
自分が嫌いだった頃の私へ。
大人になってからも何度も思い出す日がある。
大学生活が始まって2ヶ月目、ゴールデンウィーク明けの雨の日。
私は地元にない「LOFT」で、浮かれて買ったばかりの傘を差して歩いていた。薄暗いキャンパス内を一歩進む度に、片頭痛がズキズキ痛んだ。
しばらく行くと大学の医務室がある建物に辿り着いた。医務室のドアノブに手を掛けて、一瞬ためらった。体調とは関係ない悩みも聞いてくれるだろうか。ここで全部打ち明けてしまおうか。「大学生活がつらいです」と。
扉を開けると、医務室の先生と目が合った。「すみません、ちょっと頭が痛くて」と声を絞り出した。
「頭が痛いの?大丈夫?」
先生のその一言に涙がボロボロ溢れて止まらなくなった。
突然泣き出した私を見ても、先生はさして驚きもしない様子だった。「五月病」という言葉があるくらいだ。同じような学生が多かったのかもしれない。
持ち合わせていた頭痛薬を飲んで、医務室のベッドで少し休ませてもらうことにした。横になって目を閉じ、先生の「大丈夫?」という優しい声を思い出す度に鼻の奥がツンとした。
結局、「大学生活がつらいです」とは言えなかった。
地元の沖縄から東京へ進学した春。行く先々で聞こえてくる会話に耳を傾けると、当然だが全く訛っていなかった。なんだか全部ドラマのセリフのようでわざとらしく、嘘っぽく聞こえた。
その年、春のセンバツ(甲子園)では沖縄県代表の興南高校が決勝に進出していた。沖縄県民にとって高校野球はオリンピック以上に重要なイベントだ。しかも興南高校は前年の夏の甲子園でも優勝していて、春夏連覇がかかった超ド級に大事な一戦だった。
そしてその決勝戦と、学科の新入生歓迎イベントの日程が被ってしまうという事件が起きた。
同じ学科の同級生や先輩と知り合うチャンス。もし行かなかったら、話題に乗り遅れるんじゃないか。初日に学校に行ったらみんなすでに顔見知りでぼっちスタートになるかも──。
私は悩みに悩んだが、結局甲子園を選んだ。
引っ越しの手伝いで東京に来てくれていた母とテレビで観戦し、大盛り上がりで応援した。
結果は、興南高校の優勝。沖縄勢が春夏連覇という偉業を成し遂げた歴史的な瞬間を目の当たりにして、「見なかったら一生後悔するところだった」と自分の選択を褒め称えた。
新生活は始まったが、心東京に在らずだった。
母が帰り、本当に一人になった。
いよいよ大学生活が始まるという緊張感。一人暮らしの解放感。都会で遊ぶ楽しさ。はじめのうちは感情が目まぐるしく揺れ動き、ハイになっていた。自由でいられることが嬉しくてたまらなかった。けれど、この自由は責任と引き換えに手に入れたんだということにすぐ気がついた。
1ヶ月経っても、2ヶ月経っても、なんだか暮らしが整わない。
栄養バランスを考えた手作りの食事。規則的な生活リズム。部屋の中はいつも整理整頓されていて、お金は賢く使う。そんな理想とはかけ離れていた。
朝起きられなかったり気持ちが落ち込んで家を出られない日が増え、授業や試験をサボって単位を落とすことも多かった。4年生になっても週5で大学に出ていたのは、多分私くらいだろう。
サークルは中学校から続けていた吹奏楽を選んだ。授業をサボった日でも、夕方からのサークルにはなんとか顔を出せた。コンサートの練習やイベントに明け暮れ、「青春」の二文字に相応しく汗と涙と笑いに溢れた時間を過ごした。
初めてのバイトも経験した。自分で言うのもなんだが、仕事を覚えるのが早かったり要領よく業務を進めるのが得意なようで、店長や先輩にも気に入られていたし同僚からも頼りにされていた。バイト先の男の子に告白され、お付き合いしていた時期もあった。
サークルに、バイトに、恋人。「大学は人生の夏休み」と謳う者なら必ず手にいれるべき3種の神器ではないだろうか。だからきっと、外から見ると、それなりに大学生活をエンジョイしていたように見えたと思う。
でも私の心は、逆さまにひっくり返ったピラミッドのようにグラグラ揺れていつも不安定だった。
