
御辞儀
昨日、赤ちゃんとバスに乗って着席すると、おばあさんが後ろの席から運賃箱に向かって歩いてくるのが見えた。
ヨロヨロとした足取り。震えた声。なにか言っているが、はっきりとは聞き取れない。運転手さんが「お金はなんとかするよ」「福重まで乗るんでしょ」と話しかける。「は?」おばあさんには聞こえていない。耳が遠いのだ。
運転手さんの声がだんだん大きくなる。「福重まで乗るんでしょ!」「は?」「福重まで乗るんでしょ!!」「え?」「とりあえず席に座ってください!」「は?」
完全なる膠着。バスは出発できない。
世界が止まる。
「どうしよう」
と(おそらく)皆が思ったそのとき、後ろの席から若いお姉さんが立ち上がり、おばあさんの腕にやさしく触れて「席にすわろうね」と声をかけて誘導した。
おばあさんはちょうど僕と赤ちゃんの席の後ろに座った。お姉さんが声をかける。「おばあちゃん、どうしたの?」「お金が…たりなくて」「いくら?」「50円…」。僕は後部座席のやりとりに耳をすませる。
ゴソゴソ、チャリチャリと音がする。お姉さんが財布を探って、お金を渡そうとしているらしい。「おばあちゃん、これで絶対たりるけん、大丈夫」「まぁまぁ、こんなふうにされたのは初めてのことで……」とおばあさんは感激して言葉を返す。
ようやくバスが出発し、数駅通過した後、あのおばあさんが立ち上がった。また運転手さんのところに行き、なにかしゃべっている。
「お金はこれで大丈夫だけど、福重まで行くんじゃなかったんですか?」「は?」「福重に行くんじゃないの?」「え?」
再び噛み合わないやりとりをした後、おばあさんはバスを降りてしまった。「心配だなあ」と運転手さん。福重のバス停まではまだ3駅ほどあるからだ。
おばあさんはバスを降り、あたりを見回していた。人は誰も歩いていない。車道と隔てられた広い舗道と建物がおばあさんを取り囲んでいる。
もしも間違った駅で降りていたとしたら、知らない場所にぽつんと取り残されて、耳が聞こえないまま、いったいどうやって、おばあさんは家まで帰るのだろう。僕はすこし恐くなった。
バスのドアが閉じる。エンジンの音がして走り始めた途端、立ち尽くしていたおばあさんがこちらに向き直し、深々とお辞儀をした。たぶん運転手さんに一度、お姉さんに一度、それから誰に向けてか分からないけれど、もう一度。
バスが出発する。おばあさんは前を向き直す。
あのお姉さんのような人の良心に助けられて、おばあさんは家まで帰れるのかもしれない。でも、それだけに頼って、世界に身を委ねるなんて僕にはできそうもない。
抱っこした赤ちゃんの重みと心の重みで動けなかった僕は、その一部始終に圧倒されてしまった。