メインコンテンツへスキップ
見出し画像

【短編小説】ツキがあるうちに、風に乗れ(読み切り)

    《あらすじ》

    何をやっても肝心なところでツキがない小学六年生の拓海たくみたち。夏の終わり、彼らは町外れの発明家・和蔵かずぞうさんから、満月の夜にだけ現れる金色の雲の噂を聞く。その光を浴びれば、なくしたツキが戻るという。喘息を抱える転校生・遥はるかが「思いきり普通に息を吸いたい」と願ったとき、拓海たちは藁にもすがる思いで、不格好な「雲の船」に乗ることを決める。金色の雲を目指す、夏の終わりの冒険物語。

    放課後の屋上には、まだ昼間の熱がうっすら残っていた。まるで息をひそめているみたいに、コンクリートの床も、錆びたフェンスも、夕方の静けさの中に沈んでいる。

    拓海たくみはフェンスにもたれ、夕焼けになる少し手前の空を見上げていた。ちぎれた雲の端から、もう少し待てば、じわりと金色が滲み出してきそうだった。

    「また上、見てる。落ちるよ」

    背後から声がした。幼なじみの美月みづきだった。

    風にあおられる髪を片手で押さえながら、美月は拓海の隣に並んだ。二人の長い影が、コンクリートの床にゆっくり伸びていく。

    「で、今日は何を探してるの?」
    「金色の雲」

    拓海がそう言うと、美月は少しだけ眉を寄せた。

    「またカズさん情報?」
    「今回は本気。満月の夜にだけ現れて、その光を浴びたらツキが戻るんだって」
    「戻るほど、もともとあった?」

    拓海は言い返せなかった。六年二組で、拓海たちは少しだけ有名だった。

    ものすごく悪いことが起きるわけではない。ただ、何をしても、肝心なところで少しだけツキがない。

    拓海は良かれと思って動くたびに、なぜか先生に怒られる。美月は準備を完璧にしても、本番で一番大事な紙をなくす。陽介ようすけの発明は、いいところまでいくと必ず壊れた。香織かおりはいつも笑っているのに、誰にも「大丈夫?」と聞かれなかった。

    慎司しんじは去年、リレーの練習中に足を痛めてから、走る番が来るたびに顔をこわばらせるようになった。そして遥はるかは、転校してきてから一度も、体育を最後まで受けられていない。

