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君が代のカタチ【12】織田信長の野望 ―― キミが代を描き直す〜神話の時代から続く「天」と「地」の日本史

    第十二章 織田信長の野望 ―― キミが代を描き直す

    前章の終わりに私は戦国を「宙づりの「天(キ)」と、乱立する「地(ミ)」」の時代だ、と書いた。「天(キ)」は、薄くなりながらも誰にも消されず、宙に浮いたまま残された。「地(ミ)」たちはそれぞれの土地で自力で立ち互いに争い続けた。

    「地(ミ)」がいくつも並び続ければ、いつかそれを一つにまとめようとする者が現れる。戦国の末にその役回りを最も鮮烈に演じたのが織田信長(おだのぶなが)だった。

    ここで私は一つの問いを立ててみたい。信長の「野望」とは、いったい何だったのか。

    ふつうそれはこう答えられる。天下を取ること。すべての敵を従えこの国の頂点に君臨すること。——だが、本書は少し違う読みを提示してみたい。信長が本当に望んでいたのは自分がこの国の頂点に座ることではなかったのではないか。むしろ彼は戦国でばらばらに壊れてしまった、「天(キ)」と「地(ミ)」の関係そのものを——本書の言葉でいえば、「キミが代」を——もう一度、描き直そうとしたのではないか。


    ここでもう一度だけ本書の補助線を確かめておきたい。

    「天(キ)」は続く力。正統性であり権威であり「なぜ従うのか」を与える力だ。
    「地(ミ)」は動かす力。武力であり現実を回す力だ。この二つは本来、一対である。「天(キ)」だけでは国は動かず、「地(ミ)」だけでは国は続かない。本書「君が代」を語源の証明としてではなく、象徴的に「キ・ミが代」と読んできたのは、この一対が、何度も離れ、近づき、壊れ、また結び直されてきた、この国のかたちを、見たいからだった。

    信長を本書はこの一対を「消そうとした男」とは読まない。むしろ壊れてしまった一対を、自分の時代に合わせてもう一度、描き直そうとした男として読んでみたい。——では、なぜ、そんな読みが、できるのか。その手がかりは意外なところにある。彼の出自である。


    信長をただの成り上がりの武力者と見なすのは、たぶん早すぎる。

    織田氏の出自については古くから越前(えちぜん)の織田荘(おたのしょう)と、劔神社(つるぎじんじゃ)という社の神職との関わりが語られてきた。そして、さらにその背後にあの忌部氏(いんべし)とのつながりを見ようとする説さえ、ある。

    くりかえし断っておくが私はこれを史実として、断定するつもりは全くない。確かめようのない由緒の話である。そして、ここから先に書くことも織田氏の出自を証明しようとするものではない。あくまで本書の補助線に沿って信長という人物をどう読むか、という私なりの歴史観である。史実の確定ではなく、構造の読みとして受け取ってほしい。

    だが——本書にとって大事なのは、史実かどうか、よりもこの由緒が何を思い起こさせるか、だ。

    第六章を、思い出してほしい。忌部氏は見えない「天(キ)」を、祭具や儀礼という、目に見える形にする、祭祀の「地(ミ)」だった。「天(キ)」を形にする「地(ミ)」である。

    そして、その忌部はのちに中臣(なかとみ)——やがて藤原氏(ふじわらし)となる一族——が祭祀の中心へ進み出るなかで、しだいに政治の中心から地方へと退いていったとも語られる。かつて、大和の王権を祭祀の力で支えた一族が中心を追われ各地へ散っていったのだ。

    そして、ここでもう一つ見逃せない社がある。熱田神宮(あつたじんぐう)である。

    信長は、桶狭間(おけはざま)へ向かう前、熱田神宮に立ち寄り戦勝を祈願したと伝えられる。そして勝利ののち、その礼としていまも「信長塀(のぶながべい)」と呼ばれる築地塀(ついじべい)を奉納した。熱田神宮は、三種の神器(さんしゅのじんぎ)の一つ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る社である。

    越前の劔神社。熱田の草薙剣。ここに劔という象徴が、かすかに重なって見える。

    もちろん、これもまた信長が自分の血筋や使命をはっきりとそのように意識していた、と断定する話ではない。だが、劔神社の神職由緒を背負う織田氏が尾張で勢力を伸ばし、桶狭間という運命の戦いの前に草薙剣を祀る熱田神宮へ向かった。その連なりを、本書の補助線で眺めると、信長をただの武力者としてだけ読むことは、ますます難しくなる。

