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【創作大賞2026応募作品】動かざること馬鹿の如し、走る向こう見ずも然り。【長編】

    あらすじ


    「成し遂げたいことがある。」

    夏の真っ盛り、とある " 目標 " を成し遂げるべく、
    雑多に本を積み上げ、本の雑木林と化した実家の一室
    にて、昼となく夜となく大学のレポートに取り組む傍ら、
    数少い睡眠時間を削って本を読み漁る「私」。

    しかし、未だ天高く険しくそびえ立つ我が志に届く
    ものは見つからず、今日も先人の知恵や愚にもつかぬ
    失敗や失態を記した本を探して神保町を歩き回る。

    その道中。

    見慣れたはず街に謎の薄暗い小路を見つける。

    神保町の仄暗い境界線で繰り広げられる、
    「私達」の耳が痛い正論の応酬。

    行動できない現代人の胸を刺す不条理でリアルな対話劇。



    1話|通りゃんせん


    私は実家ぐらしの大学生である。花の大学生活1年目は舞い散る桜のように、雑踏の中で踏み潰されてアスファルトの地面を写すばかりの薄っぺらい花びらの如き日々となって過ぎ去った。

    いくらかの稼ぎもあてもなく、家賃を払うでもなく、家事をするでもなく、親の金にすがり、サークルにもバイトにも明け暮れず。

    実家の2階南側。陽あたり良好な4畳半ほどの一室を占拠し、鬱蒼と茂る林の木立を思わせるほどに積み上げられた本の雑木林にて縮こまり、昼となく夜とないレポート作成の合間、雀の涙ほどに限られた睡眠時間を削り、本を読んでいる。

    我が牙城の一室は日当たり良好に付き、積み上げた本の一部たちは日焼けし、中には表紙の解読が困難を極めるほどに色褪せた強者もいる。

    熱を溜め込む本の木立が乱立する一室には、いつ設置したかも覚えていないかつて白かったはずの黄色く変色したクーラがある。彼は夏になると若干心配になる唸り声をあげ、汗の滴りを思わせる水滴の滴りを垂れ流し奮闘するも、毎度のごとく白旗を上げ、連戦連敗の記録を更新している。

    よって夏の真っ盛り、南向きの窓から日がさす本の雑木林と化した一室は妙な熱気と、古い紙の匂いと、黴の匂いが立ち込め、むせ返るような何かをまとった空気に満ちあふれている。

    こんな体たらくにありながら、来年には酒が飲めるようになり、もれなく大人の仲間入りというのだから信じられない。こんな輩が大手を振って一端の大人を自称しても世間はどこ吹く風である。世も末だ。

    そんな私にも成し遂げたいことがある。

    そのためにはどうすればいいかなど、先人達がとっくに本にまとめて示している。数千年とも数万年とも言うべき人類の歴史を侮ってはいけない。延べ人数で言えばどれほどの人間が存在したかなど計り知れないし、それだけの人生があったことも確かだ。

    もはやどの様な人間の人生もすでに、誰かの人生と似通ったものであると言える。故に、私は先人や俗に言う成功者と言われる人達が残した本を集める。

    長きに渡り繁栄してきた人類の歴史には、私の如きろくでなしの一人や二人いて然りだろう。同様の志を胸に栄光を勝ち取ったものもまたいて然りである。

    故に、今まで沢山の本を集めてきた。しかし、高く険くそびえ立つ我が志に届くものは未だ得られずにいる。そして今日も新たな本を集めるべく、私は意気揚々と神保町へ訪れた。

    最近新しくなった三省堂や、蜥蜴のごとく日陰に佇む古書店、そんなところにあるのかと驚きを隠せない喫茶店や、一体どんな法律のもと、なぜまかり通り、建てられ、そして今にも崩れそうな建物たち。

    何十年も前から変わらず様々な本やら何やらがひしめいている。

    そんな大魔境とも言うべき神保町で、私は先人達のありがたい知恵や愚にもつかぬ失敗、失態の数々が載った本を探して歩き回る。もはや何度目かも分からない程、この街に訪れている。

    普通ならためらうような雑居ビルの裏道や抜け道などを通り、颯爽と街を歩く。神保町は私の庭だと声高に言えるくらいはこの町を歩き回っている。知らぬ場所など有りはしない。勝手知ったるこの街で、誰よりも自由であるかのような優越感に浸りながら歩いていた。

    「何だ?この路は?」

    突如として現れた、見慣れた路地の見慣れぬ路。その薄暗い路は久しく忘れていた、なんてことのない雑木林を蚊に刺されながらも、意気揚々と歩いた幼少期の冒険心を思い出させた。

    しかし、落胆することはなかった。歩き尽くしたとも言うべきこの街にまだ知らぬ場所があったのかと高揚感すら覚えた。

    「何がある?」

    望むものがある保証は無いが、費やした時間や労力は容赦なく徴収される。神だか、死神だか、なんだかは知らないが私の時間は持っていかれる。それを承知のうえで、私は見知らぬ薄暗い路地を歩む。

    その後、どのくらいの時間が経ったかは定かではない。やけに長いと思うくらいの時間が過ぎ去ったことは確かだ。一本路は続く。そして、突き当りに差し掛かる。

    両側を雑居ビルに囲まれ、所々に空き缶や雑誌などのゴミが落ちている薄暗く薄汚い一本道を進んだ先には、令和の世にあまりにも似つかわしくない、オレンジがかった年季を感じさせる街灯とそれに照らされた小さな祠が見える。

    「何だ。祠か。」

    独特な、そして異様な雰囲気を放つそれを見つけられた満足感はあるが、本を探す私にとっては祠も街灯も無用の長物であった。私は踵を返して、来た路を戻ろうとした。

    「痛って!」

    一昔前のアニメで間抜けさの例えに、キャラクターが電信柱にぶつかる描写がある。だとすれば壁に鼻っ柱をぶつける私は何だというのだ。

    「壁?」

    おかしい。一本路を進んだ。行き止まりだった。振り返った。行き止まりになっている。

    行きはよいよい、帰れない。

    通りゃんせん。

    ぶつけた鼻っ柱を抑えてうずくまっていると、背後から草履を擦るような足音がした。そしてそれは私の少し後ろで立ち止まったようだ。


    2話|打ち水


    「また偏屈な輩が来やがった。」

    背後からため息交じりのめんどくせぇと言わんばかりに気だるげな声が聞こえてきた。

    振り返ると、オールバックのような髪型で真っ黒な袴を着た男が腕を組み立っていた。中年?初老?年齢的な特徴はなんとも形容しがたいが、若くないことは確かだ。つまり、よく分からない。

    「驚かねぇのかい?」

    意外そうな顔をして私に問いかけてきた。しかし、驚かないのも道理であろう。お化け屋敷でギャー!!!お化けというぐらいに当たり前の状況ではないか。私は男に言い返す。

    「だったら最初に出てきてくださいよ。それこそ私が祠見つけたときとか。」

    男は呆れた顔で呟く。自信たっぷりに飛び出し、あんまりウケなかったお化け役の様な哀愁を漂わせてつぶやく。

    「なんだい。そりゃ。」

    私は続ける。それが対応としてあっているかはともかく他に何もしようがない故に。

    「よくわからない祠がある。入れたのに出れなくなってる。次はなんだってなりますよ!」

    「リアリストだな~。Z世代か?」

    この男、和風なんだか現代風なんだかよくわからない。和モダンと言う古いのか新しいのかよくわからん言葉の様なチグハグさが、掴みどころがない印象を醸し出しているのだろう。

    「先程から姿と言動が一致してないですよ。そっちのほうが気になります。 神だか、なんだかで良いんですよね。」

    私は確認する。改めて思う。何度か知れぬくらいには思っている。

    なんだ?この状況?

    袋小路に成り代わった場所で、よくわかんないおっさんと会話をしている。おまけに相手は人間かどうかも分からない。

    「まぁ、その認識であってるぜ。」

    やっぱりそうらしい。やっぱりってなんだ?

    私は本題に入るよう促した。

    「それで?そんな方が何のようですか?」

    人間、あまりにもわけがわからないと逆に冷静になるというのが先人の教えである。いざ体験してみると本当にそうらしいことがわかった。だとすれば先人とやらはすでに神にすら会っていると言うのだろうか。

    「いやさ~。俺達としては誰であれ何であれ、生きている以上、何でも良いからなにかやって世の中をいい方向に持ってってほしわけよ。」

    「でもよ。最近のやつ、スマホだかなんだかで何でもかんでも先回りする見てぇに調べて、知った気になってそれで終わりじゃねぇか。」

    知ったような口を聞かれ、かつお前もそんなやつだろ?と型に押し込めて決めつけるような物言いに少しムカついた私はぶっきらぼうに言い返す。

    「それが何だって言うんです?無駄な行動をして時間を無駄にするのはタイパが悪いですよ。」

    男はため息をつき、返す。

    「それだよ。それ。いつか行動する時、無駄がないようにってやつ。」

    なかなか本題に入らない。どことなくじれったさを感じる。神ならもっと理路整然と話せないのか。はたまた神ではないのだろうか。私は呆れ気味に話を促す。

    「正しいじゃないですか。さっきから話してますけど、結局何が言いたいんですか?」

    男はニヤリと笑う。

    先程まで感じられた軽薄な雰囲気がなくなった。この先を聞いてはいけない。そんな気がする。男は無情にも私が耳を塞ぐ前に言葉を発した。

    「お前、何時になったら行動すんだよ。」


    3話|球場に立つ


    私は言葉に詰まってしまった。

    私には成し遂げたいことがある。志したその時から一日も怠ること無く、手間暇を惜しむこともなく。あらん限りの情報を集めた。書であれ、話であれ、ネットであれ何であれ集めた。

    暑かろうと、寒かろうと、季節が移ろうと、夜となく、昼となく集め続けた。いつか、完璧な行動計画を立て、一切の無駄無く目標を達成するために。

    そんな私に男はこう言った。

    「お前、何時になったら行動すんだよ。」

    私は言葉に詰まってしまった。

    私は成し遂げたいことがある。一日も怠ること無く、手間暇を惜しむこともなく。1歩も踏み出すことなく。

    「動き出したら何だって言うんです?それでどうにかなるんですか?無計画に動いたら失敗するだけですよ!」

    物の例えに振らずの三振がどうのこうのと世間は言うが、そんな簡単な話じゃない。あまねく全ての失敗が許されるわけではないのだ。おまけに人生は限られている。なればこそ無駄無く、正確に、正しく行う必要があるのだ。

    「動き出したらどうなるか。可能性が0ではなくなる。」

    「ただ動くだけなら0みたいなもんじゃないですか!」

    「0なんだよ。お前はな。何にもしてねぇからな。」

    この男、話が理解できないのか。段取り八分という言葉があるだろう!私は本の木立を作るほどに段取りを進めている。私は声を荒らげつつ返す。

    「さっきから散々言ってるじゃないですか!いつか行動するとき無駄なく動けるように情報収集を怠ったことはないって。」

    「ちゃんとやってますよ!」

    男は呆れて私にはっきり聞こえるよう、ため息をつきやがった。

    「お前さ、ひょっとしなくても振らずの三振がどうのこうのとか考えてんだろ。ぜんぜんちげぇよ。そんなことじゃねぇんだ。」

    「もっと基本的なことなんだ。」

    男はまるで子どもを諭すように言葉を発する。まるで私が何もわかっていないかのように。

    腹が立つ。事実、年齢的に言えば私はまだ子どもであるが、そう遠くないうちに酒が飲める輩に対してその扱いはいかがであろうか。すでに腹立たしいが、なおのこと腹が立つ。私は怒り気味に返した。

    「まず行動しろとかそんなことでしょう!!!」

    「んなことわかってんですよ!!!」

    男は呆れて私にはっきり聞こえるようにため息をつきやがった。
    間違いなくさっきより大きなため息だ。

    一呼吸おいて男は言葉を発する。

    「そのバッターがいる試合って何処でやってんだ?」

    まさかの変化球。詰まってしまった。窮状に立たされているらしい。


    4話|百文知れど微動もせず


    男はスッポ抜けたような顔をしているであろう私には構わず話を続ける。

    「確かに。世の中、振らずの三振がどうのこうのとか言ったりする。だから打席に立てとかな。」

    「んなこと言ったって、殆ど打てねぇのがわかりきってて打席に立つ奴ぁいねぇ。そりゃそうだ。」

    「だがよ。その判断ができるってこたぁ、その試合がどこでやってて、自分が問題なくたどり着ける場所か知っていて、そこに行く金も気力もある。」

    「ちゃんと打席に立つという選択肢があるうえで選ばないってことだろ。」

    「いつか打席に立つときのために情報収集だ?」

    「そもそも打席に立てねぇ奴がなに言ってんだよ。」

    それは違う。私はたゆまない情報収集に明け暮れているのだ。すでに打席に立っている。後は暴投を読み、完璧なスイングで場外に打ち放つのみだ。私は反論する。

    「行動するぐらい何時でも出来ます!」

    「何時でも出来ることを早とちりして失敗したら時間の無駄じゃないですか!」

    男はもうため息もつかなくなった。にも関わらず、大層呆れていることだけは伝わってくる。少し間をおいた後、真顔でこう聞き返してくる。

    「具体的にどうなったら行動すんの?」

    「今よりもっと情報収集を進めて...」

    「進めて?」

    「完璧な計画を立てて...」

    「それで?」

    「そしたら行動するに決まってんじゃないですか!」

    男は頭を抑えている。頭痛が痛いとか言われて頭が痛い国語教師のごとく。

    「どのくらい情報が集まったら計画に移んの?」

    「完璧な計画が立てられるようになるまでです。」

    「その情報収集は何時終わんの?」

    「それは...」

    「どのくらいやれば良いかも、いつ終わるかもわかんねぇ情報収集が終わらんと、計画が立てらんねぇってことだよな。」

    「でだ。その計画とやらができねぇと、行動できねぇわけだ。」

    ツーストライク。走者なし、ボールなし。完全に追い込まれてしまった。私はたまたまポケットに入っていた100円玉くらいの威勢で言い返す。

    「なにが...言いたいんですか。」

    男は答える。

    「てめぇで言ってんじゃねぇか。オレは動けねぇってよ。」

    「おまえ言ったよな。振らずの三振だなんて話聞き飽きた。行動しなきゃいけねぇことぐらいわかってるってよ。」

    「どうしてそんなことが言えたんだ?」

    「てめぇが一番動けねぇってわかってるくせによ。」

    めまいがする。さっきまで立って歩けると信じていた地面が波打つように私の確固たる自信がぐらつきはじめた。

    男の言葉が頭に響く。

    「てめぇが一番動けねぇってわかってるくせによ。」

    本当はとっくにわかっていたのかもしれない。

    私は成し遂げたいことがある。志したその時から一日も怠ること無く、手間暇を惜しむこと無く、あらん限りの本を集めた。

    ほんとうはそんな事やっている場合じゃない。

    動かないと。

    まずは何よりも先に0%を0%以上にする努力をしないと。

    それがわかっていて、わかっていた、わかっていたはずなのに。

    1歩が踏み出せなかった。

    私は成し遂げたいことがある。志したその時から一日も怠ること無く、手間暇を惜しむこと無く、あらん限りの本を集めた。

    1歩も踏み出せない焦燥感をかき消すべく情報収集に邁進した。現実から目を背けるために。絶え間ない情報で目を塞いで、一番やらなくてはいけないことから目を背けるために。

