
字を食べる
煙草を吸い始めた頃、よく「彼氏の影響?」と聞かれた。
女ってだけでそうやって、本当のことを知られるより先に色のあるベールを纏わされるなら、いっそ男になりたい。
何度もそう思った。
確かに当時の彼氏は煙草を吸っていたけど、男に染まるような女にだけはなりたくないと尖っていた私に、それは関係なかった。
それに何より、染まる余地もなかった。
生徒会役員、学級長、文化祭実行委員会副委員長、学年行事の係長、軽音学部の部長……は、なんとか断り副部長。
そんないくつもの役を担い、まるで会社に行くように学校に行っていたからだ。
放課後はほぼ毎日残業で、たまに休日出勤もある。頭の中は常に五つくらいの重要な仕事が同時進行していた。
とはいえ、まだほんの高校生。
おまけに中学はほとんど行ってない不登校上がりだ。
一度でも枠の外で大海原を見たことがある水槽の魚は、きっとそうではない魚より脱走のハードルが下がる。
水槽の外で危険に晒される恐怖と、水槽の中で一生を過ごす恐怖を、天秤にかけることを覚えてしまった、私はまるでそんな魚だった。
時々、全てから逃げるように学校をサボった。
かといって、家でじっとしているわけではない。日中は誰もいなかったが、そこは母親役を担う場所で、これまた別の水槽に過ぎない。
朝いつも通り制服に着替え、自転車に乗り、通学路の途中でふと進路変更するのだ。
そう。
あの日は、とても日差しが強かった。
このまま何時間も外をうろついたら干からびそうなほどに。
学校に行くだけの用意で出てきたから、飲み物など持っていない。財布の小銭も限られていた。どこか休める場所はないかと頭とペダルを回転させる。
そういえば、通学路の近くのスーパーに無料の給水機が置いてあったな。そう思い出し、私はそこで休憩することにした。
店内に入ると、寒いくらいに冷房が効いていた。
出入口のそばに給水機があり、その横に一つだけベンチがあった。そこに座って、これまたキンキンに冷えた水を飲みながら一息つく。
目の前を行き交う大人の群れ。
こちらのことは見て見ぬふりか、冷めた横目を残して通り過ぎてゆく。
まったく平日の昼間はどこにいても肌馴染みが悪い。
そんなこと知るもんか、と小さな紙コップで水をもう一杯おかわりして、グイッと飲み干したその時だった。
目の前に、こちらを向いた笑顔がひとつ、ポッと現れたのだ。
一瞬、向日葵かと思う。
明らかに、群れの大人達とは様子の違う大人がそこに立っていた。
「ここは涼しいねぇ」
彼は、ただそう言った。
「学校は?」でも「ここで何してるの?」でもなく。
そよ風みたいに軽やかに。
「うん、すごく涼しい」
気付けば私も自然に返していた。
着古したタンクトップに日焼けした肌、頭にはタオルを巻いている。世間一般的には、どう見ても変わったおじさんだ。
それなのに、私にはなぜか彼が普通で周りの大人達が浮いているように見えた。
おじさんは紙コップを二重に取ると、給水機から熱いお茶を注ぎ、少し間隔をあけて隣に座った。
そしてリュックをガサゴソと漁ると、今買ったばかりであろう駄菓子を取り出した。
首からは、なぜかビニール紐を通したハサミがぶら下がっていて、それで駄菓子の袋の端を丁寧にまっすぐ切ると、その切れ端を大事そうにリュックにしまっている。
よく見ると、ハサミ以外にもいろんな物がビニール紐でぶら下がっていた。
歯ブラシやボールペンなど、重ね付けネックレスのようにジャラジャラだ。
なんて面白い人なんだろう。
最高にイケていると思った。
だって、こんな人に初めて会ったから。
自分に嘘をついている気配が微塵もない大人に。
「食べる?よかったらどうぞ」
おじさんはそう言って駄菓子をくれた。
「ありがとうございます」
懐かしい味が口の中に広がる。
一緒にそれを食べながら、しばらく無言で大人の群れを流し見る。
「これ、好きなんだよねぇ」
おじさんは満足気にそう呟いた。
「うん、おいしい」
なぜ私はこんなにホッとしているのだろう。自分でも不思議だった。
海を漂流していて、久しぶりに家族に会ったような。
もし本当に父に会っても、こんなに自然に話せるか分からないけど。
それから何でもない話をしながら二人でお菓子を食べていたら、あっという間に袋が空になった。
すると、彼はまたリュックから別のお菓子を取り出し、やはりハサミで丁寧に袋の端を切り落としている。
「それ、どうしてそんなに丁寧に切るの?」