理想と現実のギャップは広がるばかりで、自己評価は地を這っていた。一方、単位が足りないことを自虐で笑い飛ばしたり、特になんの問題も抱えていないように振る舞っていたので、「明るくて優しい人」「できる人」という周りからの評価との矛盾が私を苦しめた。「みんな本当の私を知らない」と、どんどん卑屈になっていった。
私が自分のことをボロクソに悪く言うたび、優しい友人たちはすかさす「ダメ人間なんかじゃないよ」「自分に厳しすぎるよ」と励ましてくれる。でもそんな温かい言葉もあまり響かなかった。
口では「ありがとう」と言いながら、「私に24時間密着しても同じことが言えんのか?」などと捻くれたことを考えていた。
気分が落ち込むところまで落ち込むと、BUMP OF CHICKENの『ギルド』という曲を聴いた。
「当たり前だろ 隠してるから気付かれないんだよ」という一節が毎回、私に痛い事実を突きつけた。そう、誰も気付いてくれないのは当たり前なのだ。隠しているんだから。
この苦しさを誰かにわかって欲しい気持ちと知られたくない気持ちと、助けて欲しい気持がぐちゃぐちゃにになって、一人で泣いた。
周りが就活ムード一色になり始めた3年生の秋。私はその波に全く乗れずにいた。
周りの友人たちに近況を聞くと、「金融系を中心に受けてるよ」とか「今度新宿に面接受けに行く」とか、就活生らしい答えが返ってくることが多かった。
いつの間にやりたいことを見つけたんだろう。あの子もあの子も、私と肩を並べて「まだ全然わかんないよ〜」と言っていたのに。
みんな、それでもちゃんと流れに乗って自己分析をし、企業説明会に参加し、エントリーシートを書き、面接を受けに行っていた。
世の中はそういう流れだから。みんなそうしているから。やりたいことがまだよくわからなくても、就活なんてやりたくないと愚痴をこぼしながらも、お祈りメールに挫けそうになりながらも、折り合いをつけてやっているのだ。
時たま用があって都心に出ると、黒い髪に、黒いスーツ、黒いカバン、黒いパンプスという同じような見た目の就活生たちをあちこちで見かけた。それはとても異様な光景に見えた。
その集団に溶け込む自信が、私にはなかった。
ある日、地元の大学に通う友人に電話して「就活どう?」と聞いたことがあった。すると「え〜まだ何もやってないよ〜」と気の抜けるような答えが返って来て、驚いたのを覚えている。就活がこんなに殺伐として見えるのは、東京だからなのかもしれないと思った。
地元に戻って就活をすることも考えたが、悩み抜いた末に私が決めたのはオーストラリアへの留学だった。
正直に言うと、就活からの「逃げ」も大きかった。もちろん自分なりに目標を見つけてのことだったが、「環境が変われば自分も変われるのではないか」と、縋るような、祈るような気持ちがあったと思う。
もちろん本当は内側から変わりたかった。でも何をどうすればいいのか、あの頃の私にはわからなかった。
でも、実はここからが「自分の選択で切り開く」人生の始まりだった。
大学までの私は、自分で選んだと思っていても、無意識に親の意向に沿う選択をしていたように思う。
女手一つで私を育ててくれた母は、決して私にああしろこうしろと意見を押し付けるような人ではなかった。むしろ「勉強しなさい」なんて一度も言わなかったし、やりたいことはすべて応援してくれた。
でも、子どもというのは親が考えている以上に「お母さんはこうした方が喜ぶんじゃないか」「こっちの方が良いと思ってるんじゃないか」といったことを敏感に感じ取るものだ。
特に私は一人っ子だったこともあり、「お母さんに捨てられたら家族がいなくなる」という恐怖が、いつも心の奥底に、薄く張り付いていたように思う。
だからこそ、高校までの人生では母の期待から大きく外れずなんでもそこそこ上手くやってきた自分が、落ちこぼれていることが許せなかった。母をがっかりさせることが、一番怖かった。
そんな私が親元を離れ、決断したオーストラリア行き。