    歩き尽くしたと言ってもいいほどにこの町を知った気になり、雑居ビルの裏路地、住宅街の迷路を颯爽と歩き回っていた。誰もがためらうような路を駆使して、普通なら考えられないような速さで。勝って知ったるこの町を誰よりも自由に成し遂げたいことのために。

    本を探して。何かを探して。

    そういうことにして、神保町を逃げ回っていた。百文知れど微動もせず。


    5話|生き止まり


    私はうつむきながら藁にもすがるような思いで男に聞く。

    「私の努力は無駄だったんですか。」

    男は答える。

    「無駄だな。」

    沈黙が訪れ、薄暗い路地は静まり返り、キーンと耳鳴りの様な形容しがたい音のようなものが流れる。この時、私は初めて沈黙という音を聞いた気がした。

    恐ろしいことに、そんなことすらも本の中には書いてあった。こんなことすら、先人とやらは経験しているのか。何時の世も人にあらば人生の荒波は避けがたいのであろう。

    数秒の沈黙の末、男は言葉を放つ。

    「無駄だよ。今はな。」

    私はやり場のなさと、本の雑木林を茂らせるばかりであった自身に対する怒りに任せ、声を荒らげながら言い返す。

    「無駄でしょう!行動できないのに情報集めばかり!」

    「いや、そうじゃない。」

    「行動したくないから必死に情報集めをした。」

    「本で現実を遮った!!!」

    男は少し笑った。まるで付きっきりで教えるも間違いを連発し、ふてくされながら、半ば破れかぶれで正解を言い返した生徒を見る国語教師のように。

    そしてこうつぶやく。

    「そうだ。動けねぇのに動いた後に必要になるもんばかり積み上げた。」

    「進みもしない。今さら引き返せもしない。」

    「行はきよいよい、帰れない。」

    「通りゃんせん。」

    「もっともらしい、意地だか持論だけがそこにある。」

    「誇らしげにな。」

    会話が止まり、薄暗い路地に沈黙がこだまする。それと同時にあたまの中で何かが引っかかる。今の何気ない会話の中に重要な何かがあった気がするのだ。

    ふと我に返り、現状に立ち返る。思えば私は神保町の見慣れない路地に入り込み、気がつけば行き止まりに古めかしい街灯に照らされた祠がぽつんとあるだけの、帰り道もない文字通りの袋小路で立ち往生しているのだ。

    今こうして私と度重なる会話の応酬を繰り広げるこの男も人間ではない。本当か否かは分からないが、神だかなんだかであるらしきことは認めている。

    つまるところ、この状況はつまり、怪奇現象だ。

    私は今、その真っ只中にいる。そもそも現実がどうのこうの以前に、今の私には現実に帰る手段がない。いや、そもそも、これは夢なのか?これもまた現実なのか?

    わからない。めまいがする。床にへたり込んでしまいそうだ。そう思って下を見つめると、空き缶やら何やらが所々に落ちているひび割れた、年代物のアスファルトがあるのみだ。

    何処もかしこも目に見えぬドブネズミやら何やらの轍に思えて私は倒れ込むのを留まった。体か、現状か。多分そのどちらでもあるのだろう。鉛のように重く感じる体で必死に立ち続ける。

    そして思い出す。

    さっきも思ったが、男との何気ない会話にこの怪奇現象に関わる重要な何かがあったはずだ。私は男の言葉を反芻する。

    「そうだ。動けねぇのに動いた後に必要になるもんばかり積み上げた。」

    「進みもしない。今さら引き返せもしない。」

    「行きはよいよい、帰れない。」

    「通りゃんせん。」

    「もっともらしい、意地だか持論だけがそこにある。」

    「誇らしげにな。」

    私は今、袋小路で立ち往生している。突如として口を開ける様に現れ、気がつけば口を閉じたかのように行きも帰れもしない袋小路に。

    私は怪奇現象の核心に触れた気がして考え込んでいた。それからどれほどの時間が経ったのか経っていないのか定かではない。気がつけば自らの過去を立ち返っていた。

    振り返ってみれば長いこと人生の袋小路で立ち往生している。嫌でも不意に過ぎ去ってしまった時間のことを覚えている。ずっと生き止まりじゃないか。


    6話|表耶識


    先程から少なくとも人間ではないことぐらいしかわからない男にズキズキと現実を突きつけられている。そのせいか、いらんことまで考えてしまっているようだ。男にも自身にもズキズキと現実を突きつけられている。

    もはや蜂の巣だ。いや、それ以上にひどい体たらくかもしれない。泣きっ面の蜂も可哀想と去ってゆくであろう。

    しかしだ。こんな言葉の応酬を続けたところで、よしんば終わったところで、この袋小路から出られるかはわからない。先ほど会話からどのくらいの時だ経ったであろう。

    一旦思考から離れて男の方を見る。男は腕を組み、じっとこちらを見ている。しかし返答を促そうとするのではなく、じっと何かを待っているように見える。気づいたんだろと言わんばかりの表情だ。

    この男、本当によくわからない。素っ頓狂なことを言ったかと思えば、見透かしたようなことも言う。こちらの思考が読めているのかいないのか。

    だとしたら私の"成し遂げたいこと"も見透かされているというのだろうか。私からすればこの上なく崇高であるが、こと世間一般からすれば失笑を買うであろう目標を。

    しかし男は何も言ってこない。だがそんなことをつらつらと考えているうちにこの怪現象の原因が何となく掴めてきた。

    「進みもしない。今さら引き返せもしない。」

    「行きはよいよい、帰れない。」

    「通りゃんせん。」

    「もっともらしい、意地だか持論だけがそこにある。」

    「誇らしげにな。」

    一度分かれば男の言葉はあまりにもあからさまだった。私は男に問いかける。

    「ここ?ないしはこの世界は私の心が作り出しているんですよね?私がこの心境を脱しない限り、ここからは出られないんでしょう?」

    男は満足げに笑って答える。まるでさっぱり問題がわからず長考に入るが如く、だんまりを決め込んでいた生徒が答えにたどり着いた様をみている国語教師のように。

    「そうだ。ここはお前さんの心理世界とも言うべき場所だ。」

    「いわば、阿頼耶識(あらやしき)だ。」
    ※阿頼耶識(あらやしき):仏教の世界における深層心理を表す言葉。

    「本当はやるべきとこがわかってるくせに、わかんねぇふりしてるお前にはぴったりだろ。てめぇから目ぇ閉じてお先真っ暗なんてのたまうんだからよ。」

    「だから自分でここに迷い込んだ。」

    「この薄暗い、行きも帰れもしなねぇ。文字通りの袋小路にな。」

    私は呆れてしまった。

    世の中には徳を積み、ひと目でも良いから神に会いたいと思っている人もいるはずだ。だと言うのに、私のような無神論者とも言うべき罰当たりな輩にこんな大掛かりな舞台を用意して、何を言うかと思えば「動け」の一言だ。

    「いくらなんでもこれはやりすぎでしょ!」

    「こうでもしなけりゃ気づかなかっただろ。」

    「最初に言ったじゃねぇか。「偏屈な輩が来やがった」ってな。」

    「確かに...そうかも知れませんけど!」

    どうやら私の推測は当たっていたようだ。まさしく生き止まりにある私の心情をよく表している。

    しかし、私は今ひとつ腑に落ちない事があるので今一度男に尋ねた。

    「ところで、あの祠は何なんです?私の心理世界を表すだけなら薄暗い袋小路だけで十分でしょ!」

    男はまるでイタヅラっ子のように笑っている。おまえ国語教師じゃなかったのか。流石に私も学習している。こいつが笑うとろくなことがない。

    「そりゃあ、もっともらしい意地だか持論だけが"祠"しげにあったからな。」

    「笑えねぇよ!!!」

    「ああそうだ。笑えねぇんだ。合ってるだろ?」

    確かに私の現状は笑えない。高校生は煌々生にあらず、青春の欠片もなく。実家と教室の隅を不法占拠し、うれし恥ずかしストロベリーな思い出どころか、草木の一本も生えようもない荒涼とした荒々生にあった。

    夢のキャンパスライフはレポートやら課題やらが自由な日々をまたたく間に侵食し、寝る間もなく夢の見ようもない。強烈な眠気の絶え間なく、夢うつつの日々。もはや羊なんぞではどうにもならぬ悪夢と化している。

    故に現状、非モテ童貞彼女いた事なし。桜の花びらが吹き荒れる中、人生の春を謳歌せし、リア充どもを見ては、隈のついた眼から血の涙を流す、die学生と相成った。

    ちっとも笑えない。笑いようがない。そんなところまで再現してやがったのか。ホント、なんなんだこの男。

    「阿頼耶識ですか。もっともらしいこと言いますね。」

    男はこう返す。

    「そうだ。"表耶識"だ。」


    7話|本塔の心


    その直後だった。私が立つ袋小路の薄汚れたアスファルトに亀裂が生じ、図鑑ほどの大きさのアスファルト片に変わってゆく。

    そして、むき出しなった地面から、迷惑にもコンクリートやら何やら突き破って生えてくるタケノコの如く、大きさにして3畳ほど本がせり出してきた。

    本?

    「早く乗れ~。」

    男はさも当然のように本の上に乗り、私に声をかけた。私はそそくさとその本に乗る。

    よく見るとこの本、私が昨日買った本ではないか。本はどんどんせり出し、見覚えのある別の本たちが続く。そうしてロケット鉛筆のように次々と様々な本が地面からせり出して来る。

    本の上に乗る私の目線は見る間に高くなり、だんだん地面が遠くなる。

    やがて、ウルトラマンにチンアナゴの怪獣がいたらこんな具合だろうと言ったような、大小さまざまな本が積み重なった本の塔が伸びていく。

    「何なんですか!これ!阿頼耶識って言ったじゃないですか!」

    「そうだぜ。"表耶識"だ。」

    「会話になってないですよ!!!」

    「もしかして「"表す"方」とか言うネタじゃないですよね?」

    呑気にそんなことを言っている間にも塔は伸びていく。男は一呼吸置いてこうほざきやがった。

    「書き違いだな!」

    「ふざけんじゃねぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!」

    私の怒号と共に本の塔は成長を止めた。なんとまあ荒唐無稽な景色だろう。
    神保町から実によくスカイツリーが見える。
    もしかしたら本当にスカイツリーと背比べ出来るかもしれない。

    「悪ぃな。東京タワーしか行ったことねぇんだ。」

    どうやら違うらしい。いやそうじゃない。そんなことはどうでもいい。

    「今度は一体何なんですか?」

    皮肉交じりに私の現状を表した袋小路の次は空の上だ。今度は上の空とか言う気なのだろうか。

    「寒!!!」

    どっちだ。どっちの意味で言いやがった。

    「やっぱり私の頭の中、覗いてますよね?」

    「さあな。」

    こうして眺めるとやはり、東京はすさまじい大都会である。

    様々なものが隙間無く、もはやねじ込んでやるというような意気込みすら感じるほど、ぎっしりと敷き詰められている。

    東京駅付近には敷けないなら積めば良いと言わんばかりに高層ビルが生えており、遠目から見ればチンアナゴの集団に見える。私が気にするまでもなく、こんな塔の一つや二つ増えたところで、大都会の景観は変わり映えしないのだろう。

    中央線の線路。東京駅、神田駅、秋葉原駅。都市の動脈とも言うべき山手線、中央線、南武線、京浜東北線など線路が見える。

    遠くには東京タワーが霞んでいる。どうやらあれと丈比べしているらしい。

    そう言えば東京タワーなどの展望台には望遠鏡が置いてあったような。どこぞの観光できた外国人がこの光景を見て「Amazing!!!」とか言ってそうだ。

    「他のやつには見えねぇよ。この前、渋谷で目が合ったはずのミニスカギャルからも無視されてただろ。どっちにしろ心配ねぇって。」

    この野郎。突き落としてやろうか。あまり本当のことを言うものではない。事実はときに矢となり、刃となり、蜂となり容赦なく襲いかかってくるのだ。さもなくばこの世は事実に襲撃された重症患者で溢れかえるだろう。

    「さっき、袋小路で話した時、今はまだお前の努力は無駄だって言っただろう。"今は"無駄ってことだ。ただの無駄ってわけじゃない。」

    何となく私の殺意を誤魔化そうとしているように思える。

    もっとも、出不精のわたしが怒りに任せて男に突撃したところで、闘牛を思わせるような立ち振舞でひらりと躱され、パラシュート無しのスカイダイビングに興じることとなるのだろうが。

    私は怒りの渋谷事変と傍らの男に対する怒りを誰もが皆、どう収めたのかとおったまげる程に小さく丸めて溜飲とともにを下げ、とりあえず男の話を聞くことにした。

    「いろんなもんが見えんだろ。」

    「気づいてるだろうが、この塔を作ってるのはお前が集めた本たちだ。」

    「よくもまあこんなになるまで集めたもんだ。」

    「お陰で遠くがよく見える。」

    私は景色を眺めていた。自分で積み上げた努力をまさしく眺めることなど普通はなかろう。神保町に東京タワーと背比べするほどのチンアナゴを顕現させておきながら、ついに私は一歩も動けなかったのか。

    「本塔...なんですね。」

    男の返事はない。

    それでも、今度は当たっている気がした。


    8話|積め将棋


    「これだけ本やら知識やら積み上げりゃ、いろんなことが見えるだろうし、
    わかるだろうよ。」

    「振らずの三振がどうだなんて、ただの考えなしにしか見えねぇだろうさ。」

    「んなこと言うやつぁバカげてるって、思っちまうわけだ。高みの見物ってやつだな。」

    上空は風が吹き荒れる。冷たい風だ。温かさなどこれっぽちもない。そんな風に吹かれ、私の意識は現実に戻される。下を見れば文字通り目がくらむような高さだ。この3畳ばかしの本だけが私の居場所なのだ。