    もし、織田氏にそうした祭祀氏族の記憶が、かすかにでも重なっているのだとすれば——信長は、「天(キ)」とは無縁の、ただの「地(ミ)」では、なかったことになる。彼は、古い「天(キ)」を壊すために現れたのではない。地方へ退いた、祭祀の「地(ミ)」の、いわば、はるかな末の再興として——壊れた「天(キ)」と「地(ミ)」の関係を、もう一度、自分の手で組み直すために現れた。本書は、そういう「読み」の余地をここに開いておきたい。あくまで仮説としてである。


    その目で信長の歩みをもう一度たどってみよう。

    彼が、まだ地方の一大名だったころ、信長は足利義昭(あしかがよしあき)という人物を、自分の旗印に掲げた。室町幕府(むろまちばくふ)の将軍となるべき血筋の人である。

    ここで、ていねいに区別しておきたい。義昭が背負う「将軍」という名は、天皇のような根源的なキ、そのものではない。足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、もとをただせば、武家の政権——ミの制度である。ただ、室町幕府が長く続くうちに、「将軍」という名は、武家の世界の正統性を、帯びていった。いわば、「天(キ)」と化した「地(ミ)」だ。

    信長は、その名を使った。「古い武家の秩序を回復する」という名分を自分の進軍に与えるために。だが、義昭を、ただ担がれただけの人形だと思っては、いけない。義昭もまた、将軍の名を背負い、自らの政治を取り戻そうとした、意思ある人物だった。古い武家秩序を背負う義昭と、新しい秩序を作ろうとする信長。二つの「地(ミ)」は、やがて、ぶつかる。そして信長は、ついに、その将軍を、京都から追放した。室町幕府は事実上ここで幕を閉じる。

    殺して、成り代わったのではない。「天(キ)」と化した「地(ミ)」を立てて使い、邪魔になればわきへ置き直した。——信長のやり方がここにすでに、顔を出している。


    では、もっと根源的な「天(キ)」——天皇と、その朝廷(ちょうてい)には、どうだったか。

    ここが、肝心なところだ。信長は、天皇を、消さなかった。自ら「新皇」を名乗って、新しい「天(キ)」になろうとも、しなかった。あの将門とは、正反対である。彼は、朝廷と関わり、位をめぐるやりとりを持ちながらも、それを滅ぼしも、それに成り代わりもしなかった。

    信長の最終的な意図がどこにあったのか。それは、史料の上でも議論が分かれ、断定はできない。けれど、本書の補助線で眺めると、一つの像が、浮かんでくる。

    信長は天皇家といういちばん古い根源的な「天(キ)」を、中心に残した。残したうえで、その周りに、ぐちゃぐちゃに乱れてしまった「地(ミ)」の世界を、組み替えようとした。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が、「天(キ)」の側から、自ら「地(ミ)」を握ろうとした——その逆でも、ない。将門のように、「地(ミ)」が「天(キ)」に成り代わろうとした——それとも、違う。

    信長は、「天(キ)」を中心に置いたまま、その「天(キ)」を軸にして、壊れた「天(キ)」と「地(ミ)」の関係をもう一度描き直そうとした。そう読むと彼がなぜ天皇を消さなかったのかが、すっと腑に落ちる。
    「天(キ)」と「地(ミ)」の関係性を描き直すための中心の軸が要るからだ。


    そして、その「描き直し」の最も本質的な部分は、じつは合戦の中にはなかった。

    武力はあくまで手段だった。信長が本当に手をかけたのはもっと深いところ——人と、物と、銭が、どこを、どう流れるか、という「地(ミ)」の流れそのものだった。

    その象徴が、楽市楽座(らくいちらくざ)である。
    これまで、商いは座(ざ)と呼ばれる同業の組合や古い寺社の特権に固く縛られていた。誰が、何を、どこで売ってよいか。それは、由緒と既得権が、握っていた。
    楽市楽座はその縛りをゆるめる。
    市を開く。誰もがより自由に売り買いできるようにする。
    あわせて信長は人や物の流れをせき止めていた、各地の関所(せきしょ)を減らそうとした。

    これをただの経済政策と読んではいけない。本書の言葉でいえば、これは「地(ミ)」の流れを、根本から引き直す事業だった。
    誰が市を開き、誰が道を通し、誰が銭の流れを押さえるのか。
    兵だけでなく、人、物、銭、職人、商人、そして情報がどこを通って動くのか。
    ——信長は、その社会の血管そのものを、引き直そうとしたのだ。城下に人を集め、町をつくり、流れを、自分の秩序の上に、組み替えていく。