今思うと、「本当に自分の意思で選んだ最初の道」だったのかもしれない。そしてそれは間違いなく「人生最高の選択だった」と言える。
新歓よりも、甲子園を選んだあの時と同じくらいに。
大学を卒業した年の8月。私はオーストラリアのメルボルン空港に降り立った。
日本とオーストラリアは季節が逆で、8月は冬だ。出発の前日まで半袖でアイスを食べていたというのに、スーツケースからダウンを引っ張り出さなければならなかった。
事前に約束していた場所で、スラムダンクの安西先生を少し赤ら顔にしたような、でっぷりした男性が私を出迎えてくれた。ホームステイで1ヶ月間お世話になる、ホストファザーのクレッグだった。
クレッグはおしゃべり好きで、家に着くまで車の中でいろんな話をした。
彼は市内にあるカジノで働いていて、奥さんと中学生の息子と3人で暮らしていること。料理が得意で食事は彼が担当していること。息子が日本の文化や日本語に興味を持っていること。などなど。
彼の話を聞き取り、理解し、気の利いた返事をするために私の脳は休む暇なくフル回転した。
「ふみは英語が上手だね。まだ上手く話せなくてコミュニケーションを取るのが難しい学生もいるから嬉しいよ」
私は笑顔で"Thank you"と答えた。少し気恥ずかしさはあったが、必死に英語を勉強してきた成果を実感できたことが嬉しく、自分が誇らしかった。
褒められた言葉を反射的に押し返さず、きちんと両手で受け取れたのはひどく久しぶりのように感じた。
最初の1ヶ月をホストファミリーと過ごしたあとは、学校に近いメルボルン市内に移り住んだ。

家探しに、契約、銀行口座の開設。すべて英語でやるのは本当に苦労したが、日本では親任せにしていたようなことを自分の力で、しかも海外でやり遂げたことに大きな達成感を覚えた。
メルボルンでの暮らしが本格的に始まると、自分の中の「常識」や「こうあるべき」がガラガラと音を立てて崩れていくような場面に何度も出くわした。
乗っていたトラム(路面電車)が止まり、運転手のおじさんが降りて行ったので何事かと思っていたら、角のセブンイレブンでコーヒーを買って上機嫌で戻ってきたり。
絶対に家にいたはずの時間に不在通知が入っていた上、再配達などという親切なシステムはないので大きな荷物を郵便局まで取りに行かなければならなかったり。
金曜日にオフィスビルの階下にあるバーの前を通ると、まだ3時過ぎにも関わらず、会社員とおぼしき人たちがビールやワイン片手に談笑していたり。
オーストラリア人の先生たちは、自分たちのことを度々こう表現した。
「我々はlazy(怠け者)じゃない、laid back(のんびり)なのさ」
うーんポジティブ。物は言いようだ。
少しずつ、肩の力が抜けていく気がした。
公園に行けば芝生のあちこちに人が寝そべっていて、本を読んでいたり、昼寝をしたりしている。少しくらいの雨なら傘は差さない。部屋着みたいなラフな格好の人がそこかしこに歩いている。
でも周りの目なんて誰も気にしていない様子だ。まさに彼らの言うlaid backを肌で感じるようだった。

そのゆるさやいい加減さに、腹が立ったりイライラすることもたくさんあった。でも、みんな自分に正直で、生き生きして、人生を心から楽しんでいるように見えた。
次第にオーストラリアの雰囲気に感化された私は、いい意味で適当な人間になっていった。
日本にいた頃、理想と現実にギャップがあるなら現実をどうにか底上げするしかないと思っていた。でも、時には「まあこんなもんか」と理想を下げることも心を守る一つの手段だと知った。
学校が始まって数週間経った頃、校内にあるカフェに一度も行ったことがないなと思い、ふと立ち寄ってみた。
コーヒーの濃い香りが漂い、エスプレッソマシンを扱う小気味良い音が響くその空間は、眠気覚ましのカフェインを求める生徒たちでごった返していた。
カウンターでテキパキ働いている男の子は、私と同い年くらいに見えた。学校内のカフェは、バリスタ英語コースの生徒たちがシフトに入り、実際にコーヒーを作って提供する実習の場にもなっているのだ。