    みんな、それぞれ違う理由で、少しずつツキからはぐれていた。だから拓海は、金色の雲の噂を聞いたとき、放っておけなかった。

    「金色の雲に近づいて、光を浴びたら幸運になれる」

    拓海は空を指さした。

    「カズさんが言ってた。昨日、カズさんの作った『雲の船』が少しだけ浮いたんだ」

    美月は、手元のノートに貼られた「制動限界数値」の付箋を、神経質そうに指でなぞった。

    「ツキがあればね」

    いつもの口癖をこぼす美月の指先は、少し震えていた。拓海はそれに気づいていたけれど、わざとニヤリと笑った。

    「運のツキと、空の月。どっちもあれば最強じゃん」

    ギィ、と重い音を立てて屋上の扉が開いた。大きな図面ケースを抱えた陽介と、その後ろから香織と慎司が顔を出す。

    香織は「はい、これ拓海の分」と、不格好な購買のパンを配りながら、スマホの時計を睨んだ。

    「早く帰んなきゃ。弟の塾の夕飯に間に合わない」

    慎司はパンを受け取るとき、痛む左足首をかばうように、ほんの少し重心を横へ逃がした。

    陽介が広げた図面には、鳥の翼と古い小舟を継ぎ接ぎしたような船が描かれていた。木製の丸い船体。キャンバスの大きな屋根。尾部についた小さなプロペラ。

    不格好で、頼りなくて、でも、どこかあたたかい船だった。

    「カズさん、ブレーキとバルーンを追加してくれたよ」

    陽介の言葉に、みんなの視線が図面の船体に集まった。

    「また壊れたんじゃないの?」

    香織が言うと、陽介は少しだけむっとした。

    「壊れたんじゃない。課題が見つかったんだ」
    「それ、カズさんの言い方そっくり」

    香織は笑い、固いマメだらけの手のひらでパンを千切った。

    「願いが叶うならさ。私、普通に疲れたって言える人になりたい」

    慎司が、自分のスニーカーを強く踏みしめた。

    「……じゃあ、俺は、怯えずに走りたい」
    「俺は、これが飛べるって証明したい」

    陽介が言い、美月が「私は……」と口ごもった。

    そのとき、屋上の扉の影から、白い指先が見えた。転校してきたばかりの遥だった。

    走ってきたわけでもないのに、鎖骨のあたりが浅く上下している。

    「ごめん、聞こえちゃった。雲の話」

    遥は頼りなく笑い、黄金色に染まり始めた空を見上げた。

    「もし、本当にツキが戻るなら」

    そこで一度、息が途切れた。

    「私、一度でいいから、思いっきり普通に息を吸ってみたい」

    その静かな声が、屋上の風に溶けていった。誰も、すぐには何も言えなかった。

    ツキが戻るとか、幸運になるとか。そんな言葉が、急に軽く聞こえた。

    その夜、町外れの古い工房だけが、ぽつんと明かりを灯していた。まわりの家々が眠りに沈んでいく中で、そこだけはまだ、昼間の続きを諦めていないみたいだった。

    工房の主、和蔵かずぞうさんは八十八歳だった。町の大人たちは、「米寿にもなって、まだガラクタを飛ばそうとしている」と呆れていた。でも子どもたちは、彼のことをカズさんと呼んでいた。

    裸電球の下、機械油の匂いと、壁一面に貼られた失敗メモに囲まれながら、彼らは鉄の鳥のボルトを締めた。

    カズさんは、油まみれの顔で笑った。

    「失敗作じゃないぞ。これはな、まだ途中の成功作って言うんだ」
    「八十八歳でも?」

    拓海が聞くと、カズさんは曲がった背中を少しだけ伸ばした。

    「八十八まで生きてもな、飛びたい日は飛びたいんだよ」

    そう言って笑う顔は、誰よりも子どもみたいだった。

    香織は何度も家へ電話をかけ、弟に夕飯の温め方を伝えた。慎司は重いクッション材を運びながら、時々、足首をさすった。美月は安全表を何度も確認し、付箋の角をそろえ直した。陽介は図面の余白に、何度も小さく数字を書き直した。

    拓海は、失敗メモの端に「金色の雲」とだけ鉛筆で書いた。

    翌日には、学校中で噂になっていた。秘密にしていたはずの計画は、どこかからこぼれた水みたいに、あっという間に広がっていった。

    校庭の隅で、友也ともやと悠斗ゆうとがジュースを片手に彼らをからかった。

    「ツキなし組が、雲に乗るってマジ?」
    「落ちたら、またツキなし伝説更新じゃん」

    陽介は二人と同じ高さまで地面にしゃがみ込み、びっしり書き込まれた安全チェック表を見せた。

    「死ぬ気で飛ぶんじゃない。全員で、ちゃんと生きて帰るために準備してるんだ」

    紙には、二重ブレーキ、バルーンの作動手順、中止条件まで細かく書き込まれていた。友也と悠斗は、いつものようには笑えなかった。

    「今夜、一回だけ見に来いよ」

    陽介は言った。

    「本当に危ないと思ったら、力ずくで止めてくれ」

    二人は、差し出された紙の文字の多さに、黙って視線を落とした。

    *

    その夜、丘の上に建つ廃校は、町の明かりから少し離れた場所に、ひっそりと残されていた。昼間はただ古びて見えるだけの校舎も、満月の下では、まるで空へ続く入口みたいに見えた。

