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Event Report:第5回「日記祭」

    2024年12月8日(日)、東京・下北沢の商業施設 BONUS TRACKにて第5回「日記祭」(にっきさい)を開催しました。このレポートでは、イベント当日の様子のほか、トークショーの内容を一部割愛してお伝えします。最後までお楽しみいただけますと幸いです。それではどうぞ💁

    - 日記祭とは?

    その名の通り、日記をたのしむイベントです。
    誰かの日々の日記を"本"にまとめた「日記本」即売会や、日記にまつわるテーマのトークショーや音楽ライブ、作品展示なども行っています。
    2022年4月にスタートし、毎年4月と12月に開催しています。

    - 「 自分の日記を形にして売る」即売会の風景

    日記祭のメイン企画「日記本」即売会は、日記屋 月日スタッフの話し合いの中から生まれました。開催日にあわせてつけ始めた日記や、普段ご自身がつけている日記を本にして本人が販売するというスタイルで、出店方法は2種類あります。
    1つは「直接販売」と呼んでいて、出店者が直接お客さんに本を売る方法。もう1つは「代行販売」と呼んでいて、当日までにお預けいただいた本をスタッフが代わりに販売するというものです。

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    直接販売の様子1(屋外会場)
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    直接販売の様子2(屋外会場)

    「日記屋 月日」は、日記の魅力について考えたい方や、これから日記をつけてみたいと思った方が集まれる拠点を作りたいという願いからできたお店です。ドリンクスタンド併設の書店を運営しているほか、オンラインコミュニティ「月日会」を運営したり、ワークショップを企画したり、出版部門があったりと、拠点としての活動は多岐にわたります。

    書店として取り扱う本は、
    (1)新刊本(ISBNバーコードがついていて、出版社から出ているもの)
    (2)古書
    (3)リトルプレス(一般流通していない自主制作本)
    の3つに分類しています。もちろん、すべて日記の本です。

    そしてこの3つのうち、売上のほとんどはリトルプレスで成り立っています。
    文学、文芸のフィールドですでに活躍している方の本もありますが、「普段は別の仕事をしていて、日記をつける習慣がある」という方が自分のために作った小部数の冊子や、創作したい気持ちの先にあったのが日記形式で、それを形にした本といったように、いろいろな方の暮らしが綴られたものが並んでいます。

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    代行販売の様子1(屋外会場)
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    代行販売の様子2(屋外会場)

    「誰かの日記を読んでいると、なんだか自分も日記をつけたくなってくる」。そんな体験をされた方も、中にはいらっしゃるかもしれません。
    それから、お店を運営していると「ここで日記の本と出会ったことがきっかけで、私も作ってみました」とおっしゃるお客さんとの出会いもあります。
    日記が日記を呼び、こうした即売会の回を重ねるごとに、さらに多くの日記が集まるようになりました。

    日記祭には、初めて"本"を作ったという出店者の方も多く参加しています。
    初めての印刷所選び、初めてのWordやインデザイン、初めての入稿・・・と苦労する瞬間もあれど、おそるおそるでも「何かつくってみたい」という気持ちと向き合った時間は、かけがえのないものであると信じています。

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    - それぞれの目線からじっくり考える、トークショーのレポート

    日記祭では、第1回から様々なトークショーを企画してきました。

    <これまでのトーク>
    第1回 福尾匠さん×栗本凌太郎(月日)「個人サイトを立ち上げて日記を書く」
       阿久津隆さん×柿内正午さん「他者に日記を公開することについて」
       金川晋吾さん×内沼晋太郎(月日)「ワークショップ『日記をつける三ヶ月』を終えて」
       鷹取愛さん×中村暁野さん「日記を出版することについて」
     
    第2回 田中祐介さん×内沼晋太郎(月日)「人はなぜ日記を綴るのか」
       野中モモさん×藤原隆充さん「日記を「わざわざ」自主出版する -最も私的な個人メディアとして-」
      植本一子さん×滝口悠生さん「あなたを書く/わたしが書かれる日記」

    第3回 古賀及子さん×phaさん「どうしてオンライン上で日記を書くのか」
      松本篤さん×月日スタッフ「わたしたちは思い出す――”私”の記録は”あなた”の記憶とどう交差するのか」

    第4回 古賀及子さん×マンスーンさん「内省したり反省したりする私たち」
       大崎清夏さん × ウメヤさん × ヒライシカナコさん「私たちは日記を連ねる」
        
    1時間という短い時間ですが、お招きしたゲストの方に縦横無尽にお話していただく時間を設けています。
    「日記」と一口に言っても、様々な切り口や考え方があります。すでに日記をつけている人にもそうでない人にとっても、日記が開かれた存在であってほしいと考え、このトークショーを企画しています。 

    第5回でも、様々な視点のお話を聞くことができました。


    <トーク1>植本一子 × 山本浩貴
    「 日付のなかで表れる 」

    日記だから書けることはあるのか。
    書き手として日記文学を盛り上げてきた植本一子さんと「いぬのせなか座」の活動の中で表現としての日記を考える山本浩貴さんに、日記だから(日付があることで)表現できることや、日記で表現を続けることが「生きること」にどのように繋がるかなど、お話していただきました💭

    植本一子(うえもと・いちこ)
    写真家。1984年広島県生まれ。2003年にキヤノン写真新世紀で優秀賞を受賞。2013年、下北沢に自然光を使った写真館「天然スタジオ」を立ち上げる。著書に『働けECD わたしの育児混沌記』『かなわない』『家族最後の日』『降伏の記録』『フェルメール』『台風一過』『愛は時間がかかる』、小説家・滝口悠生との共著『さびしさについて』、写真集に『うれしい生活』などがある。

    山本浩貴(いぬのせなか座)(やまもと・ひろき)
    1992年生。小説家/デザイナー/制作集団・出版版元「いぬのせなか座」主宰。小説や詩や上演作品の制作、書物・印刷物のデザインや企画・編集、芸術全般の批評などを通じて、生と表現のあいだの個人的な結びつき、または〈私の死後〉に向けた教育の可能性について検討・実践している。主な小説に「無断と土」(『異常論文』『ベストSF2022』)。批評に『新たな距離』(フィルムアート社)。デザインに『クイック・ジャパン』(159-167号)、吉田恭大『光と私語』(いぬのせなか座)。企画・編集に『早稲田文学』2021年秋号(特集=ホラーのリアリティ)。

    ▼2015年ごろを振り返る

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    山本浩貴(以下、山本):植本さんとは今日が初対面でして。

    植本一子(以下、植本):そうなんです。お会いできてうれしいです。

    山本:僕はもともと小説を書いている中で、2015年に「いぬのせなか座」というグループを立ち上げて、批評やエッセイを書いたりデザインをやったり出版をやったりしています。自分の文章を書く姿勢について考えるときに「日記、大事だな」という感覚はずっと抱いてきて、2015,16年ごろから「いぬのせなか座」のメンバー同士でも「日記だ!」という感じでやっていたんですけど、植本さんの『かなわない』(タバブックス)が出て。

    植本:これまでに一番売れた商業の本が『かなわない』なんです。タバブックスという出版社から出される前に、自費出版で出したものなんです。
    その当時は自費出版で出す人がまだそんなにいなかったんですよ。
    絶対そんなに売れないだろうなと思って100部ずつ刷ったんですが、思いのほか売れちゃったんです。また100部ずつ増刷していって、1400部刷った時点でタバブックスから声がかかって、商業出版として出すことになったんです。

    山本:その当時は、文学フリマなどでも売ったりしていたんでしょうか?

