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母胎のない国 _ 第二話 小さな呼吸

    泣き声がした。

    私は、立ち上がれなかった。

    人工子宮のある部屋は静かだった。
    窓には雨粒が流れている。
    朝から降りはじめた雨はまだ止まない。
    照明は柔らかく、職員の声も低かった。

    その静けさの中で、赤ん坊の声だけが、急に空気を裂いた。

    職員が、小さな身体を白い布で包んだ。

    「白鳥さん、白鳥小夜子さん」
    呼ばれているのは分かった。
    けれど、私の足は動かなかった。
    私は、七海が生まれた日のことを思い出していた。

    痛み。
    助産師の声。
    自分の身体の奥から、何かが剥がれるような感覚。
    あの日と同じではなかった。
    ここには痛みがない。
    血の匂いもない。

    それなのに、その声を聞いた瞬間、私の身体は、昔のどこかを勝手に開けた。
    職員が赤ん坊を抱いて近づいてくる。
    小さな顔。目を閉じたまま、口だけを開いて泣いている。

    私は両手を出した。
    布越しに、重みが乗った。
    軽かった。
    あまりにも軽く、あまりにも重かった。
    私は、その顔を見た。

    七海ではなかった。

    当たり前だった。書類にも面談記録にも何度もそう書かれていた。

    白鳥七海さんが戻ってくるわけではないことを理解していますか。
    「はい」

    新しく生まれる子どもを、独立した人格として育てる意思がありますか。
    「わかってます」

    その返答は、どれも正しかった。
    私はいつも、正しい答えを知っていた。

    けれど、腕の中の赤ん坊を見た瞬間、正しい答えのすべてが、遠くなった。

    何をしたのだろう。
    私は、何をしてしまったのだろう。

    七海はもういない。
    いないはずだった。
    それなのに、私は七海の名残から、新しい命を呼び出した。

    寂しさを、この小さな身体で埋めようとしたのではないか。
    娘を失った穴の形に、この子を押し込もうとしたのではないか。
    この子は、私の喪失のために生まれたのではないか。

    そう思った瞬間、腕の中の赤ん坊が、すうっと小さく息を吸った。

    胸が、ほんの少し上がった。
    それから、下がった。
    私は、その動きから目を離せなかった。

    七海ではない。
    七海ではない。

    そう思うたびに、腕の中の子は、何も知らない顔で息をした。
    小さな口が、少し開いている。
    指が、布の中でかすかに動く。
    目は閉じている。

    それでも、息をしている。
    また、胸が上がった。
    下がった。
    私は、その呼吸を見ていた。
    自分が何をしたのかは分からなかった。
    けれど、この子が今ここで息をしていることだけは、分かった。



    七海のお気に入りの靴は、玄関の端にずっとあった。

    白いスニーカーだった。
    つま先に少しだけ汚れがある、靴ひもの先が、片方だけほつれている。
    買ったばかりの頃、七海は「白い靴ってすぐ汚れるね」と笑っていた。

    その靴は、七海が亡くなった日には履かれていなかった。
    だから玄関に残った。

    服も、鞄も、読みかけの本も、使いかけの化粧水も残った。
    冷蔵庫には、七海が買ってきたヨーグルトが二つ残っていた。
    賞味期限が切れても、私はなかなか捨てられなかった。
    捨てれば、七海がもう帰ってこないことを、自分の手で決めてしまうような気がした。

    事故の知らせを受けたのは、夕方だった。

    私はそのとき、台所で玉ねぎを切っていた。
    七海が帰ってきたら、親子丼を作るつもりだった。
    とった電話の向こうの声は、初めは遠かった。

    病院名。
    事故。
    搬送。
    意識不明。

    その言葉を聞きながら、私は火を止めることを忘れていた。
    鍋の中のだし汁が、静かに沸き続けていた。


    病院の廊下は白かった。
    白い壁と白い照明。
    どこを見ても、色がなく、案内された部屋までが随分長く感じられた。

    七海は、ベッドの上にいた。

    顔には細い傷があり、髪の一部が血で固まっていた。
    それなのに、眠っているようにも見えた。
    は、七海の手を握った。
    まだ温かかった。

    「七海」
    呼んだ。
    返事はなかった。
    もう一度呼んだ。
    「七海」
    その名前は、部屋の白い空気の中で、どこにも届かなかった。

    医師が何かを説明していた。

    損傷。
    出血。
    処置。
    回復の見込み。
    脳機能。

    私は何も言わず、聞いていた。
    けれど覚えているのは、七海の手の温度だけだった。
    その温度が少しずつ失われていくのを、私は自分の手のひらで感じていた。