私は彼に「コーヒーが苦手な人でも飲めそうなのってどれ?」と尋ねた。
エスプレッソ、ロングブラック、ラテ、モカ、フラットホワイト、マキアート。当時の私はコーヒー偏差値が極めて低く、せっかくコーヒーの街メルボルンに来たというのに、メニューを見ても何がなんだかさっぱりわからなかった。
日本で私が飲んでいたコーヒーといえば、紙パックのあま〜いカフェオレくらい。ブラックコーヒーは卒論に追い込まれていた頃に一度だけ飲んだことがあったが、美味しいとはまったく思えずそれっきり。スタバでは抹茶ラテしか頼んだことがなかった。
彼は「モカはどう?チョコレートが入っているから」と優しく教えてくれた。
私は素直におすすめに従いモカを注文した。「砂糖何杯入れる?」と言う彼の質問に、苦かったら嫌なので「2杯」と答えた。
彼は「2杯!?」と驚いたように聞き返し、「モカに砂糖2杯入れる人は初めて見たなぁ」と微笑みながらコーヒーを作り始めた。あとで周りの人たちの注文を盗み聞きしていると、みんな「1杯」とか「いらない」とか言っていたので、元々甘さのあるモカに2杯は少し多かったようだ。
「コーヒー楽しんで!」という言葉と共に差し出されたカップを受け取り、爽やかな笑顔に見送られてカウンターを後にした。オーストラリアに来て初めてのコーヒーをすすると、ココアのように甘く、温かく、ホッとする味だった。
それからコーヒーへの苦手意識が薄れ、程なくして砂糖は1杯に減り、そのうちモカではなくラテを頼むようになった。
初めて「ラテください。あ、砂糖は要りません」と注文した日には、自分がちょっと大人になった気がした。

学生の頃から英語が好きで、一番の得意科目だったし勉強も苦ではなかった。
英語という言語そのものに魅力を感じていたのは、メッセージがストレートに刺さってくるパワーがあるというところだ。
落ち込んだ時、日本語が何も言わずそっと側にいてくれる感じだとしたら、英語は「おぉい元気出せよっ!!」と正面から肩を叩いてくれるような。そんな力強さがある気がしていた。
もちろんどちらが優れているとかいう話ではない。ただ、自己肯定感が地の底まで落ちていた頃の私には、英語のストレートさがガツンと効いた。
例えば、誕生日にクラスメイトからこんなメッセージをもらったことがある。
「誕生日おめでとう。最高の1日を過ごしてね。それだけの価値があなたにはあるんだから(You deserve it!)」
"You deserve it"は一般的によく使うフレーズだ。これを送ってくれたクラスメイトも、定型文のようにいつも使っているお祝いメッセージだったのかもしれない。
しかし、私はこの時とんでもない衝撃を受けた。
誕生日のメッセージで「あなたは価値のある人間だ」と言ってくれる世界線があるのかと。
「あなたって最高」
「あなたは美しいよ」
「素晴らしい1日を過ごしてね」
「あなたの幸せを願ってる」
「愛してる」
日本語に直すとかなり大袈裟に感じるが、オーストラリアで生活していると当たり前の会話。
こういったことを日常的に言ったり言われたりする度に、地の底でくたばっていた自己肯定感が息を吹き返し、地上を目指して這い上がってくるのを感じた。
思えば日本にいた頃の私は、褒められると反射的に「いやそんなことないです!!!」と超高速フルスイングで打ち返すことが当たり前になっていた。謙遜というより、本当に信じられなかったし、納得できなかった。
でもオーストラリアでは、謙遜は美徳ではなくむしろ会話の邪魔になる。「ありがとう、あなたもね」と返すのが自然で、否定も過剰な照れも要らない。
最初はぎこちなかったそのやりとりが、少しずつ身体に馴染んでいった。毎日のように前向きな言葉を使い、浴び続けた。そうしているうちに、捻くれていた心がアイロンをかけられたように、真っ直ぐに伸びていくような気がした。
ある朝、鏡を見ながら「まあこんな人間でも悪くないか」とふと思った。もしかしたら自分のことをちょっと好きになれそうな、そんな予感がした。