    「なあ。あそこに神田駅が見えんだろ。」

    「そうですね。」

    「そっから西口の商店街沿いにちょっと行ったところのビルが見えるか?」

    私は指を指す。

    「商店街をちょっと進んで少し通りから逸れたところにある、あのビルですか?」

    「そうだそれだ。あのビルにはよ、1階にコーヒー屋があってな。すげぇうめぇんだ。しかも安い。普通の喫茶店なら、したり顔で500円とか言ってきそうなもんが300円だ。」

    「それが何だって言うんです。」

    「今言ったコーヒー。どんな味かわかるか?」

    男は変なことを聞いてくる。

    「さっき自分で言ってたじゃないですか。美味いコーヒーだって。」

    「そうだな。確かにそういった。俺にとっちゃぁすげぇうまいコーヒーだってな。」

    最初っからこんな調子だ。また耳が痛いことでも言ってくるのだろう。

    「確かにそうですけど。実際私は...」

    行ったことがない。なんせさっきまで知らなかった店だ。しかし、男から色々聞き、何となくいい店でコーヒーが美味いということぐらいはわかった。

    「私にとってうまいかどうかは分からないですよ。なんせお店に行ったことがないもんで。」

    「そりゃそうだ。実際に行ってみて、飲んでみて、それで初めてお前にとってどんな味かがわかる。結局、」

    「やって見なけれりゃ分からない。ですよね?」

    私が立つこの塔。私が積み上げてきた本などの知識が具現化したこの塔は、車がゴマ粒程に見える高さだ。色々なものが見える。いろいろな道がみえる。色々な店が見える。目指す場所があらば容易く道筋を知れよう。

    しかし、見えるだけだ。

    結局、これだけの知識を積み上げたところでその辺にあるコーヒー屋の味すら分からないのだ。知りたくば、この塔を降りる必要がある。階段も何も無い、ただ本を積み上げただけのお粗末な私の本塔を降りなければならない。

    「なんで動けなかったか、わかった気がします。」

    「知識や情報ばかり積み上げて、こんなになるまで積み上げて、それなりに色々見えるようになって。」

    「でもそれは私ではない誰かの見識でしかなくて。結局は自分で動いてやってみるしかないのに。」

    「どんどん積み上げて、地面が遠くなって、こんな高さになったときに落っこちるのが怖くなってしまったんです。」

    「だから私はこの塔の上で動けなくなった。」

    私は積め将棋やっていたようだ。


    9話|イカロスは跳ぶ


    「最後はちゃんと気づいたな。」

    男はつぶやく。

    「お前は知りすぎたんだよ。」

    「あれを知ればこれもって。どんどん重箱の隅をつつく見てぇにどんどん知っくんだ。」

    「そうすりゃ当然、あんなことやこんなことが起きるかもしれねぇってな 具合に怖気づいちまう。」

    「お前が言った通り、てめえで積み上げたもんの上で足がすくんで動けなく なっちまう。」

    自分で崖の上に登って助けてくれと叫ぶようなものだ。

    人生は否応なく崖っぷちの場面に立たされることがあるが、実際のところはどうなのだろう。案外、自分で登った崖で叫んでいる人間も多いように思う。なんともバカげた話だが、まさしく私がそうなのだから。

    「降りなければいけませんよね。そうしなきゃ、こんだけ色々積み上げたところで、あそこに見えるコーヒー屋の味も分からない。」

    といっても雑多に本を積み上げただけの塔だ。エレベータはもちろん階段も手すりもない。ロッククライミングの如く掴めそうな場所もないし、そもそもそんな事したら崩れるかもしれない。

    しかし、降りなければ。

    「その昔、蝋の羽で飛んだバカタレが伝説になりましたが、私といい勝負です。」

    なぜもっと早く行動しなかったのだろう。

    きっともっと前にとっくに行動出来てたはずだ。早とちりはいけないが、意思の上に滞るのもいけない。先人も石の上は3年までと言ってたではないか。気がつけば桃だか栗だか育ってしまうくらいの時間が過ぎ去った。

    その結末がこれだ。

    本には様々な先人の知恵が記されている。数千年とも数万年とも言える人の世は様々な人生があり、故にどの様な人間の人生も先人の誰かの人生と似通っていると言える。

    そんな持論のもと私は本を集め続けた。成し遂げたいことのために。

    あてが外れたようだ。

    こんな人生、私を除いて他になかろう。どんな書物にも載ってはいまい。

    「自分で積見上げたもののせいで動けなくなることもある。いつかそんなことが書けますかね。」

    男は静かに言う。

    「ならどうすりゃいいか、わかるだろ。」

    私は本の縁に立つ。風が吹く。その冷たさが少なくとも夢何かではないことを思い出させる。踏みしめれば少しだけ沈む様な感覚があった。

    どういう理屈で風に吹かれつつ建っているかは知らないが、ただ大きいだけの紙で出来た本であることが嫌でもわかる。いつまでもこうして神保町のチンアナゴを名乗れるとも限らない。

    目がくらむような高さだ。車がゴマ粒ほどに見える。

    3畳ほどであるが故、大して助走はつけられないが、目一杯本の端まで下がる。そして、私は出不精の体にあらん限りの力で3畳ほどの本の上を走る。一瞬にも等しい一時であったはずだが、目に映る景色は驚く程ゆっくりと流れる。

    事故に会う瞬間など今際の際、人間の脳は生き残るために一縷の望みを賭け、瞬きにも等しい時間を引き延ばす。今まさに私の脳は唸りをあげこの一時を永遠にも等しく思えるほどに引き伸ばしている。通常では考えられないような速さで思考が進む。

    しかし時は止まらない。

    少しづつ本の縁に迫り、眼下の景色が少しづつ露わになるがもう引き返せない。こんなことなら、ただ恐怖が増すだけのスロー演出はやめてほしい。

    これは映画でもなんでもない。風前の灯にあり、今にも人生の灯火が消えかけていようとも。これはまさしく私の人生だ。

    そして私はついに今生ただの一度も地に足を着けて立つこともなく。蝋の翼もパラシュートもなく空へ飛び出した。


    10話|最初で最後


    私は跳んだ。飛んだのではない。跳んだのだ。

    一文字違いで大違いと言うが、一文字違わぬ大違いは果たしてなんと言おう。

    質量60kg程度の馬鹿が東京タワーに匹敵するチンアナゴの如き、本の塔から跳んだ。さすれば重力加速度と空気抵抗になどにより算出される速度で落下する。

    当然であるが私にスカイダイビングの経験はない。何度かきり揉み状態となった末、よりによって地面がよく見える正面に落ち着いた。

    バラエティ番組の罰ゲームでブロワーを吹き付けられ、もしかしたらブルドックと人間は近縁ではなかろうかと思う場面を目の当たりにしたことがあるが、私の顔もそんな有様だろう。

    「どうだい。一歩踏み出した気分は。」

    いつの間にやら涼しい顔で男は落ちつつ私の隣に並んでだ。体勢を細かく調整し、風に乗るかの様に落ちている。

    「どうもこうもあるか!大丈夫なんですよね?」

    「さあな。」

    「おいぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!」

    地面が迫る。もう時間がない。

    人は死ぬ間際に走馬灯を見るというが、あんなもん嘘っぱちだ。私の人生の尺を考えればとっくに上映時間であろう。かくもむなしき、非モテ童貞彼女なしの涙を誘う道程が流れ行くはずではないか。

    やっぱり見えなくて良いかも知れない。

    「畜生ぉぉぉぉぉぉ!!!!」

    私は地面に激突した。凪の水面に石を投げるが如く、地面は波打ち、アスファルトはひび割れ、大地はゆらめき、地震大国にあるはずのビルを筆頭とする建物たちは次々に倒壊する。

    雑に本を積んだだけのチンアナゴの様な本の塔はほんの少しだけ水族館のチンアナゴの様にうねり、然る後、自らは本であると思い立ち、崩れはじめた。

    頂上付近の本から空を舞い、他の本たちも南極のペンギンを思わせるように次に続けと空へ飛び込んだ。集団意識に従った本たちがバラバラと空を舞う。

    「え?」

    どういうわけか私は生きている。そうでなければ先程の妙ちくりんな描写も説明できていない。

    建物や道の崩壊は進み、ガラスの割れる音や、バサバサと本が落ちる音、何かが崩れるような音がそこかしこでしている。東京は広大な廃墟群と化し、某拳アニメさながらのSHOKな光景に変わり始めた。

    「大丈夫だったな。」

    にっこり笑顔で男が言う。

    「殺す気か!!!」

    「飛んだのはお前だろ。いや跳んだか。」

    「そうでもしなけりゃこの表耶識から出られないからでしょ!」

    「まぁ。そんなカリカリすんなよ。どうにかなったじゃねぇか。」

    「終わり良かったからってすべて良しとはなりませんよ!!!」

    男は大笑いしている。

    何を呑気に!人一人の人生がかかっていた可能性もあるんだぞ!

    「出来るできないなんてな、やってみなけりゃわからねぇんだよ。」

    「何もしなけりゃどうもならねぇ」

    「失敗はしねぇが、成功もしねぇ。」

    「何もねぇってのに時間だけ消えてくんだ。」

    「何もしねぇってのはある意味、死神なのかも知んねぇな。」

    腹立たしいが言っていることはもっともだ。

    確かにあの塔の上で座り込んでいたところでなんにもならなかっただろう。出来るか出来ないか分からない、けれどやるしかない。結局、どんな成功も裏では拭いようがないこんな葛藤がつきまとったのだろう。

    今もそこかしこに本が降っている。そしてその一冊が私の頭に当たった。よりによって固い背表紙の角が当たった。

    「痛って!」

    一冊の本が振ってきた。そりゃそうだ。桃だか栗だか育つ程の長きに渡って集めた本が崩れたのだ。

    私の石頭に当たって、若干角が丸くなった本を拾う。

    懐かしい本だ。

    成し遂げたい事ができた。

    数年前、まだ高校生の頃、そう思い立ち、なけなしの小遣いで買った本だ。私はひび割れたアスファルトの上にあぐらをかき本をめくる。そこには色々なことが書いてあった。それこそ、行動するには十分な情報が載っていた。

    男が私の傍ら来て、同じくあぐらをかき、私に聞く。

    「なんだいそりゃ?」

    「懐かしい本です。数年前の本なんで今は当てにならないでしょうけど。」

    今も販売を続けている本だ。とっくに最新版が出版されているだろう。

    「新しいのを買わないと。」

    「また本を買うのかい。」

    「そうですね。でも、これで最後です。」

    もしかしたら昔の自分はとっくに何が必要なのか知っていたのかもしれない。

    「そうかい。」

    「ところでよ、お前の成し遂げたいことってなんなんだ?」

    「そこは分からないんですね。」

    「下手に覗いちゃ面白くねぇだろ。」

    私は本を見る。知らぬ間にホコリを被り、薄汚れてしまったようだ。現実世界のものは押入れの奥にでも入っているのだろう。その本の表紙にはこう書いてあった。

    「地球の歩き方 南イタリアとシチリア」


    11話|500円とカルボナーラ


    私には成し遂げたいことがある。

    高校生の頃思い立ち、正しいかどうか。これで良いのか否か。ほんとに出来るかどうか。

    何も分からない。

    何処へ続くとも続かないともしれない路へ、この本一冊を引っ提げて当時のわたしは夢へと踏み出した。今の私はこうして、神やら何やらわからんやつにこんな目に合わされて、ようやっと進もうと思えたというのに。

    昔の私は当然の様に勇み足で行動していた。

    「そいつがはじまりかい?」

    男が聞く。

    「中学生になったばかりの頃だったと思います。」

    私の意識は過去に遡る。

    中学生になったばかりの頃、家族親戚全員でイタリアンのお店に集まったことがあった。私はその店でカルボナーラを食べた。

    今でも覚えている。こんなにうまいものがあるのかと感動したことを。

    興奮冷めやらぬ次の日、私は500円玉を握りしめて近くのイタリアンの店に行った。その時、私はどう考えても最近まで小学生であったであろうこと丸わかりの謎のキャラクターがでかでかとプリントされた服を着ていた。

    古着屋の投げ売りコーナーでもこんなダサい服は置いてまい。

    イタリアンにこれほど似つかわしくない輩もそうはいないだろう。

    そんな体たらくの小学生みたいな中坊はイタリアンの店の前に立ち、店に入ろうとしたところで、メニューや値段が何処かに書いてはいまいかと、入口を引き返し、店の前をキョロキョロしていた。

    するとチョークでメニューと金額が書いてある立て看板を見つけた。私は早速、カルボナーラの値段を見た。

    「カルボナーラ 1780円」

    当時はコロナも増税もなく、某コンビニではデカイ唐揚げが刺さった唐揚げ串が120円で買えた。そんな世にあっては、数十円の駄菓子に小躍りする小僧などこれで十分だと、毎月親の給料日に紙っぺら一枚が支給されていた。

    当然、お高い方でも、その半分でもない。0が3つある1千円札だ。私は踵を返してうつむきながら家路についた。

    あのガキンチョまさか入ってこないよな?と戦々恐々としていたであろう、バイトないし店員さんは一安心したことであろう。

    「あんな高いんじゃ一生食えない。」

    あのときの絶望感と言ったら語り尽くせない。金がないということがどういうことか。あの日、小学生に毛が生えた程度の小僧は思い知ったのだ。

    しかし、そんな私にも転機が訪れた。

    母がパートをはじめたのだ。そうすると、晩飯の時間が遅くなる。食いしん坊の私にとって、夕飯が2時間以上後ろ倒しになるのは死活問題だった。ついに度重なる空腹の日々に耐えかねた私は時々夕飯を作るようになった。

    もっぱら具材切ってなんやかんやすれば完成するカレーであったが。そしてそんなものを焦がして台無しにしたこともあったが。

    中学生とは言え、月1000円では何にも出来ない。

    コンビニスイーツの1つで1/3くらいの金が吹っ飛ぶ。それ故、ガトーショコラとは何か?ガトーとはなにか?結局ガトーショコラは旨いのか?コンビニのチルドコーナに鎮座する金塊の様な形をしたそれについて、なんら知る由もなかった。

    しかし、晩飯を理由に材料にあれがいるなど、これがいるなど言うと両親は面白いように財布の紐を緩め、月一で支給される紙ッペラ数枚分であろうとホイホイ買ってくれる。

    その時、思い至ったのだ。

    「カルボナーラって自分で作れんじゃない?」

    そして私は両親にお願いしてイタリアンの料理本を買ってもらった。もちろん夕飯のレパートリー強化の名目で某有名レストランのシェフ監修の本である。

    これから親の顔より見るかも知れないそれをパラパラとめくっていくと、そこにはカルボナーラは比較的難易度が高いことが書いてあった。そして、一番カンタンなトマトソースから作り始めるようにとも書いてあった。

