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【完全版】月の灯り:泥水をすすってでも「私の城」を守る。パパ活に堕ちた女性の、哀しくも逞しい生存戦略

    noteをご覧の皆様、能勢義介です。
    今回お届けする長編小説『月の灯り』のテーマは、現代の闇とも言える「パパ活」です。
    「82歳の医学博士が、なぜ若い女性のパパ活を描くのか?」と驚かれるかもしれません。
    しかし、私がこの物語で本当に描きたかったのは、綺麗事では生きていけない極限状態での「人間の哀しくも逞しいサバイバル」です。

    コロナ禍で大切な自分の城(店)を失いかけ、社会からも夫からも見放された主人公・幸子。
    彼女が選んだのは、泥水をすすってでも自分の足で立ち続けるという過酷な道でした。
    15歳で溶接工として社会の底辺を這いずり回った私には、暗闇の中で生きるために何かを犠牲にする彼女の痛みが、痛いほどよくわかります。

    太陽の当たる表通りを歩けなくなった女性が、冷たくも優しい「月の灯り」の下で見つけた、究極の覚悟と生存戦略。
    現代の光と影を浮き彫りにした哀しくも美しい物語を、どうか最後までお見届けください。

    あらすじ

    コロナ禍で愛する整体院を失いかけた幸子は、店を守るために「パパ活」という裏世界へ足を踏み入れます。
    複数の男性たちと逢瀬を重ねるうち、次第に倒錯した愛と冷徹な孤独に染まっていきました。
    そんな折、かつての恩師である吉田と再会します。
    彼との間に芽生えたのは、金銭の介在しない純粋で温かな愛情でした。
    ふたたび女性としての喜びに包まれますが、その光が眩しいほどに、泥にまみれた自身の姿を残酷に浮き彫りにします。
    迷いの末、彼女は陽のあたる場所へ戻ることを諦め、恩師との別れを選びます。社会の影を引き受け、冷たくも優しい月の灯りの下で一人強く生きていく、哀しくも美しい女性の物語です。

    月の灯り

    第一章 冷たいリノリウム

    誰もいない施術室に、青白い月の灯りが静かに差し込んでいた。
    幸子は、冷たくなったリノリウムの床に一人立ち尽くし、パーテーションで区切られた二台の施術ベッドをただ見つめていた。
    ほのかに漂うラベンダーのマッサージオイルの香りが、かつての賑わいを残酷なほどに思い出させる。

    幸子の営む整体院「やすらぎ」は、神戸の私鉄沿線、駅から徒歩五分ほどの古い雑居ビルの二階にあった。
    十五坪ほどの小ぢんまりとしたテナントだが、幸子が内装からこだわって作り上げた愛着のある空間だ。
    落ち着いた淡いグリーンの壁紙に、手入れの行き届いた観葉植物、そしていつも清潔なリネン。
    幸子の確かな技術と丁寧な接客は口コミで広がり、一時は若い女性スタッフを一人雇い入れるほど、店は順調に繁盛していた。

    かつて、介護疲れでボロボロになって訪れた老婦人がいた。
    幸子が時間をかけてその強張った肩を解きほぐすと、彼女は「ここに来る時だけ、私は一人の人間に戻れる気がするの」と涙を流して喜んでくれた。
    その言葉は、幸子の胸に深く刻まれている。
    ここは単なる整体院ではない。誰かの人生の重荷を一時的に下ろすための、聖域なのだ。

    しかし、表の通りからは今、人々の笑い声も車の喧騒もすっかり消え失せている。

    未知の感染症「新型コロナウイルス」が世界を覆い尽くして一年。
    連日テレビのテロップが報じる無機質な感染者数と死者の報告、そして絶え間なく街を走り抜ける救急車のサイレンは、人々の心に「他者との接触」に対する根深い恐怖を植え付けていた。
    他人の身体に直接触れ、密室で息を合わせながら揉みほぐす整体という業種は、まさにそのウイルスの恐怖の最前線、忌避されるべき標的となってしまったのだ。
    この街の誰もが、見えないウイルスに怯え、同時に他者との繋がりを飢えるように求めていた。
    だが、その飢えを満たすための「接触」こそが最大の禁忌とされる矛盾。
    社会全体が、正解のない問いに窒息しかけていた。