    月明かりが、古いコンクリートの屋上に冷たく引っかかっている。風はさっきから、何かを待つように低く唸っていた。

    本当は、テスト飛行の予定だった。地面から数メートルだけ浮かせて、制動を確認する。それ以上は、絶対に飛ばない。

    そう何度も確認したはずだった。

    カズさんが工具を置き、「発進!」と声をかける。

    プロペラが猛烈に回転し、ゴト、と音を立てて、雲の船が屋上の床から浮き上がった。

    その瞬間、予期せぬ山背の突風が、キャンバス生地の大きな屋根を真下から突き上げた。

    「操縦桿が重い!戻せない!」

    拓海が叫ぶ。気流の渦に巻き込まれ、船体は廃校の屋上を離れ、夜空の斜面を猛烈な速度で駆け上がり始めた。

    美月は安全表を開こうとして、激しい揺れにノートを落とした。付箋が夜風にちぎれて飛んでいく。

    彼女は一瞬、空っぽになった両手を見た。頼りにしていた数字も、手順も、もうそこにはなかった。

    それでも美月は、ぐっと顔を上げた。頬を叩く風の向きを睨みつける。

    「……左!今、大きく左に向けて!」

    拓海は操縦桿を引き、船体が大きく軋んだ。

    「慎司、後ろのバランス!」
    「任せろ……!」

    慎司が歯を食いしばり、足首の痛みを押し殺して、後方へ体重を移した。

    満月の光が、眼前に迫る雲の層へ突き刺さる。白から銀へ。銀から、濃い金色へ。

    「拓海」

    遥が目を開けた。

    船の先端が、金色の霧へと突入する。音が、消えた。

    視界のすべてが、沸き立つような黄金の世界に染まる。遥の喉の奥から、いつも張り付いていた「ひゅう」という細い音が消えた。

    胸の奥を締めつけていた冷たい結び目が、内側からゆっくりほどけていく。冷たい風が、彼女の肺のいちばん深いところまで、真っ直ぐ届いた。

    空気が、胸の奥まで入ってくる。遥は、ゆっくり息を吸った。

    「空気って、こんなに広くて、温かかったんだね」

    遥は涙がこぼれそうな目で笑った。

    病気が完治しないことも、明日になればまた吸入器が必要になることも、みんな知っていた。それでも今この瞬間、遥の肺は、確かに彼女自身の呼吸で満たされていた。

    操縦桿を握りしめたまま、拓海は誰にも見えない角度で、強く目を閉じた。

    その一瞬の静けさを破るように、引き戻すような下降気流が船体を叩いた。

    「戻る!」

    美月が風の気配を睨んだまま叫んだ。

    「これ以上は落ちる!」
    「全員、掴まれ!」

    拓海が操縦桿を引き絞る横で、陽介が非常用バルーンのロープを引いた。傾いた船体から、遥の体が浮きかける。

    「行かせるか!」

    慎司が叫び、足首の痛みの記憶をねじ伏せて、その場に全体重を投げ出した。

    「絶対に離さない!」

    香織が、全力で遥の身体を抱きしめる。

    金色の世界が遠ざかり、船は廃校の屋上をかすめた。

    「屋上じゃない、左!」

    美月の声に、拓海は操縦桿を引き絞る。

    黒いフェンス。錆びた看板。積み上げられた古タイヤ。

    月明かりの下で、それらがぐんぐん近づいてきた。

    バルーンが最後に大きく膨らむ。次の瞬間、雲の船は古タイヤの山へ突っ込んだ。

    ぐしゃり、と鈍い音がした。

    木片が跳ね、破れたシートが舞い上がる。身体が何度も弾み、どこかへ深く沈み込んだ。

    しばらく、誰も声を出さなかった。あんなに荒れていた風まで、急に黙り込んだみたいだった。

    静寂のあと、慎司の掠れた声が響いた。

    「……生きてる、か?」

    香織がうつ伏せのまま、こらえきれずに吹き出した。

    「たぶん!タイヤくさいけど、生きてる!」

    それを合図に、全員が大声で笑い出した。

    美月だけが、泣きながら拓海の背中を小突いた。

    「バカ。ほんとにバカ。死ぬかと思ったじゃん」
    「ごめん」
    「謝るとこ、そこだけじゃないから」
    「でも、みんなで風に乗れた」

    身体を起こした遥が、夜の空気を思いきり吸い込んで言った。

    「ただいま」

    陽介は、横倒しになった船体のちぎれたキャンバスの端に、指先の油汚れで小さく「飛んだ」と書きつけた。それから、少しだけ笑った。

    フェンスの向こうで、友也が乱暴に鼻をすすった。

    「危ないって言っただろ、バカ野郎」

    悠斗が静かに夜空を見上げた。金色の雲は、もうどこにもなかった。

    「誰も信じないだろうな、こんな話」
    「信じてもらえなくていいじゃん」

    香織が笑う。

    「私たちだけが知ってればいいじゃん」

    そのとき、近くの家の窓が勢いよく開いた。

    「今の音、何!」
    「工場のほうだぞ!」