    植本:いやいや。確か、当時は友達のライブハウスで手作り味噌とセット売りしたり、通販でも売ったりしていましたね。

    山本:手作り味噌と! いいですね。
    文フリは規模がどんどん大きくなってきていますが、初めはもう少し思想や批評寄りのイベントとして始まったようなところで。2015年あたりもまだ言ってしまえば暗くてインテリ感があるみたいな雰囲気で、「ここでどうやってやろう?」という印象がありました。けれどその辺からこだまさんが出されたり、エッセイのところが広まっていって。「リトルプレス」という言われ方も全然されていなかったんですよ。あるとすれば「同人誌」という感じでした。かなり変わったなという印象です。

    植本:私の場合は夫がミュージシャンで東京のアンダーグラウンドシーンにいたから、zineカルチャーみたいなのが割と身近にあったんです。本当にホッチキス留めの作品集というか、エッセイだったり写真だったりを家のコピー機で刷って、500円ぐらいで友達のレコードショップで売ってもらって.....ってカルチャーに馴染みがありました。今だと、どちらかといえば製本されたものを作って売るというのが自然になっているような印象があるかな。

    ▼いぬのせなか座『座談会9』

    植本:『座談会9』(いぬのせなか座)をいただいて読んでみていたのですが、すごいボリュームで。こんなふうにお話できるんだろうかってドキドキしながら今日来ましたよ。

    山本:紙面上ではひとり語りが延々続いていたりして、いったいどんなやつなんだって思いますよね(笑)。友達3人でどれだけそれぞれの生きている日々を言葉で交わし合えるか、ということを「座談会」と呼んでやっています。ふつう座談会というと、対面で話した内容を文字起こしして雑誌であれば編集者が手直しをするというような流れが主流かと思います。ただ、うちの場合はGoogleドキュメントというウェブ上のサービスを使って、それぞれ勝手に自分の思っていることや最近あったことを書きまくる。後からそれを編集して一本にまとめるというやり方をとっています。

    植本:そうか、対面で座談会をしているわけではなくてお互いに書き込んでいるからなんですね。実際にあんな感じの会話していたらちょっとどうしようと思って(笑)。

    山本:あんなふうには喋れません(笑)。長い文章を継ぎ足したり、順番を入れ替えたりして制作していますね。初期段階は他の2人に向けて言葉を投げかけるような形で始めます。そして他のメンバーからの言葉を受けて、自分が数日かけて考えたことや、最近見たもの、読んだものなどの感想が混ざり合っていくような形で文章を共同で仕上げていきます。あらためて考えると、交換日記や往復書簡のようなものだなと感じることがありますね。

    植本:仕上げるまでは結構な期間がかかりますか?

    山本:長くて3ヶ月ぐらいですね。別々の場所にいてそれぞれの生活をしながら、考えを共有していくような形で作っています。

    植本:山本さんの経歴を読んでいて、22歳までは自分のために生きていたけど、そこからは人のために生きることに決めた、みたいなことが書いてありました。その上でデザインだったり批評、文章だったりがあるんだって書いてあって......何があったのかなと思いましたけれど。でも「いぬのせなか座」というコレクティブみたいな、みんなで同じ方向を向いて一つのものを作って、いろんなことをしていこうというのがすごく面白いなと思って。演劇もされていますよね? 多彩な表現者だなと思います。
    私はときどき往復書簡で2人で作ったり3人でやってみたりとかして本を出してきたんですけど、それはそれですごく面白いこともあれば、基本は1人でずっとやっていたからやはり共同作業は色々と起こりますね。

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    山本:あれこれやりすぎて、よくわからなくなることもありますね......。でもずっと意識的に誰かと一緒にやることはやってきたかもしれません。
    僕の植本さんへの個人的な関心みたいなところもそこにあるといいますか。植本さんの日記って閉じているというよりかは、何か、誰かと一緒に生きてることについて書かれている印象があって。最近の『愛は時間がかかる』(筑摩書房)のインタビューでも、パートナーの方への手紙の延長線上であのような書き方になったみたいなことをお話されていたかと思います。誰かに宛てて書くけれど、日記でもあるみたいな、その淡いというか。
    最近の日記ブームや日記本ブームみたいなことが語られるとき、「公開する日記って何なのか」ということがよく問題にされる。自分だけのものではなく外に向けてまとめて本にすることが前提に置かれた上で、Webで公開されたり。それって何なんだろうみたいなことをみんな考えたりするわけですけど、植本さんの文章というか日記は、そこの辺りすごく絶妙に作られていってるなっていう感じが個人的にはしています。普段日記を書くとき、誰に宛てて書いてるのか気になっていたんですよ。

    植本:私は自分のために書くみたいなのはできなくって、誰かに宛てて書く方が書きやすいっていうところはありますね。最近、文フリの宣伝のために久しぶりに公開する日記をnoteで書いているんですけど、レビュー数とかもよく分からなくって。誰が読んでるんだろうって思いながらやっていたけど、いろんな人から言われるんですよね。「読んでるよ」って、知らない人から文フリでも言われたりとか。意外とみんな読んでるなって思ったら、昔こうやって自分が書いたものに対してすぐ反応が来るのが嬉しかったっていうのを久々に思い出したんです。
    本っていう「形」にすると、ちょっと反応が遅いんですよね。まとまっているものだし、長い感想がどんと届いたりもする。でも、ラフに面白かったよって反応がくることも、それはそれですごく嬉しいコミュニケーションで、この感覚が好きだったんだっていうのを久々に思い出しましたね。

