年、一度も使いませんでした。雨の日に、一度も。押し入れの奥に立てたまま、何度か引っ越しのたびに運びました。柄の白い字は、まだ読めます。

     この手紙と一緒に、玄関の横に置いていきます。

     濡れないところに置いていきます。

     今日は、晴れています。

     敬具

         ◇

     その手紙を事務所に持ってきたのは、森下直樹さんという男の人だった。

     十月の半ばの土曜日で、空はよく晴れていた。僕がこの事務所で働きはじめて、三週間が経っていた。

     朝十時には、いつものように階段を上がってくる足音がした。安西亮介さんは、ドアを半分だけ開けて郵便物を差し出し、「はい、猫さんに」と言った。先週までと同じ声だったが、目は僕の肩の向こうの、窓際の椅子のほうを見ていた。犬飼はそちらを見ないまま、片手を上げただけだった。

     森下さんが来たのは、その一時間後だった。

     四十代の後半くらいの、小柄な人だった。銀縁の眼鏡をかけて、灰色のコートを着て、左手に細長い紙袋を提げていた。紙袋の口から、黒い傘の柄がのぞいていた。

     ドアの貼り紙を見て、森下さんは少し迷うような顔をした。それから、右手に持っていた白い封筒を、僕に差し出した。

    「お手紙でないといけないと書いてあったので」と森下さんは言った。「私が書いたものではないんですけど、手紙は、手紙です」

     僕は封筒を受け取って、犬飼のところへ持っていった。

     犬飼は椅子の上で膝を抱えたまま、封筒の表を見た。宛名も差出人もなかった。中の便箋は四枚。犬飼はそれを、ゆっくり一度だけ読んだ。

     読み終えると、膝を下ろして言った。

    「どうぞ。お座りください」

         ◇

     森下直樹さんは、四十七歳。隣の県で、市役所に勤めている。

    「先週の日曜日に、父の家の空気を入れ替えに行ったんです」と森下さんは言った。「父は三年前に亡くなって、家はそのままになっています。月に一度、行くようにしていて。玄関を開けようとしたら、横の、雨の当たらないところに、その手紙と傘が置いてありました」

     僕も手紙を読ませてもらった。四十年前の傘泥棒と、放火と、六年間の刑務所と、それから時効の話だった。読み終えたとき、しばらく何も言えなかった。

    「それじゃあ、森下さんのお父さんは、何もしていなかったってことですか」

     僕がそう言うと、森下さんは首を横に振った。

    「分からないんです」

    「分からない?」と僕は聞き返した。

    「父は最後まで、自分はやっていないとは、一度も言いませんでした」森下さんは眼鏡を外して、指で目頭を押さえた。「裁判のときも、帰ってきてからも。言ったのは、傘はなくした、ということだけ。私が中学生のとき、一度だけ、本当にやったのかって聞いたことがあります。父は、傘はなくしたんだ、と言いました。それだけでした」

     森下さんは眼鏡をかけ直すと、しばらく黙って、机の木目を見ていた。

    「私は、放火犯の息子として大きくなりました。母は父が捕まった年に、私を連れて家を出ました。名字が同じだから、どこへ行っても、いつかは知られる。それでも、父がやっていないと言ってくれたら、私は信じたと思います。でも、言ってくれなかった」

    「それで、この手紙が来た」と犬飼が言った。

    「はい」森下さんはうなずいた。「信じたいんです。でも、こんなもの、誰にだって書けます。父の事件のことは、昔の新聞を読めば分かる。悪ふざけかもしれないし、頭のおかしい人かもしれない。だから、確かめてほしいんです。この手紙が、本当かどうか」

    「傘は、見ましたか」と犬飼が聞いた。

     森下さんは、紙袋に目をやった。

    「……ちゃんとは、見ていません。触るのが、怖くて」

    「拝見しても」と犬飼が聞いた。

     森下さんは黙ってうなずいた。

     犬飼は紙袋から傘を出した。黒くて、骨の太い、大きな傘だった。古いものだということは、僕にも分かった。布の黒が少し褪せて、留め具のボタンが錆びている。

     犬飼は柄をこちらに向けた。

     柄の根元に、白い塗料で字が書いてあった。少しかすれているが、読める。

     ──森下

     森下さんは、その字を見た。

     それから、もう一度見た。顔から、すっと色が引いていった。

    「違います」

    「違う」と犬飼が繰り返した。

    「これ、父の傘じゃありません」森下さんの声が震えた。「父の傘の名前は、私が書いたんです。小学校の一年生のときに。父がしょっちゅう傘を置き忘れるから、名前を書いてあげるって、白いペンキで。でも、私はまだ漢字が書けなかった」