    犬が吠え、懐中電灯の光が、フェンスの隙間からいくつも差し込んでくる。

    「子どもがいるぞ!」
    「救急車、呼んだか!」
    「呼んだ!もう呼んだ!」

    友也がスマホを握りしめたまま、泣きそうな声で叫んでいた。

    カズさんがフェンスにしがみつき、息を切らせながら駆けてきた。八十八歳とは思えない速さだった。

    「おい、全員いるか!返事しろ!」
    「いる!」

    拓海が叫ぶと、カズさんはその場にへたり込んだ。

    「この、ばかもんどもが」

    カズさんの声は震えていた。

    香織が小さく笑った。

    「カズさんも、ばかもんに入ると思う」
    「うるさい。今それを言うな」

    夜が明けるころ、騒ぎの熱は少しずつ引いていった。けれど、あの場所には、夢の続きを引きちぎったようなものだけが残されていた。

    壊れた船の残骸と、潰れた古タイヤが、夜明けの光の中に残っていた。破れたキャンバスだけが、風に小さく揺れている。

    金色の雲も、月も、もう町の向こうへ帰っていた。

    カズさんはひどく怒られた。もちろん、子どもたちも同じくらい怒られた。

    次の日、商店街の八百屋のおじさんが、拓海にみかんを一つ余分にくれた。

    「空まで行ったんだってな」

    それだけ言って、何も聞かなかった。

    「あの子たち、本当に飛んだらしいよ」
    「雲の船だってさ」

    噂は、風より少し遅く、でも確かに広がっていった。

    学校では、もっと大変だった。廊下を歩くたび、下級生たちがこそこそ振り返る。

    「雲の船の六人だ」
    「本当に空まで行ったの?」
    「金色の雲って、どんなだった?」

    拓海は照れて逃げた。香織は「タイヤくさかった」とだけ答えた。慎司は、誰かに「リレー出れば?」と言われ、困ったように笑った。陽介は、初めてクラスの子に「図面、見せて」と言われた。

    目立たなかった少年たちは、ほんの少しだけ背筋が伸びた。からかわれた傷が消えたわけではない。急に何かが得意になったわけでもない。

    それでも、廊下の真ん中を歩く足音が、前より少しだけ大きくなった。

    雲の船は、もう船の形をしていなかった。

    曲がったプロペラは、理科室の前に飾られた。真鍮のランプは、図書室の入口に取り付けられた。無事だった木の板は、用務員さんとカズさんの手で、図書室前の小さなベンチになった。

    昼休みになると、そのベンチにはいつも誰かが座った。本を読む子。給食を残して怒られた子。少し泣きそうな子。

    そして時々、遥が息を整えるために、そっと腰を下ろした。

    次の日も、遥の鞄には吸入器が入っていた。体育を休む日だってあった。苦しくなると、彼女は胸元を押さえ、少しだけ眉を寄せた。

    それでも遥は、以前より少しだけ顔を上げて歩くようになった。診察の日も、薬の時間も、もう曖昧に笑ってごまかさなかった。

    「ちゃんと治したい」

    ある日、遥は小さな声でそう言った。

    完治するかどうかではなく、自分の身体を投げ出さないために。

    その言葉を聞いた美月は、何も言わずに次の通院予定をノートの端に書き込んだ。香織は「じゃあ帰りに肉まん買おう!」と笑い、慎司は遥の歩幅に合わせて廊下を歩いた。

    陽介は、次の改良図面を見せて「今度は落ちない」と小さく言った。

    拓海が「またいつでも、一緒に風に乗るからさ」と笑うと、遥は少し困ったように笑った。

    「毎回、空まで行かなくていいよ」
    「じゃあ、風のあるところまで」
    「うん。それならいいよ」

    夏の終わり。屋上から見上げる空はもう高くなり、秋の匂いをはらんでいた。

    フェンスのそばに座る美月が呟いた。

    「あの夜、私たちに『ツキ』はあったのかな」

    拓海は青い空を見上げたまま、少し考えてから笑った。

    「さあね。でも、ツキがあったから行けたんじゃないって気がするんだ」
    「じゃあ、何?」
    「ツキが全然ないなんて、ないよ。こうして生きてるわけじゃん。俺たち、全員で風に乗ったんだよ。あの雲まで」

    美月は愛おしそうに目を細めた。

    「……そうだね」

    遠くから、遥たちが手を振りながら歩いてくる。なぜか、友也と悠斗も少し離れてついてきていた。

    拓海は立ち上がり、大きく手を振り返した。手のひらの固いかさぶたが、小さく痛んだ。

    あの夜の風は、もうどこにも吹いていない。それでも、その痛みだけは確かだった。

    (おしまい)



    この記事が参加している募集

     
     

    Glanz

     
     
    しばらく連載小説はお休みします。詩やエッセイ等につきましては不定期での更新となりますので、気長にお待ちいただけますと幸いです。

    あなたへのおすすめ