    ▼「書かないとヤバい」感覚があまりない

    植本:山本さんは色々な方法で毎日何かしらやられている印象がありますよ。

    山本:批評や哲学をしている福尾匠さんという方がいて、彼はコロナの頃から3年間ほどウェブで日記を書いていました。同い年で昔からの友人なんですが、彼がよく言うのは「常に言葉にしないとやっていけない」感覚がある、と。毎日何かを書き続けないときついようで、日記というよりも批評や哲学の文章も含めてとにかく言語化して書きたいと言う。それを踏まえて考えると、僕は、実はそういう感覚はあまりなくて、書かなくても普通に散歩したり好きな人や友達と一緒にのんびり過ごせたら、それが一番いいと思っている。
    もちろん文章を書くことで何かを残せるのはいいことだと思いつつ「言語化しないとヤバい」という気持ちはほとんど持ったことがない。日記的なものは書いていて、昔からブログなどを書いたりしていましたし、小説なども日記の延長線上で書くこともあるのですが「書かないとヤバい」みたいなことって、実はあまり感じていないんですね。

    僕は家に帰って母親に一日に何があったか延々と話し続けるタイプの子供で。大人になってからもパートナーに毎日あったことを話し続けているようなところがあります。自分にとってはそれが半分日記のような感じなのかもしれないです。先ほど言った、誰に向けて書いているのかという宛先が気になったり、自分たちのグループでもメンバーに対して喋るような形で書いたりしているのも、自分にそういう傾向があるからだと思います。
    自分だけのために書くというよりは、自分のためでもありつつ、誰かに向けて言葉にするという体でないと、多分あまり言葉にしない人間なんだなということに気づきました。

    植本:なるほど。それで思い出したことがあります。ちょっとうろ覚えなんだけど、友人とお喋りしているとき、急に「その先は喋らないで」って喋るのを止められたことがあったんですよね。名前を忘れてしまったんだけど昔の文豪だったか、それをやったことがある作家の真似をして、私に言ってきたんです。喋ると、そのことを書かなくなるからって。

    山本:そのご友人は、植本さんに書いてほしいという気持ちがあってそうしたってことですよね?

    植本:そういうことだったんだと思います。確かに喋って言葉にすると、その瞬間に気が済んでしまうようなところがあるかもしれない。私はおしゃべりが得意ではないというか、頭の回転がそんなに速くないと思っているんですよね。だから家に帰って、今日言われたこととかを改めて考えてから日記に書いたり文字にしたりするのが、きっと私にとってはちょうどいい速度なんだと思う。
    こういうトークイベントでも、家に帰ってから「あのことを話せばよかったな」とよく考えているし。

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    山本:時間をかけて振り返っていく時間を自分の中に設けるために日記を書くというか。そのための習慣として日記があるっていう感じでしょうか。

    植本:うん、そうですね。山本さんはパートナーの方とお喋りした時点で何かが収まっちゃうみたいなところはないですか?

    山本:ありますね。例えば道を歩いていて面白いことを見たり、偶然何かが降りかかってきたりして、「すごいことだ」と思ったけれど言う場所がないというとき、友達やパートナーに話すと、自分が忘れてもいいし、極端に言えば、明日死んでも何かを残せたという気持ちになることがすごくあります。
    もちろん、文書に書くというのはもっと強い意味があって、そこに確実に残るわけですよね。話した内容やその事実は、相手が忘れるかもしれない。ただ、僕にとっては、誰かに話し伝えたことの方が「残せた感」があるんですよね。残すかどうかという観点で言うと。

    自分の場合も、考えを文章にしないと残せないという思いで批評や小説を書いたり、思いついたことをすぐメモすることはあります。でも日常の出来事については、誰かに話したら「済んじゃう」という感覚が自分の中では強い。確かに、何かをその場で喋ると、その瞬間で終わってしまい、そのことを振り返る必要もなくなってしまうという面があります。一方、文章に書くと作品になったり、全く知らない人にも伝えることができ、評価もされるし、収入にも繋がるという面もある。でも、お金にならなくても、あるいは公開しなくても、自分の中でそれをちょっと時間をかけて振り返るという行為、つまりこの瞬間だけでなく、時間をかけてそのことに何回かアプローチするという過程は、やっぱり特別なものをもたらす気がしますね。よく言われているように、文章を書くという効能みたいなものは、何かにポジティブに向き合い続けることを助けてくれるようなことかなと思っています。

    植本:「座談会」もすごい仕組みですよね。ずっと複数人で書き直して、向き合い続けるという。

    山本:日記という形式や書き方を尊重しつつ、それをさらに小説のようなものへと発展させたいという思いがあるんですよね。毎日書いたものをもとに、それこそ座談会の内容もそうですが、書き直して並べ直して小説にするという実践をやってきました。それは小説の方が社会的に価値があるからというのではなく、日記は日付で区切られていて、一日ごとに完結するじゃないですか。これは書くこと、読むことにとても役立つんですよね。「一日が終わって、ここまで考えられたから、今日はもう遅いしOKにしよう」というような、ポジティブな区切りが得られる。
    自分はある一個の出来事について向き合うための方法が何か探っていた時期がかなりありました。そのとき、小説という形式で、何度も繰り返し向き合うこと、つまり日記のように一日で終わったことにさせないためにはどうすればいいのかという方法として、小説を書くということを選んでいたところがあります。
    それで「書き直す」ということをよくやっていましたが、一方で非常に難しいところもあるというか。やり始めると終わらなくなってしまうこともありますし、終わらなくなると結局は問題を延々と引きずることにもなるので、逆に健康に悪いという側面もおそらくあるんだろうと。もちろんそれが劇的にいい作品になるみたいなこともあるし、自分にとっての人生の解決を導き出してくれることも多分あると思います。ただ同時に、謎のドツボにはまっていくような感覚も、実感としては強くありますね。

    ちなみに、植本さんにとって「上手い日記」というか、「上手い文章」ってどんなものなんですか?