    葬儀の日は、ほとんど泣かなかった。
    参列者が帰ったあと自宅に戻ると、家は妙に広かった。

    七海の部屋のドアは閉まっていた。
    私はその前に立ち、ドアノブに手をかけたまま、しばらく動けなかった。
    開ければ、七海のにおいがすると思った。
    開ければ、七海がいないことが分かると思った。

    結局、その日は開けなかった。
    次の日も。
    その次の日も。

    朝になれば起きる。
    買い物にも行く。
    近所の人に会えば挨拶もする。

    でも、何をしていても、どこかで耳を澄ませていた。
    玄関の鍵が開く音。
    階段を上がる足音。
    「ただいま」と言う声。
    聞こえるはずのない音を、ずっと待っていた。

    一年が過ぎた。
    七海の靴は、まだ玄関にあった。

    二年が過ぎた。
    ヨーグルトは、さすがに捨てた。
    けれど、捨てた夜、私は台所の床に座り込んだ。

    三年目の春、出生管理庁から通知が届いた。
    故人遺伝情報の保存継続に関する確認だった。
    七海は生前、医療研究用の遺伝情報保存に同意していた。
    健康診断の一環だったのか、勤め先の制度だったのか、私はよく知らなかった。

    通知には、事務的な文章が並んでいた。

    保存継続。
    家族申請。
    再出生計画。

    私は、その言葉を何度も見た。
    初めは、気味が悪いと思った。
    亡くなった人間の遺伝情報を使って、新しい命を生み出す。
    それは、七海を道具にするようにも感じた。

    死んだ娘の身体を、もう一度誰かが開けようとしているようにも思えた。
    通知を引き出しにしまった。
    それから数日、私は何もしなかった。
    しかし、その言葉は消えなかった。

    再出生

    朝、洗濯物を干しているとき。
    夜、七海の部屋の前を通るとき。
    その言葉は、私の中で少しずつ形を変えた。

    もう一度、会いたい。
    そう言い切れるものではなかった。もっと苦しい何かだった。

    ただ、もし七海の一部が、まだこの世界のどこかに残っているのなら。
    それが数字でも、記録でも、細胞の設計図でも。
    もしそこから、何かが始まるのなら。
    その続きを、見たい。


    私は、その週の日曜日、出生管理庁の説明会に行った。
    会場には、想像していたより多くの人がいた。

    夫を亡くした女性。
    家系を残したいと語る中年の夫婦。
    単身で子どもを迎えたい人。

    誰も大きな声で話さなかった。
    皆、静かに資料を持ち、前を向いていた。
    職員は丁寧に説明した。

    クローン出生児は、由来者と同一人物ではありません。
    記憶や人格は引き継がれません。
    出生児本人の主体性を尊重してください。

    私はうなずいた。
    何度も、うなずいた。
    分かっています。
    同じ人ではない。
    七海が戻ってくるわけではない。
    そう自分に言い聞かせた。

    けれど、説明会の帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、私は思った。
    それでも、七海のいない家に帰るよりはいい。

    電車が来て、ホームに風が吹いた。
    私は資料を胸に抱えた。
    紙の角が、指に少し食い込んでいた。

    その後の手続きには、時間がかかった。

    心理審査。
    家庭環境調査。
    由来者との関係性の聴取。

    何度も聞かれた。
    白鳥七海さんが戻ってくるわけではないことを理解していますか。

    私は何度も答えた。
    はい。
    由来者との比較を避ける必要があります。
    分かっています。

    それでも、面談室を出るたびに、胸の奥で別の声がした。

    「でも、似ているのでしょう」
    その声は、誰にも言わなかった。

    承認通知が届いた日、私はあの時以来、はじめて七海の部屋を開けた。

    机の上には、古いペン立てがある。
    本棚には、小説と仕事の資料が混ざっていた。
    ベッドの上には、七海が最後に脱ぎ捨てたカーディガンが置かれていた。

    においは、もうほとんど消えていた。
    私はベッドに座った。
    ただ、窓から入る光の中で、埃がゆっくり動くのを見ていた。


    妊娠期間にあたる時間、私は何度も施設に通った。
    透明な管理容器の中で、命は少しずつ形を持っていった。

    最初は、ただの点のようだった。
    それが線になり、影になり、小さな身体になった。
    職員はいつも同じように説明した。

    「心拍も安定しています」
    「次回は聴覚反応の確認に入ります」
    私は、画面の中の小さな動きを見つめた。
    七海のとき、私は自分の腹の中でそれを感じた。

