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祖父が死んだ。また夏が来る。

    世の中にはさまざまな恐怖症があるらしいけど、わたしが恐怖というその言葉の裏にまず思い浮かべるのは、入道雲だ。あのむくむくと形を変えながら音もなく渦巻き、空にそびえ立つ白い城のようなものを見るときの気持ちは、どのように表現したらよいだろう。

    あれはたしか7、8歳のころだっただろうか。
    夏休みの朝、小学校のラジオ体操からの帰り道に、巨大な入道雲を見た。そこから走っても走っても、そんなことでは逃れられない圧倒的な存在感と絶望。わたしは最後はほとんど這うようにして家の玄関に飛び込み、母の前で泣いた。
    あの城のようなものは、ときに富士山2、3個分の高さにもなるらしいと知ったのは、ずっとあとのことだ。それは入道雲、正式には積乱雲と呼ばれるもので、どういう経緯であらわれて、中はどのようになっているのか。こうして大人になるまでにさんざっぱら調べてからも、やはりわたしは晴れ渡った空に突如あらわれるあの大きな城を目にすると、身がすくんだようになる。

    いまから数年前の8月、わたしの祖父が死んだ日も、そして田舎の山の上で行われたその葬式でも、空には山から湧き出したような入道雲が浮かんでいた。
    葬儀を終えて、出棺のために斎場の屋根の下から出たとたん、照りつける太陽の熱で肌がじりじりと焼けた。
    その土地では、最後のお別れを終えたら男たちが死者の棺を抱え、3回右回りしたのちに霊柩車にいれるというならわしがあるらしい。ちょうど従兄弟らが棺の脇に立ち、その四隅と中ほどをそれぞれ抱えようとしているところだった。
    わたしはそこで自分でも思いがけぬ激しさで、なぜ女はだめなのだ、なぜわたしは棺を支えてはいけないのだと突如主張して皆を困らせた。

    わたしはその前からもうずっと、頭上に強烈に存在している入道雲のほうを見ないようにしていた。
    あたりに降り落ちてくるような蝉の声。体を容赦なく突き刺す光。これから祖父の体はこんなもんじゃないほどの熱で、炎の中で、焼かれるのだった。
    祖父の棺を囲んで立ち尽くす皆の影までが巨大な雲に飲み込まれていきそうな恐怖を、今でも鮮明に覚えている。

    祖父は生前「わしが死んだら、あそこでだけは葬式してくれるなよ」といっていた斎場の火葬場で焼かれた。普段遠く離れた地に住んでいたわたしは、なぜ祖父がそんなことを言ったのかを知らない。なにか狭い田舎ならではの事情があったのだと思うけど、だがともかく祖父はそこで焼かれた。
    なにもかもが、古くからのならわしに従って進んでゆくことが、ひどくやりきれなかった。ただ死んでしまえばこうなるとも知らずに死んでいった祖父が、もう誰に怒ることもできない祖父がどうにも不憫な気がした。


    祖父の体が焼かれている間、わたしはそれまでの30年以上の人生で、ごく身近な者の「死」というものにただの一度も立ち会う経験がなかったことを改めて考えていた。それはとても、恵まれたことだったのだろう。
    諸外国がそうであるように、その人の肉体とお別れするのに、静かに土などへ埋葬するのは分かる。その先、見えないところでその体が土に住む微生物によって分解され、溶けて骨になったとしても。その人そのものの姿とお別れするように、なぜだかそんなふうに思いこんでいた。でも、違った。

    人が死んだら、その体を焼きつくして、骨を拾う。

    常識として、知ってはいたことだ。頭では分かる。その理由も分かる。でも。
    もう大人も大人、30代にもなって今さら何を言っているのだといわれてしまいそうだけど、そのことは、わたしにとっては入道雲と同じようにどう考えても生理的にとしか言いようのないくらい、理解ができないことだった。

