
数千枚撮ったケニアで、僕は彼らを撮れなかった。
2008年頃、右肩に小型カメラ、リュックにビデオカメラを入れ、僕はケニアへ向かった。テレビ局を辞めた後、映像ディレクターとして貧困と医療の現場を取材し、撮影するという明確な目的があった。
世界有数の巨大スラム、キベラでは、人々が密集して暮らしていた。僕が歩いた一帯では、家々に電気すら通っていなかった。十分とはいえないトイレのそばでは、排泄物と汗の匂いが鼻を刺した。
僕は、HIVに感染して生まれた子どもたちを主に診るクリニックにも毎日数時間通った。医療従事者ではない僕にできたのは、数種類の抗HIV薬を小さな袋に詰め続けることだった。
右肩にはカメラがあるのに、両手は薬を詰めていた。
目の前には、痩せた子どもや女性、高齢者が何十人も並んでいた。この数粒で、この人たちの人生をどこまで支えられるのだろう。片言の英語と身振り手振りで働くうち、初日は少し距離のあったスタッフも、数日後には笑顔を返してくれた。
それでも、患者たちにはカメラを向けられなかった。
認知症が進んだ祖母さえ現代アートとして撮った僕なのに。その差を、今もうまく説明できない。ただ、「これは僕の作品の材料ではない」と身体が先に拒んだ。
同じナイロビで、国連機関で働く友人も訪ねた。アイロンの効いたスーツ、真っ白なシャツ、上質な香水の匂い。その夜、彼に連れられた高級なエチオピア料理店で、最初の一口を食べた。
美味しい。
数時間前まで「この圧倒的な不公正は何なのだ」と考え込んでいたのに、僕の舌は迷いなく喜んでいた。
日本にいた頃から、ネットでアフリカの貧困を知っているつもりだった。でも、知識には匂いも味もなかった。
僕は同じ街で、排泄物と汗、香水、香辛料を同じ身体で受け取った。そして最後には、日本へ帰ることもできた。
不公正は、僕の外側にあるものではなかった。
数千枚の写真は残った。でも、僕を動かし続けてきたのは、撮れなかった人たちの記憶だ。
2022年からは、クリエイティブの仕事の大半を断り、ウクライナから避難してきた人たちの支援を続けている。
善意の側に立ったつもりになるたび、あの日の「美味しい」が戻ってくる。