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児童相談所、ホスト走る! 第五話 鳴らない警報


    創作大賞2026、ミステリー小説部門の投稿作です。
    これが、シリーズ最終話になります。




    その少女は夕方にスーパーに来ることが多かった。学校が終わって、溜まっていた家事をこなしてから買い物に来るからだろう。

    スーパーは仕事帰りの客で混雑し始める時間帯だった。そんな中を、小学校低学年くらいの少女が、一人で買い物をしている。なんなら、野菜を詰め込んだスーパーの買い物カゴの方が重いんじゃないかって思えるくらいだ。

    でも、彼女の表情は暗くない。むしろ、家族を助けているという誇りに輝いている。
    一人での買い物だって手慣れたものだった。エノキも大袋ではなく、セール品の中から小袋を二つ選んでいる。その方が安上がりだと分かっているからだ。きちんと値札を確認しながら取捨選択していた。

    黄色いプラスチックのカゴの中は、牛乳、卵、豚小間、玉ねぎ、食パン、洗剤、もやしなどが入っていた。余計なものは一つも入れられていない。小さな子供の買い物というより、日常の生活を感じさせる買い物カゴの中身だ。

    少女はポケットの中のメモを取り出して、カゴの中身と比べ合わせた。ポケットにメモを戻しレジの列に並んだ。

    自分の番が来ると、スーパーのポイントカードを取り出した。レジの主婦とは顔見知りのようだった。

    「あら、陽菜ちゃん、晩御飯の準備?今日は何作るの?」

    「カレーライス。もやしを入れてカサ増しするの。味が薄くならないように気をつけなきゃいけないけど。今日は卵が安かったから、メモにないけど買っちゃった」

    屈託のない笑顔で笑った。レジの主婦にバイバイと手を振り、買ったものを順番を考えながらサッカー台でエコバッグに移した。

    その様子を遠巻きに眺めている主婦たちがいた。彼女たちの手は、サッカー台の上で止まったままだった。少女がスーパーを出ていくまで、黙って動きを追っていた。

    少女は重そうなエコバッグを、何度も持ち直しながら帰っていった。少女の背中が見えなくなると、主婦の一人が口を開いた。

    「あの子、一人で来たのかしら?」

    「最近よく見るわよ。わたしは、一人のところしか見たことないわ」ともう一人が反応した。

    「お母さんとか、一緒に来ないのかしら?」別の一人も声を出した。しかし、誰も答えなかった。

    少し間が空き、三人の目が合う。そして、一人が言った。

    「児相案件じゃない?」


    第五話 鳴らない警報


     子育て支援の講演会へ出席し、週末をほぼ家とコンビニとの往復だけで過ごした俺は、少し重い足取りで月曜の児相へ到着した。

    朝礼のあとで、二宮と俺は講演会の内容を鈴木係長に報告した。
    改めて口に出してみると、特別変わったことなど起きていないようだった。
    しかし、二宮でさえ「表現しにくい空気を纏っているような講演会」と感想を述べていたので、俺だけの思い違いではないようだった。

    一通りの報告を終えた後で、俺一人だけが鈴木係長のところに残り、新しく見つけた掲示板の話をした。いわゆる、「児相の車」目撃情報板だ。

    俺たち児相メンバーの目撃もリアルタイムで更新されていたことも合わせて告げた。ただ、俺の知る限りでは、目撃情報はその翌日以降は更新されていないようだった。

    掲示板を見た鈴木係長は、眉間にしわを寄せた。その顔を見て、俺は、ふと感じた事を漏らした。

    「昔、何気なくテレビを見ているときに、人の免疫機能について説明している番組があって」

    「それは、ヒトの体が、体内に侵入してきた異物を攻撃するっていう、あれ?」鈴木係長が顔をあげて答えた。

    「そう。それを見たときは、いまいちよく分からないなって思ったんですけど、このサイトを見ていて、その番組を思い出しました」 

    鈴木係長は少し黙り込み、「この掲示板の件は、上に挙げておくよ」とだけ言った。

    それから間もなくして、カツミからスマホにメールが来た。本業が忙しいと言っていたわりには、メールをくれる。

    メールを開くと、先日とは違うサイトのリンクがまた貼ってあった。クリックすると、別の掲示板が表示された。

    掲示板公開の日時が、講演会翌日の朝からになっていた。児相の車の目撃情報は、こちらの掲示板で更新され続けていたようだったが、さすがに、児相メンバーの目撃談まではアップされていなかった。