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    植本:出来事が書かれているよりかは、自分の感情をのせている日記が読みたいなというのはあって。やっぱり、出来事ばかり書く人も多いんだなっていう印象はありますね。どこに会って誰に会ったみたいな。というよりは、そこで会って何を考えたとか、その人とはどういう関係でこういうことがあったとか、そういう自分から引き起こされる感情を日記に書いているものが私は好きだなっていうのはありますね。
    あと、日記ではあるんだけど、その中でテーマが浮かび上がってきて、この時期はこういうことに重きを置いて書いていたみたいなのがタイトルになったりするわけじゃないですか。そういうところから気になって、手に取ってみたりすることがあるかもしれないです。

    山本:本にしていく過程で善し悪しについての判断が当然出てきますよね。外から言われなくても自分の中の価値判断として「これはいいものができた」あるいは「これは全然良くない、こんなの続けてもしょうがない」と思うこともあるかもしれなくて。そういう善し悪しを判断するとき、テーマや企画、「この人たちと一緒にやろう」という必然性のようなものが、ただダラダラ書くのではない何かとして事前に設定されていると、自分の生活もそこを起点に変わりやすくなりますし、文章もよく展開していくことは結構あると思うんです。
    そこに読者から見たときの手に取りやすさというものが混ざってくる。だーっと全員分の日記を同じように読むことはできないので「この日記を選んで買って読む」という選択において、デザインはもちろん「この人はこういうテーマで、こういう形でやりました」という情報が最初の読むきっかけを作る。

    読者が本に向き合う時、読むという行為は大変なもので、ある程度時間をかけて、例えばその本を鞄にずっと入れて一週間、二週間読み続けられるかどうかが問われます。だから、テーマというのは書くときの動機や根拠にもなるし、読むときも同様に重要な要因として機能するものだと思います。
    「テーマを決めないといけない」という考え方について、「公開して本にする前提で、さらには商業化することを目指してテーマを決める」とか「こういう感じだったら売れるだろう」と思うのは邪な気持ちではないか、という話をちらほら耳にすることがありますけど、それも一つの執筆や生きていく上での目標や形式としてあって、個人的には案外悪いことばかりでもないと思っているんですよね。もちろん「売れると思われるもの」に振り回されてばかりでつらくなったらいつでもやめられる、そういう選択肢は手放すべきではありませんが。

    ▼楽しく続ける

    植本:「面白いことが起きるから日記を書くのでなく、書いているから面白いことが起こる」というのをくどうれいんちゃんの『日記の練習』(NHK出版)で読んで、私もそうだなと思ったんですよね。私は結構つらいことが起こった時期に書き始めるパターンが多かったんですよね。でも最近のnoteでやっている日記は、本当に一日のことを1000字ほどで、10分ぐらいで書いてるんです。日記らしい日記の公開は初めてかもしれない。
    簡単にさっと書くだけでも、書いたという達成感があるし、すごく楽しく続けています。そこで気づくのは「日記を書こう」っていう頭があるから、面白いことを見つけようとするというか。日常生活自体は書いても書いていなくても変わらないんだけれど、その中から何か面白いことを見つけようとする視点が生まれるのは、やっぱり今日記を書いている時期だからこそあるものなんじゃないかなと思いますね。

    山本:僕は小説を書くことも含め、何か表現を毎日し続けることについて考えると、それは必ずしも世の中で有名になるためではなく、世界に対して自分がどう関わっていけるのか、物を見る目とか聞く耳をどのように自分なりにオーダーメイドで作っていけるのかということに一番関わっていると思っているんです。
    その中でも日記はとても手軽で、先ほど言ったような「ドツボ」にはまりづらく、自分なりの視点や観察眼を自覚していくことができます。もし変える必要があれば変えていくこともできる、そういう柔軟な形である点が多分、一番大事なところだなと。
    その上で日記を公開して本にするということは、書く際の宛先の問題とも関わってきます。ごく単純に、書くことにつきまとう不毛さもなくなるというか。ブログなら少し反応があるかもしれませんし、この世界に向けて、あるいは人によっては神様に向けて話す告白のようなものに近いかもしれません。それはパートナーでも友達でも、別にイマジナリーフレンドでもいいのかもしれませんよね。例えば『アンネの日記』は「親愛なるキティへ」という形で始まりますが、これは個人的に大好きな書き方です。日記帳を自分の友達のように、そこに向けて手紙を書くような感覚で毎日日記を書くという信頼関係、続けていける関係性が、実は日記を考える上でいちばん大切なのかもと思います。

    毎日書いて表現し、それを誰かが聞いてくれているか、どこかに蓄積されていき、その過程で自分も変わっていくという動きができていくことが日記にとっては重要で。その延長線上に「売れて、読まれて」というようなことがあったりするぐらいの感覚で考えた方が個人的には気が楽です。ここで社会的意義とかについて重く考え始めると結構きつくなりがちだよなあと思います。本を売るということはもちろん考える必要のある大事なことではあるんですが、一番は自分が文章を書いて面白いことを見つけられるようになる、自分がおもしろいと思える生を手作りできるようになることこそが、大切だろうという気がしています。 (了)


    <トーク2>樋口直美× しらい弁当
    「 忘れてもなくならないこと 」(聞き手:日記屋 月日スタッフ 荒田もも)

    記憶は無邪気に自分の元から去っていく……。「忘れること」を念頭に日記を書き、自身の記録を続けている、文筆家でレビー小体病当事者の樋口直美さんと、リトルプレス『きっと忘れちゃうんだろう』作者のしらい弁当さん。日記を書くことや、残っていてほしい/残したいことについてお話していただきました📝

    樋口直美(ひぐち・なおみ)
    文筆家、レビー小体病当事者。50歳の時にレビー小体型認知症と診断され、幻視など多くの症状があるが執筆を続けている。診断前後数年間の日記を書籍化した『私の脳で起こったこと』(ブックマン社・ちくま文庫)で日本医学ジャーナリスト協会賞優秀賞受賞。主な著書に『誤作動する脳』(医学書院 シリーズ ケアをひらく)『「できる」と「できない」の間の人』(晶文社)他。

    しらい弁当(しらいべんとう)
    会社員。日記屋月日のワークショップ「日記をつける三ヶ月」に参加し、毎日のお弁当のメニューから始まる日記をつけてリトルプレスを制作。新刊「いつもと同じ朝がくる」で7冊目。
    「しらい図書」として西荻窪BREWBOOKSにて一箱棚主。私設図書室下北沢HONKEの書架主として一箱古本市を運営。毎日のお弁当をInstagram「しらい弁当」に。読書感想を「しらい図書」に記録。