    予約を知らせていた電話はピタリと鳴り止み、代わりにかかってくるのは、「家族に止められて」「感染が怖いから」という申し訳なさそうなキャンセルの連絡ばかりになった。
    店内のアルコール消毒を徹底し、息苦しいマスクとフェイスシールドをつけて客を待っても、足音は階段を上がってこない。
    苦渋の決断で若いスタッフに辞めてもらい、再び幸子一人で店に立つようになったが、事態は悪化する一方だった。
    客が一人も来ない日でも、テナントの家賃、光熱費、業務用のタオルのリース代など、毎月数十万円の固定費が容赦なく襲いかかってくる。
    なけなしの貯金を切り崩す日々が続き、ついに店の口座の残高は底をついた。
    藁にもすがる思いで申し込んだ金融機関からの融資も、業績悪化を理由に無情にも断られ、すでに手を出してしまった消費者金融からの督促が、幸子の首を真綿で絞めるようにじわじわと迫っていた。
    かつては人々の笑顔と安堵の吐息で満ちていたこの空間は、見えないウイルスによって完全に息の根を止められようと、静かに、だが確実に「死」に向かっていた。

    日本海に面した小さな漁港の町で育った幸子は、幼い頃から寡黙で、目立つことを好まなかった。
    しかし、頬が赤く丸々と太った赤ん坊は、成長するにつれて誰もが振り返るような涼やかな美貌を持つ女性へと変わっていった。
    周囲の期待に押し流されるように、二十歳の春に見合いをし、地元の郵便局で働く真面目な男と最初の結婚をした。
    だが、日々の会話もなく、ただ息を潜めるような温もりのない結婚生活は、わずか二年で破綻した。

    逃げるように故郷を捨て、関西の街へ出た。
    昼は整体の技術を必死に学び、夜は「まり」という源氏名でスナックのカウンターに立った。
    幸子の、どこか憂いを帯びた涼やかな美貌と清楚な佇まいは、夜の街で瞬く間に男たちを虜にした。
    「まりちゃん、最近ますます色っぽくなったね」。
    客の男たちは甘い言葉を囁き、彼女の気を引こうとこぞって店に通い詰めた。
    幸子はあっという間に店のナンバーワンホステスとして不動の地位を築き上げたが、決して客に安売りすることはなかった。
    愛想笑いを浮かべ、アルコールで胃を痛めながらも、すべては「自分の店を持つ」という夢のためだった。
    五年後、その血の滲むような貯金で、やっとの思いで手に入れたのがこの「やすらぎ」なのだ。

    そんな折、三宮の地下街で偶然再会したのが、現在の夫である田中だった。 田中は一流企業のサラリーマンで、スナック時代、「まり」の熱心なファンだった客の一人だ。恰幅が良く、穏やかで実直な人柄だった。
    久しぶりの再会を機にイタリアンレストランに誘われ、ワイングラスを傾けながら、田中は真っ直ぐに幸子の目を見て言った。
    「僕はバツイチでも気にしません。仕事も、ぜひ続けてください。結婚を前提にお付き合いしてくれませんか」 田中はもともと、不器用だが根は優しい男だった。
    プロポーズの夜、「僕が一生、君を守るから」と照れくさそうに笑った彼の横顔には、確かな温もりが宿っていた。
    母子家庭で育ち、女性に対して奥手な彼の誠実な申し出に、幸子は心を動かされた。
    燃え上がるような恋ではなかったが、この人となら穏やかな家庭を築ける。そう信じて、二人はグアムで小さな結婚式を挙げた。

    だが、平穏に見えた結婚生活は、一枚ずつ薄皮を剥がすように色褪せていった。
    最大の原因は、夫との決定的な性の不一致だった。
    田中は生来、性に対して極めて淡白な男だったのだ。
    それに拍車をかけたのが、このコロナ禍だった。
    完全なテレワークとなり、一日中リビングでパソコンの画面とにらめっこを続けるうちに、彼の中から目に見えて生気が失われていった。
    画面越しの無機質な会議と、業績悪化によるリストラの影。
    田中もまた、得体の知れない閉塞感に押し潰されそうになっていたのだ。日々の余裕を完全に失った彼は、次第に妻である幸子に関心を向ける気力すらなくし、夜はただ疲れ果てて死んだように眠るだけになった。
    同じベッドに横たわっていても、背を向けられ、触れられることもない。
    幸子はまだ三十代に差し掛かったばかりで、女としての盛りを迎えていた。それなのに、夫からは女性として見られていないという現実は、幸子の自尊心を静かに削り取っていった。