    むしろ、怪しい家庭を発見した、というような情報が、二、三件あげられていた。


     それから何日もしないうちに、通報が入った。掲示板で話題に上がった家かと思ったが、違うようだった。

     内容は、小学三年生と思われる女児が、夜に一人で買い物をしているとのこと。何度遭遇しても親の姿を見たことが無い。さらに、『その女児が家庭で家事をさせられているようだ。放置、あるいは虐待では?』と続いていた。

     通報を受けて、鈴木係長が二宮と俺を担当に指名した。

    「お前たち、気を付けなさい。わたしたちの一挙手一投足が、街の人々に見られているつもりで動きなさい」

    「オレたちは、街に入り込んだ異物なんですかね?」と俺は言ってみた。二宮も俺の言葉なのに否定しなかった。

    「善意だと思っている相手は厄介だからね。でも、わたしたちのやるべきことは変わらないよ」

    資料をまとめた俺と二宮は、児童相談所をあとにした。


     通報されたのは、宮原家という家庭だった。二階建てのアパートは、確かに古い造りだったが、ゴミも無く、建物の周囲も整えられていた。その一階部分の西の端に、宮原家の部屋があった。

     二宮が玄関のブザーをゆっくり二度押した。

    低い声の後にドアを開けて出てきたのは、四十近くと思われる男性だった。多分これが父親の、宮原修平なんだろう。東港運輸に勤務している長距離運転手とのことだった。

    彼は俺たち二人の姿を見て、少し戸惑った表情をした。二人で訪問したことになのか、俺の髪の色になのかは分からなかったが。

    「お休みのところ、申し訳ありません。お電話で連絡させて頂きましたが、我々、児童相談所の者になります」そういって、二人で職員証を提示した。

    「これは、御丁寧に。宮原修平です。」抑揚の乏しい声だったが、そう言って父親は軽く頭を下げた。疲れているようだが、礼儀正しそうな人物だ。

     父親は俺たちを家の中にあげてくれた。

    「お休みのところ、申し訳ありませんでした」席に着くなり二宮は繰り返し言った。

    「今日は、お仕事は早く終えられたのですか」

    「ええ。一昨日、昨日と遅くまで残業していたので、今日は早めに帰っていいと社長が言ってくれたから」と、低い声で答えた。

    「お仕事は、東港運輸で長距離運転手をされているとのことで、間違いありませんか?」

    「ああ、そうですね。でも、妻が亡くなってから長距離はできるだけ避けて、短距離かせいぜい中距離をこなしている感じです。職場の皆が気を使って、娘のことを考えてくれて」

    「家族構成を教えて頂けますか」と二宮がノートを取り出した。

    「はい。わたしと、娘が一人の二人家族です」

    「失礼かもしれませんが、奥様は?」

    「妻は、二年前に交通事故で亡くなりました。そこから二人暮らしです」

    そう言って宮原はゆっくり部屋を見回した。

    物は多くないし、置かれているものも質素ではあるが、荒れてはいなかった。整理整頓しやすいように、余計なものを増やさないといった感じだ。
    部屋の隅には洗濯物が畳まれていた。

    「宮原さんや、奥様の御両親とは連絡を取られているんですか」

    「いいえ。妻の両親はわりと若いうちに二人とも亡くなってますし、うちの方は逆にもう結構な年齢で母だけが健在で、関西の方にいる姉家族のところで厄介になっています。だから、娘ともしばらく合わせられていないかな」

    「そうですか。では、本当に基本二人での生活という感じなんですね」二宮が何かを書いている。

    「娘さんはおいくつになりますか」

    「今年で九歳かな。今、小学三年生です」

    少し型の古い、大きくない冷蔵庫の扉に学校予定表が貼ってあった。多分娘さんのなんだろう。

     急に誰かが、玄関の扉を開けて、「ただいま」と言いながら部屋に入ってきた。
    顔を見せたのは、小柄な小学生の女の子だった。少し目を丸くして、俺たちを見ている。

