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自分を表現するということ

    少しずつ『ブルーピリオド』を読み進めていた日々。やっと16巻を読み終えたところで、この文章を書き始めた。
    この漫画を読んでいると、何かを創作すること、自分を表現することって何だろうと考えさせられる。この問いを意識するようになったのは、私が社会人として働き始めた頃だった。

    二十代後半、私は製造業で資材事務の仕事をしていた。必要な部品の仕入れを任されていた。仕入れ先に相見積もりを出して、価格や品質を比較し、部品を発注する業務。部品会社の営業さんと話す機会も多く、製作したらいくらになるか、もう少し安くできないかと交渉をする。その安くしてもらうということが負担だった。表面的には値下げ交渉はできるけれど、なんというか誰かが作った製品の価値を下げるような行為に思えていて、内心では複雑な気持ちだった。毎日、仕入れ先の人と電話をしていた。世間話をするくらい親しくなればなるほど、そのことが重く心にのしかかった。その頃から、生産する側に回りたいと思うようになった。何かを作り出したい。誰かの作ったものの価値を下げるのではなく、自分が作りたい、と。

    ちょうどその頃、自分の将来や仕事の適性について悩んでいた私は、知人に紹介された人にこれらの事について相談した。

    そのなかで「あなたは、自分を表現したいと思っている。」と言われた。わかるような、わからないような話だった。

    世の中に、自分を表現していない人なんているのかな?なんて思っちゃって…。

    こうして文章を書くことも表現の一つだし、何かを作ることも一つだよね。例えば歌を歌うことも表現である。

    たぶん当時の私は今よりもっと自分の本音を隠して生きていたのだろう。それで言ってくれたのだと思う。

    ところで、この「自分を表現する」の「自分」ってなんなんだろう。

    例えば私が作るものといえば、世界のどこかで見たものの模倣ではないかと思うときがある。人が作ったものや、自然を観察して得たもの。その模倣を集めて組み合わせて作り出したもの…。
    自分はどこにあるのだろうか。

    小さい頃にピアノを習っていた。大人になってから再開した時に、ピアノを教えてくれた人と交わした会話を思い出す。

    「この曲をどう弾いていいかわからないんです。」

    「あなたが弾けばあなたの音になる。」

    もちろん、指導はもっと細かく教わることになるんだけれど、この言葉が記憶に残り続けている。

    模倣したものも自分の脳や肉体を通過すれば自分になるのかな?

    『ブルーピリオド』では新しい課題が出るたびに八虎は深く悩んでいる。

    私も悩む。今は趣味でものづくりをしているけれど、何か一つ決めるにも時間がかかる。型紙をおこすときは、知恵熱が出るくらい頭を使う。しかしこれは自分を表現しているというよりは、選択の連続に悩む感じ。使う素材の制約はあっても、その中でできるあらゆること、あらゆる形の中から、何かを選択する連続。カーブのラインやサイズ感、仕様など。私の頭の中にあるのは、現実に見た、ネットで見た、たくさんの鞄の形のストックがあって、そこから今、自分が作りたいものを選び取っているような感覚だ。

    何かを作る人にはなったけれど、これも自分を表現していると言えるのだろうか。

    私には、ファッションデザイナーの方々は「私はこれが好き」と言える強さを持っている方が多いように見える。
    私にはそういう強い「好き」が薄いなと思う。あれにしようか、これにしようかと迷う。好きがないわけではないけれど、強くあるわけでもない。だから苦しみながら選択しなければいけなくなるのかもしれない。また、私が「好き」だと思っているものも、本当に自分で選んだものなのか分からなくなることがある。

    そんなことを考えていると、私個人においては自分を表現したいわけではないかもしれないと思えてくるのです。

    その悩み続ける時間は決して楽ではない。それでも作りたいという欲求はまだある。

    その理由を考えていると、もしかしたら私は、自分を表現したいのではなく、作ることを通して、自分とは何なのかを知ろうとしているのかもしれない。

     
     

    N

     
     
    うっすらと生きる

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