    今から、おじいちゃんも、全身が骨になって出てくるってことだろうか。
    ほんとうに?
    どうして、みんな、ふつうに座って話しているのだろう。
    体が焼かれて、骨になった姿をみるということは、こわくないのだろうか。
    わたしは、こわい。ものすごく、こわい。
    でも、こわがるということは、失礼なような気がする。
    もうこんなふうな大人になってからでは、なおさら
    のことだ。
    できるだろうか、自分に。
    ちゃんと骨になった姿をみて、それを当たり前のように拾って、骨壷におさめることが、できるだろうか。

    やがて時間になり、呼びにきた火葬場の職員に促されるまま、黒い一団のわたしたちは、いま燃やされて出てきたばかりの祖父の遺骨のまわりをぐるりと囲んだ。 

    「りっぱな、骨をしとるがな」
    だれかの声が聞こえた。

    これが喉仏のお骨ですね。ここからここが胸の部分になります。長い箸のようなものでカシャカシャと灰をかき分けながら、職員が骨の説明をしてゆく。
    足先の方から1人ずつ主要な骨を選び取り納骨することを促されて、わたしたちは順番に骨に手を伸ばした。

    わたしは、残された中でも大きくて見事と思える骨を拾いあげ、おそるおそる骨壷に入れた。骨は思った以上に大きかったので壺の入り口に引っかかり、力を入れて押し込めたときに、グシャ、というような音がした。あとから考えてみれば、それは祖父の右膝のさらの部分だった。晩年、歩くと右膝が痛むといって杖でかばっていた祖父。祖父を苦しめていたかもしれないその骨を選び取り、おさめたことの後悔は、その後しばらくのあいだ、波のようにわたしを襲った。
    母は、火葬場から屋敷に戻ったときに祖父の骨壺を置いた場所について、ひどく気に病んでいた。祖父のいつもの座布団の上に骨壷を置いてあげればよかったのに気が回らず、祖父の部屋の畳に直に置いてしまった、そのことが何をしていても悔やまれて仕方がないというのだった。

    祖父を前に、改めてわたしの中から出てきたのは、かつての夏の細部だった。
    これまでこの祖父とわたしが会ったのは、単純に計算すれば20回あまりだろうか。幼い頃からわたしは毎年のように夏休みの一週間をこの田舎ですごし、祖父の家を訪れてきた。東京から遠く離れたその地で過ごす時間が、1年の中で一番好きだった。

    父と母双方の故郷である中国地方のその場所は、そのままわたしのふるさとでもある。
    ふるさと、という言葉には、わたしはいつだってそこのゆるやかな川の流れや、山の野焼きの匂いやたなびく煙や、祖父らのやわらかな言葉の語尾を思い浮かべるのだから。

    かつての年に一度の帰省に思いを馳せると、今でも胸がさわさわと鳴る。思い出そうとするだけで、古い宝箱をあけるような気持ちになる。小さなカローラに家族4人が乗り込み、荷物とたくさんのお土産とをパンパンに積んで、休み休み、都内から10時間近くかけて高速を走ったあの旅のことを。
    あの旅路ほどかけがえのないものは、後にも先にももうない気がする。
    時間をたっぷりとかけて、少しずつ懐かしい地とへ近づいてゆく高揚。見覚えのある窓の外の景色を眺めるうちに、いつもよりも饒舌になる父や母。
    座りっぱなしでそろそろおしりも痛くなり、早く着きたいのに着いてしまうのがもったいない。うれしいようなくすぐったいような、今にもなにかがはじけてしまいそうなほどのもどかしさで、狭い車内で家族4人、中島みゆきの歌を熱唱していたあの道中よ。
    わが人生にもしも本当に走馬灯というものがあるのならば、必ずや差し込んでいただきたい思い出の1ページである。


    そんな道中と合わせ、格別な思い出として残っているのが、祖父の家だ。
    この祖父の家というのは、大正時代に祖父の曽祖父が建てたという古くてだだっ広い屋敷だった。
    1000坪ほどあるという庭には、幹の太い立派な松やもみじの木があちこちに植えられて、2つの大きな蔵がある。
    父の子ども時分までは、父を含む三兄弟それぞれにつけられた乳母やお手伝いさん、専用の庭師など住み込みの人達もいてそれは賑やかに住んでいたらしいのだが、わたしはその時代を知らない。物心ついたわたしが訪れるようになってからは、この家はいつも人気がなく、しんと静かだった。