    「お客さんだぞ。御挨拶」と宮原が女の子に言った。

    彼女は、『気をつけ』みたいな姿勢になり、ちょこんと頭を下げた。

    「こんにちは」少し甲高いが、はきはきとした声だった。

    「娘の陽菜です」と修平が紹介した。

    「はるなです」と少女も繰り返した。

    普通の挨拶なのに気持ちいい。人見知りしなさそうな少女だ。

    「あれ?駄目じゃない、お父さん。お茶も出てないよ」そう言って陽菜はキッチンで手早く手を洗い、手際よくコップにペットボトルの緑茶を注いだ。

    「どうぞ」そう言って俺たちの前にコップを置く。

    その行動には違和感がなかった。この子が通報にあった女児なんだろう。

    「ありがとう」俺は彼女に微笑んでみた。彼女の視線が俺の頭に向かっているのが分かった。

    「実はですね」二宮がゆっくり語りだした。

    「陽菜ちゃんの件で、当事務所に夜分に一人で買い物しているという通報が入りまして…」

    端的だが誤解されない説明が、二宮は上手だ。さすが、年下なのに先輩のことはある。中途採用の俺とは大違いだ。とりあえず俺は横で頷くことに徹した。

     二人から話を聞き、大体の生活の流れが把握された。修平の話に、陽菜が足りないところを付け加える印象だった。

    修平は配送業の仕事で、毎日のように帰宅が遅いらしい。この日のように配慮で早く帰れる日もあるらしいが、早々甘えてもいられない。できる限りは臨時の近距離便も引き受けるようにはしていた。それで、帰りが遅くなってしまう。

    父親の忙しさを知っているから、陽菜は家事を手伝う。むしろ率先しているようだった。まだできることは限られているが、できる範囲で掃除をして、洗濯物を畳み、ご飯を作り、買い物をしていた。