    つわりがあった。
    お腹を蹴られて、夜中に目が覚めた。

    今度は、何もない。
    身体は静かだった。
    腹部も平らだった。
    眠る姿勢も選ばなくてよかった。

    なのに、私は毎晩、寝る前に腹部に手を置いた。
    そこには何もいない。
    何もいないことを、手のひらで確かめるようにしていた。

    ある日、職員が言った。
    「呼びかけを始めても構いません」
    私は、透明な容器の前の椅子に腰かけた。

    中の小さな身体は、まだ人形のように静かだった。
    何を言えばいいのか分からなかった。
    七海、と呼んではいけない。
    そう思った。
    でも、まだ名前は決めていなかった。
    私はしばらく黙っていた。
    職員は急かさなかった。
    やがて、私は小さな声で言った。

    「聞こえますか」
    返事はなかった。
    当たり前だった。
    それでも、その日から私は通うたびに話しかけた。

    今日は寒いです。
    庭の椿が咲きました。
    スーパーで卵が高かったです。
    あなたが生まれるころには、もう少し暖かいかもしれません。

    七海に話しかけているのか。
    まだ名前のない子に話しかけているのか。
    その分からなさを抱えたまま、日が過ぎた。

    そして、雨の日に戻る。
    腕の中の赤ん坊は、まだ息をしていた。
    胸が上がる。
    下がる。
    泣き声を上げる。
    顔をしかめる。
    指を小さく握る。
    そのたびに、私の視線は、少しずつ腕の中へ戻された。
    私は、部屋の光を急にまぶしいと感じた。

    七海ではない。
    けれど、この子は、ここにいる。

    名前は、莉緒にした。
    いくつもの候補を書き出し、何度も読み上げた。
    インターネットで姓名診断もしてみた。元気で明るい子に育つような名前。病気やケガのないように。そして、もう事故にあわない名前にしたかった。
    莉緒。
    声に出したとき、糸のような細いものが、どこかで結ばれる感じがした。腕に抱いた小さな赤ん坊に何度も呼びかけた。
    莉緒ちゃん、莉緒、りーちゃん。色んな呼び方で呼んでみた。それでもまだ、心のどこかに娘の名前がひっそりと隠れているような気がした。

    出生後の生活は、驚くほど忙しかった。
    庭の草むしりや二階のベランダ掃除は後回しになった。

    ミルク。
    おむつ。
    寝かしつけ。
    予防接種。

    七海を失ってから止まっていた家の時間が、突然、走り出した。
    熱を出すたびに、夜中でも病院に駆け込んだ。毛布でくるんだ莉緒を抱きかかえて、私はタクシーに飛び乗った。
    私は久しぶりに、朝まで眠れない夜を過ごすようになった。
    泣きやまない莉緒を抱いて、部屋を歩き回ることも度々あった。

    腰が痛くなり、肩がこった。
    洗濯物は増え、台所は散らかった。

    それでも、家の中に音が戻った。
    泣き声。
    哺乳瓶を洗う水音。
    布団を蹴る音。

    莉緒はよく泣いた。
    よく飲んだ。よく眠り、よく起きた。

    一歳になるころには、部屋中を這いまわった。
    ある時、居間の古い本を引っ張り出し、ページを破りそうになった。
    私は思わず「七海。だめよ!」と声を上げた。私は自分の声にびっくりして、持っていた掃除機のノズルを床に落とした。

    莉緒は、一瞬ノズルの音に身体をびくっと振るわせた。それから振り向いて私の顔を認めると、楽しそうに笑った。
    その笑顔は、七海に似ていたかもしれない。
    私は宙に浮いてしまった名前を打ち消すように言い直した。
    「莉緒。だめよ、それは」
    莉緒は意味も分からず、また笑った。

    二歳になると、言葉が増えた。
    「いや」
    「だっこ」
    「もっと」
    「ばあば」
    私は、ばあば、と呼ばれるたびに、少し照れた。呼ばれれば、洗いかけの食器をそのままにして、莉緒にかけよった。だっこと言われれば、抱きあげた。

    三歳になると、莉緒は家の中を走り回るようになった。
    私は莉緒が躓いて怪我をしないように居間の細々したものを片付けた。絨毯は足をひっかけるといけないので処分した。
    七海の靴は、いつの間にか玄関から消えていた。
    捨てた日のことを、私ははっきり覚えていない。