    ▼レビー小体型認知症について

    日記屋 月日スタッフ 荒田(以下、荒田):トークの前に、レビー小体病がどういったものか、樋口さんにお話いただけたらと思います。

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    樋口直美(以下、樋口):調査によってはアルツハイマー病が認知症の7割とも言われます。でもその人たちを詳しく調べると3分の1から半分ぐらいは純粋なアルツハイマー病ではないとわかってきています。レビー小体型認知症は、ある調査では4. 3%しか診断されていない。でも死後解剖すると、5人に1人ぐらいはいるそうです。アルツハイマー病と診断された方の中にもレビー小体(病気の原因とされるたんぱく質の塊)が溜まっている方が多いと最近になってわかってきました。
    認知症って「物忘れをする病気」と思われていますが、実は「状態」のことを言うんですね。
    認知機能が低下したために自立した生活が難しくなる。そういう状態を医学的には認知症と言うんです。認知症の原因となる病気は70種類以上ありますが、高齢者に多い嗜銀顆粒性認知症しぎんかりゅうせいにんちしょう とか、多くはほとんど知られていません。
    違う病気を併発することも多くて、レビー小体型認知症のある方の7割ぐらいはアルツハイマー病を併発します。併発しなければ、あまり記憶障害がないんです。 全くないわけではないのですが、最期までお話ができるとか、最期まで家族の顔を忘れないとか、皆さんのイメージする認知症とは違うんですね。特徴としては、(出ない人もいますが)パーキンソン病と同じ歩行障害が出たり、それから幻視ですね。
    私もそうですが、人や猫が見えたり、いろんなものがくっきりと見えます。私も症状はたくさんあるんです。例えば、今が何日の何曜日かというのはわかりませんし、何月かも考えないとわからない。今日は寒いので12月とわかりやすいですが、ポカポカしていたら9月かな? というふうに。時間の感覚はもう全然だめなんですが、こうして「普通」に見えるので「認知症じゃないじゃないか」って10年ぐらい言われ続けています。でも、私なりに日々困っているんですよ。
    レビー小体型認知症(レビー小体病)の事を詳しく知りたい方や新しい知識を得たい方は『レビー小体型認知症とは何か』(ちくま新書)をぜひお読みいただけたらと思います。

    荒田:日記屋 月日でも樋口さんの『私の脳で起こったこと』(ちくま文庫)を取り扱っているのですが、この記録はレビー小体型認知症であると樋口さんが確信した日からの日記となっていますよね。書き出しから「9月19日、動く虫の幻視を見た。その瞬間、悪夢が現実になったと直感した。」とあります。

    樋口:この病気は自律神経も障害されるので、体温や血圧を一定に保てないんですね。微熱が出たり汗が出過ぎたり、血圧が急降下したり。長年体調不良だったんですが、ある日虫が机の上を歩いていて、どこから入ってきたのかと見ていたら一瞬で綿ごみに変わった。その時、初めて「目の錯覚じゃない!レビー小体型認知症だ!」って自覚したんです。そこから診断を受けて、治療を始めました。
    最初ネットで調べると、すぐ死ぬ、すぐ何もわからなくなる、寝たきりになる、暴力的になるとか書いてあって。医療の知識がなかった私はそのまま鵜呑みにしたんです。
    だから当時の私は、かなり深刻でした。でも自分の症状や状態を観察して日記に記録したり、情報収集しているうちに、本やネットに書いてあることは違うということがだんだんわかってきた。私を診断した医師も「認知症ですから、悪くなる一方ですよ」という感じだったのですが、友達と会ってゲラゲラ笑っていると、なんだかすごくよくなるんですよ。 体も頭も調子がよくなる。「ああ、悪くなる一方じゃないんだ!」って希望を持ちました。
    ずっと病名を必死で隠していたのですが、2015年に公表して、実名で人前で話し始めました。そこまでの過程を記録した日記が『私の脳で起こったこと』です。

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    ▼私も”そうなる”可能性がある

    荒田:しらい弁当さんが日記をつけ始めたきっかけはなんでしたか?

    しらい弁当(以下、しらい):日々思ったことやあったことのメモをGoogleカレンダーにメモとして書いていたんです。それを文章の形で書こうと思ったのは、日記屋 月日さんのワークショップに参加してからでした。

    ちょうどコロナの時期だったか、思ったことや感じたことを短時間のうちに忘れていくことに対して何か不安を覚えたんです。その時期の平坦な日々の中で忘れることが多くて、こわいと感じるようになって、書くようになりました。 母が認知症で、祖父母もそうだったので。「今日は何日だっけ?」って、30分ほどの間に20回とか聞かれることがあって。「そうか。おばあちゃん、わかんないんだ」って。そういう姿を見ていたので、私もそうなる可能性があるというのがずっとどこか頭の中にあったんです。日記って、子供の頃の学校の宿題にもあるじゃないですか。そういうのは好きではなかったんですが、忘れていくことに恐怖を覚えたことがきっかけになりました。

    樋口さんの著作は『誤作動する脳』(医学書院)から読み始めました。樋口さんに起きていることが病気の一環ではあるけれど、脳の誤作動であるという整理の仕方がとても分かりやすかったです。次に『レビー小体型認知症とは何か』、そしてこちらの日記『私の脳で起こったこと』の順で読みました。
    やはり日記の文章って言葉がストレートですよね。不安だと思うことも書いてあるし、怖いと思っていることも書いてあるし。でも読んでいて、自分で対策を立ててやっていこうという考えだとか、不安な気持ちにもなるけれど負けないでいるという姿勢がとてもかっこ良かったんです。勇気をもらいました。

    荒田:どういったところに勇気をもらいましたか?

    しらい:例えば幻視について、お医者さんには鬱だと診断されてきたけれど「どうも違う」ということを一個ずつパターンとして試していかれるんですよね。「こうかな?」「違うか」という証拠を集めていく。ご自身でトライアンドエラーを繰り返していく。人から強いと言われてしまうことが嫌だ、と本の中でも書かれていましたが、何か困ったことがあると「私は駄目なんだ」ってそこでうずくまってしまう人もたくさんいると思うんです。だけど、それに対してちょっと待てよと立ち止まって考えなおす力強さをどこか感じて。育児で大変だった頃のエピソードでも「これは何か方法あるな」と考えて進めていかれる樋口さんのお人柄がとても好きです。

    樋口:2人の子が小さかった一時期、育児ノイローゼっぽくなったときがあって。夫は仕事人間だったので、夜中に帰ってくるんですよ。このままじゃ私も子どももだめになると思って、少し離れる時間が必要だと考えて働きに出ようとしたんですが、それも許されなくて。

    しらい:時代でしょうか。その頃、日記は書いていましたか?

