メインコンテンツへスキップ
見出し画像

アルバイト僧侶日記。2

    弟の出発に合わせて車に乗せてもらったら結局早く着き過ぎて、時間をつぶすために、しばらく川のそばで流れを見ていた。子どもの頃は、川はいくらか涼しかった記憶があるのに、じっと立っているだけで、襦袢が汗でびっしょり濡れている。

    二軒目のTさん宅。私がお参りに行くのは三度目になる。玄関横には古道具や壊れた雨具、埃をかぶった靴などが積みあがり、扉に続く小さな石段は草で埋め尽くされていた。そういう家が珍しいわけでもないけれど、普段無人の家ならともかく、少し変な感じがした。

    呼び鈴を鳴らす。誰も出てこない。少し時間を置いて二度目、また三度目。耳の遠い高齢者は多いので、これは日常茶飯事だ。声を張り上げて挨拶をしながら、中へ入った。

    やがて引き戸からおじいさんが顔を覗かせ、少しほっとした。挨拶をして仏壇の前へ行こうとするが、おじいさんは困惑した様子で、すんませんなあ、すんませんな、と何度も言われ、さらに、もごもごと何か呟いておられる。耳を近づけてようやくわかった。
    「準備ができていない」ということらしい。
    「準備、できてなくても、全然、大丈夫、です、」
    一生懸命大きな声で言うが、伝わったかどうかわからない。おじいさんはなおも困った様子で、目だけで家の中をうろうろと見まわしている。

    ともかく私は、お仏壇の前へ進み出る。確かに準備は何もされていなかった。
    おじいさんは長い時間をかけて、お仏壇のそばまできて、蝋燭に手を伸ばした。それを手に持ち、おぼつかない足取りで、台所の方へ歩いていく。
    少し訝しく思いながら背中を見守っていると、カチカチカチ、と音がした。次に戻ってきた時、おじいさんの手には火のついた蝋燭があった。その手がぶるぶる震えている。瞬間的に、危ない、と思ったが、一生懸命準備しようとしてくださっているのがわかって、私は結局座ったまま、じりじりとおじいさんの一歩、一歩を見ていた。
    膝ががく、がくと震え、今にも手から蝋燭が落ちそうになって、私は慌てて立ち上がった。

    初めから自分が火をつけると申し出ればよかったのかもしれない、そう思いながら、蝋燭を引き継いで蝋燭立に立てる。線香に火を移し、お仏壇のお名号を見上げる。手を合わせた。

    お経が中ほどまで進んだ頃、ふと感じるものがあって、視線をやった。半分ほど開いた襖越しに、薄暗い隣室が見える。何かが気になって、目を凝らす。敷かれたままの布団に埋もれるようにおばあさんが横たわっていた。お経をよむ声が止まりそうなほど驚いた。なんとか止まらずお経をあげ続ける。

    この猛暑だというのに、よそゆきのような薄茶色の長袖ブラウスを着て、冬物のような毛布をかぶったまま、おばあさんはじっと横になっている。濁った瞳はあまりに静かで、もしかすると亡くなっているのではないか、と不穏な思いが過ぎるが、横目で見ていると、布団の胸元が僅かに上下しているのが見てとれた。
    その目はうつろで、多分そこに私の姿は映っていなかった。それでも、おばあさんの耳にほんの少しでも届けばいいと願いながら、一層声を張り上げた。

    お経が終わって、私は後ろに座っているおじいさんの方に向き直り、頭を下げて御礼を言った。それから膝でにじり寄り、覗き込むようにしておばあさんに声をかける。
    「おばちゃん。おつとめさせてもらいました。ありがとうございました。」
    はからず、とても小さな声になった。聞こえていないだろうと思いながら、それ以上言葉がなかった。もっと近くへ行って皺だらけの細い手を握りたい衝動を扱いかねて、やっぱりできずに、布団へ向かってもう一度深く一礼し、私は立ち上がった。

    見ると、おじいさんが震える手で抽斗を開けては閉め、何かを半紙にくるんでいた。まあ座って、と何度も言われ、どこからか缶ジュースを持ってきてくれる。さらに台所から湯呑を持ってきて、そこにお茶を淹れてくれた。何か、お茶以外の味がついたような湯呑でお茶を飲む。缶ジュースは礼を言って鞄に仕舞った。もう一度礼を言って立ち上がろうとすると、もうちょっと待ってや、と引き留められ、数分をそこでじっと待った。色々なものが散乱した卓上に、「×日ヘルパーさん」「ゴミは勝手に出さない」などと手書きで書かれた紙が、セロテープで貼りつけられている、その文字をじっと見ていた。おじいさんはまた、家の中を歩き回っている。

    やがておじいさんが震える手で差し出してくれたのは、しわくちゃの半紙に包まれた、これまた皺だらけの千円札と、小銭が少しだった。渡されたそれを、おしいただいて鞄に仕舞う。
    私がここでしたことは何だったのだろう。準備ができていないと困惑している人の家で、お勤めをした。お布施をいただくようなことだったのだろうか。

    出がけに玄関で、ヘルパーさんらしき女性とばったり出くわした。ヘルパーさんは私を見て驚いていた。何か引継ぎをする責任があるような気持ちになり、今しがたの状況を簡単に伝え、家を出た。

    外に出れば、日差しがじりじりと痛かった。もう、ここにくることはないのかもしれない。川がごうごうと鳴っていた。私は次の家を目指して歩き始めた。


     
     
    書くことが好きです。物語、歌、詩、雑感、綴られたものを読むのはなんでも好きです。正直でありたい。

    あなたへのおすすめ