     森下さんは、柄の字を指さした。

    「カタカナで書いたんです。モリシタ、って。シの字が、斜めに傾いて、ツみたいになって。父はそれを見て笑ってました」

     部屋がしんとした。

     僕は手紙の一節を思い出した。向かいの家の人は、警察にこう話した。白い字で名前が書いてあった。モリシタ、と読めた。

    「じゃあ、この手紙は」と僕は言った。

    「少なくとも一つ、嘘がある」犬飼は傘を閉じたまま、膝の上に置いた。「この傘は、四十年押し入れにあった傘じゃない」

     森下さんは、しばらく黙っていた。それから、小さな声で言った。

    「……やっぱり、悪ふざけなんでしょうか」

    「それを調べます」と犬飼は言った。「受けます」

     森下さんは帰り際に、着手金の入った封筒を机に置いていった。

         ◇

     森下さんが帰ったあと、僕は手紙を机に広げた。犬飼は傘を窓際に立てかけて、また椅子の上で膝を抱えていた。

    「先生、これ、全部嘘なんでしょうか」

    「瀬川くんは、どう思う」

     僕は手紙をもう一度読んだ。

    「傘が偽物だってことは、この人は本物の傘を持ってない。四十年持ってたっていうのは嘘です。だったら、傘を盗んだっていうのも、火をつけたっていうのも、嘘かもしれない」

    「じゃあ、この人はどこで事件のことを知ったの」

    「新聞じゃないですか。森下さんも、昔の新聞を読めば分かるって」

    「新聞に、喫茶店の名前は載ると思う?」

     僕は手紙に目を落とした。喫茶「ローレル」の傘立て。三か月分の給料を払ってもらえなかった。傍聴席の、後ろから三列目。

    「……載らない、かもしれません」

    「載ってるかどうか、確かめよう」と犬飼は言った。「載ってることは、新聞で知ったのかもしれない。載ってないことは、誰かから聞いたか、自分で見たか、どっちか」

         ◇

     月曜日、市立図書館の郷土資料室に行った。

     昭和六十一年の県の新聞の綴りは、桐島さんの件で見た平成八年のものより、さらに紙が黄ばんでいた。僕は六月の綴りを開いた。

     見つけたのは僕だった。六月十三日の地域面に、写真のない小さな記事があった。

     ──栄町の倉庫で火災 放火の疑い

     十二日午後十時ごろ、栄町東の丸三運輸の資材倉庫から出火し、木造平屋約百平方メートルを全焼した。けが人はなかった。警察は放火の疑いもあるとみて調べている。

     二日後の六月十五日に、もう一つ記事があった。

     ──倉庫放火の疑いで男逮捕

     栄町の会社員、森下正一容疑者(41)を非現住建造物等放火の疑いで逮捕した。近所の住民が、出火直前に現場近くで「森下」と書かれた黒い傘を差した人物を目撃していた。森下容疑者は丸三運輸と土地をめぐって争っており、警察は動機について詳しく調べている。