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    母屋の縁側から、蔵を望む



    なにしろ広い庭に面した昔ながらの木の重たい雨戸を、全部くって回るだけで40分かかる家である。管理という面では、さまざまな不自由もあっただろう。病弱だった祖母が若くして死に、息子3人が順に嫁をもらって家を出てからも、独り身の祖父の暮らしを炊事や掃除の面でサポートする通いのお手伝いさんはいた。それでももうずっとずっと長い間、その広すぎる屋敷に、祖父はひとりで住んでいたのだ。

    今になって思えば、わたしたちが祖父の家に泊まる夏の数日間は、この屋敷にかつてのような賑やかさと血が通う、貴重で特別な時間だったのだろう。わたしたちが帰省するのはいつもお盆の近くだったから、県内に住む親族たちもそのときには一斉に屋敷に集まった。

    女たちは台所でやかましくあれこれと話をしながら立ち働き、男たちは座敷の大きな丸テーブルを囲んで、手持ち無沙汰に料理が運ばれてくるのを待っていた。その家では男と女が同じ卓につくことはなかった。女と子どもはそれが昔からの習慣らしく、座敷の入り口に近い一角で膝を付き合わせ、あわただしく食事をすませるのだ。
    こどもながらに、男はラクだよなぁ、とこの頃思っていた。しかしわたしの父や祖父までが用もないのにしょっちゅう台所に顔を出しては追い払われていたことからも分かるように、男は男で大変だったのかもしれない。
    酒を飲まない彼らのテーブルの上は、いつもあっという間に片付いた。そのあとはただひとり声が大きくおしゃべり好きな祖父の話を聞きながら皆一様にテレビの方を向き、野球中継を見ていた姿を思い出す。ひとりだけ豪放磊落といった感じの祖父の明るい笑い声が、長年この家の心臓だったのだ。


    この屋敷はこどもにとっても、格好の遊び場だった。わたしたちはここを訪れるといつも、広い屋敷の探検に夢中になった。
    日が暮れて、座敷と台所とに大人たちが集まってしまうと、もう目が行き届かないのをよいことにねずみのように屋敷の隅々を走りまわった。それはなんと幸せな時間だっただろう。
    離れへと続く真っ暗な渡り廊下や、ふだん行くのを禁じられていた2階の物置や屋根裏部屋に、懐中電灯を片手にこっそりと忍び込むときの胸の高鳴りといったら。月明かりだけをたよりに、裏の畑で追いかけっこをしたこともあった。

    なかでも特にわたしたちのお気に入りの場所は、普段めったに使われることのない表玄関から二間続きの広い座敷の外側をぐるりと囲む、畳敷きの廻り廊下だった。
    田舎の夜は暗い。襖1枚を隔てた座敷からは、明かりと人声がかすかに漏れ出て、反対のガラス戸の向こうには、庭の闇と静寂がある。そのはざまでわたしたちは、座敷の大人たちに気づかれぬよう、思いつくかぎりのさまざまな試みを繰り返した。それはどこかの襖をこっそりと開けて急に大きな音を鳴らしてみることだったり、輪になっている大人の背中めがけて紙くずを投げこんでみたらどうなるかといった実験だったりした。大人たちに秘密のその遊びは、『そそくさ』と名付けられた。いたずらを仕掛けたあと、そそくさと遠くに逃げては、皆で顔を見合わせて、きゃあきゃあと笑っていたのだった。

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    当時の廻り廊下。
    突き当たり右へと廊下が続く。