     少なくとも彼女の顔を見る限り、強制されているようには思えなかった。難しく言えば、矜持ってやつを感じた。

    「すごいな、料理できるんだ」多分、俺は初めて口を開いた。

    「うん。まだそんなに種類は多くないけど、おかずも幾つか作れるようになったよ」

    「へえ。どんな料理をつくるの?」

    「ええ?ご飯炊くのは簡単だから。サラダでしょ。お味噌汁。キムチ冷奴とか、ウィンナー焼いたり。あ、最近ハマっているのはカレー作り」

    「カレー作れるのか?すごいな。オレはせいぜい、コンビニかレトルトばっかりだよ」

    「野菜さえ切れたら、あとは意外と簡単だよ」と陽菜はにっこり笑った。

    「目玉焼きとかも、簡単じゃないか?」と俺は言ってみた。

    「目玉焼きか…。そうだ。お父さんも得意料理あるよ」

    「なに?」修平は少し困り顔で会話を聞いていた。

    「卵焼き。お父さん、卵焼きだけは、毎朝絶対作ってくれるんだ」

    「下手なんですけどね」修平は苦笑しながら答えた。

    「お父さんの卵焼き、好きなんだ?」

    「うーん、時々焦げてるけど、好き」本当に好きそうだ。

    「朝ご飯、作ってくれるんだね」

    「うん。あとね、三つ編みもしてくれる。今日は三つ編みじゃないけど」

    「三つ編み?それ大変じゃん?」ついつい、くだけてしまった。

    「お父さんも、最初はすごかったんだよ。もう、ぐちゃぐちゃで。学校に着いた頃には、バラバラーってほどけちゃって」

    そう言って陽菜は笑った。
    修平も苦笑してばかりのようだ。
    思わず俺も笑った。

    少なくとも、問題家庭には見えなかった。親子関係も、日常生活も成り立っているように思えた。いや、むしろ、ちゃんとしている。

    それでも、他人からすれば、夜一人でいる子供は不穏に見えるんだろう。周囲により、勝手に空気だけが出来上がってしまう。

     俺たちは宮原家を出て、児相に戻った。

    「仲良し親子でしたね、あの親子。卵焼きとか…」と俺は言った。

    「見た目はな。見た目だけじゃわかんないんだよ、こういうのは」

    そうは言いながら、あのとき二宮の目だってほっこりしていたのを俺は見逃していない。


    この数日は、わりと落ちついた日々を過ごしていた。落ち着いているのはいい事だが、机に向かう時間が長くなるので、それだけはちょっと勘弁して欲しいのが本心。

    だから、「ちょっと、案件確認に行ってきます」と微妙な感じで誰にともなく言ってみて、児相から抜け出した。

    喫煙者がタバコ休憩をとるんだから、タバコを吸わない俺は散歩休憩をとっても誰にも責められないはずだ。

    コンビニ前を通り過ぎ、商店街方面へ歩いていると、後ろから声をかけられた。

    「お兄さん」少し甲高い女の子の声。

    振り向くと、宮原陽菜の姿がそこにあった。中身の入っていないエコバックをぶら下げている。

    「陽菜ちゃんだよね。よく、オレの顔、覚えてたね」

    「分かるよ。その髪の毛、目立つもん」ああ、そういう判別方法ね。

    「学校もう終わったの?」

    「そう。お家に一度帰ったあとで、これから買い物へ行くところ。お兄さんは、お仕事の途中?」

    「そうだね。これから事務所に帰るところかな、もう少ししたら」

    「ふーん」陽菜は表情は明るかった。でも、声のトーンが先日と少し違う気がした。

    「これから買い物だろ?スーパーまで付き合うよ。コメとか買うなら、荷物持ちもするし」

    「え?仕事中じゃないの?」

    「困っている子供を助けるのが仕事だよ。だから大丈夫。立派に仕事中な」そう言って笑って見せた。彼女も笑顔を見せた。

    スーパーに向かって並んで歩きだすと、陽菜は俺の頭をまじまじと見た。

    「その髪の毛、地毛?」

    「いや、染めてる。わりとコマメに。美容室とか、自分でやったりとか」

    「児童相談所って、そういう髪の毛、大丈夫なんだ。わりと自由なんだね、厳しそうに見えるのに」

    「多様化の時代だからな。ハーフとか外国籍の人、働けなくなるだろ?そんなことでうるさく言ってたら」割とまともに聞こえる言い訳が自然に出て来るなんて、オレの口も捨てたもんじゃない。

    「だよね。同級生にも茶髪とか金髪の子いるもん、クラスに何人かずつ」

    「そういうことだよ」

     スーパーについた俺たちは、食材を中心に買い物カゴに入れた。気を使ったのか、単に必要が無かったのか分からないが、お茶のペットボトルは買ったがコメは買わなかった。

     ついでなので俺は彼女のアパートまで荷物持ちをすることにした。

    「ねえ、児童相談所って、子どもの悩みを聞いてくれるところ?」陽菜が聞いてきた。

    「そうだな。そういうのも大事な仕事だな」

    「話してもいい?」

    「もちろん」

     彼女の話はこうだった。

     最近よく、「大丈夫?」と周りの人に言われる。近所の人、お店の人、マンションの管理人さん。友達もそう問いかけてくることが急に増えてきた。

    「最初は何だか分からなかったから、何がって聞き返してたの」

     でも、そのうち分かった。友達が詳しく教えてくれたからだ。

    『陽菜のお家はお父さんと二人きりだから、大変なんだ。だから、陽菜は買い物したり、お家で家事をしなきゃいけないんだ。遊ぶこともできないし自由な時間がないんだ』そう言われたらしい。