苦手だったコーヒーを、好きになることができたように。
それから10年以上経った今。私は韓国人の夫と、3人の子どもたちと韓国で暮らしている。夫とはメルボルンで出会い、7年の遠距離恋愛を経て結婚した。
そう、私にモカを勧めてくれたあの彼が実は──
という綺麗な伏線回収があれば格好がついたのだが、全然違う人だ。笑
しかし、その夫もまた、私の人生を大きく変える人だった。
夫は人前でも堂々と話し、トークが面白く、ポジティブで、自信家で、バックパックで世界を周って旅をする勇気と度胸がある男だ。私はそんな彼を人として尊敬している。
彼は出会ったばかりの頃から「自分ではなんとも思っていなかった私の価値」を言葉にして教えてくれた。
行動や、生活習慣や、ちょっとした思考のクセ。「君のそういうところすごいよね」と言われる度に、「いやそんなこと?」「普通じゃない?」と思いながらも、少しずつ自分の見え方が変わっていった。
私が彼のことを尊敬しているように、自分も誰かに尊敬してもらえるような良いところがあるんだ。私が普通にやっていることも、他の人にとってはすごいことかもしれないんだ。そんなことに気が付き、初めてちゃんと、心の底から信じられるようになった。
環境が変わり、文化が変わり、言葉が変わり、そして出会う人が変わった。それらが少しずつ積み重なって、「まあこんなんでも悪くないか」が「これでいいんだ」に変わっていった。
こうして昔を振り返りながらふと考える。大学生の私に今の私の話をしたらどう思うだろうか。
国際結婚をしていて、韓国に住んでいて、3人の子どものお母さんになっていて、そのうちの2人は双子で。
情報量が多過ぎて、「えっごめんもっかい言って???」と聞き返されるに違いない。
ドタバタと嵐のように始まる朝。自分の寝癖を直す暇もなく朝ごはんを用意し、ドスの効いた声で喧嘩を仲裁し、おしり丸出しでゲラゲラ笑いながら逃げ回る子どもたちを「パンツ穿け!!!」と追いかけている私。
うーん。どん引かれるかもしれない。
でも、これだけはちゃんと伝えたい。
大丈夫。あなたはこの困難を乗り越えられる。
これからたくさんの人たちに出会って、たくさんの価値観に触れて、人生にたった一つの正解があるわけじゃないとわかるようになる。
信じられないかもしれないけど、自分のダメなところも受け入れられるようになるし、褒め言葉も素直に受け取れるようになる。今よりずっと、自分に優しくなれるよ。
その先には想像もできなかった、突拍子もないようだけど平凡で、幸せな日々が待っています。
もしかしたらあなたは「そっか〜良かったね」くらいにしか思わないかもしれない。
でもこれは、医務室で泣いていたあの日から、あなたが悩み迷いながら積み重ねてきたいくつもの選択と行動の結果なんだということを知っていて欲しい。
これから進む道の途中で「失敗したなあ」と思うこともあるかもしれない。でもそれも含めて、今の私が形作られています。だからどんどん失敗して欲しい。その時は「人生終わった…」と思うほど落ち込んだとしても、30過ぎて振り返ったら、どれもこれも笑って話せるようになっているから。
あ、でも日焼け止めを塗るのをサボっていたのは本当に後悔しているので、それだけはちゃんとやっといてくれ。頼む。
私もそれなりに大人になって、悩みが無くなったかと言えば残念ながらそんなことはなく。年相応の悩みってもんがね、色々あるんだよ。
でも、昔は知らなかった大切なことを、今は知ってる。
自分が自分の一番の味方でいること。
苦しいときはちゃんと誰かに助けを求めること。
口に出す言葉が変わると心が変わること。
あと、コーヒーが美味しい飲み物だということ。
全部あなたが教えてくれたことです。
最近、将来のことであれこれ考え事の多い私だけど、「あの頃の自分にもっと面白い展開の未来を見せてやるぜ!」なんて考えていたらなんだかやる気が出てきました。
これからの人生、楽しくなるよ。期待しててね。