    「興味ねぇよ。野菜なんて。」

    泣く子も泣き止まぬお肉ゲリラであった私は、好き好んで野菜を食べる妙な種族がそこかしこにいる現実が信じがたく、弁当箱の中にカツのごとく佇む玉ねぎの豚バラ巻きフライなど見つけるたび、怒り心頭であった。

    しかし、とにかくカルボナーラが食べたかった私は油田の如くとめどなく湧き上がる不満に耐えながら、わざわざ金を払ってトマト缶なんぞ買い、レシピ通り、30分もの時間を費やし、ぐつぐつと沸き立つ眼前の憎きトマトの如く怒りを沸き立たせながらトマトソースを作り、ペンネに絡めて食した。

    「嘘だろ。肉もクリームもチーズもねぇのになんでこんなうまいの!」

    そこには飾らない美しさがあった。あれやこれやぶち込んで飾り立てるだけが料理ではないと気付かされた。何より肉がない。野菜しかない。そんなものがこんなにも旨い。私はついに野菜好きの宇宙人達と交信に成功したかのような高揚感に満ち溢れていた。

    「イタリア料理ってスゲー!」

    イタリア。

    この国に興味を持ったきっかけは間違いなくこの瞬間だった。


    12話|海原と列車


    とにかく地味。派手さも何にもない。イタリアカラーの白も緑もない。ただ赤い。けどうまい。

    何の変哲もないトマトソースに度肝を抜かれた私は勢いそのまま次々とレシピ本の料理に挑戦した。

    ペペロンチーノには驚かされた。

    油とパセリと唐辛子でこんだけ旨いとは。内容だけ見ればお肉ゲリラ憤慨もの。どころか、野菜好き宇宙人も襲撃してくるのではないかと思うほどの少い材料でこんな物が作れるのかと。

    トマトソースとペペロンチーノを足すとアラビアータが作れるなんて思っても見なかった。

    アラビアータはイタリア語で怒りん坊と言う意味らしい。それで言うなら、本場もびっくりの和製激辛アラビアータなど刃傷沙汰ではないか。今すぐヤンデレに改名しなくては。

    とにかくミートソースは時間がかかった。

    ペットボトルに入った安っい赤ワインを惜しげもなく使い、外国産の半額牛合いびき肉をふんだんに使い、夏がダメだったりセロリもダメだったりする終始不満げな母を尻目にセロリをみじん切りにして大量にぶち込んだりと、とにかく手間も金もかかった。

    半日煮込んでようやっと出来たソースはお店の出来を思わせる、少なくとも私はファミレスのそれよりは美味しいと思う渾身の出来であった。ワインでもないのに天使ないしは人目をはばかり現れるつまみ食いの妖精の取り分が思ったよりも多く、その日のうちに半分消えていた。

    海水浴でアサリを採りすぎて大量の酒蒸しを作った日はボンゴレビアンコにアレンジしたりもした。

    ピリ辛にしたら美味しいのではないかと、料理玄人ぶって輪切り唐辛子をひとつかみ放り込み、ひとつまみの間違いであったと気づく頃には鼻がツンとする香辛料の香りが漂っていた。

    白を意味するビアンコの名に恥じる、赤みがかったそれを泣きながら食べ、これが唐辛子味かと言う新たな知見を手に入れたことは今でもよく覚えている。

    そしてついにカルボナーラを作った。

    思い返せばこれが作りたくて料理をはじめたのだ。

    コツも何も分からない私は、卵を主成分とするソースがスクランブルエッグになってしまわないように、火をつけたばかりの線香のような弱火で、それはそれは時間をかけて火を通してはタイミングを見誤り、緩めのスクランブルエッグを量産した。

    確か10回以内には成功したはずだ。もうすぐで10回目になると焦った記憶が
    あるのでそれは確かだ。

    そして、小学生に毛が生えたような中学生の頃に500円握りしめ、イタリアンの店に向かったバカタレは自分でカルボナーラを作るに至った。私はそれっぽさを演出するために、ママチャリでスーパーを駆けずり回り入手したフェットチーネにソースを絡め、念願のカルボナーラを頂いた。

    「やっぱうめぇじゃん。」

    当然であるが、パルミジャーノナンタラーノではなくパルメザンチーズを使用し、薄っぺらいベーコンに特売のちっさいSサイズの卵をつかったカルボナーラである。すでに予算オーバーのため、生クリームは我が家の大蔵省にて却下となった。

    それでも美味かった。あの時2000円に迫る勢いの天上料理と知り、500円玉を握りしめ、踵を返し、もう二度と食えないのではないかとさえ思っていたカルボナーラを自分で作って食べている。案外なんとかなるものだ。

    以降はすっかりイタリア料理の沼に沈み、土日になるとパスタ料理を作るようになった。

    カルボナーラの成功体験を引っ提げ、数カ月に1回、家族で外食に行ったときは気になるメニューを注文し、家に帰ると再現レシピがないか探しては作るようになった。

    そして中学生の時間は過ぎ去り、私は高校生になった。その頃には大分料理にも慣れていた。

    そんなある日。

    早めに夕飯の支度を済ませ、何気なくテレビを点けた私はチャンネルを回して何か面白い番組でもやっていないか適当に見て回っていた。

    その時である。

    正確な番組名は覚えていないが、イタリア特集をやっていた。高校生にはあまりにもオトナチックな渋い番組であったが、すっかりイタリアかぶれになっていた私はその番組に決め、のんびり椅子に腰掛けてテレビを見ていた。

    テレビにはイタリアの町並みや料理などが写っていた。やがて映像はイタリアを走る鉄道の車窓を映す。

    ナレーションによると列車はシチリアへ向かっているらしい。

    「シチリアってどのへん?」

    何気なくそう思った私はスマホで調べてみると、ヒールのような形をしたイタリアのつま先辺りにある、海に囲まれたでっかい島を示した。

    「線路ねぇじゃん?どうすんの?」

    そう思っている間もテレビの中では列車が進む光景が流れる。やがて、列車が港に着くとでっかい船がやって来た。

    そして...

    車窓には海原が写っていた。

    客を乗せた列車が乗った船が海を渡っている。私はその奇っ怪な景色を見てこう思ってしまった。

    「行きたい。」

    シチリアに行きたい。

    そう思ってしまった。


    13話|抜錨


    当時高校生の私にはあまりにも衝撃的な光景だった。

    異国の港で列車が船に乗って海を渡りシチリアに向かう。中学生のときに食ったカルボナーラをきっかけにイタリアに興味を持ち、片手間でカルボナーラを作れるようになった高校生の今、テレビ越しに映るシチリアの夕景を眺めている。

    私はふと、高校の近くに古本屋があったことを思い出した。

    すでに夕暮れ時。もうすぐ閉店の時間だったはずだ。晩飯の支度など、必要なことはやってある。家族チャットで「作った飯適当に食べてくれ」と連絡して私は自転車をかっ飛ばし、本屋に向かった。

    「地球の歩き方」

    言わずと知れた海外旅行必携の本である。

    よく本屋で〇〇年度版と書かれた世界各国の名前が書かれた背表紙が旅行コーナの一角を占拠している光景を見た覚えがある。

    「古いやつなら数百円で買えるかもしれない。」

    閉店時間ギリギリで店に着いた私は文庫本、実用書、料理本など、様々な本とそれを収める数々の棚が鬱蒼と茂る本の森とも言うべき店内を歩き回った。

    夕暮れ時、閉店間近の薄暗い本の森を彷徨っていると、旅行コーナーとあだうつエリアに到達した。

    まだきれいで、最近発売されたばかりであろう書籍から、本当にあるのかどうかも怪しい、数十年前の名所を散りばめた若干変色している特集など。そこには様々な本があった。

    あれでもない、これでもないと日本、果ては世界のあちこちの名が書かれた本棚の背表紙を地球儀を回すが如く指さしながら探し回っていると、おあつらえの一冊があった。

    「地球の歩き方 南イタリアとシチリア」

    私は300円のそれを特に中身を見るでもなく、ひっつかんで浮かれ気味でカウンターまで持っていき、ポケットの銭でジャラジャラと金属音を奏でながら3枚掴み取り、これくださいと店員さんに言ったところで、よく見ると250円であることに気が付き、そそくさと100円を取り出してお会計を済ませた。

    日が落ちた畑の脇道をママチャリで浮き足立ち、立ち漕ぎの勇み足で帰る道すがら、こう呟いた。

    「いつかイタリアに行って鉄道で海を渡ろう。」

    なんともバカげた話に聞こえる。船で空を飛ぶぐらいのことを行っているのは重々承知だ、しかし、おかしなことは言っていない。イタリアの鉄道は本当に海を渡って、シチリアに行くのだから。

    いつか船に乗った鉄道に乗って海原を眺めよう。

    そう思ったのだ。

    そして、何処からとも無く風に乗ってやってきた肥料の香りに顔をしかめたところで回想が終わり、私の意識は現実に戻る。

    どこぞのいい加減な国でも流石に用意してくれるであろうパラシュートも持たず、東京タワーと背比べする本の塔から五体投地にて飛び降り、自らを地がうねる大地震の震源とし、建物が崩れ、本の塔が崩れ、瓦礫と本が降り注ぐことと相成った世界を現実と言って良いのか定かではないが。

    「鉄道で海を渡るか。バカげてんな。」

    笑いながら男はつぶやく。本当にバカにしているわけではないようだ。

    「で、その手に持ってる本が、夕暮れ時にママチャリかっ飛ばして買いに行った本か。」

    私はもう一度本を見る。そうだ。この本がそうなのだ。

    偶然テレビに映った光景を目にし、いても経ってもいられず、ママチャリで飛び出して買いに行った本なのだ。

    無駄に知識を積み上げて、知りすぎて、自分で積んだ本の塔から降りられなくなった私にもそんな時代があったのだ。

    そして本から目を離し、顔を上げると見慣れた裏道の袋小路にいた。

    男はつぶやく。

    「どうだい。現実ってやつは。」

    薄暗い路地を見上げる。空は茜色に染まり、そこにあろう燃えるような夕日は路地を囲むように建つ雑居ビルで見ることは叶わないが、間違いなくもう夕暮れ時だ。

    「まだ日は昇ってないですね。やっとこれから夜になりそうです。」

    「そうかい。」

    私は薄汚れた本を手にして立ち上がる。

    「もう、動けます。」

    もう洋書やらなんやらけったいな本は必要ない。

    長いこと忘れていた。イタリアを知りたい。ヨーロッパを知りたいわけじゃなかった。私はただ鉄道で海を渡りたかったのだ。イタリアで本場の飯を食いたかったのだ。

    ただそれだけだった。

    新しい本を買わないと。

    これが最後だ。高校生の頃に買った本じゃ流石に当てにならない。きっと地球の歩き方の最新刊が出ているはずだ。

    「やることがあります。もう行かないと。」

    「やることがあるか。知ることがあるじゃないんだな。」

    「もうジェンガの上はゴメンです。」

    「そうかい。」

    私は礼を言おうと男の方を向いた。

    「ありがとうございました。」

    しばしの沈黙の後、男はつぶやく。

    「じゃあ。また今度。」

    「え?今度?」

    「どういうことです?」

    男は私を置いて歩き、袋小路前の路地を曲がった。

    「待ってください!!!」

    私は男を追いかけたが、男はいなかった。

    「冗談きついって!!!」

    私の声は誰もいない裏路地に吸い込まれていく。何時だかは知らないが、また今度があるらしい。

    「とりあえず、本屋行って、そんでもって、バイトでもするか。」

    私は路地を後にした。

    きっと沢山やることがある。うんざりするほどあるはずだ。

    それでも不思議と足取りは軽かった。


    14話|突っ走る


    夢か現実かも分からない場所で私は自分の現状に決着を付け歩みだし、それら数日が経った。

    私はいつぞや神だかなんだかよく分からない男との会話で議題に上がった珈琲屋でバイトすることにした。

    いかんせんイタリアに行くには金がいる。

    そして、バイトの面接を受けるため、神田駅西口を出て神保町方面に向かう通りを歩いている。

    ここまで聞くと物語のエンドロールというか、「その後、私はイタリアに行き...」と言った具合のハッピーエンドが訪れる様に思えるが、現実はそんなに甘くない。

    いつぞやの結局なんなのかよく分からない男はこんな捨て台詞を吐きやがった。

    「じゃあ。また今度。」

    終わってないじゃないか!まだあんのかよ!

    しかし、私は呆れると同時に仕方ないとも思っていた。

    ひょんなことからイタリアに興味を持ち、本土から鉄道でシチリアに行きたいと思った。確かにそうだ。しかし、これが全てではないのだ。あの男、こちらの心情を見透かしている節があった。

    おそらくバレていたのだろう。

    実はいつぞやの私の回想には続きがある。高校生の頃にテレビで見たシチリアの夕景を映した映像にはもう一つ私を引きつける物があった。

    金髪ショートカット貧乳美少女である。

    まて!待つんだ!小説ということもあり、あまりメタ的な発言は避けたいが、取り合えず損切りは待って欲しい!

    危ない危ない。

    ひとまずこの一文で読者の離脱は3割ぐらいで済みそうだ。私だって言いたくない。だから言わなかった。物語の構成上どうしても語らざるをえないのだ。

    話を戻そう。

    まずイタリア然り、西洋には美人が多い。そして全ての路はローマに通ずると言う言葉がある。つまり、全ての美人はローマに通ずるというわけだ。イタリアには世界1の美人が居て然りなのだ。

    そしてこの世は突き詰めれば原子や、それらを構成するさらに小さい量子などが構成している。つまり小さいとはこの世の全てなのだ。大は小を兼ねるというが小さいはこの世のすべてを兼ねている。この世で最も無限という概念に近いとも言えるだろう。

    にも関わらず、世のバカタレどもはやれ巨乳だ!Gカップだ!!!などと、くだらんことをひんしゅくを買うバカでかい声で熱弁している。

    恥を知れ!愚か者!!!

    確かにそこにありながら、ついに見ることは叶わない。しかし確かにそこにある。可視化された現実と虚実の間とも言うべき神秘がわからぬというのか!