    「先生、ここ」

     僕は記事を指さした。犬飼が身を乗り出した。

    「『森下』と書かれた黒い傘」と僕は読んだ。「新聞は、漢字で書いてる」

    「目撃した人は、モリシタと読めた、と言っただけだろうね。それを記者が漢字にした」犬飼は言った。「新聞で読んだ人なら、傘の字は漢字だと思う」

    「だから、偽物の傘に漢字で書いたんですね」

     犬飼はうなずいて、綴りをもう少しめくった。

    「天気欄、見てごらん。六月十二日」

     僕は前日の紙面を探した。県内の天気。十二日、雨のち曇り。

    「雨です」

    「喫茶ローレルの名前は」と犬飼が聞いた。

     僕は二つの記事を、もう一度、頭から読んだ。喫茶店の名前は、どこにもなかった。給料の未払いのことも、傍聴席のことも、もちろん書いていない。

    「載ってません」

    「じゃあ、この人は傘のことは新聞で読んで、それ以外のことは誰かから聞いた」犬飼は綴りを閉じた。「傘を盗んだ本人から」

     僕はそこで、ようやく気づいた。

    「手紙を書いた人と、火をつけた人は、別の人なんですか」

    「そう考えると、全部の辻褄が合う」

         ◇

     火曜日、犬飼は栄町の北のほうにある光明寺に行くと言った。

    「お寺の掲示」と彼女は言った。「この人は、森下さんが亡くなったことを、お寺の掲示で知ったって書いてる。森下さんのお葬式は、どこのお寺だったと思う」

     光明寺は、商店街から歩いて十分ほどの、古い小さな寺だった。山門の脇に掲示板があって、法話の予定と、檀家の訃報の貼り紙が並んでいた。

     住職は七十代の、よく日に焼けた人だった。犬飼が森下さんの名前を出すと、すぐに思い出した。

    「森下正一さん。三年前の冬でしたね。お葬式といっても、息子さんと私と、あと二人か三人でした。帰ってきてから三十年、この町で、ずっと一人でしたから」

    「最近、森下さんのことを聞きに来た人はいませんか」と犬飼が聞いた。

     住職は少し考えた。

    「一人、いましたね。夏の終わりだったかな。森下さんのお墓はどこかって。北村さんです。うちの檀家さんで、駅のほうで税理士の事務所をやってる」

    「お墓には」と犬飼が聞いた。

    「行かれたと思いますよ。花が置いてありましたから」

     住職は、それから思い出したように言った。

    「北村さんといえば、春に、お友達のお葬式もうちでやったんですよ。竹内さんという、北村さんと同い年の人で。病気でね。北村さんが弔辞を読んでいました。十九の春、丸三運輸の倉庫で一緒にアルバイトをしていた頃からの友人です、って」

     僕は、犬飼の首がほんの少し動くのを見た。

    「竹内さんは、どんな方でしたか」と犬飼が聞いた。

    「竹内さんの家も、親御さんの代からうちの檀家でしてね。法事のたびに顔を合わせてましたから、よく知ってますよ。静かな人でした。それから、少し変わった人でね」住職は笑った。「傘を差さないんです。どんな大雨でも、濡れて歩く。うちの法事に来るときも、ずぶ濡れで。奥さんがいつも、傘くらい差せばいいのにって困ってました」

     僕は、手紙の終わりのほうを思い出していた。

     ──四十年、一度も使いませんでした。雨の日に、一度も。

    「先生」と僕は言った。「手紙の、あの一行」

     犬飼は僕のほうを見なかった。でも、少しだけうなずいた。

         ◇

     北村税理士事務所は、駅前の古いビルの三階にあった。

     北村さんは、五十九歳。白髪まじりの、穏やかな顔をした人だった。犬飼が名乗り、森下直樹さんに頼まれて来たと言うと、北村さんはしばらく黙った。それから、事務員さんに今日はもう上がっていいと言って、僕たちを奥の部屋に通した。

    「息子さんが、いらしたんですね」と北村さんは言った。

    「はい」と犬飼は言った。「手紙を書いたのは、北村さんですね」

     北村さんは、小さくうなずいた。「……はい」

    「火をつけたのは、竹内さんですね」と犬飼は続けた。

     北村さんは目を閉じた。長いあいだ、そうしていた。

    「どうして分かりましたか」

    「傘です」と犬飼は言った。「本物の傘の名前は、息子さんがカタカナで書いたものでした。モリシタ、と」

     北村さんは目を開けて、犬飼を見た。それから、両手で顔を覆った。

    「……新聞で、漢字だったから」

    「はい」と犬飼は言った。

    「本物を、見たことがなかったんです」北村さんは手を下ろした。「竹内が持っていたのは知っていました。でも、一度も見せてもらわなかった。見せてくれとも、言えなかった」

     北村さんは、ゆっくり話しはじめた。

     昭和六十一年の春、北村さんと竹内さんは、二人とも十九歳で、丸三運輸の倉庫でアルバイトをしていた。そして二人とも、三か月分の給料を払ってもらえなかった。何度も事務所に言いに行き、最後は二人そろって追い出された。