    樋口:余裕がなかったですね。でも最初の子どもが赤ちゃんの頃は、今日はこれができるようになったとか、毎日細かく育児日記を書いてましたよ。

    しらい:やはりそうなんですね。細かく書いてらっしゃるから、ずっと日記を書いている方なのかなと思っていました。

    樋口:結婚するまでは自分の時間があるので、考えたこととか、毎日書いていたんですよ。書いて出さないと詰まってしまう感じがして、ずっと書いていました。結婚してからは長文の日記は書かなくなりましたね。
    でも、今回あらためて振り返ってみたんですが、苦しくなると書き始めるんですね。例えば一月に父が亡くなって、突然だったし、苦しんで亡くなったので、自分の中で消化できなかったんです。そのときは書いていましたね。たくさん書くと落ち着くんですよ。それが一番セルフケアになるというか。私はあまり人に相談しない人間で、自分で解決しようとしてしまうんですけれども。精神的に苦しんでるときは視野が狭くなるんですよね。「もう、これしかない」みたいな狭い視野で見ているんですが、書くとそれがだんだん広がって、違う方向からも見られるようになる。そうするとものの見方が一つでなくなるので、精神的にだいぶ楽になるんです。だから昔から苦しいときほど細かく書きますね。 

    荒田:しらいさんは辛いとき、書きますか?

    しらい:そうですね。その瞬間には書けなくて、何で辛かったんだろう? と後日考えて書きます。つらい、つらい、これがこう嫌だった、って書いてるような日記もあるんですが、なんだか嫌なことを思い出すのも嫌じゃないですか。あの人にこう言われたのがむかついたぜ、みたいなことがあったとしても、それをそのまま書くわけではなくって。なんでああいうことを言ったのか、分析してちょっと距離を置こうとするような書き方をしているかもしれないです。その過程を残しています。

    ▼日記を書く理由

    荒田:日記って、たとえば20人に聞いたら20人それぞれに書く理由があるだろうなと。簡単に言い表せるものではないかもしれないですが、お二人はなぜ日記を書いていますか?

    しらい:辛かったことについては、後で整理するために書いてます。その整理をする過程を書くんです。何でこういうことを言われて嫌だったのかな、自分がここが駄目だったからこうだったけど、でもそれは私のせいかな? とか。

    樋口:元々書くというか、考えることが好きで、何かにつけて考えるんですよ。いろいろ細かいことが気になるたちで、どうしてこうなんだろうってずっと考えるんですね。そうすると言葉が溜まってくるので、それは出さないと体に悪い。だからどうしても出てきてしまう。
    何かに感動したときも言葉にしたくなりますね。美しい景色を見ても「これを言葉で何て言おう」って。子どもの頃から、そんな感じで、書くことが好きですね。

    荒田:日記を書くところから本にする・出版するというのは、もう1ステップありますよね。書いて人に見せることや形にすることに対してのお考えをお聞きしてみたいです。

    樋口:中高生のときから、将来は作家になりたいと思っていたんです。『私の脳で起こったこと』(ちくま文庫)は日記ですが、将来的に本にしようと思って書いていました。そのまま出版する気は全然なかったんですけど。本にするための正確な資料として、細かく書いていたんですね。『誤作動する脳』も、日記を見ながら書きました。例えばある薬を飲んで、何日後にどんな副作用が出たとか。本の正確性はとても大事だと思っていて、間違いがないように、日記で確認しながら書いています。
    当時は、患者にとってこの病気の資料と呼べるようなものが、医師の書いた本数冊ぐらいしかなかったんですよ。
    だから、自分に起こったことを細かく記録していけば、それはこの世にまだないものになるし、自分を救うだろうし、同じ病気の人たちにも役に立つだろうって。いつか本にするぞと思って日記形式で記録していました。
    その後、出版社から執筆依頼があって、「日記があるので一緒に本の構成を考えてください」とデータを渡したら、「これをこのまま出させてください」と言われて、驚きました。 日記ですよ。夫や子ども、親も知らないことが書いてあるのに。でも、確かにこのまま出した方が同じように悩んでいる人にはいいのかなって思って、出しました。勇気がいりましたが。

    荒田:しらいさんはご自身で本(リトルプレス)にしたきっかけはありますか?

    しらい:日記屋 月日さんのワークショップ「日記をつける三ヶ月」という場所で日記をつけていて。これは三ヶ月間、参加しているメンバー同士で日記を読み合うという内容なんです。そのワークショップの空気がとても安心できて、居心地がよかった。そのメンバーの一人が日記を本という形にして、日記祭で販売したんです。日記って自分のことが丸出しだから、形にして売るなんて考えていなかったんですが、そのメンバーはすごく楽しそうにそれをしていたんですね。それでおもしろそうだなと思い始めました。文章がひたすら続く日記と、写真の日記と、お弁当の日記などで種類を分けたりして、つい7冊作りました。

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    樋口:すごいですよね。

    ▼忘れたくないこと、忘れてしまうこと

    荒田:今までのお話にもヒントがあったと思うのですが、日記を書くとき、忘れたくないから書き留めるという感覚もあるのかなと思います。忘れてしまうことと日記の関係性について、お二人のお考えがあればお聞きしたいです。

    樋口:忘れたくないから書くというより、私の場合は書いて安心して忘れるんです。書いておけば忘れてOKだと思っています。
    私は記憶障害があることが悪いとは思っていないんですよ。世の中では忘れることを悪いこととして、認知症になったら人間じゃないかのように考える傾向があります。でも私はいろんな認知症高齢者と接してきて、べつに3分前のことを忘れても、その人はその人のままだと感じます。優しい人はずっと優しいし、本質的なものは変わらないって。だから別に忘れたっていいんじゃないかって思うんです。
    進行して家族の顔や名前がわからなくなってしまっても、愛する家族のそばにいると幸せそうにされている。つまり名前を忘れたとしても、その愛情はずっと残るんだとわかります。私自身もどんどん忘れていきますが、それでいいと思っているんです。大切なものは絶対に消えないと信じています。
    皆さんは忘れることを怖がりすぎているんじゃないかと感じます。

    しらい:冒頭で話していた、思いついたことを忘れてしまうとショックを覚えたっていうのがまさにそうで。忘れることが駄目なことだと、どこかで思っていたんでしょうね。自分の2、3年前の日記を読んでも、考えも状況もあまり変わっていないんです。私が日記を書く理由は忘れないためというより、10年後にこれを読んだときに「こんなことがあったね」「こんなことを考えていたね」という体験をしたいからかもしれないです。
    ワークショップ「日記をつける三ヶ月」の中で、ずっと日記を書き続けていたメンバーの方が20年前の日記を読み返したとき、毎日一緒に遊んでいた人の名前が書いてあるのに、誰だか全然思い出せないという話がありました。忘れていくことは普通のことで、その分新しいものが入ってくることもある。私は忘れないために書くというより、起きたこととか考えたことを書き留めておきたいという意識があります。

    樋口さんのように、自分の考えを書いておきたいという思いがあるのかもしれません。今話していて、考えたこともどんどん変化していくので、それも忘れていくことの一部なのかもしれないと思いました。

    荒田:先ほど樋口さんから「書いて安心して忘れる」という言葉がありましたが、忘れることへの安心感というのはあるんですか?