    たぶん、莉緒の靴が増えたからだ。
    小さなお出かけ用の赤い靴。
    砂だらけの平日用の運動靴。
    雨の日の長靴。
    玄関には、もう置き場所がなかった。
    家じゅうが莉緒のもので溢れた。

    七海の部屋は、少しずつ物置になった。
    それから、莉緒の勉強部屋になった。
    勉強机を新調し、本棚を整理した。
    壁紙を明るい色に替えた。
    壁紙を変えた夜、小夜子はその部屋で少しだけ泣いた。

    小夜子は、壁紙を変えた翌日、七海の写真を一枚だけリビングに置いた。
    莉緒が小学生になるころ、その写真を指差して聞いた。
    「だぁれ?」
    私は、笑いながら言った。
    「七海。あなたのお母さんよ」
    莉緒は小夜子の顔をみて、もう一度写真を見た。
    「お母さんかぁ。きれいだね」
    ただそう言って、すぐに別の話を始めた。
    私は、その軽さに救われた。だんだん、その写真の前で立ち止まることも少なくなった。

    莉緒は育った。
    よく食べ、よくしゃべり、よく走る子になった。
    学級委員になり、テニス部に入り、帰ってくると毎日お腹が空いたと言った。

    朝はカーテンを開けた。
    夜は玄関の明かりをつけた。
    莉緒が元気よく帰ってくるたびに、家の中の空気が少し動いた。
    それで十分だった。

    けれど、ときどき、私は七海の夢を見る。
    夢の中で、七海は若いままだ。
    台所に立って、冷蔵庫を勝手に開けている。
    「何か食べるもの、ないの」
    そう言う。
    私は怒って言う。
    「もう大人なんだから、自分で買ってきなさい」
    七海は笑う。
    その笑い声で目が覚める。
    部屋は暗く、天井は高い。私は布団に入ったまま、静かに自分の呼吸を整えようと息を吸った。

    隣の部屋では、莉緒が眠っている。
    私は暗い天井を見上げ、しばらく動かない。
    しばらく見上げていると、天井はこんな模様だったのかと、ふと思った。そう思ったら余計に眠れなかった。
    年齢のせいで、なかなか寝付けないだと何度も寝返りを打った。

    朝になれば、莉緒が起きてくる。家の空気が動き出し、音が溢れる。

    「おばあちゃん、体操着どこ?今日、体育なの」
    「昨日のうちに言いなさいよね」
    「昨日の帰り道までは覚えてたんだけどなぁ」
    「もう」
    そう言いながら、私は洗濯物の中から体操服を探す。食事を作り、洗濯をし、慌ただしく日常が過ぎていく。夢のことも昼間になれば、いつの間にか忘れてしまう。


    ある日、出生管理庁から保護者面談の案内が届いた。
    莉緒の年次心理面談にあわせた、保護者向けの任意面談だった。

    家庭で困っていることはない。
    莉緒は明るい。
    学校でも問題はない。

    けれど、案内の最後にこう書かれていた。
    出生児の成長に伴い、保護者自身の感情整理が必要となる場合があります。

    感情整理。

    私はその言葉を見て、少し笑った。引き出しにしまおうとしたが、そのまま冷蔵庫に貼っておいた。
    数日後、翌週の面談を申し込んだ。理由は特になかった。
    ただ、その日、莉緒が部活で遅くなると聞いていたからかもしれない。
    夕方の時間が、ぽっかり空いていたからかもしれない。


    面談室に入ると、橘依子という女性がいた。
    白髪の混じった髪を低く結んでいる。
    声は静かで、きちんとした印象の女性だった。
    私は椅子に座った。
    「白鳥小夜子です。よろしくお願いします」
    彼女は録音の確認をした。
    「今日担当します、橘依子です。よろしくお願いします」

    それから、彼女は、いくつか簡単な質問をした。
    現在のふたりの生活。
    学校での様子。
    家庭で困っていること。
    私は答えた。
    「困っていることは、特にありません」
    本当に、そうだった。
    「莉緒は元気です。部活も楽しそうで」
    彼女は頷きながら、記録画面に手際よく入力していく。
    「はい」
    「学校の先生にも、明るいって言われています」
    「はい」
    「家でも、ずっとしゃべっています」
    私は少しだけ笑った。
    彼女も記録画面に入力しながら、笑った。
    それで終わるはずだった。
    けれど、彼女が画面から顔をあげ、最後にこう言った。