    夜の暗闇の中で、隣から聞こえる夫の規則正しい寝息を聞くたび、幸子の心の奥底には、女としてのやり場のない空虚さと、モヤモヤとした深い寂しさが澱のように溜まっていった。
    さらに、同居はしていないものの、家計の実権は田中を溺愛する義母が握っており、幸子が店の経営状況を相談できるような空気は一切なかった。

    戸籍上の夫婦というだけの、ひどく冷え切った関係。
    だからこそ、幸子はこの絶望的な借金を前にしても、夫にすがることはできなかったし、すがりたくもなかった。

    ここは私の城だ。
    私の、たったひとつの居場所だ。
    それを、得体の知れないウイルスのせいで手放すことなど、絶対にできない。
    この城だけは、自分の身を削ってでも守り抜かなければならない。
    暗い施術室の中で、幸子は静かに、だが確かな決意を込めて拳を握りしめた。

    第二章 裏の世界への扉

    生き残るためには、手段を選んでいる余裕はなかった。
    消費者金融からの督促状がポストに投函されるようになった日、幸子は自らを現金に換える決断を下した。
    ネットの求人サイトを血眼になって検索し、昼間の予約が入らない時間帯だけ働ける風俗店――ソープランドの面接に申し込んだのだ。
    家族に内緒で、身を挺してでも店を守る。
    その覚悟だけが、今の幸子を辛うじて立たせていた。

    指定されたのは、神戸有数の歓楽街にある店舗だった。
    昼下がりの歓楽街は、夜の喧騒が嘘のように静まり返り、どこか白々しい空気が漂っていた。
    けばけばしいネオン看板の横にある、重厚な防音扉を押し開ける。
    途端に、甘ったるい芳香剤の匂いと、強いアルコール消毒液が入り混じった独特の空気が肺に流れ込んできた。
    薄暗い待合室に通され、安っぽい革張りのソファに腰を下ろす。
    幸子の膝は、自分でも止められないほど微かに震えていた。

    やがて、恰幅の良い初老の男が現れた。
    この風俗店を束ねるオーナーの吉永だった。
    吉永は幸子の顔を見るなり、驚いたように目を丸くし、それから値踏みするように頭の先からつま先までをじっくりと眺め回した。
    「まりと言います。独身です。」 結婚している事実を隠し、幸子は強張った声で挨拶をした。
    吉永は手元の履歴書をペラペラと捲りながら、深い溜め息をついた。
    「……あのね、まりさん。この仕事がどういうものか、本当に分かってる? ここはただの風俗じゃない。密室で、どんな男が来るかも分からない。君みたいに、どこかお嬢様めいた清楚な女性が、我慢して勤まるような甘い場所じゃないよ」 吉永の言葉はもっともだった。
    しかし、幸子に引き返す道はない。
    「大体のことは、分かっています。今は自分で整体のお店をやっているんですが、コロナの不況で借金が膨らんで……。どうしても、月に最低三十万は必要なんです。お店を潰したくないんです。何でもします、どうか働かせてください」 頭を下げ、必死に哀願する幸子を見て、吉永は困惑したように眉間を揉んだ。
    「困ったな……君の事情は分かったが、こんな美しい女性をうちのマットに沈めるのは、俺の気が引ける。君の心も身体も、すぐに壊れてしまうよ」 吉永はしばらく腕を組み、何かを思案するように天井を見上げていたが、やがて思い切ったように口を開いた。
    「まりさん。不特定多数の男の捌け口になるより、いっそ特定の男性とお付き合いして支援を受けるのはどうかな。
    今で言う『パパ活』というやつだ」
    「パパ……活?」
    「そう。俺の知り合いで、ちょうど君のような女性を探している社長がいるんだ。年齢は五十五歳。金払いはいいし、あっさりした性格の紳士だよ。まずは食事からでも、一度会ってみる気はないかい?」