    実はあの頃のわたしには、自分は、祖父にとって少し特別な存在だという感覚があったように思う。
    おとなしく行儀のよい子どもだったので、従兄弟たちのなかでも怒られることが少なかったからかもしれない。でも、昔ながらの男であった祖父が、わたしにだけしてくれることはたくさんあった。
    いつも「見とれよぉ」といって太い指で新聞を器用に折り、紙風船を作って遊んでくれたこと、夜に裏の畑でわたしをおんぶしてくれた背中のあたたかさ、「おーほしさーま、ぴっかりこ」と繰り返されるその少し調子外れな歌、2人だけの散歩で、母には内緒ではじめてのチョコレートを食べさせてくれたこと。帰宅後すぐにばれて、呆れたように眉根を寄せた母の顔まで覚えている。ふたりのあいだにはいつの間にか、そうした秘密めいた記憶がいくつも残っていた。

    東京へ帰る日になると、祖父はこっそりと、父母には見つからぬようわたしを呼び寄せ、小さなぽち袋を握らせた。そのぽち袋には「お中元」とあり、中には、子ども宛とは思えないお札が1枚入っていた。幼い頃のわたしはそのような秘密を黙っていられるはずもなく、そのお金をすぐに母に渡していたのだったが。ぽち袋のお中元はわたしが大学生になっても、社会人になっても変わらずに続き、夏に帰省しなくなってからは、お正月に「お歳暮」と名を変えて律儀に送られてくるようになった。
    祖父なりのユーモアだったのかもしれない。結局そのことを特に尋ねることもないうちに、祖父は死んでしまったけれど。

    そう、祖父はあっけなく死んだ。
    90を過ぎてもまだひとりで自転車に乗って近所に出かけ、3食きちんと食べ、ワジャジャジャ、とひび割れた声で豪快に笑っていた祖父は、あるとき下痢が続いて病院へ行ったことを機に介護付き老人ホームに移された。わたしはそのことをずいぶん遅れて人づてに聞いた。

    そのころ、わたしには生まれたばかりの息子がいた。息子が3歳を迎える前に世の中はコロナ禍に入り、面会も県をまたぐ移動もままならなくなった。どうしているのだかよく分からずにいるうち、祖父はその施設で死んだ。

    だが祖父も、その父も、そのまた父も、生まれ落ちてから生涯を過ごしたのは、あの屋敷だった。祖父はあの家に看取られたかったのではないか。そしてあの家も、最後にひとり残った祖父を看取るそのときがくるのを、静かに待っていたのではなかろうか。


    祖父のお葬式から、ふた月がたった頃のことだ。
    ついにあの屋敷を建て壊し、マンションにすることになったことを、母から知らされた。
    壊す前に最後に一度親族で集まろう、と声がかかった日は平日のど真ん中で、仕事のある若者は誰ひとり行けず、後日参加者たちが好き勝手に撮影した写真がなぜかわたしのもとにどっちゃり送られきた。
    屋敷の2階で発見されたという、和紙に包まれた曽祖父のブロマイドみたいなものもある。

    思い出に、ちょっとあんた、これを写真集みたいなもんにしてくれんかねえ、ということなんである。
    最初は気乗りしなかったのだけど、これが1人でぼつぼつ図面を起こしてみたり写真を拡大してみたりしていると、時折、息が詰まるほどの懐かしさやさみしさに襲われる、得難い時間になったのだ。
    ひとつひとつ写真を仔細にみて、その間取りを思い起こすとき、ちいさな光景が蘇る。
    あの夏の夕暮れ、暗い物置に忍び込んでこっそりと手にした三ツ矢サイダーの瓶。
    渡り廊下を踏みしめるときの、湿ったようなきしる音。
    中でも、一枚のなんてことない写真に突然胸をつかれ、わたしは声を殺して泣いた。

    それは広い家の中で、祖父がいつもそこにいた四畳半の小さな和室から、薄暗い廊下に明かりがもれている写真だった。
    あの夏の夜ごとに、まだ幼かったわたしが確かに目にしていた光景。廊下を忍び足で近づくと、畳の上に寝転び、大きな音で野球のナイターを見ていた祖父が、そこにいた。

