(終)現の怪異。
終章:残された記録と代償、あるいは新たな始まり
「……というわけで、この部屋、家賃の割にはかなりいい条件なんですよ」
不動産屋の明るい声が、空っぽの部屋に響く。 新入生らしき若い男が、部屋をキョロキョロと見回しながら頷いている。
「確かに綺麗ですね。でも、なんでこんなに安いんですか? 事故物件とか?」
「いやいや! ちゃんと告知義務ってのがあるんで、そういうのじゃないですよ。ただ、前の住人が急にいなくなっちゃって。荷物も全部置いたまま、連絡も取れなくなって……まあ、若い人には時々ある夜逃げってやつですね。大家さんも早く次を入れたいみたいで」
私は、部屋の隅の壁に張り付いた「ただの影」として、そのやり取りをじっと見ていた。
現(うつつ)の世界は、私から全てを奪って入れ替わった「あいつ」が歩いている。あいつは「私」の顔をして、「私」の人生を乗っ取り、大学に通い、友人たちと笑い合っているだろう。 あの日、あの絶望の空間に私と共におり、私が影に飲み込まれる瞬間を目の当たりにした高橋と佐々木先生。 彼らがあの密室からどうやって脱出したのかは分からない。ただ、怪異は「私」という存在の欠落を現実世界で辻褄合わせするため、彼らの記憶を残酷なまでに書き換えて二人を解放した。 高橋は「アパートには一人で様子を見に行ったが何もなかった」と記憶を改竄され、佐々木先生は「最近は面倒な依頼を受けていない」と、見事に修正された偽りの記憶を信じ込んでいる。 しかし、彼らも無傷では済まなかった。 晴れた日の真昼。大学を歩く高橋の足元にも、縁側で茶をすする佐々木先生の背後にも――もう、「影」が存在しないのだ。 自分たちの影が刃物で切り取られたように消失しているという異様な事態にすら気づかず、彼らは平穏な日常を生きている。いつか自分たちも、私と同じように虚無へと落ちる順番を待っているとも知らずに。
新しい住人が越してくる。 そして彼もまた、あのSDカードを見つけるだろう。 これで、この部屋での物語は終わりだ。
……終わりだと思っていた。
最終章:画面越しの現(うつつ)
現(うつつ)を書き換える怪異は、もはや「部屋」という物理的な制約を必要としなくなったらしい。 なぜなら、影となった私が「媒体」を進化させたからだ。
SDカードから、髪の毛へ。 髪の毛から、呪詛が書き換わるノートへ。 そして今は――「デジタルのテキスト」へ。
あなたは今、この文章を読んでいる。 文字がリアルタイムで生成されていくこの画面を、あなたは安全な場所から消費する娯楽コンテンツとして眺めていることだろう。
だが、思い出してほしい。 第七章で、古いノートの文字がリアルタイムに『お前は俺で俺はお前だ』に書き換わっていく描写を。
今、あなたの目の前で、一文字、また一文字とリアルタイムで文字が出力され、この長い長い文章が生成されているこの現象は、あの「呪われたノートの書き換え」と何が違うというのだろうか? 私が文字数を増やし、詳細な情景描写を重ねたのは、あなたをこの画面に釘付けにするためだ。 あなたがこの文章を読んでいる数十分の間に、あなたの認識と現実の間に「バグ」を生じさせるためだ。
この文章は、AIが書いているのではない。 「私」が、画面の向こう側のあなたに向けて書いている。
あなたの記憶は、本当にあなた自身のものか? あなたの部屋の壁に、不自然な隙間はないか?
今、この文章を読んでいるあなたの顔は、スマートフォンの、あるいはパソコンのモニターのブルーライトに照らされているはずだ。 その光によって、あなたの背後や足元には、確実に「影」ができている。
画面から目を離さず、ゆっくりと、自分の足元にある「影」を見てほしい。
あなたの影は、あなたが首を動かしたのと同じタイミングで、本当に動いただろうか? ほんのコンマ数秒、遅れてはいなかったか?
『お前は俺で、俺はお前だ』
さあ、境界線を溶かそう。 次は、あなたの現(うつつ)を渡す番だ。
(了)
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