    念のために言えば、これを近代の自由経済の先取りのように読みすぎてはいけない。
    あくまで戦国という時代の只中での流れの引き直しである。
    それでも——もし、信長の野望が、「天下人になること」ではなく、「壊れたキミが代を描き直すこと」だったのだとすれば、この社会の組み替えこそが、彼の事業のど真ん中にあったことになる。武力はそのための道を切り開く手段にすぎなかった。


    もっとも、流れを引き直すとはこれまでその流れを握っていた者から、それを取り上げることでもある。

    この国の権力は、将軍や大名だけにあったのではない。寺社の特権、座の権益、関所の徴収、由緒ある独占——社会のあちこちに、「昔からそうだから」という、小さな「地(ミ)」が無数に宿っていた。信長の改革はその一つひとつを揺さぶり、自分の秩序の中へ置き直していく作業でもあった。

    その「置き直し」が、最も激しくぶつかったのが、巨大な宗教勢力だった。比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)。石山本願寺(いしやまほんがんじ)を中心とする、一向一揆(いっこういっき)。

    これらは、土地と武力という「地(ミ)」を持ち、同時に、信仰というもう一種の権威を握る、武装したけっして小さくない権威だった。
    信長はこれに、苛烈だった。比叡山を焼き、本願寺と長く戦い屈服させる。

    彼が信仰そのものを憎んだのか、軍事的な脅威として対処しただけなのか——その内面は、断定できない。
    ただ、構造としては、はっきりしている。自分の秩序の外で、「天(キ)」と「地(ミ)」を勝手に結びつけ、自立している権威を信長は許さなかった。


    この壮大な「描き直し」を一言で掲げたのが、「天下布武(てんかふぶ)」だった。

    ただ「武力で天下を取る」とだけ読めば足りない。本書の補助線で見れば、それは乱立した「地(ミ)」を束ね直し、古い「地(ミ)」を中心に据えたまま、社会の流れごと、組み替えていく——壊れたキミが代を、もう一度描き直すという宣言として読める。

    その秩序を、目に見える形にしたのが、安土城(あづちじょう)だった。軍事の拠点であり、政治の拠点であり、
    そして、見る者に新しい秩序をまざまざと示す装置。古い寺社や朝廷とは違う新しい権威の演出である。
    ——もっとも、それを「新しい「地(ミ)」そのもの」だ、とまでは言い切らない。そう断じるには、信長の事業は、あまりにも、途中だった。ただ、「地(ミ)」が、自らの秩序を目に見える形へと象徴化しようとした場所。安土城を本書はそう読んでおく。


    だが、その実験は完成へ至る前に断ち切られる。

    京都、本能寺(ほんのうじ)。家臣の明智光秀(あけちみつひで)の謀反によって、信長はあっけなく倒れた。

    光秀がなぜ背いたのか。その動機をめぐっては、古来おびただしい説があり、いまも定まらない。私はその謎に答えを出すつもりはない。

    ただ、本書の補助線で眺めるとこうも言えるかもしれない。
    「天(キ)」と「地(ミ)」を編み直し、「地(ミ)」を流し直すということは、裏を返せばこれまでそれぞれの場所に、それぞれの権益とともに収まっていた人々を——動かし、その場所を奪い、役割をつけかえることでもあった。
    古い寺社、座、関所、領主、そして、家臣や、地域の秩序に至るまで。
    信長の急進的な再配置は、社会のあちこちに、不満と緊張を生んでいたはずだ。

    光秀個人の心の中は分からない。
    けれど、本能寺の変はその大きな再配置のただ中で起きた。
    一人の家臣の謀反であると同時に、急ぎすぎた描き直しが呼び込んだ、構造的な反動——そういう側面も、あったのではないか。
    外の権威をあれほど力で押さえつけた男は、その途上で内側の「地(ミ)」によって、倒されたのである。

    信長のキミが代を描き直す試みは、未完のまま、放り出された。


    この途中で投げ出された事業を、次に引き取ったのは、信長の家臣だった一人の男である。

    彼は信長とは違う道を選ぶ。
    壊れたキミが代を根本から描き直す、などという、危うく壮大な賭けには出ない。
    そうではなく、もっと現実的に——薄くなった「天(キ)」の、その「名」を、巧みに借りる。
    朝廷の最高位、関白(かんぱく)の位を得、豊臣姓(とよとみせい)を名乗り、「天(キ)」の権威を、自らの「地(ミ)」の正統化に、使っていく。

    豊臣秀吉(とよとみのひでよし)である。

    次章では、キミが代を描き直すのではなく、「天(キ)」との名を借りることで、天下の統一を、現実に成し遂げた男を、見ていきたい。

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