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Photo byha64

字を食べる

    煙草を吸い始めた頃、よく「彼氏の影響?」と聞かれた。

    女ってだけでそうやって、本当のことを知られるより先に色のあるベールを纏わされるなら、いっそ男になりたい。
    何度もそう思った。

    確かに当時の彼氏は煙草を吸っていたけど、男に染まるような女にだけはなりたくないと尖っていた私に、それは関係なかった。

    それに何より、染まる余地もなかった。
    生徒会役員、学級長、文化祭実行委員会副委員長、学年行事の係長、軽音学部の部長……は、なんとか断り副部長。
    そんないくつもの役を担い、まるで会社に行くように学校に行っていたからだ。
    放課後はほぼ毎日残業で、たまに休日出勤もある。頭の中は常に五つくらいの重要な仕事が同時進行していた。

    とはいえ、まだほんの高校生。
    おまけに中学はほとんど行ってない不登校上がりだ。

    一度でも枠の外で大海原を見たことがある水槽の魚は、きっとそうではない魚より脱走のハードルが下がる。
    水槽の外で危険に晒される恐怖と、水槽の中で一生を過ごす恐怖を、天秤にかけることを覚えてしまった、私はまるでそんな魚だった。

    時々、全てから逃げるように学校をサボった。
    かといって、家でじっとしているわけではない。日中は誰もいなかったが、そこは母親役を担う場所で、これまた別の水槽に過ぎない。

    朝いつも通り制服に着替え、自転車に乗り、通学路の途中でふと進路変更するのだ。

    そう。
    あの日は、とても日差しが強かった。
    このまま何時間も外をうろついたら干からびそうなほどに。

    学校に行くだけの用意で出てきたから、飲み物など持っていない。財布の小銭も限られていた。どこか休める場所はないかと頭とペダルを回転させる。
    そういえば、通学路の近くのスーパーに無料の給水機が置いてあったな。そう思い出し、私はそこで休憩することにした。

    店内に入ると、寒いくらいに冷房が効いていた。
    出入口のそばに給水機があり、その横に一つだけベンチがあった。そこに座って、これまたキンキンに冷えた水を飲みながら一息つく。

    目の前を行き交う大人の群れ。
    こちらのことは見て見ぬふりか、冷めた横目を残して通り過ぎてゆく。
    まったく平日の昼間はどこにいても肌馴染みが悪い。
    そんなこと知るもんか、と小さな紙コップで水をもう一杯おかわりして、グイッと飲み干したその時だった。

    目の前に、こちらを向いた笑顔がひとつ、ポッと現れたのだ。
    一瞬、向日葵かと思う。
    明らかに、群れの大人達とは様子の違う大人がそこに立っていた。

    「ここは涼しいねぇ」
    彼は、ただそう言った。

    「学校は?」でも「ここで何してるの?」でもなく。
    そよ風みたいに軽やかに。

    「うん、すごく涼しい」
    気付けば私も自然に返していた。

    着古したタンクトップに日焼けした肌、頭にはタオルを巻いている。世間一般的には、どう見ても変わったおじさんだ。
    それなのに、私にはなぜか彼が普通で周りの大人達が浮いているように見えた。

    おじさんは紙コップを二重に取ると、給水機から熱いお茶を注ぎ、少し間隔をあけて隣に座った。
    そしてリュックをガサゴソと漁ると、今買ったばかりであろう駄菓子を取り出した。
    首からは、なぜかビニール紐を通したハサミがぶら下がっていて、それで駄菓子の袋の端を丁寧にまっすぐ切ると、その切れ端を大事そうにリュックにしまっている。

    よく見ると、ハサミ以外にもいろんな物がビニール紐でぶら下がっていた。
    歯ブラシやボールペンなど、重ね付けネックレスのようにジャラジャラだ。

    なんて面白い人なんだろう。
    最高にイケていると思った。
    だって、こんな人に初めて会ったから。
    自分に嘘をついている気配が微塵もない大人に。

    「食べる?よかったらどうぞ」
    おじさんはそう言って駄菓子をくれた。
    「ありがとうございます」
    懐かしい味が口の中に広がる。
    一緒にそれを食べながら、しばらく無言で大人の群れを流し見る。

    「これ、好きなんだよねぇ」
    おじさんは満足気にそう呟いた。
    「うん、おいしい」
    なぜ私はこんなにホッとしているのだろう。自分でも不思議だった。
    海を漂流していて、久しぶりに家族に会ったような。
    もし本当に父に会っても、こんなに自然に話せるか分からないけど。

    それから何でもない話をしながら二人でお菓子を食べていたら、あっという間に袋が空になった。
    すると、彼はまたリュックから別のお菓子を取り出し、やはりハサミで丁寧に袋の端を切り落としている。

