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Photo byharrrrrrru

人は死んだらどうなるの?怖がる7歳に伝えたこと。

    Noraneko⁠(ノラネコ)

    先日テレビを見ていたら、ドキュメンタリーのような番組で一家のお母さんが涙を流しているシーンがあった。

    それを見た息子は驚いたように、「大人でも、泣くことってあるんだね」といった。

    「ぼく、パパが泣いたの見たことない。でも、ママは1回あるよ」

    「えっ」

    どきっ、とした。
    いつだろう。子どもの前で泣くようなことが、あっただろうか。

    「ぼくが、お誕生日にお手紙あげたとき」

    ああ、……そうだ。そうでした。

    少し前のことだけど、わたしの誕生日に息子がくれた絵と手紙を読んで、思わず泣いた。

    「泣いた」というと、つい悲しい涙を思い浮かべてしまうけど、こういう涙ならば、わたしは何度も流してきた。

    大人になって泣かなくなったわけじゃない。
    涙の種類が変わっただけで、そしてそれを人には見せないだけで、もしかしたら子どもの頃と同じくらい泣いているのかもしれない。

    そしてそれは昨日もだった。

    夜電気を消した部屋で、眠る前に息子とする話のあれこれがわたしの涙腺を刺激してしかたない。

    悲しいわけじゃないのに、どうしてこんなに、涙が出てしまうのだろう。


    ***********

    親はいつか、自分よりも先に死ぬ。

    それが、いま息子の頭の99%を占める心配ごと。

    「もしパパとママの寿命が80歳だとしたら、あと40年しかない。どうしよう」
    毎晩、暗くなった天井を見つめて息子は悲壮な声でいう。

    「もう、一緒にいられる時間を7年も使っちゃったなんて。1年って、あっという間なのに」
    「ぼく、赤ちゃんのときにもどりたい。そうしたら、一緒にいられる時間が増えるのに」

    たとえ100歳まで生きると言ったって、終わりが来るのがこわいと彼はいう。

    死というものをこわがり、わたしたちがいなくなってしまったら生きてはいけないという息子と、幾夜にもわたり、本当にいろんな話をした。

    「死んだら、人はどうなるのか」

    死後の世界について、息子の本棚にあった貴重な資料は、この2冊。

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    ヨシタケシンスケ『このあとどうしちゃおう』と、
    高橋書店の『こころのふしぎ なぜ?どうして?』



    天国と地獄。からだと心。この世と、あの世。
    生きている人と死んでいる人。

    彼はこの2冊を繰り返し隅っこまで読んで、その共通点や矛盾を考え、7歳なりに死というものを立体的に捉えようとしているようだった。

    ヨシタケシンスケさんの『このあとどうしちゃおう』には、「生まれかわりセンター」という場所が出てくる。

    そこで別のものに生まれ変わり、またこの世に戻ってこられるという場所。

    でも、『こころのふしぎ』には、
    「しんだ人はぜったいによみがえりません」
    と書かれている。2冊ともそれぞれ素晴らしい本だ。

    大人はこの2つをつなげて考えることができるけど、彼にはまだ少しむずかしい。
    こうしたひとつひとつに彼はつまずき、だけど理解しようとして、いろんな質問をする。
    わたしも考えながら、自分が思うことを言う。

    話すうち、息子は自分が死ぬことではなく、わたしたちが先に死んでしまうであろうことと、もう会えなくなってしまうことがこわいのだとわかった。

    3人で生まれ変わりセンターで待ち合わせをする、という案が出ても、息子は納得しなかった。

    生まれ変わりセンターがほんとうにあるかどうかわからないし、あっても今の体がなかったら、誰かわからないかもしれない。
    どこでいつ待ち合わせるかを事前に決められない、というのが理由だった。

    からだと、心(魂)の話もした。

    心はどんなかたちをしているのか。
    それはからだがなくても、見分けられるのか。

    死んだら、人はどこにいくのか。
    いつかまた会うには、どうしたらいいのか。
    考えても答えは出ない、むずかしい質問だ。

    でも話すうちに、だれかが先に死んでも、息子がすこし安心できるというひとつの解が見つかった。

    そしてそれはあたりまえのように、とってもシンプルなことだった。


    家の中に、死んだ人に話しかけられる場所を作る。

    お仏壇というものがあり、ひいおばあちゃんは毎朝そこで、死んでしまったひいおじいちゃんにお話をしていること。
    でもそれは、お仏壇じゃなくてもいいこと。
    その人の写真を1枚置くだけでもいいし、それさえなくたっていい。でも、家の片隅にそんな場所を作って、何か困ったことやさみしいこと、聞いてほしいことがあったときには話をする。

    死んだひとは話を聞いたら、心の声で返事をする。
    その声は、聞こえるときもあれば聞こえないときもあるかもしれない。でも、その場で話を聞いている。

    というもの。

    「お空から見ているからね」は
    どうやら、今の息子には遠すぎるよう。

    翌朝起きると、息子は待ちかねたようにipadで「ぶつだん」を調べていた。
    目を輝かせて、仏壇を調べる7歳児が爆誕。
    悩める彼にとっての、希望の光である。


    仏壇やお墓というものは
    死んでしまった人ではなく、残って生きる人のためにあるのだと改めて思う。


    「じゃあ、いまからぼくに心で話しかけてみて」
    息子が言う。


    「(・・・!!えっ、どうしよ、、急に言われても。じゃあ、コンニチハー!)」
    (心の声)

    息子がわたしの目をじっと見る。

    「うーん、、(長考)。
    もしかして、そうちゃんだいすきって言った?」


    「・・・言った! すごい、聞こえたね!!」

    「なんか、きこえた気がした」


    ‥…そうか、たぶん、これでよいのだろう。


    わたしと息子がこれまで話してきたこと、そしてこの先も話してゆくいろいろなことから、きっと心の声は作られる。それはわたしの声で、いつか息子の耳の奥で再生される。


    どうかそのときには、その声がやさしく、あたたかいものでありますように・・・と願って。
    これからもこの小さな人とのお話を大切にしていきたい。


     
     
     
    おいしいものと、ワインと旅が好き。 感受性豊かな息子(9歳)との日々の記録。 出版社勤務→2024年からフリーランス

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