
【連載小説】夜が明けても、君のそばに7-3 最終話
第三節 また、春
三月の終わりに、世田谷線に乗った。
特に目的地があったわけじゃなかった。ただ、乗りたかった。それだけだった。
別れてから、三週間ほどが過ぎていた。その間、彼女からの連絡はなかった。僕からも、しなかった。することが、なかった。健には一度だけ「終わった」と送って、「そっか」という返信をもらった。川谷さんには何も言わなかった。誰かに話せるほど、整理がついていなかった。
三軒茶屋の駅から、一人でホームに立った。平日の昼間で、電車は空いていた。いつものように、一人掛けの座席が一列に並んでいた。
座った。窓の外を見た。
三軒茶屋を出て、西太子堂、若林。
若林の踏切を渡る瞬間、去年の夏の夜を思い出した。中村さんから話を聞いた帰り道、遮断機が下りて、世田谷線が目の前を通り過ぎていった。彼女がその電車に乗っているのかもしれないと思いながら、ただ待っていた。
あれからもう半年以上が経つ。
松陰神社前のホームに滑り込んで、止まった。誰かが降りて、誰かが乗った。また動き出した。
窓の外を、参道が流れていった。桜が咲いていた。
一年前、あの頃は蕾だったはずの桜が、今は満開だった。去年の三月のあの夜、健と飲んで、彼女と目が合って、連絡先も聞けないまま別れた。その頃の桜は、まだ固く閉じていた。それが今は、惜しげもなく花を開いている。
一年で、随分遠くまで来た気がした。
でも、今は一人だった。
世田谷、上町、宮の坂。
電車はゆっくりと進んだ。世田谷線はいつもこのくらいの速さで走る。急がない。景色を変えるのに、時間をかける。
宮の坂を出て、山下が近づいてきた。
彼女が住んでいた街だった。あの細い住宅街の道、五分ほど歩いたところにある築年数の経った小さなアパート。部屋の匂い。ドレッサーの上の時計。傘を一本で差して歩いた雨の夜。「思ったより普通の建物だな」と言って笑われたこと。
電車がホームに入って、止まった。
誰かが降りた。誰かが乗った。
降りなかった。
電車が動き出した。山下の小さなホームが、窓の外を流れていった。見送るように見ていた。見送る資格があるのかどうか、分からないまま。
松原、下高井戸。
終点に着いて、電車を降りた。
折り返しの電車が来るまで、ホームのベンチに座った。春の日差しが、ホームに差し込んでいた。温かかった。三月の終わりの、やわらかい光だった。
彼女のことを、考えていた。
後悔していないか、と聞かれたら、していた。
でも、あの夜に戻っても、同じことをしたかもしれない。そこまで考えて、自分の情けなさに、また気づいた。後悔しているのに、また同じことをする。それが僕だった。
川谷さんに言われたことを、また思い出した。言葉を待ってるんだと思います。言葉にしてほしいって。
彼女は、ずっと待っていた。
僕は、最後まで渡せなかった。
フェアじゃない、と言いながら、本当はただ怖かっただけだった。そのことは、分かっていた。分かっていて、それでも動けなかった。「動く前から諦めてる感じがする」という健の言葉が、今になってまた正確に刺さった。
正しかった。
ホームのベンチに座ったまま、しばらくそこにいた。春の風が、ゆっくりと吹いていた。
折り返しの電車に乗った。
来た道を、また戻っていく。
窓の外を、春の世田谷が流れていった。桜並木、住宅街、小さな踏切、無人のホーム。この路線を、何度も一緒に乗った。立ったまま、肩が触れていた。話すでもなく、黙っているでもなく、ただ同じ方向を向いていた。第一章で乗ったあの夜が、もうずっと遠くに思えた。あのとき僕たちは、三週間ぶりに偶然会って、連絡先を交換して、「また」と言って別れた。
あの「また」が、こんな場所に辿り着くとは思っていなかった。
松陰神社前に着いた。
ホームに降りた。
夕方になりかけていた。空が、少しずつ橙色に変わり始めていた。参道の桜が、風に揺れていた。
歩き出す前に、一度だけ振り返った。
世田谷線が、山下の方へ走り去っていった。
夜が明けても、まだどこかで、君のそばにいるような気がした。
それがただの未練なのか、それとも何か別のものなのか、まだ分からなかった。分からないまま、また春が来ていた。
参道を歩いた。
一人で。また。