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Photo bynoranekopochi

ヲトツの正体

    【あらすじ】

    人はなぜ、他人を批判してしまうのか。

    印刷会社を営む私は、あるクレーム対応の最中に、不思議な違和感を覚えた。

    客は正しいことを言っている。こちらも、間違っているわけではない。それでも、会話が進むにつれ、空気だけが少しずつ歪んでいく。

    「普通、こうですよね?」

    その言葉を聞いた瞬間、私は「ヲトツ」としか表現できない感覚を体験する。言葉と感情が噛み合わない。表面上は穏やかなのに、内側では別の何かが進行している。

    そして私は気づき始める。批判は、相手から始まるのではない。もっと前に、自分の中で、すでに始まっているのではないか、と。

    第1話「普通、こうですよね?」

    客は、正しいことを言っていた。

    納期も、仕様も、契約書も、全部確認済みだった。

    こちらのミスではない。

    それでも、空気は少しずつ悪くなっていく。

    「普通、こうですよね?」

    相手は静かに言った。

    怒鳴っているわけではない。

    むしろ、丁寧だった。

    だが、その「普通」が妙に引っかかった。

    隣で、社員が頭を下げている。

    「申し訳ありません」

    また頭を下げる。

    さっきとほとんど同じ角度で。

    誰も怒鳴っていない。

    机を叩く人もいない。

    なのに、部屋の空気だけが、ゆっくり歪んでいく。

    私は、曖昧に笑った。

    説明しようと思えばできた。

    今回の件は、印刷工程の問題ではない。

    そもそも最初の仕様確認の時点で——

    そこまで考えて、やめた。

    たぶん、今それを言っても意味がない。

    この空気の中では。

    「いや、普通だったら、事前に一言あるじゃないですか」

    普通。

    また、その言葉だった。

    その瞬間、何かがずれた。

    うまく説明できない。

    音でもない。

    言葉でもない。

    だが、確かにあった。

    頭の中に、唐突に、知らない言葉が浮かんだ。

    ヲトツ。

    意味はわからない。

    どこで覚えたのかも。

    気づいたら、小声でつぶやいていた。

    「……ヲトツ」

    社員が、ちらりとこちらを見た。

    私は、何でもないように視線を戻した。

    一瞬だけ、会話の表面が滑った気がした。

    私は急に、自分が何を話しているのかわからなくなった。

    いや、正確には。

    何を話しても無駄な気がした。

    社員が、また。

    「申し訳ありません」

    その言葉が、だんだん意味を失っていく。

    謝罪というより、儀式に近かった。

    隣を見ると、社員の額にうっすら汗が浮いている。

    冷房は効いているはずなのに。

    客は腕を組み、こちらを見ている。

    別に怒ってはいない。

    ただ、「自分は間違っていない」という顔をしていた。

    たぶん、本当に間違っていないのだと思う。

    そこが、厄介だった。

    私は一瞬だけ、言い返したくなった。

    いや、普通って何だ。

    こっちにも事情はある。

    そう思った瞬間、別の感情が混ざる。

    いや、待て。

    今それを言ったら、もっと面倒になる。

    空気が完全に壊れる。

    私は黙った。

    すると、不思議なことが起きる。

    言葉を飲み込んだはずなのに、感情だけが残る。

    行き場を失った何かが、内側に沈殿していく。

    そして、その感情は、少しずつ形を変える。

    この人は、こういうタイプだ。

    頭の中で、静かにラベルが貼られる。

    面倒な人。

    正論で押してくる人。

    自分は正しいと思っている人。

    口には出さない。

    出さない方が、大人だ。

    そのはずだった。

    なのに、また違和感が戻ってくる。

    本当にそうか。

    私は今、相手を見ているのか。

    それとも、自分の中の何かを見ているのか。

    客が、少し笑いながら言った。

    「いや、責めてるわけじゃないんですけどね」

    その瞬間。

    私は、はっきり思った。

    ああ、この人は、わかっていない。

    この場で何が起きているかを。

    その判断は、とても静かだった。

    怒りというより、確定に近い。

    そして同時に、私は気づき始めていた。

    批判は、相手から始まるのではない。

    もっと前に。

    自分の中で、先に始まっている。

    ——また、ヲトツ、と思った。

    この言葉の正体を、いつか確かめなければならない気がした。

    ——次の打ち合わせは、来週だった。

    #創作大賞2026 #エンタメ原作部門

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