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土壌と感性

    私は、世間一般で評価されているものの良さが感覚的にわからないと、自身の受容体を疑ってしまったり、理論や理屈でその価値を理解しようとしたり、何度も作品に対して挫折と挑戦を繰り返し、苦悩する。

    しかし、悲しいことに、頭で理解しようとするという行為に対して、斜に構えた見方をされることが多々ある。娯楽というリッチな養分を幼少期から空気のように供給されてきた者たちは、当たり前のように「もっと気楽に」「頭で考えずに」と、声をかけてくるのだ。自身の土壌が育てられているからこそ、感性という花が開いていることを彼らは知らない。「なんか良い」「なんか好き」「なんか嫌い」は特別な能力なのである。

    私のような凡庸な人間が頭を空っぽにしたところで「なんもわからん」だけ。セルフ肩透かしを繰り返し、感じ取れるのは虚無だけである。私の土壌はジメジメと湿っているだけで痩せ細っているし、スポンジのような時代はとうに過ぎた。方向性は決まっているし、偏見も少なからずある。これから育てるには、とてつもない時間と手間をかけなければならない。

    感性に効率を求めるのは間違っていると言う人もいるだろう。私の時間は有限で貧乏には暇はない。さらに出遅れているのだ。その焦燥感も私を構成しているだろう。

    理論や理屈というのは凡人が天才に必死に追いつくための努力の結晶である。だから、せめてこの結晶だけは取り込みたいと私は思っている。頭を空にしている場合ではない。

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    山口県在住の漫画家|1児の母|⚠︎ 画像の転載転用・AI学習禁止|【書籍】わたしの親が老害なんて(KADOKAWA)マンガでカンタン!行動経済学は7日間でわかります。(Gakken)|【企画】子どもの安全第一ハーネス(ヴィレッジヴァンガード)|コミックエッセイとレポ漫画と育児|

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