    何を言われているのか理解できなかった。人違いじゃない?そう言いたかったけど、よく見返したら、みんな同じ表情で、同じ言葉を陽菜に向けていた。

    そして、昨日は担任の先生にも言われたらしい。

    『お父さんと二人の生活は辛くないかい。ご飯は食べているの。夜は眠れているの。PTAの皆さんも心配しているよ。先生たちは、あなたの味方だよ』

    「お兄さん。陽菜はかわいそうなの?わたし、お父さんと一緒にいて楽しいと思っていたけど、本当は違うの?」陽菜の目から涙がこぼれそうになっていた。

    俺は立ち止り、彼女にハンカチを差し出した。

    「…ユウ」

    「え?」と陽菜は訊き返した。

    「ユウ。お兄さんじゃなくて、ユウがオレの名前。呼び捨てでもいいし、ユウくんでもいい。ユウちゃんでもいいぞ」彼女の目をハンカチで軽く抑えた。

    「…ユウちゃんは、さすがにヤバくない?」陽菜は照れたように笑った。俺も微笑み返した。

    「周りの言葉は気にしなくていい。皆心配しているだけだよ。陽菜もお父さんも頑張っているのを知っているから、疲れたりしていないのかなって心配になったんだよ」

    「そうなの?」

    「そうだよ。だから陽菜は、わたしは元気だよってみんなの前で笑って叫んでやればいいさ」

    「そうか。そうだね。そうしてみるよ。叫びはしないけど」意外に冷静だな、今どきの小学生。

     俺は陽菜のアパートの前で彼女と別れ、少し遅くなったけど児相に戻ることにした。

     多分、全部善意なんだろう。でも、息苦しいのは確かだ。
    『善意だと思っている相手は厄介』鈴木係長の言葉を思い出した。


    久し振りにカツミに呼び出された。どうやら、いそがしいターンは一区切りついたらしい。

    いつものファミレスで晩飯を食うことになったので、ついでだからミユウにもメールしてみた。
    子育て講演会以来、ミユウにも会っていなかったから。

    就業時間を終えてファミレスに到着すると、珍しい事にミユウが先に待っていた。

    「珍しいな。ミユウが一番乗りだなんて。カツミはまだ来てないだろ、この時間なら」

    そう言ってミユウの向かい側に腰を下ろすと、何か言いたげな顔をしている。

    「どうした?先に注文でもしたいのか?」なんてふざけてみても、彼女は乗ってこない。

    スマホを持ち替えながら、少しずつ口を開いた。

    「…あのさ。この間の講演会…」

    「ああ、あれね」

    「なんか、ごめんね」

    「ん?なにが?」俺はタブレットでメニューをフリックしながら答えた。

    「なんかさ…、わたしも片棒担いだ気がして」

    「なんでだよ」と俺は笑った。

    「ただの講演会だろ。ミユウは会社の仕事で運営を手伝ったし、オレは児相の仕事で出席した。それだけじゃん。まあ、あの空気にはちょっと圧倒されたけど。何も起きてないよ。だろ?」

    「そうなんだけど…。そうなんだけどさ。あの雰囲気、なんかちょっと嫌な空気だったし、あのあとSNSみたら、金髪の児相職員が講演会に来ているってわざわざ報告されていたから、別にいいじゃんって思って。なんか嫌だったんだよ」