    樋口:「忘れちゃいけない」と思うことがものすごくストレスになるんです。忘れたらどうしようという不安が脳の毒になります。だから大事なことは全部書いて、あちこちに貼っておきます。今日のトークイベントのことも。そうしておけば安心。まあ、それでももちろん、失敗することもありますけど。
    書いておけば、もう忘れても大丈夫でしょう? 見ればわかるから。自分で覚えようとすると大変なんです。認知症は今、早期発見、早期診断されるようになりましたが、多くの方が覚えられないのに必死で覚えようとしたり、できないことでもやろうとしたりします。私も計算がもう全くできないです。できないものはできない。だから無理はやめて、人に頼ればいいと思うんですよ。スマホでもいいし。「これはできるから私がやるね、これは苦手だから頼むね〜」って笑って言えば問題ないんです。できないのにやろうとするとパニックになってしまう。
    どんどん外部発注というか外部装置に記憶させて、自分はそんなことに頭を使わないという方法が良いと思います。

    荒田:日記も外部装置の一つですね。

    しらい:樋口さんの著書を読んだり今日のお話を伺ってみて、あらためて忘れることはそんなに怖いことではないんだなと勇気づけられました。「忘れちゃっても助けてくれる人がいるから大丈夫」という考え方に触れて、すごく心が楽になりました。 (了)


    <トーク3>「月日会」メンバーによる「日記の座談会 」

    「月日会」は日記屋 月日が運営するオンラインコミュニティで、日記が好きな人たちが集まり、その魅力を味わい、ひろく伝えていこうという集まりです。毎日を記録する中で見つけた日記への関心や魅力、また、日記を自分以外に公開したり読み合ったりする行為についてどのように感じていらっしゃるか、毎日台湾旅行記さん、ぬるさん、みなもさんそれぞれにトピックを出していただき、それらをきっかけにお話が進んでいきました。

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    ▼毎日台湾旅行記さんのトピック

    毎日台湾旅行記(以下、毎日):皆さんの日記を読んでいると、「好きなもの」について書いてらっしゃる方がとても多いなという印象を受けます。その対象がたとえ自分が知らないものでもすごくおもしろく思えて、楽しみに読んでいます。
    ぬるさんやみなもさんは、推しや好きなものを日記に残していますか?

    ぬる:ホットな話題が時々出ていますよね。例えば今年(2024年)だとドラマの「虎に翼」の感想を書いている人が結構いて、それを読んで一緒に考えたり。僕はゲームが好きで「スプラトゥーン」をよくやっているのですが、読む人に伝わる・伝わらないについては別にいいかと思って説明もあまり入れず、最近はそれをプレイして楽しかったみたいなことをよく日記に書いてます。

    毎日:私は日記につい「説明」を書きたくなっちゃうんですが、説明を書き出すと日記がどんどん長くなってしまうんですよね。説明なしでも伝わることはあるし、人に読まれる場所であっても、必ずしも全部を伝えようとする必要はないわけで。

    ぬる:日記が長くなるっていうの、本当にそうで。始めは書きすぎていて、今は力を抜いて書けている感じがします。

    みなも:私は「ころも」という名前の犬を飼っているのですが、最近は食事の朝・昼・夜の記録と、ちょっと別立てでころものことを書いていますね。今日ころもがこんなだったとか、こんな仕草をしていたとか書いていて。犬と暮らしてるっていうのが日常に馴染みすぎていて、特別な登場の仕方をするとは限らないけど、日々触れてコミュニケーションをとっている中で感じたことを書いておきたいなと。ずっと続けるかわからないけれど、今のところそういうふうに書いていますね。

    毎日:身近な存在すぎて逆に日記に書かないっていうの、私も思い当たります。残しておくと読み返したときに、すごくいい記録というか。「こんなことあったな」って。

    ▼ぬるさんのトピック

    ぬる:僕は日記を見られている状態ってどういうことかな、と考えていて。昔noteで書いていたことがあるんですが、不特定多数に見られるのが怖くてやめてしまった。その後、今日もトークに出る「しらい弁当」さんをきっかけに日記屋 月日を知り、月日会というクローズドな場所だったら書けるんじゃないかなと思いました。人にちょっと見られたいっていうのと、見られたくないっていうのが両方自分の中にはあって。そのゾーニングができているから、今は書き続けられているという感覚があります。お二人の月日会に入られたきっかけや、人に読まれるというのがどういう気持ちなのか、お聞きしてみたいです。 

    毎日:元々私は朝日カルチャーセンターの講座で20年ぐらい前から小説を書いていました。でも、小説に対する自分の距離感が変わってきていて。小説とは違う表現方法がないかと考えていた頃、写真家の金川晋吾さんが日記屋 月日のワークショップでファシリテーターをされるというのを知って、そこでお店のことも知りました。
    カルチャーセンターも月日会もクローズドな場ですが、日記って、感想を言わなくてもいいところがありますよね。「読んでどうだったか」みたいなことを言わなくていいのがあるなあと。日記は私小説のように自分のことを物語化しなくてもいい。それから、月日会で日記を投稿する際、毎週締め切りがあるのも助かっています。

    ぬる:僕は読んでもらうために文字を整えたりっていうのを最初に頑張りすぎてて、見られてないのが寂しいような瞬間もあって。ちょっと悩んだりもしたんですけど、今は気楽にやれているので、その感覚、あるなあと思います。みなもさんはどうですか?

    みなも:元々、日記自体は憧れというか書きたい気持ちがありました。手帳に何日か何週間か書いてみて、自分しか読まない日記を書いたり。子供の頃や小学校とか高校とか、ちょこちょこやってはやめてという感じでしたね。それから経って、中村暁野さんの『家族カレンダー』という本に出会いました。子供のことや夫婦間のやり取りも結構書かれているのですが、やはり家族の仲って、楽しいことばかりじゃない。その瞬間は本当にいやな気持ちになったりぶつかり合ったりしているけれど、それが文章として書かれたときに少し距離をとって書いているから、読んでいておもしろくも感じるような、そういうふうに読めたんですね。そんなタイミングで日記屋 月日を知り、月日会に入ってもうすぐ3年くらいでしょうか。日記が続くようになったんですね。
    自分しか読まない日記だと、なんというか本当に読み返さない。子供の頃に書いていた日記も実家で見つけて読んでみたんですが、おもしろくないというか。もういいかなって思って捨てちゃったこともあって。
    多分、人に読まれることをちょっと意識しながら書くから、自分のその瞬間の気持ちから少し距離をとって書けて、それが記録されていく......。それがおもしろいと感じます。月日会のメールマガジンには会員の皆さんの日記が載っているので、それを読むついでに自分のパートも読んでみるんですが、普通に「読めるな」という感じもあって。そのあたりは不思議です。

