
アーティストにとってのウェルビーイングとは何だろう
時々、アーティストにとってのウェルビーイングとは何だろう、と考えます。
ここ最近、表現活動を続けながら生活を営むこと、仕事や家族との時間を大切にすること。その両立について考える機会が増えました。
制作は、努力した分だけ報われる保証があるわけではありません。生活のために働き、家族との時間を過ごし、睡眠をとる。そうした当たり前のことを大切にしようとすると、制作時間は自然と減っていきます。
一方で、手を動かし、何かを生み出し、それが誰かの目に触れることには、確かに喜びがあります。
ただ、その喜びは「もっと作らなければ」「もっと見てもらわなければ」という、生産の物差しにも結びつきやすいように感じます。
制作に没頭しすぎれば、別の何かが欠けてしまうこともある。かといって、まったく制作から離れてしまうと、自分の中の大切なものとのつながりが薄れていく。
だから私にとってアートは、「たくさんある方がいいもの」ではなく、「適切な距離感で付き合いたいもの」なのかもしれません。もちろん、その「適切」がどれくらいなのかは人によるとは思います。
けれど、作家であろうとしたり、作家として見られることを意識すると、「もっとやっていないといけないのではないか」と感じてしまうことがあります。そもそも「アーティスト」や「作家」という言葉の定義は曖昧なのに。
そう考えると、皮肉なことに、アーティストであろうと強く自認するほど、ウェルビーイングから遠ざかってしまうこともあるのかもしれません。
大切なのは、肩書きではなく、誰にどう思われるかでもなく、自然体のままアートの気配をまとえているかどうかではないかなと感じます。
私は人から「アーティストです」と紹介されることもあります。それは嘘ではありません。でも、そんなにはっきりしたものでもないな、と思いながら心では受け流している節もあります。
肩書きや実績によって話が通りやすくなることは確かにあります。
けれど、肩書きそのものの中にウェルビーイングはないのではと思います。
あるとしたら、それは肩書きの外側で、無理なくアートと付き合えている時間の中にあるのだと思います。
アートと暮らしが無理なく共存できること。
最近はそんなことを信じたいなと思っています。

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「アートとケアのあいだ」をテーマに、こちらのnoteも少しずつ更新しています。