    「分かってるよ。ミユウには何の問題もない。それに…」なぜか陽菜の顔を思い出した。

    「それだってオレの仕事の一部分だからな。ミユウは気にするな。それより、なんか注文しようぜ。カツミ待たなくていいからさ」

    「いや、もう俺来てるし」いつの間にかカツミが店内に入ってきていた。

    カツミは俺の隣に座って、ミユウに「おひさ」と言って、俺の方を向いた。

    「ロックオンはまだ続いている。それも、最悪な形で」と言った。

     カツミはノートPCを出して、また知らない地域掲示板を開いた。

    「児相の動きが見られている。文章を見る限り、定時報告みたいなノリだな。見たから書く、それ以上の意味はない感じだ」

    画面には、ズラーッとコメントが並んでいた。

    『児相の訪問、確認されました』

    『児相無双』。

    『やっぱりあの家だったみたい』

    『小学生、昼は学校、夜は家事」

    『子どもがしっかりしすぎている家は危ない』

    『父親が悪いのか、職場が悪いのか…』

    『父親は何でそんなに遅いんだ?本当に仕事か?』

    『父親の職場、詳細希望』

    そのあとも情報提供は続いていた。

    「なんだよ、これ。何の関係もないだろ」つい大きな声を出してしまった。

    「何があったの?」画面を見ていたミユウが俺に聞く。

    「何も起きてない…。何も起きてない、幸せで、仲良しの親子なんだよ。それなのに、なんでSNS で曝される必要があるんだ…」

     カツミは画面をスクロールさせながら、静かに言った。

    「多分、ここからが正念場だと思うよ、ユウ」

     その静かな言葉は、じんわりと俺の中に入り込んできた。


    その日、朝礼が終わってすぐに、二宮と俺は鈴木係長に呼ばれた。宮原修平から連絡が入ったそうだ。何か話したいことがあるらしい。十時に児相へ来るとのことだ。

    二宮も俺も急ぎの予定はなかったので、係長も含めて三人で同席することになった。

    「どのような要件だと言っていましたか?」と二宮が訊いた。

    「詳しい話は聞かされていないが、話したいことがあるらしい」と係長が答えた。

    「話したいことですか?相談ではなくて」と俺も続けてみる。

    「うん。まあ、いずれにせよ私も同席した方が良さそうな雰囲気だから、それまでに他の仕事進めときな」そう言って両手をたたく。

     そんなことを言われても、結局どうでもいい事しかできずに十時を迎えただけだった。

     十時過ぎに、宮原修平が児相の入り口に姿を現した。やや顔色が悪い。疲弊しているようだった。

     俺たちを手で制し、係長が宮原に近づいて行った。係長が相談室に先導し、二宮も俺も後に続いた。

     席に着いた修平は、一層顔色が悪く見えた。社名の入ったジャンバーにグレーのワークパンツ。普段着を兼ねているのかもしれないが、余計に疲れて見えた。

     俺は、コーヒーを入れた人数分の紙コップを、机の上に置いた。

    修平は軽く頭を下げ、でも、コップを手に取るでもなく、机の上に目を向け黙っていた。

    「今日、いらして頂いたご用件をお伺いしてもよろしいですか」コーヒーを勧めた後で、鈴木係長が普段とは違う口調で尋ねた。

     修平はゆっくり紙コップを手に取り、しかし、それには口を付けずに話し始めた。

    「……最近、…最近職場で、空気が違うんです…」

    二宮も俺も話さなかった。ここは係長に任せる場面だ。係長も黙って言葉を待っていた。

    「初めは、気付きませんでした。仕事は回っているし、ちょっと最近忙しかったから、少し落ち着いたのかなって…。それで、定時くらいに帰れているんだと思っていたんです。……でも違いました。周りの皆は変わらず忙しいんです。それに…、仕事の要件以外の会話を同僚としていない事にも気づいたんです」

     そこで、修平は紙コップを机の上に戻した。

    「もともと自分は、おしゃべりな方ではないですが、それでも昼飯の時とか休憩時間とか、子どもの話をしたり、道を間違えた話をしたり…。この頃だって、ああ、昼飯の時間今日は皆とズレたんだなとか、遠出して今このあたりにはいないんだなって思っていました。だけど、気付いたんです。時間に余裕ができたのは自分だけで、周りの皆は変わりなく、いや、何なら前よりも忙しくなっていることに」

     修平は一度顔をあげ、ゆっくりを息を吐いて、また視線を落とした。

    「別に誰かが意地悪をしてくる訳でもない。話してくれないということでもない。皆が忙しくて無駄話ができない、無駄話ができる時間には、わたしはもう家に帰っているんです。それに気づいたら、なんだが周りの空気も変わってしまったような気がして…。多分、変な顔していたんでしょうね。上司が聞いてきたんです、大丈夫かって。『陽菜ちゃんも、無理してないか』って。『家庭が大事だからな、無理するなよ』と言われました。…配慮だったんですね。夜便とか、臨時便減らされたのは」

     修平は静かな口調で続けた。

    「そうしたら、昨日同僚が久しぶりに声かけて来て、言ったんです。『大変だったな。児相が来たんだろ。できることがあれば何でも協力するぞ』…正直、ちょっと意味が分かりませんでした。それより、なんでそんなこと知っているんだろう。それが、なんか関係あるのかな、っていう気持ちの方が先に来て…。むしろ気を使ってもらっているんですけど、なんかギクシャクしちゃって…、でも、実際仕事量が減らされて…。そして……、収入も減ったんです…。稼働時間が減ったことで、手当も少なくなって…。陽菜も、なんか気付いているようで、一緒に入れる時間が増えてうれしいって言っているけど、たぶん収入が減っていることというか、心配事があるのに気付いているみたいで、逆に明るくふるまっているんですよね…。朝から寝る時まで、ニコニコして…。新しい料理も覚えようとして…」

     鈴木係長は何も言わなかった。二宮も俺も言わなかった。

     修平は顔をあげた。まっすぐ俺たちを見ていた。

    「お願いします。もう、関わらないでください」

    「児童相談所としては、問題とかではなく、ただお話を伺いたかっただけでして…」立場上、係長が言葉を返す。

    「わたしたちなりに、ちゃんと生活していたんです。…でも、児相が来てから、周りの見る目が変わってしまった。…皆、心配してくれる人ばかりなんです。誰も嫌なことをするわけではないし、それどころか気にしてもらっている。…でも、…もう…普通に生活できない」