「あぁ、これね。キラキラしてて綺麗でしょ?だから集めてるの。繋げてオブジェみたいな、モノ作ってるんだ」
彼は少し照れくさそうにハニカミながらそう言った。
「へえ、そうなんだ。面白い。
……そのたくさん首からぶら下げてるのはなに?」
「これはほら、こうやってすぐ使えて便利でしょ?」
「あはは、たしかに」
ほんとうにそれだけの理由なんだ。
まあそうだよな、きっとこの人は。
そんな話をしてたらまたお菓子が終わって、今度は容器ごとグミをくれた。
それは、小さいころ私が一番好きな駄菓子だった。
「じゃあ、これは何に使うか分かる?」
おもむろに、レジでもらった割り箸を取り出す彼。
「ご飯を食べるんじゃなくて?」
「実はね、これをこう組んで、その上にカゴをかぶせるでしょ。それで庭に仕掛けるの。
でね、スズメを捕まえるんだよ」
「え!?スズメ?」
「そう、スズメ」
「で、どうするの?飼うの?」
「食べるの」
「た、たべる!?スズメって食べられるの?」
「うん、意外とおいしいんだよ。
捕まえたらね、首をクッと回せばすぐコロッだよ」
よかった、私はスズメじゃなくて。
豆鉄砲を食らった鳩で。
ジェスチャーを交えていたずらな笑みを浮かべる彼に、私は衝撃を受けながらも興味が止まらなかった。
もちろん、野生動物を勝手に捕まえちゃダメなことくらい知っていたが、白黒つかない所にも人間の生業があることも知っている。
「ええ。うわー、そうなんだ」と苦笑いする私に、彼は「今度やってみな」と笑えない冗談を言った。
庭で獲ったスズメを食べ、お菓子の袋の切れ端で何かを作る、一人暮らしのおじさん。
私と同じ年くらいの娘がいるけど、奥さんと出て行ってしまったという。
私も父と暮らしていないことを話しながら、神様が雲の上で人間をピースにパズルゲームでもしているのかと思う。
いつのまにか、二人で駄菓子を全部平らげてしまった。
それでも、彼はずっと嬉しそうだった。
私もこの寒い店内に長居できたのは、女というベールではなく、娘というベールをふわりと掛けられているからだと気付きかけていた。
そろそろ出ようかと、お互い荷物をまとめる。
「そうだ、ちょっと待って。渡したい物があるから」
彼はそう言うと、胸ポケットから煙草の箱を出して一本引き抜いた。
それから壁を机代わりにして、例の首にぶら下がってるボールペンで、煙草に何やら書き始めた。
「できた。はい、これ」
渡された一本の煙草を見ると、小さく文字が書かれている。
よく見ると、女性の名前らしかった。
見慣れないけど、綺麗な名前。
「……これは、誰かの名前?」
「そう!いま俺が書いてる小説の主人公の名前だよ」
「え!小説書いてるの?」
「うん。いつか本屋さんに並ぶかもしれないから、その時まで取っておいて」
彼はそう言いながら無邪気に笑った。
「うん、わかった!応援してるね」
「ありがとう!」
一歩外に出ると、熱気がムワッと押し寄せて、つい息の仕方に戸惑う。今までのことがまるで嘘のようだ。
さて、ここからまたパズルの欠片と欠片は平日の昼間を彷徨う。
偶然にも隣に停めていた私達の自転車は、別々の方向へと進んだ。
*
それから数ヶ月が経ち、スーパーに入らなくても涼しい季節になった。
夕方、めずらしく早く家に帰ると、まだ誰もいなかった。
彼氏と別れて数週間は経っただろうか。
まるで世間から取り残されたような薄暗い私の部屋が、その時ばかりは優しく見えた。
心の居場所を再び失った絶望感を拭えぬまま、灯りもつけず、ただぼーっと畳に座る。
そうしているうちに、だんだん自分の境目がぼやけて、いるのかいないのか分からなくなる。
窓から入ってきた風がカーテンをふわりと踊らせて、薄紫の影が畳にゆれる。
あれからずっと、机の引き出しの奥にしまっていたあの煙草を、静かに取り出した。
書かれている名前を、もう一度よんでみる。
何度読んでもなかなか覚えられない。
けど、また読む。
覚えたい。今のうちに刻みたい。
まだ世に出ていないであろう名前。
誰にも知られない私と、二人ぼっち。
しばらく見つめ合う。
一度手を出してしまったら、簡単には戻れなくなると聞いてはいた。
もう、それでも構わない。
もう、どこにも戻りたくない。
意を決して、手を繋いだたままこっそり家の裏にまわった。
いつでも夜の色が残るこの場所。
今ここに用があるのは、世界中のどこを探しても私達だけだろう。
時の窪みに腰掛けた。
一瞬、お尻がヒヤッとする。
そうして、
そっと火をつけた。