あとがき リードオンリー・サンクチュアリ
最後まで私小説「リードオンリー・サンクチュアリ」をお読み頂きありがとうございました。この物語を書き上げた時、私は明確化した虚構の影に潜む本当の自分をあぶり出すことができたと実感しています。この作品には難解なサイエンス・メタファーが多用されていますが、実際の私もそういった気難しさがあります。しかしながら、本作のメインヒロインが婚活という短い期間での心の通い合いの中で、いかに私の気難しさ、すなわちサンクチュアリ(聖域)に入り込もうとしてきたか、自戒の念と、彼女への届かないラブレターとして執筆してみました。
1. 天文学的な時差と、届かなかった光
プロローグでも触れた通り、太陽の光が地球に届くまでには「8分」の時差があります。この物語のメインヒロインとの関係は、その「天文学的な時差」と形容するに相応しかったと考えます。
婚活という制約のある時空の中で、彼女が私に向けていた言葉、試行錯誤しながら踏み込もうとしてくれたすべての行動は、「慈愛」と呼ぶのが「最も確からしい」と私は解釈しています。一方の私は、「慈愛」に呼応するにはあまりにも幼い、「恋愛」の域を超えない愛しか彼女に返せなかったのかもしれません。膨大なデバッグ作業を通じてその正体に気づいたとき、私の世界からはすでに彼女という恒星は失われていました。滅びた後の光を、今さら涙を流しながら観測している。そんな救いのない時間のズレを自覚したとき、この物語は「書き換え不能な記録」として固定されました。
2. 「舞台装置」を演じる矜持と、その代償
私は人生を「多層構造の舞台」と捉え、その場に応じた「完璧な舞台装置」として振る舞うことを自らの矜持としてきました。バミリを正確に把握し、相手が望む言葉を最適なタイミングで出力する。それが私にとっての誠実さであると解釈していました。
しかし、舞台装置としての私は、望む言葉を望むタイミングで吐き出すだけの単調なシステムにほかならず、劇中の彼女には「無機質」という表現で形容させています。自らの舞台で私と共演した彼女は、相手が介入する隙間をすべて埋めてしまう「自己完結による無責任」という舞台機能に打ちひしがれ、彼女自身も孤独を感じていたのかもしれません。彼女が求めていたのは、完璧な風景を作る装置ではなく、不完全なまま感情を響かせ合う「もう一人の主演」だった。その事実に気づいたとき、私はすでに彼女の舞台の共演者としての資格を失い、舞台袖へとはじき出されていたのです。
3. 「サンクチュアリ(聖域)」という名の檻、そして棘
この物語で固有名詞を与えたのは、私の人生という舞台から決定的に退場し、二度と会うことのかなわない人々だけです。前妻であるミカ、そしてハルカ。彼女たちは、もはや書き換えのできない高い解像度で、私の聖域に存在しています。
一方で私は、劇中の後半、すなわちハルカとの出会い以降、自分自身を聖域に閉じ込めます。なぜ私は、これほどまでに「カッコ悪い自分」を隠し、聖域に閉じこもったのか。そこには、完璧であることを求め続けた母から植え付けられた「不完全な者は愛されない」という棘のような呪縛がありました。光から目を背け、背後に伸びる影からも逃げ出し続けた報いが、この「読み取り専用(リードオンリー)」の孤独な檻だったのです。
4. 未完へのエール
「完璧な自立」という鎧を脱ぎ、カッコ悪い自分を曝け出す。それが最適解であると頭では理解していても、感情がそれを拒む。その「達成できない苦しみ」こそが、私にとっての現在地です。
人生という舞台は、一度幕が上がれば修正のきかない、つまり、「過去は変えらない」のです。けれど、たとえ太陽が失われていても、その残像が放つ温もりを頼りに、また新しい舞台を構成することはできるはずです。
この物語の結びとして記した言葉があります。
「観衆へと役割を変えたノリトは、「リードオンリー」となった聖域の記憶を抱きしめたまま、今日も虚構を見つめ続ける。」
これは、動かしがたい過去をあえて「標本」として抱え、絶望さえも道しるべに変えて生きていこうとする、一人の男への最大限のエールなのです。
誰しも聖域に閉じ込めた自分を持っていると思います。その幾重にも重なった完璧な虚構の中から、聖域という名の檻に閉じ込められた自分を探し出す。それには私の特技でもある「俯瞰視点」を活かし、物語として再構築することでした。
この虚構が私の、あるいは私と似た境遇にいる誰かにとっての道しるべとなればこの上ない幸せであり、余興として誰かにとっての「8分前の残像」となればと願っております。
そしてどうか、何かの手違いで彼女の手元にこの作品が届けばと願いつつ、私自身は「リードオンリー・サンクチュアリ」と向き合っていこうという所存です。