    そんな私にとってシチリアの夕景の中、潮風に吹かれてたなびき、光り輝く髪を押さえる金髪ショートカット貧乳美少女はドストライクであった。

    「イタリア行きてぇ~~~!!!」

    当時高校生のバカタレには効果てきめんだった。

    鉄道で海を渡ってシチリアに行き、あわよくば金髪ショートカット貧乳美少女と夕景を見るというのが本当の目的である。

    そのためにはヨーロッパについて色々知り、まるで知識人であるかのように余裕たっぷりに振る舞えることが望ましいと思ってしまった。その後は皆さん御存知の通り、神保町で終わりなき本集めと塔建築をする羽目になった。

    しかし、今の私は違う!

    行動することの大切さを思い知り、今こうして資金集めをするべく、神田の珈琲屋に面接を受けに行こうとしているのである。

    いつぞやの大迷走に比べればだいぶ成長したものだ。

    そんな具合に感慨深い気分に浸りながら、注意散漫に歩き、不意に現れた居酒屋の立て看板を避け、ワックスでバッチリ決めたサラリーマンとぶつかりそうになりつつ歩いた。


    15話|ストレート


    愚にもつかぬ回想にふけりつつ、路を歩いているとバイト面接先のお店に到着した。

    神田駅西口を出て神保町方面に通り沿いを少し歩き、途中の十字路を折れた先にある珈琲屋である。

    スマホで調べるとお店のサイトが有り、その情報によるとこの店は昭和初期に建てられた店のようだ。当時のメニュー表には太めのマッキーペンで書いたような太字で「コーヒー50円」と書いてあった。

    確かに、今でこそちっさい唐揚げ4個の串が200円するが、数年前はでっかい唐揚げが5個の串が120円だったのだ。昭和初期ともなればコーヒー50円というのも十分にありえるだろう。

    入口近くには珈琲豆や器具などの商品が陳列された棚と、明らかに電子対応していないチンと音がなりそうなレジがあった。元は白かったであろうそれは薄汚れてねずみ色になり、過ぎ去った時代の哀愁が漂っている。

    オレンジがかった白熱電球に照らされた縦長の店内を奥に進めばモダニズムと哀愁が入り混じった年季を感じさせる装飾や椅子、テーブルなどがあった。

    しがない一日、レポートか本の灰学生であるが故、バイト経験などほとんどない。

    しかし、高校生の頃、イタリアに興味を持ち、あれやこれや調べる中で、当然珈琲に関する知識も知ることとなった。

    週末にイタリア料理を作る工業高校あらため馬鹿高でレポートに明け暮れ、幾度となく日の出を垣間見る荒校生にあった私にとって、夢うつつの深夜を乗り切るためのコーヒーは非常にありがたい存在であった。

    気がつけばコーヒーにドはまりした。残念ながら学生に本場のエスプレッソマシンをお迎えする余力は無く、3000円程度でどうにか揃えた器具で豆を挽いて珈琲を淹れるのがやっとだった。

    しかし、こんなものでも結構美味い一杯が出来る。気がつけば珈琲とは高校生から大学生の現在に至るまでそれなりの付き合いだ。そして今も変わらずコーヒーを淹れている。

    これがバイト先を珈琲屋にした理由の一端でもある。しかし、やはりあの神保町の体験のなかで語られた店というのが主だった理由であることは間違いない。

    入口近くにある、珈琲豆の棚を見る。ブラジル、コロンビア、マンデリン、グァテマラ、モカ、エチオピア。有名どころは一折あり、ブレンドの豆も数種類置いている。

    多少珈琲豆の目利きができる私からして、陳列されている豆はどれもこれもこの物価高のご時世には信じられないくらい安い。

    一体どんな味なのだろうか。

    いつぞやの神だかなんだかよく分からない男の話によれば、安いのにかなり旨いとのことであった。面接が終わったら一杯飲んでいこう。

    私はレジ横のカウンターまで行き、女性の店員さんに面接に来た旨を伝えると、薄っぺらいボードの様な白い扉を開け、私を室内に案内した。

    従業員室とでも言うのだろうか。案内された部屋はとても狭く、その中に何某かの書類や伝票のようなものが雑然と散りばめられたデスクが鎮座し、キャスター付きの椅子には女性が座っていた。

    ジーパンに白いYシャツの上から黒いエプロンを付けたポニーテールの坂井泉水似の女性がいた。初恋のお姉さんという概念を体現せし美人である。

    「店長。バイトの面接の方だそうです。」

    案内してくれた店員さんが声をかける。どうやらこのお姉さんが店長らしい。

    「ありがとう。後はこっちでやっとくから。」

    そう言うと案内してくれた店員さんは従業員室を出ていった。結構強めに閉めた気がするが、バタンといった物音はしない。薄っぺらい扉だったのでおそらく軽すぎて空気抵抗が一種のダンパーの様な役割を果たしたのだろう。

    そんなことを考えていると、店長は適当な椅子を用意して私に座るように促した。それを聞き私はそそくさと店長の前に置かれた椅子に座る。

    「それじゃあ、面接やろっか。」

    そこから面接が始まった。

    質問の内容はスマホでバイトの面接と調べれば出てくるような一般的なものだった。特段述べるような内容でもないので割愛する。そんなこんなで当たり障りない面接に終わると思っていたが、そうではなかった。

    「なぜバイトしようと思ったの? なんか本当の理由があるように思えるけど?」

    先程これと同じ様な質問があったので、テンプレのような回答をした。しかし、見透かされていたようだ。そんなに顔に出ていただろうか。というかこんな理由が顔に出るってどんな顔したらそうなるんだ。

    私は正直に話すことにした。

    謎の男の一件で、こういった相手は下手に隠したり濁したりしないほうが良いと思い知ったからである。なれば、ド真ん中のストレート返球だ。

    「イタリアに行って金髪ショートカット貧乳美少女とシチリアの夕景を見る ための軍資金調達です。」


    16話|笑劇の1コマ


    少し前の私なら間違いなく言えなかっただろう。しかし、神保町の路地裏の一件は私のプライドや羞恥心を粉微塵にした。今の私は無敵とも破れかぶれとも言うべき状態なのだ。例え相手が女性でそれも大層な美人であろうとお構いなしである。

    無駄に集めすぎた本の中にも書いてあった。

    「人に言えもしない夢は叶えようがない。」

    どうしても叶えたいのだ。なら、こんなところで尻込みするわけにはいかないではないか。

    虚飾も、ひねりも、言い換えも、悪びれもない。あまりにもドストレートな返答の後、しばしの沈黙が流れた。そして、店長は...

    「あはははははははははははは!!!」

    爆笑していた。

    それはもう見事な大爆笑だ。腹を抱え大笑いし、息が続かないのか若干顔を赤らめ、時折見えるうなじが、なんとも言えぬ色気を醸し出していた。

    しかし、冷静に現状をこんな風に分析できるくらい私は落ち着いていた。

    クリスマス男子シングル競技歴20年近く。彼女いた事なし。女友達もなし。マチアプやる勇気なんてなし。まごうことなき童貞の道程を歩みしド貧乳派大学生だ。

    相対するは酸欠で死にかけている坂井泉水似でプロポーション抜群の美女である。

    私のストライクゾーンからは外れているのだ。

    そのお陰で血気盛んな学生の身でありながら、この様な状況でも取り乱さずにいられる。そうでもなければこんなどえらい美人相手にキョドらすに面接などできようか。

    店長の大爆笑は空気抵抗がダンパーになるような薄っぺらい従業員室の扉を貫通し、モダニズムと哀愁漂う店内にこだました。然る後、先ほど私を案内した女性の店員さんが薄っぺらい扉を蹴破るようにして、従業員室に入ってきた。

    「ちょっと!店長!外に丸聞こえですよ!何があったんですか?」

    「い、いひひひひ。いやこっ、この子がアハハハハ!!!」

    「この人が何だって言うんですか!」

    全く持って話にならないので私はことのあらましを店員さんに説明した。

    「あはははははははははははは!!!」

    爆笑である。

    モダニズムと哀愁漂う店内に坂井泉水似のお姉さんと、MのPVに出てくる浜崎あゆみ似のお姉さんのなんとも愉快なアンサンブルが響き渡る。

    危ない危ない。

    よく見たらこの店員さんも結構な美人じゃないか。とても慎ましいものをお持ちで私のストライクゾーンを数cm掠める素晴らしいお姉さんだ。

    美人口密度が高すぎる。何なんだこの部屋?

    そして数分後、二人の笑いが収まり、なんとも愉快なアンサンブルは無事閉幕した。

    私は荒唐無稽な状況を振り返る。

    何処とは言わないが素晴らしいお姉さんと、何処とは言わないが慎ましく実に素晴らしいお姉さんと、イタリアかぶれ大学生の3人が狭苦しい従業員室に押し込められている。

    何なんだこの状況?

    しばらくして店長が話し始めた。

    「面接してても当たり障りない回答だったし、特に問題なかったんだけどさ。」

    「なんかバイト始めた理由がちょっと違う気がして気になったんだよね。」

    「うちの店さ、良い年頃の美人が多いし、結構下心持った奴もバイト志望で来るからさ。」

    「店長!そう言うことならこの人、アウトじゃないですか?」

    「確かにそうだけどさ。ここまで来るといっそ清々しいよね。」

    「てかこの人、貧乳美少女とか言ってましたけど...」

    店員さんがジト目で私を見てくる。おそらく私のストライクゾーンを気にしているのだろう。

    「私のストライクゾーンは非常に小さいので。」

    「えぇ?じゃあどのくらいならいいの?」

    「店長!その言い方、私のこと一番小さいって思ってますよね?」

    「気になるな~」

    「店長!!!」


    17話|有頂店


    結構愉快な職場だ。

    私のバイト経験が少ないのは過去に働いていた駅前のコンビニが原因である。

    次の列車に乗るまでの短い時間に一分一秒を争いつつタバコを買いに来るサラリーマン。

    一分一秒でも早く競馬新聞を読みたい、間違いなく働いておらず暇を持て余しているであろうおっさん。

    大体の商品は私が陳列しているというのに、会計する時に私がバーコードを読むために商品を持とうとすると激怒する潔癖症のお姉さま。

    客も店員も全員ピリピリしていて、店内は常に重苦しい空気が漂い、時には銭やら怒号やら飛び交い、癇癪持ちのおっさんが持ってる杖でレジをぶっ叩いたりもした。

    幸いなことに走れば10秒で交番にたどり着ける好立地にあったため、あまりにもひどいときは警察に来てもらうこともあった。ちなみになぜ走れば10秒と知っているかについては詮索無用だ。

    それに比べれば愉快なお姉さんに囲まれたこの職場はサンクチュアリともいえよう。

    私は声高に貧乳の素晴らしさを語る。

    「知ってますか?ゼロって無限の可能性があるんですよ?」

    「バストサイズもAAとか言ったりするんです!珈琲豆なら一番のハイグレードじゃないですか!」

    「バストサイズなるものを考案した人も小さければ小さいほど良いと考えていたに違いないんですよ!」

    「うん。これなら大丈夫だね。」

    「店長!それじゃあ一番小さい私が範囲外だから大丈夫って意味じゃないですか!」

    「とりあえず採用ね。明日から来れたりする?」

    どうやら採用となったようだ。

    一体今までのやり取りのどれが採用に至る決定打になったかは全く持って分からないが、とりあえずこれで軍資金調達の第一歩は踏み出せたようだ。

    「ちなみに牽制のために言おうと思ってたことがあったんだけど、君には必要ないかもね。」

    「なにを言おうと思ってたんですか?」

    そう聞き返すと店長は神妙な顔持ちになった。

    「落ち着いて聞いてくれ。うちにいる女性は私含め全員...」

    「全員?」

    「既婚ないしは彼氏または彼女持ちだ!」

    「なんだ。そんなことですか。」

    私がそう言ったあとに店員さんがぼそっと、「略奪趣味?」とか言っていた気がするが気のせいだろう。

    しかし、結構恐ろしいこと言ってるのは確かだ。

    もし私が巨乳礼賛派ユラル・チチスキーであったならば、スタイル抜群のお姉さんたちが全員手出し無用と知った暁には、吐血搬送ICU直行沙汰であったに違いない。

    誰だ?そいつ?

    「ちなみにアタシは嫁がいるから。まあ、アタシがそう言ってるだけなんだけどね。」

    「え?それって?」

    「その子、アタシの彼女だから。」

    なるほど。ただの店員さんではなく彼女さんだったのか。確かにこの国では法的に同性婚は認められていない。そうなれば嫁と思っていたところで彼女になってしまうのか。度し難い世の中である。

    しかし、それはさておき店長とは趣味が合いそうだ。にっこり笑顔でわかってるね~!と言わんばかりのグットポーズを向けてくる。

    「いいセンスだ!」

    どうやらこのお方、失敗もちっぱいも笑わない素晴らしい人格者のようだ。

    「お褒めに預かり光栄です。」

    終始不満げな店員さんあらため彼女さんはさておき、その後は初出勤日の調整やその他諸々の話をし、最後は私がお店の珈琲豆を使って珈琲を淹れる運びとなった。面接の中でかれこれ5年近く珈琲を淹れている話はしていたので自然な流れではあった。

    私はカウンター内にある豆の容器からマンデリンを選んで淹れることにした。

    珈琲はドリップの方法についてあれやこれやと議論されているが、珈琲の味の8割以上は豆の出来で決まってしまう。なので、うまい珈琲にはそもそもうまい豆が必要不可欠だ。

    店長から渡されたのは結構な深煎りの豆だ。最近ではあまり見かけない、
    油でテカテカの真っ黒な豆だ。

    私はそれをいつも私用で飲んでいるときの分量になるように計量し、少し粗めに挽いた。そしていつも通りかつ深煎り豆を入れるときの温度にお湯を調整し、ゆっくり目に珈琲を淹れていた。

    すると店長が話しかけてくる。

    「へぇ~。結構うまいじゃん。君、深党でしょ。」

    「あぁ。淹れ方でバレましたか。」

    「豆見ただけで湯温を80℃付近にして、ゆっくり淹れるんだから結構な深党だね。」

    そんな具合に話をしていると珈琲のドリップが終わった。

    そして淹れた珈琲を飲んでみると...

    「うまっ!」

    月並みどころかそれ以下の感想であるが、本当にうまいものを口にすると人は饒舌に語れないのだ。

    かなりうまい。

    そして何より、ちらっと見えたカウンターのメニュー表に信じられない程安い値段が書いてあった。

    何なんだこの店?