    「竹内が火をつけるところを、見たわけではありません」と北村さんは言った。「でも、火事の三日後に、森下さんが捕まったという記事が新聞に出ました。竹内はそれを僕の横で読んで、顔が真っ白になった。それで、なんとなく分かったんです」

    「傍聴には」と犬飼が聞いた。

    「二人で行きました。一度だけ。竹内は後ろから三列目に座って、一時間で出ていきました。僕は、追いかけませんでした。何も聞かなかった。それから四十年、一度も」

     北村さんは窓の外を見た。駅前のロータリーを、バスがゆっくり回っていた。

    「竹内は三月に、病院で全部話してくれました。もう長くないと分かってから。傘は、ずっと押し入れにある。一度も使っていない。あれから、どんな傘も差せなくなった、と。僕は、知ってたよ、と言いました。竹内は、知ってたのか、と言って、少し笑いました。それが、最後にちゃんと話したことです」

    「それで、手紙を」と犬飼が言った。

    「竹内には、奥さんと娘さんがいます。娘さんは今年、結婚しました。竹内の名前で書けば、あの家にも届く。だから、私と書きました。中身は、竹内の話と、僕の話を混ぜて」北村さんは小さく笑った。「給料をもらえなかったのは、僕もです。資格を取って、就職して、結婚して、日曜に洗車をしてるのは、僕です。下の息子が十九になったのも」

    「傘は」と犬飼が聞いた。

    「竹内の奥さんが、先月の終わりに、ようやく押し入れを片づけはじめたんです。そこで見つけた。主人のものじゃない傘がある、名前が書いてある、心当たりはないかって、僕に電話をくれました。持ち主が分からないなら、今度の粗大ごみに出そうかと思ってる、とも」北村さんはそこで一度、言葉を切った。「持って帰るとは言えなかった。理由を聞かれたら、答えられない。少し考えさせてください、とだけ言いました。それで、似た傘を買って、自分で名前を書いたんです」

     北村さんは、犬飼をまっすぐ見た。

    「息子さんは、父親がやっていないと、分かるでしょうか。それだけでも、伝わればと思ったんです」

     犬飼は、しばらく何も言わなかった。

    「本物の傘を、竹内さんの奥さんから預かってきていただけますか。粗大ごみに出される前に」と犬飼は言った。「持ち主が見つかったので返すことになった、とだけ言って」

         ◇

     北村さんは水曜日の夜、茶色い紙で包んだ細長いものを、黙って事務所に届けに来た。

     森下さんが事務所に来たのは、金曜日の夕方だった。

     朝から曇っていた空が、昼過ぎから重くなって、森下さんが階段を上がってくる頃には、窓ガラスに細かい雨が当たりはじめていた。

     犬飼は机の上に、細長い包みを一つだけ置いていた。茶色い紙で包んで、紐をかけてある。

     犬飼は椅子の上で膝を抱えるのをやめて、森下さんの正面に座り直した。桐島さんのときと同じ座り方だった。真相を話すときはこうするのだと、僕にももう分かっていた。

    「森下さん。最初に、お父さんのことをお伝えします」と犬飼は言った。「お父さんは、倉庫に火をつけていません」

     森下さんの肩が、一度だけ大きく上下した。

    「あの晩、お父さんの傘を差して倉庫に行ったのは、別の人です。その人は、喫茶ローレルの傘立てから、お父さんの傘を盗みました。お父さんが裁判で言った、傘はなくした、というのは本当のことでした」

