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無音の待合室。



    大学病院の長い廊下は、ツンとした消毒液の匂いと、人々の放つぬるい熱気で満ちていた。


    腕の中で規則正しく小さな息をする我が子の温もりだけが、今の私にとって唯一の確かな命の証に思えた。




    眼科の前を通り過ぎようとした時のことだ。

    視界を埋め尽くすほどの、人、人、人。

    パイプ椅子に隙間なく座り、あるいは壁によりかかる無数の高齢者たち。

    彼らは一様にうつむき、あるいは濁った瞳で虚空を見つめ、じっと「自分の番」を待っている。

    カサカサとした衣擦れの音、ひっきりなしに響く乾いた咳、何かの番号を告げる無機質な電子音。

    そこは、圧倒的なまでの「生への執着」と「老い」のエネルギーに満ちていた。

    息が詰まりそうになりながら、足早にその人だかりを抜ける。

    目指す小児科は、廊下をさらに進んだ先にあった。





    角を曲がると、空気がふっと冷たくなった気がした。

    先ほどまでの異様な喧騒が、嘘のように消え去っている。

    誰も、いないのだ。

    絵本が綺麗に並んだ本棚、カラフルなジョイントマットが敷かれたキッズスペース、受付で笑うキャラクターのぬいぐるみ。

    それらすべてが完璧な状態で「そこにある」のに、肝心の「子供」が一人もいない。

    泣き声も、笑い声も、親がなだめる声も、走り回る足音すらない。

    まるで、この空間だけが時間から切り離され、最初から「未来」が抜け落ちてしまったかのようだった。




    ふと、後ろを振り返る。

    はるか遠く、眼科の前に群がる老人たちの群れが、黒い淀みのように蠢いているのが見えた。

    彼らは増え続けている。

    今この瞬間にも、じわじわと、この無音の廊下を浸食するように。

    そして小児科の空白の空間は、その巨大な影に飲み込まれるのを、ただ静かに待っているかのようだった。




    「……この国は、もう」




    声に出しかけて、慌てて口をつぐんだ。

    腕の中で眠る我が子を、無意識に強く抱きしめる。

    この子は、この静まり返った無音の世界で、迫り来るあの黒い影の波にたった一人で立ち向かっていかなければならないのだろうか。

    誰もいない小児科の待合室で、私の背筋を、本物の恐怖が撫で下ろしていった。



    ***


    次回の検診で、小児科を訪れたとき。
    どうか、誰か他の「子供の声」が聞こえますように。未来の音が鳴り響いていますように。







    #創作大賞2026 #エッセイ部門

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