    そんなことを考えていると、私が淹れた珈琲を飲みながら話す店長と彼女さんの声が聞こえてくる。

    「結構うまく淹れてあるね~。」

    「確かに。これなら即戦力ですよ。」

    「でも業務用の機械とかは流石にね。」

    「逆に言えばそれと接客だけ教えれば十分ですよ。」

    「そうだね。」

    ご高評いただけたようだ。

    好きこそものの上手なれとは言うが、今回の一件はまさしくそれだ。

    その後は趣味の珈琲の話や情報交換などで盛り上がりつつ、淹れた珈琲を飲みつつ過ごし、しばらくしてから帰宅する流れになった。

    別れ際には店長からブレンドの豆を頂いた。一部窓のように透明に成っている袋からはテッカテカの深煎り豆が見えた。店を一通り見てわかったことであるが、どうやらこの店は基本的に深煎りだけ置いてあるらしい。

    もう間違いなく旨いであろう珈琲豆を手にし、私はご機嫌な気分で店をあとにし神田の店から神保町方面へ向かう商店街を歩く。

    順調な滑り出しだ。

    そんなふうに思い、鼻歌でもうたいだしかねないほど、半ば有頂天で歩いている私は、謎の街路時に迷い込んでいることに気づかなかった。

    気がつけば、いつぞやの一件を彷彿とさせる、薄暗い路地に迷い込んでいた。ふと我に返ると辺りには見慣れぬ路が広がっている。

    いつぞやの男の捨て台詞が頭にこだまする。

    「じゃあ。また今度。」

    私は思わず叫んだ。

    「またかよ!」


    18話|アイスコーヒーは濃いめで


    珈琲屋で私の採用面接が行われていたのは午後3時だ。

    色々あって、面接が終わる頃には夕暮れ時になってしまったが、今歩いている路地を見上げると雨が降って来そうな薄暗い曇り空が広がっている。

    両脇には雑居ビルが立ち並び、上を見上げれば雑居ビルの壁にブロック塀のダンゴムシの様にチラホラと、室外機がへばりついていて、細長い空には所々絡まった電線や電話線が走っている。

    薄汚れた道には所々空き缶や何時のとも知れぬ雑誌や広告の成れの果てが落ちている。

    まるで都市伝説にでも出てきそうな灰色の世界を進むと道が開け、面接の後に歩いた神保町へ続く神田の商店街が現れた。

    神田は飲み屋やラーメン屋に鰻屋、果てはいわゆる大人の店など。様々な店が立ち並び、夜となく昼となく、口を空けて通りの雑踏から抜け出す客を待ち構えている。眠らぬ街とも言うべき場所だ。

    夕暮れ時にも関わらず人っ子一人いないのはおかしい。

    通りを進むと見覚えのある曲り道が現れた。そして、大通りからそれると、そこにはさっきまで面接でお世話になっていた珈琲屋が現れた。

    モダニズムと哀愁が漂う、それでいて何処か懐かしく居心地の良い店であったはずだ。しかし、この降り出しそうな曇り空の下、人っ子ひとりいない灰色の世界に佇む店は廃墟の様な雰囲気を醸し出していた。

    私は店の中に入る。

    手動の扉を開くと誰もいない店内に虚しくベルの音が鳴り響いた。様々な人で賑わっていたはずの店内は静まり返り、無造作に置かれた食器や珈琲器具などが妙な生活感を醸し出している。突如として人だけが居なくなったような薄気味悪さが漂っていた。

    無人の店内を眺めていると勝手に明かりが点いた。薄暗い店内に白熱電球のオレンジがかった光が満ちて、冷ややかな店内を照らした。

    そして、示し合わせたかのように背後からベルの音が鳴る。振り返るとそこにはオールバックの様な髪型の老年とは言わないが、消して若いわけでもない黒い袴を着た男がいた。

    しかし、私は驚かなかった。いつぞやの神保町の一件で最後に男がこんなことを言っていたからだ。

    「じゃあ。また今度。」

    何もせず、もっともらしいことを言って一歩も動けなかった私であるが、今では目標を胸に動き出している。また会うとしても、なにかにぶち当たって
    立ち往生している時だろうと思っていたが違ったようだ。

    「また、会いましたね。」

    面倒事が袴を着ているような男に対し、せめてもの抵抗に私から声をかける。聞き覚えのある、というか数日前に聞いた声が帰ってくる。

    「また今度って言っただろ。」

    「にしては早くないですか。」

    男は店の奥の席に腰掛ける。店の奥にある小さな丸いテーブルと、その両側に向かい合って椅子が置いてある場所だ。一度でもいいから喫茶店のあんな席で麗しの乙女と談笑でもしたかったが、これから始まるのは談合でもしそうな袴のおっさんとの長話である。

    「ひとまず、珈琲でも淹れてくんねぇか。お前さんもいるだろう?」

    幸か不幸か。今の私は面接後に渡された間違いなくうまいであろう珈琲豆を持っている。先ほど面接の後に珈琲を淹れさせてもらったので、大体何が何処に有るか覚えている。

    私はキッチンに立ち、男に聞く。

    「多めに淹れといたほうが良いですかね?」

    「さあな。お前さん次第だ。」

    どういうわけか、まだ働きもしていない店で客に珈琲を淹れることとなった。よもやこんな世界で保健所の方々がたちどころに現れ、営業許可もへったくれもない私を担ぎ上げ何処かに連行するとも思えない。

    私はアイスコーヒーを淹れることにした。

    面接の帰り、入口近くの席に座っているお客さんが頼んでいたアイスコーヒーを見たが、透明で気泡がない上質な氷を使っていたことを覚えている。溶けづらい良質な氷を使えば時間が経過してもあまり味に影響は出ない。

    男に確認をとる。

    「アイスコーヒーで良いですか?」

    「なんだい。自信がねぇのか。」

    「頭冷やすには丁度いいじゃないですか。」

    「お前さんが欲しいんじゃねぇか。わかった。アイスコーヒーにしてくれ。」

    私は少し濃いめに淹れることにした。


    19話|失踪


    私は面接帰りに貰った深煎り珈琲豆で濃いめのアイスコーヒーを3人分ほど抽出することにした。

    きっとまた長話になる。

    私と男で半々にして1.5倍のたっぷりサイズにすることにした。男が断れば私が余剰分を飲めば良い。そう思いつつ、結局未来の自分は濃いめに多めに入れた自分を間違いなく称賛するだろうと言う謎の予言じみた実感がある。

    アイスコーヒーは結構贅沢な淹れ方をする。

    通常のホットコーヒーの抽出に使用する豆の倍量を使用して、高濃度に抽出し、氷で冷やしつつ、溶けた氷により適正な濃度に調整する。つまり濃いめに淹れて氷で薄めるのだ。しかし、これが結構難しい。

    まず、抽出の段階で適正な濃度の珈琲を抽出するには慣れがいる。しかも濃いめに淹れるため、細挽きの粉で比較的高温の90℃以上のお湯により抽出するため、急ピッチで抽出が進む。抽出の後半にはアクや嫌な苦味などが出やすい珈琲の性質上、チンタラしていると珈琲みたいなゲテモノに大変身する。

    余談であるが、これらは熱湯による抽出を行う際の注意点であり、冷水を使用したカフェイン抽出温度にも満たない長時間低音抽出、つまり水出しコーヒーに於いては問題にならない。もっとも、とんでもない量の豆を使用し、一晩かけて抽出した後、とんでもない量の豆をバッサリ捨てる財布や損得勘定といった様々な覚悟があるならばの話であるが。

    珈琲好きでアイスコーヒーを淹れられる人は大抵、豆の挽き具合や煎り具合、豆やお湯の量、温度、抽出時間についてある程度の指標を持つ人が殆どである。数多の失敗が生み出した秘伝とも言うべき指標だ。長年の経験により、薄いも苦っがいも飲み分けた私にも当然明確な指標がある。

    酸いと甘いは知らない。世間や常識といった圧力と若気の至りに他ならぬ熱気で抽出されたエスプレッソの様な人生にそんなものはない。もはや砂糖食っているのではないかと思うほどジャリジャリになったエスプレッソを嗜むイタリアの乙女があらば、カプチーノの様な日々が流れるであろうに。

    話がそれた。さて、抽出の段階ですでに結構面倒くさいが、このままでは原液とも言うべきおおよそ飲用に適さない状態である。ここから氷を入れて冷やしつつ、濃度調整を行う。加減を間違えればアメリカ人も顔をしかめる薄っい珈琲になる。

    通常の倍の豆を使用したうえでの失敗は財布にも精神にもダメージが大きい。

    おまけに冷蔵庫で作った気泡混じりの低品質な氷で冷却すれば、すぐに氷が溶けてなくなり、薄めるを通り越して単に薄くなるリスクが上る。よしんば適正濃度かつ十分に冷やすことに成功したとしても氷はほとんど溶けて無くなっているだろう。

    ビールのごとくがぶ飲みするものでもないため、談笑しているうちに生ぬるい健康志向の常温コーヒーになってしまう。故に、気泡が少い氷を適正量加えて適正な温度かつ濃度に調整する。この店がいい氷を使っているのは確認済みだ。製氷機を確認すると大きめの透明な氷が詰まっていた。

    私と謎の男を除き、誰もいないこの異界にある店で、なぜ氷が冷えているのかは謎であるが、気にしても仕方ない。

    抽出した珈琲の原液が入っている容器に氷を加え、少し混ぜてアイスコーヒーが完成した。もう何年も何回も入れている私からすれば、特に難しい作業ではなかった。そして、店にあるたっぷりサイズのグラスにアイスコーヒーと新たに保冷用の氷を入れて男に確認をとる。

    「濃いめ多めで作りました。砂糖とミルクはどうしますか?」

    「ブラックでいいぜ。量はそんまま。」

    そういえばこの男、無類の珈琲好きであった。

    私は少し大きめのグラスに入った若干濃いめのアイスコーヒーを奥の席に
    持っていく。

    「どうぞ。」

    渡すやいなや男はさっさとアイスコーヒーを飲んだ。私もとりあえずこの奇っ怪にも程がある状況に一息つくため一口飲むことにした。

    「へぇ。結構ちゃんとしたやつじゃねぇか。」

    珈琲はそもそも旨い豆がないとどうにもならない飲み物だ。そして私自身は特別なことをするでもなくいつも通り珈琲を淹れた。

    「旨っ!」

    なのに出来上がったアイスコーヒーはびっくりするぐらい旨い。つまり面接後に店長さんがくれた豆が抜群に旨いということになる。

    キンキンに冷えた琥珀と漆を混ぜたような色合いの液体から、香ばしい焙煎香と深いコク、キリっとした苦みが広がる。かと思えば、喉を通るときにはスッといなくなる。濃厚でありながらしつこくない。これほどのものがただの趣味程度の珈琲好きでも淹れられてしまうとは。

    安すぎるメニューと言い、旨すぎる豆と言い、ホントあの店どうなってんだ。

    「にしても、結構濃いめじゃねぇか。そんな自信ねぇのかよ。」

    「そりゃぁもう。いつぞやの一件では大分長話した挙句、空の上まで飛ばされたりしましたからね。」

    「もしかしたら今度は宇宙かもしんねぇぞ。」

    「せっかく淹れた珈琲が台無しになりますよ。」

    「珈琲盾にするやつぁ、お前さんぐれぇだよ。」

    しばし珈琲をしばき倒した後、私は尋ねる。

    「それで。今度は何なんです?」

    男は思い出したようにアイスコーヒーが入ったグラスを置いた。おい!忘れてただろ!こんな不気味な場所に呼び出しといてそれはなかろう。じっと睨む私の目線をかいくぐるように逸らし、男は口を開く。

    「今のお前さんじゃこっから東京駅に行くもの難しそうだからよ。」

    「どういうことですか?ここは神田ですよ。一駅で東京駅じゃないですか?」

    男は続ける。

    「神田の店で面接やった後、神保町に向けて歩いている途中、よくわからねぇ道に迷い込んで、またぞろ神田にあるはずのこの店にいるんだろ。」

    「そうですけど。」

    「おかしくねぇか?なんで神保町に向かって神田の店にいるんだよ?」

    「確かにそうですけど、またこの前みたいに異界に連れ込まれているんでしょう?」

    「だったらどうしてここが神田だって言えんだよ。」

    「えっ?」

    「お前さんは今、何処にいるんだ?」

    言われてみればそうだ。ここは異界の神田っぽい場所にある珈琲屋っぽいところでしかない。しっくりこないニュースみたいな口上でないか。今こうして呑気にアイスコーヒーを飲んでいるが、冷静に考えれば私は現実世界から消えてなくなり、失踪しているのだ。


    20話|ブラジルに在る


    この前の一件では神保町の裏路地を歩くうちに異界に飛ばされた。最終的には私の心情もとに男の皮肉たっぷりのセンスが効いた「表耶識」という結末であった。そして、そこから抜け出すには自身が停滞する原因に気づき、現状の心境を脱する必要があった。

    だとしたら私がこの異界、ないしはこの店から抜け出すにはまた一つ、何かに気づく必要があるのだろう。さもなくばいつまでも異界の珈琲屋で不法営業を続ける他ない。

    だとすればここが何処であるかはさして問題ない。私がどう在るかということに問題がある。

    「ここが何処かよりも重要な事があるんじゃないですか?」

    「確かにそうだな。」

    「お前はこの前の一件に懲りて動き出した。」

    「しかし、それだけじゃ"目標"とやらにはたどり着けねぇよ。」

    「もっとも、この前は俺を騙そうとしたみたいだがな。本当の目標があることぐれぇわかんだぜ。」

    「あなたは何処まで見えているんですか?」

    「見えるんじゃなくて、見るだがな。」

    一旦落ち着くため、私はアイスコーヒーを飲んだ。そして何の気なしに店内を見ると、いつの間にか隣のテーブルに湯気をあげるホットコーヒが置いてあった。勘弁してくれ。ほんとにあった怖い話ですら過去の話という救いがあるのに、たった今怖い話ではどうしようもないじゃないか。

    「もしもし。」

    私でも男のものでもない声が響く。まるで見えないだけでそこに誰かがいて電話をしているように。こちらの心境など素知らぬ顔で話は続く。姿形もなく顔もへったくれもない相手にそんなことを言っても仕方ないのだが。

    「えっ?東京行きたい?」

    「おまえたしか蒲田辺りに住んでたよな?じゃあまず適当なバス乗って蒲田駅に行ってくれ。」

    「駅が2つある?ああ。京急蒲田駅じゃくてJRの方な。そんで京浜東北線の大宮行きに乗れば勝手に東京駅に着くぞ。」

    「いくら掛かるかって?そんな高くねぇぞ。え?バイト頑張ってて結構貯めてる?じゃあ尚の事問題ないじゃん。」

    「なんか噛み合わねぇな。」

    「いや、言うほど時間かかんないって。てか久々に話すけど、お前今何処いんの?」

    「はっ?ブラジル?なんでそんなとこいんだよ!」

    「てか先に言えよ!電車もクソもねぇじゃん!」

    「アマゾンで川下り?ホントなにやってんのお前?」

    どうやら久々に電話してきた相手が東京への道順を尋ねてきたらしい。ブラジルにいるとは言わずに。しかし、久々に話す相手の現在地など気にすることのほうが少なかろう。だとすれば今まで電話越しに話してきた人達の中にはサバンナでライオンに隠れなが電話していた奴も居たのかも知れない。

    そんなくだらないことを考えている、不意に外から水の音がした。そう言えばずっと曇り空だった。とうとう降り出したのだろうか。水の音は次第に大きくなり、流れるような音になり、まるでそこそこ水量のある河の流れの様な音となった。

    河?

