
人生の答え合わせは、最期に
日々の暮らしの中で、私たちはつい「結果」を急いでしまう。
仕事の売上や収入、SNSのフォロワー数やいいねの数。そうした目に見える「数字」は、すぐに結果として現れてくれるから扱いやすい。
けれど、ふと思う。
「人生」というあまりにも巨大な営みの結果は、一体いつ出るのだろう。
その最終結果が観測できるのは、きっと私たちの命が終わるその瞬間だけだ。
生きている途中で「はい、ここまでの結果発表です。あなたの生き方は正解ですよ!」なんて、誰も教えてくれない。
そう考えると、目の前の小さな目標を達成したことや、そのために必死に努力したことでさえ、人生という大きな流れの結末から振り返った時に「本当に正解だった」と思えるかどうかは、その時になるまで分からないはずだ。
私たちは、まだ誰も結末の分からない物語の、長い長い途中にいる。
だからこそ重要になってくるのは、どれだけ多くの成果や地位、名誉、お金を手に入れたかという「客観的な事実」ではない。
それらを最期にどう受け止めるかという「主観的な解釈の力」――つまり、心の成熟なのだと思う。
もしも心にその成熟がなければ、私たちはどこまでも肥大していく欲に囚われてしまう。
本当は十分に恵まれているはずなのに、「あれだけ稼いだのに」「あんなにフォロワーがいたのに」と、満たされない何かを外側に探し続け、最期に「結局、最後までみんな自分を認めてくれなかった、最悪の人生だった」という悲劇の結末を自分で選んでしまいかねない。
けれど、心が成熟していれば、捉え方は全く変わる。
「これだけ稼いだという事実は、自分に自信をもたらしてくれた」と過去の足跡をポジティブに受け止めることができる。
そして最期を迎える時には、「いくら稼いだか」という数字の執着すら手放して、「あれも楽しい挑戦だったな」と、ただ淡々と、でも確かに自分を満たした記憶として眺められるのかもしれない。
私は、「人生に無駄なことはない」と信じている。
過去に起きたさまざまなこと、迷ったこと、傷ついたこと。
それらすべてに「無駄なことはなかった。あの経験があって、本当に良かった」と思える心の成熟。
それさえあれば、私たちはどんな人生の結末であっても、自分で自分の物語に100点満点をつけることができる。
人生とはきっと、何かを成し遂げるための場所ではなく、紆余曲折のあった自分を、最期に心から愛でられるようになるための「心を育てる旅」なのだ。
最初は不完全で、正解かどうかも分からなくていい。
日々の小さな一歩を重ねながら、最後の最後に「いい旅だった、この自分で良かった」と微笑んで物語の幕を閉じるために。
私たちは今日も、それぞれの旅路を歩んでいる。