    「……でも、あの手紙は」と森下さんが言った。

    「あの手紙を書いたのは、火をつけた人ではありません。火をつけた人から話を聞いた人です。だから、傘の字を間違えました」

     犬飼は、茶色い包みの紐をほどいた。

     中から出てきたのは、黒い傘だった。あの偽物とよく似ていた。でも、布の黒はもっと褪せて、骨の一本が少し曲がっていた。

     犬飼は柄を、森下さんのほうへ向けた。

     柄の根元に、白い字があった。ペンキが盛り上がって、ところどころ剥げている。大きさのそろわない、子どもの字だった。

     ──モリシタ

     シの字が、斜めに傾いて、ツのように見えた。

     森下さんは、両手を伸ばした。指先が、その字に触れる前に止まった。それから、そっと触れた。

    「私の字です」

     それだけ言って、森下さんは傘を抱えたまま、しばらく動かなかった。窓の外で、雨の音が少し強くなった。

     やがて森下さんが顔を上げた。

    「火をつけたのは、誰なんですか」と森下さんは言った。「手紙を書いたのは」

     犬飼は、森下さんの目を見ていた。

     それから、椅子から立ち上がって、深く頭を下げた。

    「解決しました。ですが、それはお話ししません」

     僕は、息を止めた。

     犬飼は机の引き出しから封筒を出して、森下さんの前に置いた。森下さんが最初の日に置いていった、着手金だった。

    「どうしてですか」森下さんの声が、少し大きくなった。「父は、六年も。私は、四十年も」

    「はい」と犬飼は言った。

     それ以上、何も言わなかった。

     森下さんは、長いあいだ犬飼を見ていた。僕は、怒鳴られるのだと思った。豆腐屋のおばちゃんの、隣の家の奥さんのように。

     でも森下さんは、封筒には手を伸ばさなかった。かわりに、膝の上の傘を見下ろした。指でもう一度、モリシタ、の字をなぞった。

    「父は、本当のことを言ってたんですね」

    「はい」と犬飼は答えた。

    「それだけ、分かれば」

     森下さんはそう言いかけて、やめた。封筒を、黙って机の上に残したまま立ち上がり、傘を抱えて、ドアのところで一度だけ振り返った。

    「……雨、降ってきましたね」

     階段を下りていく足音が聞こえなくなってから、僕は窓のところへ行った。

     アーケードの切れ目の、雨が降りこむあたりで、灰色のコートの人が立ち止まっていた。抱えていた黒い傘を、ゆっくり開いた。骨の一本が曲がった、古い傘だった。

     四十年ぶりに、その傘に雨が当たった。

     森下さんはそのまま、雨の中を歩いていった。

         ◇

    「先生」

     僕は窓から振り返った。犬飼は椅子に戻って、机の上に残された封筒を見ていた。

    「どうして言わなかったんですか。桐島さんのときは、全部言ったじゃないですか。自分の親のことを知るかどうかは、その人のものだって」

    「言ったね」

    「森下さんにとっては、お父さんのことですよ」

    「お父さんのことは、全部言ったよ」と犬飼は言った。「お父さんは火をつけていない。傘はなくしたというのは本当だった。それは、森下さんのものだから」

     僕は、そこで考えた。

     火をつけた人の名前。竹内さん。その人には、奥さんがいて、今年結婚したばかりの娘さんがいる。

    「……竹内さんのことは、竹内さんの娘さんのもの、ってことですか」

     犬飼は、何も答えなかった。

    「それとも、北村さんとの約束ですか」

     やはり答えなかった。かわりに、机の上の封筒を指で弾いた。

    「森下さん、これ、持って帰らなかったね」

    「……はい」と僕は答えた。

    「じゃあ、気が向いたら返しに行く」

     僕は、それ以上聞いても無駄だと分かっていた。それでも、聞かずにはいられなかった。

    「先生、言う日と言わない日って、どうやって決めてるんですか」

     犬飼は、窓の外の雨を眺めていた。

    「空の色」

     それきり、彼女は何も言わなかった。

     僕は窓際に立てかけてあった、もう一本の黒い傘を見た。北村さんが漢字で名前を書いた、偽物の傘だった。四十年押し入れにあったことにされた、新しい古い傘。

     犬飼の視線が、いつのまにか、その傘に移っていた。

    「瀬川くん」

    「はい」

    「それ、北村さんに返してきて。雨だし」

     僕は傘を手に取った。開くと、柄の「森下」の字が、蛍光灯の下で白く光った。

    (二通目 了)


    あとがき

    最後までお読みいただき、ありがとうございました。

    連作ミステリー『気まぐれな猫』の二通目をお届けしました。

    以前の『拝啓、森下様』を読んでくださった方には、手紙の続きとして。今回初めて読んでくださった方には、一つの事件として楽しんでいただけたらうれしいです。

    心に残った場面や、犬飼の判断について感じたことなど、ぜひコメントで教えてください。

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    あお

     
     
    AIクリエイター。看護師13年目、3児の父。IT経験ゼロからAIで小説やアプリを作っています。作品は無料、作り方は有料で公開中。

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