    私がそう思うと同時に店内のあちこちでミシミシと軋むような音が響き、そう間を置かずに、フローリングの床や壁を突き破って出てきた木の根や枝がまたたく間に成長して生い茂り、入口のドアからは膝下くらいの高さの水流が押し寄せてくる。椅子やら何やら押し流し、店の奥に陣取る私達の方へ流れてきた。

    「今度は一体何なんです!」

    私がそう叫ぶと店の壁は一昔前のテレビでコントに使っているセットの様にバタバタと倒れ始めた。幸いなことに私達の席へ瓦礫や天井などが落ちてくることはなかった。一体どういうわけかは知らないが、こんな状況に常識を解くもの無意味だ。

    先程までの降り出しそうな空の下、薄暗い店内にいたことが夢であったかのように気がつけばアマゾン川のほとりを思わせる場所に私達の席がぽつんと佇んでいる。こんなものを見れば夢とやらも現実を見ろと言い出しそうだ。貘もきっと右往左往しているに違いない。

    先ほどまで黙っていた男が話す。

    「さっき、お前は何処にいるって聞いただろ?」

    「まさか、こんなところから東京駅まで一駅だなんて言わないだろうな?」

    「めちゃくちゃですよ!何なんですか!これは?」

    「アマゾン河。」

    「見りゃわかりますよ!」

    「さっきまでわかんなかっただろ。自分が何処にいるのか。そんなこともわかんなかっただろ。」

    「それが何だって言うんですか?」

    男は淡々と話を続けた。

    「今のお前と同じじゃねぇか。」

    「これの何処が私だって言うんですか?」

    私と男の間に沈黙が流れる。そして、男は私を見て話す。

    「目指すものがあるってぇのに、てめぇの有様がわかってねぇ。」

    「そんなんでどこ行こうってんだよ。」


    21話|夢オチに現実を見る


    私には男が何を言っているかよくわからなかった。

    「そんなことないですよ!イタリアに行くには金がいるんです!だからバイトやろうとしてんじゃないですか!」

    旅先の情報はいつぞやの一件で自分で積み上げた本の塔からおりられなくなるくらいに情報を集めている。もはや金ぐらいしか問題はないはずだ。

    すると男は聞き返してくる。

    「それで?お前さんの本当の目標は何なんだい?」

    「見ないんですか?」

    「それじゃあ面白くない。」

    「そんなことでこんな目に合わせるんですか!」

    「それとも、人に言うことも出来ねぇしょうもねぇもんなんか?」

    「そんなわけないでしょう!!!」

    私は声を大にして言い返す。

    「私は鉄道で海を渡ってシチリアに行き、あわよくば金髪ショートカット貧乳美少女と夕景を見たいんですよ!!!」

    私の声は熱帯雨林に響き、水面では魚が跳ね、鳥や猿と思しき鳴き声がこだまする。なんだ!阿呆とでも言いたいのか!!!

    その後、男は...

    「はっはははははははははははは!!!」

    大爆笑であった。腹を抱えてひとしきり笑い倒し、息を整えたと思えば、机に突っ伏し、然る後、アイスコーヒーを一気に飲み干した。無事だったのか。アイスコーヒー。

    そして時折思い出し笑いしそうになるのをこらえながら話しだした。おい!男なら失敗とちっぱい笑うべからずと教わらなかったのか!

    「それが本当の目的かよ!ぶっちゃけた話、イタリアより美少女のほうがメインだろ。」

    「違いますよ!!!金髪ショートカット貧乳美少女です!!!!!!」

    「失敬。失敬。」

    鶏と烏骨鶏ぐらい違うのだ。ちゃんとしてくれ!いけないけない。ひとまず落ち着こう。私は濁流や倒壊にすら耐えたアイスコーヒーを飲んだ。それなりに時間が経ったはずだがまだ十分に濃い。量も十分だ。やはりたっぷりサイズ濃いめにしたのは英断だった。

    お互いに。

    そんなことをしている間に男はまた思い出し笑いで吹き出した。何時まで笑っているんだ!話が進まないじゃないか!!!

    熱帯雨林の中。アマゾン川のほとりにアンティークの机と椅子を置き、アイスコーヒーを飲む大学生と思い出し笑いする謎の男が一人。

    なんなんだこの状況?

    ゲルニカにも負けず劣らぬ珍妙な小休止を挟み、男は語りだす。

    「でもよ。それじゃあやっぱり、お前さんは自分の状況がわかってねぇな。」

    「どういうことです?」

    「お前、さっき面接で大層な美人さんと話してたな。」

    「そうですけど。残念ながらスタイル抜群でストライクゾーンではありませんでしたが。」

    「お前の如き彼女いた事なし非モテ童貞の道程を突っ走る輩が、ストライクゾーンじゃなかったくらいでどもらずに話せる相手かよ。」

    言われてみればごもっともだ。確かに私のごとき輩が緊張せずに話せるレベルの美人ではない。そもそも、私はあまねく女性とされる方々とどもらずに話すこと自体不可能だ。そう考えると色々つじつまが合わない。嫌な予感がする。

    「まさか、バイトの面接に行くために神保町から神田に向かっている道中、すでに異界に迷い込んでいたなんて言いませんよね?」

    男はもったいぶるように間を置いてから話す。

    「両手に花でごきげんだったな。お前。」

    「畜生がぁ~~~!!!」

    私は怒りに震える時、人は獅子おも脅すほどの咆哮を放つと知った。確かに店長さんもその彼女さんもスタイル抜群のお姉さま方であり、奇しくも私のストライクゾーンから外れてはいた。

    だがしかし!

    なにがとは言わないが、誠にすんばらしい職場であることは違いないのだ!しかもそんなところから採用をいただき、こんなバチクソうめぇ珈琲豆まで頂いたにも関わらず。

    夢オチはないだろう!!!!!!

    いや、夢ではないのか。少なくとも今確かめる様に飲んだアイスコーヒーの冷たさは本物だ。しかし、現実の珈琲屋にスタイル抜群のお姉さま方がいるかと言えばそんなことはないのだろう。

    なぜなら現実だからである。やつはいつも私の様な輩に冷たいのだ。七転八起きなど熱血漫画の主人公くらいだ。この状況が物語っている。まさしく今の私は七転罵倒糠喜び自棄っぱちである。

    そんな私を男は哀れみの目で見て話す。

    「まぁ。そう気を落とすなよ。」

    「なんです!今更!!やかましい!!!」

    「まあ聞けって。結構重要な体験だったんだぜ。」

    「あの幻の何が重要だって言うんです?」

    「お前の目的の...」

    「金髪ショートカット貧乳美少女です!!!」

    「と話すならよ、目の覚めるような美人とちゃんと話せる必要があるんだぜ。」

    「それこそさっきの面接みたいにな。」

    「今のお前にそれができんのか?」


    22話|帰国


    しばしの沈黙が訪れる。

    確かにそうだ。

    高校生の頃、たまたま見たテレビに映っていたシチリアの夕景が映える金髪ショートカット貧乳美少女に会うにはイタリアに行く必要がある。そのためにイタリアについて色々調べ、調べすぎ、今こうして資金調達のためバイトに踏み切ろうとしている。

    しかし、それだけで良いのだろうか。

    そもそも私は女性と話すことすらままならない。撤回しよう。女性と会話というものをすることはほぼ不可能だ。水をかぶったように冷や汗をかき、垂れ流し、しどろもどろの挙動不審者になることうけあいだ。それも美人となれば一体どうなるやら。

    振り返ってみれば確かに自分の有様をわかっていない。まさしく、先程の姿形も見えない謎の人物の会話の如く、ブラジルから電車で東京に行こうとしているようなものだ。それこそ、今の私では東京駅にも行けない。

    「ブラジルから東京に行くならまず日本にいかないとですよね。」

    そもそもの話し、日本にいなければ電車もへったくれもない。私で言うならばイタリア以前に女性と話せなければ当然、金髪ショートカット貧乳美少女と話すことなど不可能である。

    「ちげぇな。」

    しかし男からすれば違うようだ。

    「確かに。今俺達はブラジルにいるわけだ。」

    「だったら東京に行くにはまず日本にいかないと...」

    「アマゾン川に日本行きの便が来る空港があんのか?」

    そうだ。東京に行くには羽田空港にいかなければ。

    そうなると羽田空港に行く便が来るブラジルの空港にたどり着かなければ。

    その空港に向かうバスないしは電車がある場所にいかなければ。

    そんな物がある場所まで行ける船を見つけなければ。

    そのためには多少なりとも人がいる村にいかなければ。

    そのためにはまず自分の現在地を知らなければ。

    「私達は今、アマゾン川の何処にいるんです?」

    男は満足げに答えた。

    「案外、時間かかんなかったな。」

    「自分が何処に在るか。こういうことだったんですね。」

    「そうだ。そしてそれは遠くに行こうとするほどより突き詰める必要がある。」

    男がそう言うと、辺りに霧が立ちこめた。ホワイトアウト。多少意味は違うが、まさしくそういった言葉が似合う様であった。しばらくすると風が吹き、霧を散らした。視界は開け、食器の音と、談笑する人たちの声が響く見慣れた珈琲屋の席に座っていた。

    もうずいぶん前に淹れた気がするアイスコーヒーのグラスには水滴が滴っている。私は落ち着くために一口飲んだ。

    丁度いい。

    淹れたては濃いめにしたせいで少々苦かったが今は丁度良いくらいの味になっていて氷もまだ残っている。

    「お前、これからどうやって女性と話せるようになろうかとか考えてるよな?」

    「そうですけど?そうしないと始まらないわけですし。」

    「さっきアマゾン川のどこぞから東京に行くためにどうするか色々考えただろ。」

    「そうですね。言うのは簡単でしたけど、うんざりするくらいやることがありましたね。」

    「それと同じだ。」

    「お前は目の覚めるような美少女と普通に話せるようになりたいんだよな。」

    「はい。シチリアの夕景のなか潮風に吹かれる金髪ショートカット貧乳美少女と話したいです。」

    「なんでそうもスラスラと言えんだよ。どんだけ本気なんだお前は。」

    「でだ。それを叶えるには女性と話せるようになろうとしたところで無駄なんだよ。」

    「どういうことです?」

    「言っただろ。突き詰める必要があんだよ。」

    またぞろ難題が始まった。美少女と話せるようになるために女性と話せるようになろうとしたところで無駄。

    この男と話していると頭がキリキリする。長時間脳を酷使したせいで頭が熱を帯び始めた。ファンが唸りをあげるPCの如く。異国の美女のショート動画を見すぎて熱くなったスマホの如く。

    私はまたぞろアイスコーヒーを飲む。たっぷりサイズにしておいてよかった。まだ半分ぐらい残っている。

    そして私は思考の森へ立ち返る。美人と話せるようになるにはどうすればいいか。私は考え込んだ。森の奥へと分け入り、進み、野を越え、山越える最中でドツボにはまった。ふと我に返り、周囲を見渡すと隣の席のご老人たちは席を立っていて、女子大生と思しき方が近くに席に座り珈琲を飲み始めていた。

    それでもわからず、さらにそれなりの時間を使って考え込んだ。そして一つの答えにたどり着く。

    「そうか。美人と話せるようにならないといけないのか。」


    23話|微睡みの珈琲


    気がつけばガラス張りの入口からは斜陽が射し、夜の帷が降りようとしていた。客足は少なくなり、店内には客がポツポツと席に座っていて、そのさまがそこはかとない侘しさを漂わせている。

    そんなことを思っていると、淹れたての珈琲の香りが鼻をかすめる。すっかり忘れていた男の方を見ると、男はちゃっかり珈琲を注文していたらしく、知らぬ間に注文したであろう新しい珈琲からは湯気があがっている。

    男はそれを一口飲むとカップを置いて答えた。

    「元の木阿弥だな。」

    「そうですね。」

    「だが、ちゃんと突き詰めて考えないとわかんなかっただろ。」

    「そうですね。」

    「美人と話したいなら美人と話せるようにならないといけねぇんだよ。」

    「それにはまずバイト先でも何でも良い。とりあえず女性と話すんだ。」

    「そんでもってちゃんと話せるようになったら今度は美人に話しかけるんだ。当然袖にされることの方が多いだろうがな。」

    「そんでもってようやっと美人と話せるようになったら...」

    「異国の美人と話せるようになる必要があるんですよね。」

    「そういうわけだ。」

    「もちろんやることはこれだけじゃねぇ。どうやったら練習場所を確保出来るかとかも考える必要がある。」

    「大変ですね。本当に。」

    「それが突き詰めるってことだろ。」

    「そうですね。」

    今になって思う。バカげた夢だと思っていたが、そんなもんじゃなかった。今こうして話して、考えて。ようやく自分の馬鹿さ加減がわかった気がする。女性を前にするとしどろもどろ、冷や汗でずぶ濡れの不審者になりかねない私が追うにはあまりにもバカげた夢だ。

    動かざること馬鹿のごとし。走る向こう見ずもまた然り。

    どうしようもない阿呆じゃないか。こんなバカげた夢に本気になって、もはや無謀であると今になってわかって。そのうえで私は諦めようなどとは微塵も思っていない。

    「馬鹿ですね。」

    「今更だろ。」

    「そうですね。馬鹿だったし、馬鹿げてるし、馬鹿やろうとしてる。」

    「馬鹿野郎だな。」

    「そうですね。あれやこれや調べて、知った気になって、ようやっと動き出したかと思えば向こう見ずです。」

    「それでもこんな今の方が、ずっと夢に近づいています。」

    「そうだな。」

    「だから帰って来たんでしょう。ここはもう現実なんですよね。」

    「お前が面接に行った気になっていた日の前日に戻ってきた。」

    「あの日自体、夢だったんですね。」

    「少し違うが、まあ。そんなもんだ。」

    確かに。少し違うのだろう。現に私が淹れたアイスコーヒーはここにある。結構時間が経ったのだろう。アイスコーヒーのグラスに着いた結露は流れ落ち、グラスの底付近には小さな水たまりができていた。濃いめに多めに淹れたはずのアイスコーヒーは少し薄くなってもう二口ぐらいしか残ってない。