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    なんてことのない写真こそが宝物。



    まるでその場にタイムワープをしたかのように、体が震え、心が動かされるのは、こんなふうな写真なのだった。どこかのカメラマンが撮ったような、よそゆきの顔をした部屋の写真じゃない。その家をよく知る人、そこに住む人が撮る写真にこそ、思い出が刻まれる。
    ともかく簡単な写真集は完成し、できあがったものを見て、みんな大いに懐かしみ、喜んでくれたと聞いた。なにもできなかったけれど、たくさんの思い出をくれたあの古い家に、最後の供養をしたような、そんな気持ちになったのだ。

    さて、祖父が死んで数年がたった先月のこと。
    わたしたち家族は久しぶりに揃って、ふるさとのあの地を訪れた。
    ここに来るのは、祖父の葬儀以来のことになる。お墓参りと、屋敷の跡地に建てられたマンションを見に行くことが目的だった。

    父、母、妹家族4人と、わたしと夫と息子。
    総勢9名で予定を合わせ、貴重な休日に、決してアクセスがよいとは言えない場所へ新幹線と在来線とを乗り継いで向かう。それはなかなかの一大プロジェクトだった。

    言い出しっぺは、わたしだった。
    見なければ、あの場所は記憶のままで残していられる。祖父がいた家がまったく違う形に生まれ変わっている現実を、どのように受け入れたらよいのかは分からなかった。でも一度、自分も行かなければならない気がした。
    新しく建てられたマンションについては、屋敷の大切なものをできるだけ残した形でのリノベーションがされるよう、打ち合わせを重ねたと聞く。だけど、あの大正時代の屋敷と近代的なマンションとは、どうもうまく結びつかない。
    一体、あの地はいまどうなっているのだろう。

    不安を抱え、緊張を隠すようにたどり着いたその場所には、和の雰囲気を残した温泉旅館のようなアプローチの奥に、落ち着いた佇まいの一棟のマンションがあった。

    「ありゃ、いい感じだねえ」 
    と父が言った。

    なんと驚くべきことに、あの屋敷の庭と離れはほとんどが手つけずの形で残されていた。大きな松も、立派な灯籠も記憶とたがわずそこにある。マンションの各部屋からは、その中庭を望めるつくりになっていた。
    そして一階の部屋からは、当時のままの屋敷の縁側を通って、庭に出られるようになっているのだった。親族が使えるように残された一階のひと部屋をのぞけば、ほかはすべてが満室。わたしはなんとなく、こんなマンションに住んでいるであろうおしゃれな若夫婦を想像し、この庭も彼らの生活の一部になっているところを思い浮かべた。

    「まあ、あんなとこに欄間があるわ。懐かしい」
    と母が言う。
    よく見ると部屋の隅に見覚えのある彫刻の欄間がさりげなく設けられている。あれはたしか座敷にあったもの、あっちは床の間にあったもの、とわたしたちは思わず声をはずませながら口々に言った。

    9歳、4歳、2歳の子どもたちは、歓声をあげながら庭に走り出て、1列になって探検をはじめた。昔わたし達がよくしていたように、離れへと続く飛び石をリズミカルに飛び越えてゆく。
    まるで大トトロ、中トトロ、小トトロのようなその隊列をみながら、わたしは胸にあたたかな湯が広がっていくように、じわりと満たされるのを感じていた。

    寂しい気持ちになることを覚悟して、ここを訪ねにきた。だけど、どうだろう。
    いまわたし達は、穏やかで幸せな気持ちで笑っている。あの頃と変わらぬ笑い声が、ふたたびこの場所に満ちていた。

    懐かしい縁側に座り、3匹のトトロに給水タイムをとっていたら、横に座った息子が空を指さした。

    「ママー、あの大きな雲すごいよ。」
    「もうすぐ、積乱雲になるのかなぁ」

    彼は去年の夏に天気の本にはまって以来、雲博士なんである。

    わたしも、明るい青空を見上げた。

    息子の肩から、高い体温が伝わってくる。
    子どもたちの隣でみるその雲は、あの白い城になるようには見えなかった。

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    おいしいものと、ワインと旅が好き。 感受性豊かな息子(9歳)との日々の記録。 出版社勤務→2024年からフリーランス

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