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偉人のトホホvol.6-3-2「朝倉家の前途に暗い影を落とした朝倉宗滴の死」



    朝倉義景さんを21歳まで、軍事的な補佐役として、当主に代わり総大将として出陣していたカリスマ武将に朝倉宗滴という人物がいました。
    彼が弘治元年(1555年)に、総大将として加賀一向一揆との対陣していた際の事、その8月15日に病を発して、9月8日に一乗谷で没した後、その後継の総大将に選ばれたのが、同名衆、安居城主の朝倉景隆と景健の親子でした。何故、この人選だったのか経緯は不明なのですが、一説には景隆の生母が義景さんの叔母に当たるからではないかと言われています。
    いずれにせよ、加賀一向一揆との戦いはそのまま継続され、9月中旬には那谷寺、粟津一帯を焼き払い、10月には湊川(手取川)を越えて、石川郡にまで、兵を進めて合戦を展開するなど、結構、善戦したようです。弘治二年(1556年)の4月4日には江沼郡動橋、同18日には能美郡寺井口まで進撃しましたが(「朝倉義景感状」松運公遺編類纂)、一方では、将軍足利義輝が加賀に下した、大館晴光と本願寺の坊官の下間駿河法橋頼言・弟の頼良らで進められた加越の和平工作を朝倉方も受け入れ、4月21日には開陣して、朝倉勢は加賀から撤兵しました。
    Wikipediaには朝倉景隆と山崎吉家の両人が後継の総大将に選ばれ、戦闘は継続されたものの加賀の一向一揆に押されまくっていたかのように書かれていますが、感状が出ているところを見ると、そうでもなかったんじゃないかと。
    一進一退と言った感じだったと思われます。
    また1556年3月に、一向一揆に対して越中方面での対応を依頼していた上杉謙信が突如、出家するという騒動を起こしており、そういった要因もあって一進一退の膠着状態になったものと思われます。
    いずれにせよ、朝倉宗滴さんのような軍略の冴は景隆からは残念ながら感じられず、その事が朝倉景鏡の台頭を許す事になった感は否めないのです。

    で、その朝倉景鏡って何者かというと…

    朝倉景鏡の親父は景高という人物で朝倉義景さんの叔父に当たる人物なんですが、こいつは朝廷や幕府で、兄であり当主である朝倉孝景さんの追い落としを図った事を咎められ、越前のみならず京からも追放されました。その景高の子が成長して、何故、同名衆の筆頭になれたか謎の残る人物ではあるのですが…一説には景鏡の生母が、権中納言の烏丸冬光の娘(『尊卑文脈』)であったからではないかとも言われています。
    確かに、朝倉義景さんは永禄元年(1558年)9月16日には正親町天皇の即位の礼の費用として万疋を内裏に進献し、その功として、翌年の11月9日には従四位下左衛門督に叙位されました。
    この従四位下左衛門督は管領畠山家の当主にしか許される事のなかった叙任ではあるので、まさに破格の厚遇でした。
    単に万疋を進献したからのみならず、景鏡を、親父の景高と同じく大野郡司(越前にある大野という地域の代官のような職)という大役に抜擢した、その見返りとしての叙任であったのではと、筆者は考えています。
    景鏡の親父の景高は大野郡司時代に大野郡田野村に家領を有していた三条西実隆という内大臣を勤めた公家と年貢納入を通じて、朝廷と親交があったようなのです。

    いわば、朝廷としては景鏡と三条西家や烏丸家を通じて、貢物が入ってくる事が期待できますし、朝倉家としては、高位高官に叙任されるのみならず、何かあった時に朝廷を通じて和平交渉もできるので、Win-Winの関係を築けた訳ですが、この景鏡という人物、親父の景高に負けず劣らずのトラブルメーカーだったのです。


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