    「もう十分だな。」

    「また会いますかね?」

    「それはお前さん次第だ。」

    「そうですね。」

    とう言い終えると唐突に眠気が襲ってきた。そこそこの量のアイスコーヒーを飲んでいたはずなのに瞼が重い。

    くぐもったような男の声が聞こえる。

    「じゃあな。馬鹿野郎。」

    「一言…余計…ですよ。」

    そう言えたのだろうか。定かではない。その時私は起きていたのだろうか。
    寝ていたのだろうか。どちらにせよ私は眠気に耐えきれず目を閉じた。その刹那、カランとグラスから音がしたような気がした。


    24話|半現半夢


    「すいません。」

    声が聞こえる。少し前に聞いたような声だ。まるでいつぞやの美人の店長が話しかけてきているようだ。

    「すいません。」

    先ほどよりもはっきりと聞こえる。私は目を覚ました。どれくらいの時間が経ったのだろう。どうやら私は店の奥の席で机に突っ伏して寝ていたようだ。確か面接のときに店長がこの店は18時に閉まると話していたはずだ。もっとも、それは現実のふりをした幻の様な時間の出来事であったのだが。

    もしそうなら男と話しているうちに夕暮れ時になっていたので、眠り呆けているうちに閉店間際になってしまったのだろう。半分寝ぼけていた私は素っ頓狂なことを聞いてしまった。

    「今日って何日ですか?」

    相手は不思議な顔をしていた。

    「今日は...」

    何だこいつ?といったような戸惑った顔をしながらも答えてくれた。どうやら、男が言っていたとおり、私が面接に行ったと思いこんでいた日の前日のようだ。

    そしてこれまでのことを思い出し始めた。

    そうだ。一度面接に行く前に店の雰囲気や珈琲の味を確かめるべく、下見に訪れていたのだ。どうやらその道中、あの男にしてやられ、夢の世界に引きずりこまれたらしい。

    しかし、最後に男が飲んでいたホットコーヒのカップが目の前に置いてあり、しかも私が淹れたアイスコーヒーのグラスも私と男の分で2つ机に置いてあった。数時間は経過しているだろう。グラス底付近は水滴が溜まって小さな水たまりを作っていた。完全に夢というわけでもないようだ。

    「すごいよく眠ってましたね。」

    相手は話しかけてくる。ジーパンに白シャツの上から黒いエプロンを着ている。動く度にポニーテールが揺れていた。よく見るととても美人だ。坂井泉水を思わせる初恋のお姉さんという概念を体現せし美女だ。

    「店長?」

    まさしく、あの異界で見かけた店長がそのままの姿でそこにあった。残念ながら貧乳過激派の私からするとストライクゾーンからは外れているが文字通り目の覚めるような美女であった。そしてようやく私は完全に目を覚ました。

    「あれ?君に私が店長だって伝えたことあったっけ?」

    戸惑うのも当然だ。あちらからすれば私は常連でも顔見知りでもない。初対面である。

    そして私は次第に顔が熱くなってきた。やはり美人は凄まじい。おそらく私は耳まで真っ赤になっているのだろう。非モテ童貞彼女いた事なしにはあまりにも刺激が強すぎる。

    しかし、熱はすぐに引いた。

    これが現実であるならば、子細はどうあれ、勝手に珈琲を飲み、ふてぶてしく恥も知らず眠り呆けていたことも現実ではないか。しかもお金を払った記憶がまったくない。ともすれば食い逃げにも劣る無法者である。

    「あっ、あの、お勘定って...」

    私は慌てて財布をまさぐりつつ店長に聞いた。

    「ああ。大丈夫ですよ。ちゃんと頂いているんで。うち、先払いなんで。」

    「確か、あの...あれ?どうしてかな?確かに男の人に払って貰ったはずなんだけど?なんか顔が思い出せないな。」

    一体あの男は何者なんだ。結局、神か妖怪かもわからん始末だ。

    しかし、あの不思議な体験は確かに現実のことだったのだ。

    今更気づいたが、幻の世界で店長に貰った珈琲豆の袋がテーブルの上、私の向かい側に置いてあるからだ。しかも袋は空けられていて、豆が減っている。間違いなく私はアイスコーヒーを淹れているのである。

    「まあ。それはともかく。もうすぐ閉まるから。そんなに急がなくていいからぼちぼち帰る用意してくれる?」

    店長の言うことはごもっともだ。帰る用意をしないと。しかし、私にはまだ一つやることが残っている。ポニーテールを揺らし、うなじをちらつかせながら去る店長の背中に問いかける。

    「あっ、あの!」

    声が上ずってしまった。女性慣れしていないにも程があるだろう!!!

    なんだかが胃が痛くなってきた。

    しかし、ここで引くわけにはいかないのだ。


    25話|意思の礫


    「なんだい?」

    店長は振り返り返事をした。

    「あっ、あの、その...私、明日ここで面接予定の者です。今日は、その、 お、お店の雰囲気とか見たくて来ました!」

    モールス信号か!句読点が多すぎる!!!

    「ああ!君か!明日面接予定の子は。そっか。で、どうだった?」

    「その、すっ、すごい美味かったです!珈琲!」

    どもりすぎて言葉の順番やら何やらヒッチャカメッチャカになっている。改めて考えると、いくら幻の様な世界であったとは言え、あの時の私はどうしてこんな美人相手にスラスラ喋れたのだろうか。

    「それはよかった。そうだ!良ければもう面接やっちゃわない?」

    「え?でも履歴書とかは?」

    「それは明日でいいよ。どのみち制服とかは今日中には渡せないから。」

    「ただ肝心の面接さえやっちゃえば明日はスムーズに進むから。お互いそのほうが良いでしょ?」

    「あっ、りがとうございます!!!」

    なんだか日本語まで怪しくなってきたがどうやら面接に進むようだ。

    「それじゃやっちゃおっか。」

    そう言って店長は従業員室まで私を案内してくれた。その後はいつかの面接の様な流れで進んだ。しかし少し違うことがあった。

    どうして働きたいのか。

    この質問がついぞ訪れない。

    その他の質問については若干どもりながらも喋ることは丸暗記していたのでなんだかんだ進んだが、やはり一番の難所が何時になっても訪れないとなると気が気でない。

    「そっかそっか。じゃあ最後の質問だけどさ。」

    店長の顔が少し真剣になった。来る。きっとあの質問が来る。間違いない。
    私はそう思った。

    本当にどうしていつぞやの私はあんなバカげた理由をでかい声で言えたのだろうか。

    しかもそんな阿呆でさえ一度は無難なことを言ってやり過ごそうとしたのだ。それを今度は現実で、ある程度正気を保った状態で目の覚めるような美人に向かって言わなければならないのだ。

    面と向かって話せば嫌でもわかる。この人に下手な隠し事は通用しないだろう。瞬きにも等しい、永遠にも思える時間は過ぎ去り、ついに店長が口を開く。

    「なぜバイトしようと思ったの?」

    まるで断頭台にでも立たされたような気分だ。中世では町中の広場で処刑が行われ、民衆の見世物や娯楽のような側面も持ち合わせていたとも言う。

    処刑されるもの中には、逃げ出そうとするもの、泣きわめくもの、無実を訴えるもの、暴れるもの様々な者たちがいた。

    しかし、そんな輩に対し民衆は根性無しなどとやじを飛ばしたという。人一人の今際の際にケチを付けるなど人の身に余る醜悪さである。

    しかし、そんな人間もどきともう言うべき人の皮を被った化物どもですら静まり返らせるものがいたそうだ。

    覚悟を決めた人間である。

    様々な思いを抱えつつも、あの分厚い刃のもとに今、自らの生を散らそうとしているにも関わらず。黙し、穏やかに、それでいて諦めるでも無く断頭台に立ち、じっと目を閉じてその時を待つ者があったという。

    人一人の覚悟にはそれほどの力があるのだ。

    なれば私も先人に習い、覚悟を決めよう。恥じることは一つもない。ただ一つ、ブレることも無く、願い続けた。願うだけでは、何もせねばどうにもならぬと知り、突き詰めなければたどり着くこともないと知った私の意思を焼き付けるが良い!!!

    「イタリアに行って金髪ショートカット 貧乳美少女とシチリアの夕景を見るための軍資金調達です。」

    私は真剣の如く真剣に。
    石おも貫かん意思を貫かんと。
    鉄の意思を貫かんために。
    今ここに意思の礫を投げつける。

    思いの外、私の心情は穏やかであった。断頭台に立たされながらなぜ、穏やかに終わりを迎えた者があったか私は悟った。


    最終話|動かざること馬鹿の如し、走る向こう見ずも然り。


    私の心は晴れやかであった。このまま終わっても良い。これで終わっても良い。やり尽くした。後はただ天に任せるのみ。聖なる光に包まれ、いま天に召されんとする私の精神は現実に戻りはじめ、次第に景色が鮮明になって行き、女神のような美しき人を目の当たりにする。

    「あっははははははははははは!!!!!!」

    女神は爆笑していた。それはもう見事な大爆笑だ。腹を抱え大笑いし、息が続かないのか若干顔を赤らめ、時折見えるうなじが、なんとも言えぬ色気を醸し出していた。

    店長の大爆笑は余り厚くない従業員室の扉を突き抜け、モダニズムを哀愁漂う店内にこだましたようだ。然る後、店員さんが何事かと薄っぺらい従業員室のドアを蹴破らん勢いでこじ開け、やってきた。

    よほど薄いのだろうか、結構な勢いで空けたのにバタンと言う音がしない。おそらく空気抵抗がダンパーの様な役割を果たし、薄っぺらい扉が壁へ激突するのを防いだのだろう。そう言えば前もこんなことを考えていた気がする。

    「ちょっと!店長!外に丸聞こえですよ!何があったんですか?」

    「い、いひひひひ。いやこっ、この子がアハハハハ!!!」

    「この人が何だって言うんです?」

    全く持って話にならない。このままでは進まないので私が事情を説明する他ない。すでに店長相手に一生分に相当する冷や汗を流したばかりだと言うのに今度は店員さんにも伝えなければならぬとは。

    もはやここで隠したところで店長経由に伝わることは自明の理。なれば一片の後悔も無きよう腹に力を込め、声高に伝えようではないか。

    「イタリアに行って金髪ショートカット貧乳美少女とシチリアの夕景を見る ための軍資金調達を目的とし、ぜひ働きたいと申した次第です!!!」

    それを聞いた店員さんは口元を抑えて蹲った。店長とは対照的に黒のYシャツを着た背中はプルプルと震え、何かを必死でこらえているようだ。そして…

    「あはははははははははははは!!!」

    爆笑である。坂井泉水似のお姉さんとMのPVに出てくる浜崎あゆみ似のお姉さんのなんとも愉快なアンサンブルが響いていた。

    まるでいつぞやの光景を見直しているようだ。

    危ない危ない。

    この店員さん何とは言わないが慎ましくそれはそれは素晴らしいものをお持ちの美人さんであった。全神経を集中させ、心頭滅却絶対零度不動大山の如き心にあらねば、たちまち茹でダコの如く真っ赤になり、地につくほどに鼻の下を伸ばすことうけあいである。

    何処とは言わないが乳トン力学における万乳引力とも言うべき力に抗い、目線を引っ剥がした。しばし美女と美女の愉快なアンサンブルが続いた後、本題に戻った。

    「そっ、フフ。そっれがハハ。理由ウフフなんだね。」

    「てっハハ、店長!あんまり笑っちゃ、ちょっと待ってください!アハハははは。」

    「何かおかしなことでもありました?」

    「「あはははははははははは!!!!!!」」

    それから色々あったが、結果的には採用いただく事となった。

    ちなみに店員さんはやっぱり、店長さんの彼女さんだった。

    そして、私からすれば同様の理由で2度目の採用となるが、果たして私の発言の何処がどう作用し、採用に至ったかは依然として不明である。

    その後はこの前の一件のとおり、いや二件か。私は珈琲を淹れて店長と彼女さんに振る舞い、しばし談笑。

    とはいかず、毎分心拍数百回のハムスターと小競合いするかのごとく心臓を鼓動させ、湧水を思わせるほどに冷や汗をかき、万乳引力に耐えながら、しどろもどろに句読点を乱用したモールス信号のような返答を繰り返した。

    そしてどうにかこうにかやり過ごし、すでに1袋持っているが、もう一袋
    珈琲豆の袋を店長から貰い、店を後にした。

    本当は今日中にあらかた済ませて明日の作業をスムーズに進めるはずだったが、店長曰く、思いのほか笑撃が強かったようで、後の作業は明日に回すことにしたようだ。そんなわけで私はまた明日この店に来ることになった。

    神田の店を出る頃にはすっかり夜の帷が降りていた。辺りは暗くなり、街灯と立ち並ぶ店の明かりが商店街を照らしている。

    私は神保町方面に続く神田の商店街を歩いていた。

    神保町には幾度となく訪れた。

    そして値引きの安い本を引っ提げては自室に帰ってひたすら情報収集と言う名の停滞にあり続けていた。かと思えば妙な輩との浅からぬ縁をもつ要因ともなった。

    神保町。

    言わずと知れた古書の町だ。

    様々な人が手にし、様々な念を宿し、輪廻転生の如く様々な人の手を渡り、様々な人たちの人生の傍らにあり続けた本たち。そんな摩訶不思議な本たちの集う町。

    そりゃあ。神だか妖怪だかいても不思議ではない。

    神田の商店街を過ぎ、時折街灯がポツポツとあるだけの暗い路地を進んで神保町駅に向かう。もう迷うことはない。

    やることがいっぱいある。うんざりするほどある。きっとまだ気づいていないこともある。もしかしたらすでに手遅れかもしれないこともあるかもしれない。しかし、全ては行動して突き詰めなければようと知れないものばかりだ。

    様と知れず、計り知れぬ恐怖だけがある。まさに妖怪とも言うべきものだ。もしかしたらあの男はあやふやな可能性や未知が生み出す不安の妖怪なのかも知れない。

    「動かざること馬鹿の如し。走る向こう見ずも然り。」

    不意に男の声が聞こえる。振り返っても、辺りを見回しても誰もいない。不思議なことに、あの男の顔を思い出そうとしても、頭の中で輪郭がぼやけてしまって思い出せない。店長が戸惑っていたものきっとこんな風に化かされたかのような気分であったからだろう。

    私は道を進む。

    もうすぐ路地を抜け、駅がある通りに出る頃だ。

     
     
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