
秀吉の宗教的野望と徳川が寸断した浄土への道・正面通【碁盤の目のヨコを歩く】
巨大な大仏殿の名残り
京都市東山区にある京都国立博物館の北西あたりには、巨大な石垣が残っていて驚かされます。

大阪城の石垣が思い起こされますが、これもまた豊臣秀吉が諸大名に競わせて築いた方広寺大仏殿の石垣。
刀狩りで農民などから武器を取り上げるさいには、この大仏殿の釘やかすがいに使うためと言われていました。

その跡地には、明治になって勅命により再興された豊国神社が建っています。

陶製の秀吉像の後ろには、元は伏見城にあったとも伝えられる国宝の唐門。

宝物館には「豊国祭礼図屏風」が残され、秀吉七回忌のさいの熱気あふれる祭礼の様子や、当時の巨大な大仏殿の姿を知ることができます。
大仏は、東大寺の大仏を凌ぐ約19mの高さがあったらしい。
宇宙の真理を体現すると言われる盧舎那仏の威光に、秀吉はあやかりたかったのでしょう。

方広寺そのものも、豊国神社の北側に、小さくなって残っています。
大坂の役で徳川が豊臣方を攻める口実に使った、方広寺鐘銘事件の梵鐘もありました。

豊国神社の裏には、大仏殿跡の緑地。
説明板のある丸く盛り上がっている部分が、大仏の台座だったようです。
破却された豊国神社と残された小さな墳墓

神社境内の東隅には、ひっそりと馬塚とよばれる五輪塔。
これが、豊臣家滅亡後に徳川家康が建てた、秀吉の墳墓になります。
秀吉は、死後この東後方にある阿弥陀ヶ峰の豊国廟に葬られ、その麓には自身を豊国大明神として祀る壮麗な最初の豊国神社が造営されました。
家康は、これらを跡形もなく破却させ、代わりにこの小さな五輪塔を建てたことになります。

石塔には、梵字とともに「元和元年八月十八日敬白」として、豊臣家が滅亡した翌年の秀吉の翔月命日だけが刻まれているようです。
しかも、江戸時代のこの場所は、土塀で囲まれ直接参拝できないようになっていたとのこと。
前の権力者の痕跡を消し去ろうとする、徳川の執念が感じられますよね。
秀吉の構想と西へ向かう正面通

さあ、方広寺大仏殿の跡から、西に向けて正面通を歩き始めます。
正面通の「正面」とは、もちろん大仏殿の正面。
そして背後にある、秀吉が生前から構想した自らを神として祀る元の豊国神社、さらには墓所とした阿弥陀ヶ峰の正面でもあります。
一方で秀吉は、この道の西端に、本願寺(今の西本願寺)を大坂天満から移転させました。
地図上で見ると、東から自らが眠る阿弥陀ケ峰、自らを神として祀る豊国神社、巨大な大仏殿、そして西方浄土への入口に見立てた本願寺へと真っすぐに正面通が伸びることになります。
これが秀吉が思い描いた、自身の「魂の救済」ルートだったのかも知れません。
明治時代に確認された秀吉のミイラは、大きな甕の中で正装をし西を向いて座っていたそうですから、浄土への渇望は強いものだったのでしょう。

歩き始めるとすぐ、左手には耳塚。
文禄・慶長の役で、武将たちが朝鮮半島から重い首級の代わりに持ち帰った、塩漬けの耳や鼻を供養した塚になります。

右手にある甘春堂東店では、江戸初期から名物であった「大仏餅」が、当時と同じ製法で作られ販売されていました。

こちらは、寛永年間から続く創業約400年の京料理・道楽。
入口に大小の瓢箪が吊るされているのも、これを馬印とした秀吉の道沿いらしい。

道楽の壁に貼られた仁丹琺瑯看板によると、このあたりは正面町。
「面」の文字が簡略化されていて、ちょっと面白い。

鴨川に架けられた正面橋。

橋の東詰近くには、江戸幕府による迫害を伝える、「元和キリシタン殉教の地」の石碑。
確かにこのあたりは刑場とされた六条河原の一画ですが、わざわざ正面通のすぐ脇で、大仏への参詣者に見せつけるように大量処刑したのですね。