    「それ、どうしてそんなに丁寧に切るの?」
    「あぁ、これね。キラキラしてて綺麗でしょ?だから集めてるの。繋げてオブジェみたいな、モノ作ってるんだ」
    彼は少し照れくさそうにハニカミながらそう言った。
    「へえ、そうなんだ。面白い。
    ……そのたくさん首からぶら下げてるのはなに?」
    「これはほら、こうやってすぐ使えて便利でしょ?」
    「あはは、たしかに」
    ほんとうにそれだけの理由なんだ。
    まあそうだよな、きっとこの人は。

    そんな話をしてたらまたお菓子が終わって、今度は容器ごとグミをくれた。
    それは、小さいころ私が一番好きな駄菓子だった。

    「じゃあ、これは何に使うか分かる?」
    おもむろに、レジでもらった割り箸を取り出す彼。
    「ご飯を食べるんじゃなくて?」
    「実はね、これをこう組んで、その上にカゴをかぶせるでしょ。それで庭に仕掛けるの。
    でね、スズメを捕まえるんだよ」
    「え!?スズメ?」
    「そう、スズメ」
    「で、どうするの?飼うの?」
    「食べるの」
    「た、たべる!?スズメって食べられるの?」
    「うん、意外とおいしいんだよ。
    捕まえたらね、首をクッと回せばすぐコロッだよ」
    よかった、私はスズメじゃなくて。
    豆鉄砲を食らった鳩で。

    ジェスチャーを交えていたずらな笑みを浮かべる彼に、私は衝撃を受けながらも興味が止まらなかった。
    もちろん、野生動物を勝手に捕まえちゃダメなことくらい知っていたが、白黒つかない所にも人間の生業があることも知っている。
    「ええ。うわー、そうなんだ」と苦笑いする私に、彼は「今度やってみな」と笑えない冗談を言った。

    庭で獲ったスズメを食べ、お菓子の袋の切れ端で何かを作る、一人暮らしのおじさん。
    私と同じ年くらいの娘がいるけど、奥さんと出て行ってしまったという。
    私も父と暮らしていないことを話しながら、神様が雲の上で人間をピースにパズルゲームでもしているのかと思う。

    いつのまにか、二人で駄菓子を全部平らげてしまった。
    それでも、彼はずっと嬉しそうだった。
    私もこの寒い店内に長居できたのは、女というベールではなく、娘というベールをふわりと掛けられているからだと気付きかけていた。

    そろそろ出ようかと、お互い荷物をまとめる。
    「そうだ、ちょっと待って。渡したい物があるから」
    彼はそう言うと、胸ポケットから煙草の箱を出して一本引き抜いた。

    それから壁を机代わりにして、例の首にぶら下がってるボールペンで、煙草に何やら書き始めた。

    「できた。はい、これ」
    渡された一本の煙草を見ると、小さく文字が書かれている。
    よく見ると、女性の名前らしかった。
    見慣れないけど、綺麗な名前。

    「……これは、誰かの名前?」
    「そう!いま俺が書いてる小説の主人公の名前だよ」
    「え!小説書いてるの?」
    「うん。いつか本屋さんに並ぶかもしれないから、その時まで取っておいて」
    彼はそう言いながら無邪気に笑った。
    「うん、わかった!応援してるね」
    「ありがとう!」

    一歩外に出ると、熱気がムワッと押し寄せて、つい息の仕方に戸惑う。今までのことがまるで嘘のようだ。
    さて、ここからまたパズルの欠片と欠片は平日の昼間を彷徨う。
    偶然にも隣に停めていた私達の自転車は、別々の方向へと進んだ。


      *


    それから数ヶ月が経ち、スーパーに入らなくても涼しい季節になった。
    夕方、めずらしく早く家に帰ると、まだ誰もいなかった。

    彼氏と別れて数週間は経っただろうか。
    まるで世間から取り残されたような薄暗い私の部屋が、その時ばかりは優しく見えた。
    心の居場所を再び失った絶望感を拭えぬまま、灯りもつけず、ただぼーっと畳に座る。
    そうしているうちに、だんだん自分の境目がぼやけて、いるのかいないのか分からなくなる。

    窓から入ってきた風がカーテンをふわりと踊らせて、薄紫の影が畳にゆれる。
    あれからずっと、机の引き出しの奥にしまっていたあの煙草を、静かに取り出した。

    書かれている名前を、もう一度よんでみる。
    何度読んでもなかなか覚えられない。
    けど、また読む。
    覚えたい。今のうちに刻みたい。
    まだ世に出ていないであろう名前。
    誰にも知られない私と、二人ぼっち。

    しばらく見つめ合う。
    一度手を出してしまったら、簡単には戻れなくなると聞いてはいた。
    もう、それでも構わない。
    もう、どこにも戻りたくない。
    意を決して、手を繋いだたままこっそり家の裏にまわった。

    いつでも夜の色が残るこの場所。
    今ここに用があるのは、世界中のどこを探しても私達だけだろう。
    時の窪みに腰掛けた。
    一瞬、お尻がヒヤッとする。

    そうして、
    そっと火をつけた。

     
     
    言葉のおむすび🍙 詩・エッセイのせてます 兼、 歌うたい、心理士

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