
【ショートショート】怖くない実話怪談 ―朝凪―
——夏。
早朝の海は、静かすぎて少し不穏だった。
風はほとんどない。
波のうねりも、思い出したように小さく入ってくるだけ。
沖にはサーファーたちが散らばり、それぞれ黙って波を待っていた。
聞こえるのは波音と、ときおりパドルで水をかく音だけ。
陽光を反射した海面が、純銀に輝いている。
みな眩しそうに顔を伏せていた。
その時。
――ジジジジジ…
セミの鳴き声。
「……え?」
思わず耳を疑った。
ここは沖だ。
浜からはかなり離れている。
空を見上げる。
海面を見る。
並ぶサーファーたちを見る。
どこにもいない。
木なんてない。
流木すら浮いていない。
鳴き声は一瞬で途切れた。
再び静寂が戻る。
小さなうねり。
遠くで鳥が鳴く。
聞き間違いだったのか。
そう思った時、少し離れたサーファーも同じように顔を上げた。
……聞こえたんだ。
自分だけじゃない。
海の上に、妙な空気が流れる。
誰も笑わない。
誰も何も言わない。
波待ちをしながら、それぞれが静かに視線を巡らせていた。
しばらくして、また。
――じ、じ、じじじ……
今度は、さっきより近い。
周りのサーファーたちが一斉に顔を上げる。
鳴き声は止まらない。
むしろ、近づいてくる。
――じーじーじーじー……
音のする方向を探した。
海面でも、空でもない。
もっと低い。もっと近い。
目の前を、一人のサーファーがゆっくり通り過ぎていく。
黒いウェットスーツ。
無言のままパドルを続けている。
何気なく目で追った、その瞬間。
――じじじじじじーーッ!!
いた。
……アブラゼミだった。
黒いウェットスーツの尻に、ぴったり張りついている。
黒い体が、ウェットスーツに完全に同化していた。
セミは必死にしがみつきながら鳴いている。
「…………」
一瞬の沈黙。
「セミついてるよ!」
「えっ!」
本人は慌てて後ろを見ようとするが、見えるはずもない。
「どうりでさっきから!」
周りから笑い声が上がった。
近づいて、そっとセミをつかんだ。
――ジジジジジッ!!
最後の抵抗なのか、セミは手の中で激しく暴れる。
「浜まで帰れよー!」
放物線を描いて飛んでいく。
……いや、飛んだというより、投げられた。
それでも、あのまま海の上で力尽きるよりは、ましだったはずだ。
小さなセットが入ってきた。
さっきまでの不穏な空気は、もうどこにもなかった。
夏の海は、ときどき怖い。
でも、ときどき、どうしようもなくくだらない。