西詰まで来ると、路上にごろんと梵鐘。
釣鐘に縁のある方広寺から始まる、正面通らしい光景です。

右手には、レトロなホテル丸福楼。

「世界のニンテンドー」発祥の地になります。
こちらは、1930(昭和5)年に竣工した旧本社の建物で、当初はカルタやトランプを製造していたらしい。

「丸福」は、創業した山内家の屋号だったようです。
渉成園と東本願寺で阻む徳川

まもなく、正面通はタテの通りである河原町通に突き当たりますが、その先には横に長い築地塀。
これって、明らかに正面通を遮断していますよね。

築地塀の軒丸瓦には、「本願寺」の文字。
ここは、秀吉が正面通の終着点とした本願寺(西本願寺)ではなく、徳川が開かせた東本願寺の渉成園になります。
江戸幕府は、戦国最大の宗教勢力であった浄土真宗内部の対立を利用し、東西二つの本願寺を分立させて統制しやすくしました。

渉成園は、三代将軍・徳川家光が東本願寺に寄進し、門主の隠居所とされてきた場所。
元々ここには高い御土居と高瀬川が通っていましたが、これらを付け替えて造営されており、幕府にしかできない事業だったことでしょう。

敷地内には印月池など、石川丈山が手掛けた美しい庭園が広がっていました。

徳川が造営させた渉成園により断ち切られていた正面通は、園内から西に向けて再開。

右手には、1602(慶長7)年創業の寺島念珠老舗。

左手には、やはり慶長7年創業の仏教書肆・丁子屋を受けついだ法蔵館書店。
どちらも東本願寺とともに、400年以上ここに在り続けているようです。

烏丸通まで来ると、今度は東本願寺そのものの塀にはばまれて、正面通は再度中断。

高さ27mを誇る二層の御影堂門は、通りから少し南にずれた場所にありました。

境内には、禁門の変で焼失した後に再建されたものではありますが、世界最大級の木造建築物である御影堂。

東本願寺の西側にまわると、城壁のような石垣が続いています。
妖怪のいる伝道院から西本願寺へ

ここから、正面通は再々開。

まもなくすると、妙に存在感のある煉瓦建築が左手に現れます。
1912(明治45)年に竣工した、本願寺伝道院です。

設計は、個性際立つ建築家である伊藤忠太。
伊藤は、それまで「造家」と訳されていたArchitectureを工学ではなく総合芸術ととらえ、「建築」と訳すように提唱した人です。
赤煉瓦に花崗岩の白い帯は英国様式のようですが、ドームはイスラム調のようでいて和風の火灯窓がついている。
中国、インド、トルコに留学して得たイメージもあるでしょうが、文化の枠を越え、自在で、とても楽しい。

そして建物は、さまざまな不思議で可愛い妖怪たちに守られています。

こちらにも、ずらり。
『妖怪研究』を著すほどに妖怪好きだった、伊藤の世界に引き込まれそうになります。

すぐ先には、西本願寺の総門。
広い堀川通をこえたその先には、西本願寺の御影堂門がぴったり真ん前に見えます。
そりゃ、正面通は秀吉が大仏殿とこの場所を結んだ道ですから、今度は塀に遮られることはないですよね。

江戸時代の建築としては、現存最大級の御影堂。

右隣の阿弥陀堂とともに、二つの大きな木造建築が並んでいます。
秀吉は、ここを自らの魂を迎え入れてくれる、西方極楽浄土の入口と見なしたのでしょう。
死後に神となり、大仏に参詣する多くの人々に崇められ、西方浄土へ真っすぐに向かおうと正面通を開いた秀吉。
死後も、格別であろうとしたその宗教的野望。
これに対して、徹底して野望を潰そうとし、通りを寸断した徳川。
正面通は、天下人たちの利害が露骨に絡み合う通りだったようです。

御影堂門から歩いてきた道を振り返ると、総門の向こうに秀吉が葬られている阿弥陀ヶ峰が見えるかも。
あっ、門の中に小さく見えているのは、北隣の清水山みたい。
秀吉が真っ直ぐにイメージした「魂の救済」ルートは、少しカーブしていたようです。