    「白鳥さんは、莉緒さんが生まれた日のことを、今でも思い出されますか」

    定型の質問だろうか。彼女は、キーボードから手を離し、両手をテーブルに置いた。私は、今日初めてテーブル越しに彼女と向き合った。
    彼女は笑うこともなく、険しい顔をすることもなく、静かに私をみつめていた。
    私は、すぐには答えられなかった。

    思い出す。いや、思い出さない日の方が多い。
    日々は忙しい。
    朝食を作り、洗濯をし、買い物に行き、莉緒の予定を確認する。
    けれど、忘れているわけではなかった。
    私は、自分の手元を見た。
    あらためて見ると、皺が目立つ、歳をとった手だった。
    莉緒を初めて抱いた日の手とは違う。

    「時々、思い出します」
    そう言ったあと、私は話した。
    話せば話すほど、言葉が喉の奥から溢れた。

    七海の靴のこと。
    病院の白い廊下のこと。
    再出生という文字を初めて見た日のこと。
    透明な容器の前で、何を話しかければいいか分からなかったこと。
    莉緒を初めて抱いたとき、とんでもないことをしてしまったと思ったこと。
    そのあと、小さな呼吸を見ていたこと。

    彼女はほとんど口を挟まなかった。
    私が黙ると、待った。
    言葉が出てくるまで、待った。
    言葉と言葉の間は随分長かったかもしれない。
    途中で、面談室の外では誰かが廊下を歩く音がした。
    遠くで、赤ん坊が泣いているような声もした。

    話し終えたとき、私は大きく息を吐いた。
    泣いていなかった、泣くつもりもなかった。
    ただ、長い間持っていた荷物を、机の上に少しだけ置いたような気がした。ふと時間を確認したら、大幅に面談時間が過ぎていた。
    「こんな長話して、私、疲れているのかしら」
    私は慌てて、荷物かごにいれてあったバックを手に取り立ち上がろうとした。

    彼女は最後の言葉を、端末にすぐ入力しなかった。
    手を止めたまま、静かに私を見ていた。
    そして、立ち上がった私を見上げながら言った。
    「大丈夫ですよ、今日はありがとうございました」

    その声は、評価でも、慰めでもなかった。
    私は小さくお辞儀をして、部屋をでようと扉に向かった。
    歩きながら窓の外を見た。
    窓の外の人工樹木は、夕方の色に変わっていた。
    葉の先が、少し金色に光っている。


    面談室を出ると、待合室の椅子に莉緒が座っていた。
    部活帰りだろう、下は制服のスカートで上が部活のTシャツという恰好だった。
    膝の上には学校の鞄とラケット。
    手には単語帳。

    「おばあちゃん、遅いよぉ」
    莉緒は顔を上げて言った。
    「ごめん、ごめん」
    「お腹すいちゃった」
    「でしょうね」
    私は笑って、ラケットを持ってあげた。
    莉緒も笑った。莉緒は小夜子の腕に自分の腕を絡ませた。


    私たち二人が庁舎を出ると、空は薄く暮れていた。
    広場の壁面には、出生管理庁の映像が流れている。

    若い代理母が、両手で腹部を包んで笑っていた。
    ――産む力を、未来の力へ。
    莉緒はそれを見上げて言った。
    「あの人、毎日笑ってて疲れないのかな」
    その言葉に、私は思わず笑った。
    「広告だからね」
    私も広告の女性を見上げた。
    「私なら無理」
    「あなたは笑いすぎるくらい笑ってるでしょ」
    「それは自然だからいいの」
    莉緒はそう言って、先に歩き出した。
    私は、その後ろ姿を見た。

    背が伸びた。
    肩幅も少し変わったような気がする。
    歩き方も、幼い頃とは違う。

    その時、ちょうど莉緒がこちらに振り返った。

    「おばあちゃん、早く早く。今日の夕飯、シチューにする?」
    「また?シチューばっかりじゃない」
    「美味しいから、いいじゃん」
    私は小走りで莉緒の横に並んで歩き出した。
    「じゃあ、にんじん大きくするわよ」
    「それは、やだぁ」
    莉緒は眉間に皺を寄せて大げさに右手を左右に振った。

    私たちの声が、夕方の広場に混じっていった。
    その日、家に帰ると、私はシチューを作った。
    にんじんだけが、やわらかくならなかった。


     
     
    経営コンサルティング会社経営 | 契約社数300超| noteではリフレクションをテーマに気づきを書いてます。2026年春から小説を書き始めました!今後も公募にチャレンジしようと日々コツコツ書いてます。公募に落ちた作品をこちらで供養する予定(笑)

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