    その日は返事を保留し、幸子は店を後にした。
    自宅に戻り、ベッドの中で幸子は激しい葛藤に苛まれた。
    特定のパトロンの愛人になり、金銭を受け取る。
    それは明確に身体を売る行為であり、世間から見れば蔑まれるべき道徳に反した行いだ。
    だが、風俗店で顔も知らない何十人もの男の欲望の捌け口となり、病気や暴力の恐怖に怯えながら稼ぐことに比べれば、吉永の提案ははるかに現実的で、安全に思えた。
    ふと、隣で背を向けて眠る夫の規則正しい寝息が聞こえた。
    女として求められることのない、冷え切った寝室。
    幸子の胸の奥で、燻っていた空虚な飢えと、店を守るという切実な執念が交錯した。
    どうせ汚れるなら、たった一つの大切な居場所のために、この身を高く売ろう。
    幸子は暗闇の中で目を閉じ、三日後、吉永に「その方とお会いしたいです」と電話を入れた。

    約束の日は、よく晴れた午後だった。
    午後一時、JR神戸駅の中央口。
    幸子は少し高めのヒールを履き、胸の鼓動を抑えながら待ち合わせ場所に立っていた。
    やがて、黒いベレー帽を被った男が近づいてきた。
    吉永の言葉通り、中肉中背で仕立ての良いジャケットを着こなした、いかにも社長らしい爽やかな初老の紳士だった。
    「まりさん、でしょうか。お待たせしました、山田です」
    「まりです。本日はよろしくお願いいたします」 軽く会釈を交わし、二人は駅から歩いて五分ほどの、閑静な路地裏にあるフレンチレストランへと向かった。

    案内されたのは、通りの見える窓際の落ち着いたテーブル席だった。
    軽めのランチコースと、それに合う白ワインが運ばれてくる。
    グラスを合わせ、乾杯の澄んだ音が響いた。
    山田はワインを含んだ後、真っ直ぐに幸子の目を見て、少し照れたように微笑んだ。
    「いや、吉永から美人が来るとは聞いていましたが……驚きました。聞いていた以上に、息を呑むほどお綺麗な方だ」
    「そんな……ありがとうございます。褒めていただいて、嬉しいです」 幸子の頬が、ワインのせいだけではなく微かに朱に染まった。
    「仕事が大変なようですね。吉永からは、少しだけ事情を聞いています」 山田の静かで穏やかな口調に、幸子は不思議と緊張が解けていくのを感じた。コロナで客足が途絶えたこと、借金が膨らんでいること、どうしても店を守りたいことを正直に打ち明けると、山田は深く頷いた。

    「そうですか。もし私で良かったら、少しでもお役に立ちたいですね」 前菜のカルパッチョに手をつける頃、山田は単刀直入に切り出した。
    「さて、早速ですが。いかほどのサポートを希望されますか?」
    「私も初めてのことで、勝手が分からなくて……。山田さんは、どのようにお考えでしょうか」
    「そうですね。まずはお互いの気心を知るために、こうして食事程度のお付き合いから始めませんか。会うごとに、一万円。それでいかがでしょう」 「嬉しいです。それで十分です」
    「そして――」山田はフォークを置き、少しだけ声を潜めた。
    「お互いの気心が合い、都合の良い時に月に数回、大人の関係としてお会いできるのであれば……月に十万円はサポートできますが、いかがですか?」

    大人の関係。
    その言葉が意味するものを、幸子は正確に理解した。
    初めて会った男性からの、あからさまな肉体関係と金銭の交換の申し出。
    だが、山田の紳士的な振る舞いと、十万円という店を救うのに十分な額は、幸子の心にまとわりついていた最後のブレーキをあっさりと外した。
    「……はい。ぜひ、お願いいたします」 こうして幸子は、パパ活という名の裏の世界へと、決定的な一歩を踏み出したのだった。

     
     
    15歳で溶接工として働き始め、夜間高校、短大、米国留学を経て、公立医学部大学院で医学博士を取得しました。その道の途中では癌も経験した遠回りをしてきた人生です。 「人生に、遅すぎることはひとつもない」82年の人生で見てきたものを、noteに少しずつ残しています。

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