     絞り出されるような言葉が、修平の口から漏れ出てくる。

    「娘は大丈夫なんです。わたしたち親子は大丈夫なんです。だから、もう我が家には関わらないで下さい」

     そう言って修平は頭を下げた。
    俺たちは誰一人、反論できるわけがなかった。


     俺たちの課内で、臨時の会議が開かれた。宮原親子の案件に関してだ。

     鈴木係長が今回のあらましを改めて皆に説明した。

    繰り返されたのは、当事務所の初動として問題が無かったこと、担当者の言動も業務範囲内で適切だったこと、コンタクトだけで宮原親子に実害が生じたこと、そして、宮原家より介入拒否の申し出があったこと。

     なにより、今回必要だったのは児相の介入を要する案件か否かの確認だけであり、もともと案件とも呼べない噂の範疇を出ない通報だったことが強調された。

     案件とみなされないのなら、規定上継続介入の理由はない。事実上の案件終了となった。

     職員の口は全員重かった。それは、クレームが入ったからじゃない。児相が接触したという話だけで、家族が苦しむ結果になったからだった。

     必要以上に会議は長引かなかった。初めから結論は決まっていたようなものだったから。


    宮原家への介入停止が決定してから、既に二週間が過ぎた。会議で結論が出た日の夕方には、その事実は宮原修平に電話で伝えられた。
    当然それからは誰も業務で宮原家に関わっていないし、そのことを話題に出すものもいなかった。

    市役所から、今月の市報が届けられた。一色建設が主催した、子育て支援の講演会が記事になっていた。

    「地域全体で子どもを見守る社会へ」という見出しが、カラーページでパステルに彩られていた。
    一色社長が壇上で話す写真が、その記事のメインのように見えた。

     終業時間の直前に、カツミとミユウの二人から別々にメールが来た。
    なぜか、二人とも晩飯を奢ってくれるという内容のメールだった。なんだか笑ってしまった。俺の誕生日はまだまだ先だぜ。

     その日の夕方、少し遠回りにはなるが、帰宅前に俺は商店街方向へ向かった。商店街のスーパー近くで小学生の女の子を見かけた。

    陽菜だった。手には膨らんだエコバッグを持っている。スーパーで買い物を済ませて、帰宅途中のようだった。

    俺に気付いたみたいだったから、「よう」と言ってみた。
    意外にも陽菜は、微笑みながら「よう」と返してきた。

     俺は陽菜のエコバッグを持ち、彼女と並んで歩いた。

    「お父さん最近卵焼き焦がさなくなったよ」陽菜は明るい感じの声を出した。でも、以前より元気もハリも少し足りなかった。

    「そうか」と俺は言った。

    「陽菜のお父さん、頑張ってるんだな」

    「うん」

    少し黙って歩き続けた。

    「…もう、来ないの?」つぶやくように陽菜は言った。

    「陽菜のお家は、児童相談所が行く必要のない家だよ」

     俯いているのに、陽菜が落ち込んでいるのが分かった。

    「児童相談所職員としては、終了した案件には関われない」

     顔を上げた陽菜の目は、少し潤んでいるように見えた。

    「でも」一呼吸おいて、俺は続けた。

    「個人の安藤優が、知り合いの女の子に会うのまでは、禁止されてないだろ」

     俺は陽菜に微笑んで見せた。
    初めはぽかんとしていた陽菜も、笑顔を見せた。

    「今度、お父さんの卵焼き食べてみる?」

    「……それはちょっと覚悟いるな」

    ふざけながら帰り道を歩くだなんて、本当に友達だろ。

    俺たちは陽菜のアパートまで、ずっと笑い合っていた。


    街は、いつもと変わらない。
    地域掲示板には、今日も新しい投稿が増えていた。

    『また児相の車を見た』

    『西岡町付近、要注意』

    『周りのみんなで助けないと』

    俺は、スマホの画面を閉じる。
    この街は、今日も誰かを『見守って』いる。

    でも…。

    人だって、誰かを見守ってもいいだろ。

    夕焼けに染まった陽菜の顔が、少し遠くから俺に微笑みかけていた。


    了

     
     
     
    2026年4月に「文士」なることを決意した、団塊Jr世代の自称『遅れてきたルーキー』です。 創作大賞2026は見事に中間選考の時点で落選しました。めげずにしぶとく掌編など載せていきたいと思っています。同人誌を作りたい…、とかも考えたりして。 お気軽にコメントください。よろしく。

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