    ぬる:続けるって、胆力がいりますよね。僕も月日会は、日記を続けるきっかけになっています。

    みなも:先ほど出ていた、感想が返ってくるわけでも何かコメントしなきゃいけないわけでもないという距離感も、心地いいのだろうなと思いますね。

    ▼みなもさんのトピック

    みなも:私は「日記を続けるということ」について挙げてみました。日々の記録を残すうえでも、皆さんはどういうふうに「続ける」ということを捉えられてるのかお聞きしてみたいです。「日記を続けることでこうなる」とか「続かないことで感じること」とか、もしあれば教えていただきたいなと思っています。

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    ぬる:僕は生存確認してもらっている、みたいな感じでしょうか。じつは月日会に入る前「感想とかいらないから、ただ日記を送らせてほしい」という相談を一度知り合いにしたことがあって。当時ちょっと不調で病んでいたので「誰かに見ていてほしい」という気持ちからお願いしてみたけど、やはり読み手もしんどいだろうし、結局やっていなくて。今、こうして誰も何も返ってこない状態で続けている状態っていうのは「今日も生きてるな」って人に伝えているような、自分でも確認しているような。割と、体調のことなんかも残しています。

    毎日:一人で書いていたら、続かないですね。子供の頃の絵日記も多分やっつけでやっていたし、ずっと日記をつけてきた人の話を聞くと「私は全然、過去は振り返らないぜ」と思ったりもするタイプで。一方で日記をつけることへの憧れもやはりありました。なので私も月日会に入って3年くらい日記が続いているのでびっくりです。
    それから日記をリトルプレスにして文学フリマなどで売ったりもしているんですが、小部数でも作って売ってという営みが励みにもなるし、誰かに届いたらいいなと思って続けているのもありますね。

    月日会ですごくいいなと思うのは、書いたものが約2週間ぐらいのタイムラグで手元に来るので、たとえば「すごくむかつく」とか日記に書いてもそれを時間が経って読み直すと「自分はこんなことで悩んでいたんだな」って思ったり、逆にまだその怒りが続いてることもあったり。ブログとかでぱっと出しちゃったら、ある意味やっぱりリアルタイムじゃないですか。でも一度投稿することを経由して、時間が経ってからメールマガジンっていう形になるのはいいなと思っています。

    ▼「日記本」にしてみたい?

    毎日:そうそう、日記祭に向けて本を出して売ってみたい、とか思ったりしますか? 

    みなも:読むのはすごく好きで、日記祭もいつも楽しんでいるんですけど「自分は何者なんだ」みたいなのもこう、出さなきゃいけなくなるっていうことがちょっとまだやっぱり怖いなっていうところがあって。そこまで外に向かって出すことに気持ちが盛り上がっていないのかな...。
    でもデータでしか残っていないので、日記の全部が消えちゃったら後悔するかなと思ったりもして、形にすること自体に気持ちは少しあるのかなと、今話していて思いました。 (了)

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    - 美術作家・木下理子さんによる店内展示

    会期:12月8日(日)〜 12月29日(日)
    場所:日記屋月日 店内(〒155-0033 東京都世田谷区代田2-36-12)

    私たちはお店を営む上で、日記を定義する一つの基準を「日付のついている文章」としていますが、それに当てはまらない日記の形も少なくないと思っています。
    日記という形式を強く意識しながらも、文章以外の媒体で記録や表現をする方たちも大勢いる、と考えています。

    第5回日記祭では、美術作家の木下理子さんにお声がけして、「記憶」「思い出す」をテーマにした作品展示を行いました。
    また、メインビジュアルやポスターのデザインも、木下理子さんに制作していただきました。

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    〈木下理子さんのコメント〉
    今回のビジュアルに使用した作品は『記憶』『思い出す』『トポロジー』『くりかえし』をキーワードにして制作しました。

    モコモコとした形は、過去の記憶を思い出そうとしているとき、頭のうえに浮かぶ『考え中の吹き出し』をイメージしています。アルミホイル製の実際の作品をスキャンして使用しています。

    トポロジーとは、図形や空間の性質を、形状や大きさにとらわれず、連続的な位置関係を基準に考える学問です。まったく異なるように見える『吹き出し』も、もともと同じ輪っかの形状をしていました。何かを思い出すたび、記憶の形が変わっていく様子にも思えます。

    ポスターの2枚の縦長のイメージが連続している仕様は、朝と夜(赤と青)を繰り返し、日々が続いていく様子を表しています。

    〈店内展示の風景〉

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    - 私たちの心構えについて

    日付から書けばどんな表現も受け止めるのが日記の面白さであり、懐の広さでもありますが、本来であれば人目につかない「個人の話」が書かれたものを取り扱っているため、色々と気をつけたい部分があります。 
    大前提として、その文章が「ただの日記」だからこそ、読む人の心を強く揺さぶる可能性があるということです。
    それをポジティブなこととして受け止める人もいれば、ある日記に書かれている一文によって、とても悲しい気持ちになる人もいます。
    どちらも、「日記」という形式で書かれた文章が引き起こす感情です。そこに書かれた個人の感情や、読んだ人の抱いた感情は、決してなかったものにはできません。

    けれど、今後も日記のお店を運営しながら考えていかなければならないポイントは様々なところにあり、書き手の方やお客さんと一緒に、考えていきたいと思っています。
    日記の楽しみ方は人それぞれなので、その自由を制限する意図はありませんが、私たちの運営する場では、なるべく安心感をもって集まれるように、差別的・暴露的な表現、のぞき見的な関心、個人のプライベートに迫るような態度については、助長させたくないと考えています。

    そのため、日記祭の即売会に応募される方に向けたフォーマットや、お店のサイト上に載せているステートメント文章に、その時々で加筆したり、アナウンス事項を増やしたりしています。「日記屋 月日とは」というページにも記載しておりますので、お時間がありましたら、ご覧いただけますと幸いです。

    「自分でつけた日記を本にして売る」。そんな一見妙な催しが開催され静かな熱気が起こるのも、誰もが「日記」そのものを知っていることが支えているのだと、あらためて感じる一日でした。

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    日記をみずからつけ始める人は、どれくらいいるのでしょうか。学校で誰かに「つけなさい」と言われて始めた場合でも、あとから振り返ると生活の一部になっていて、その時々の自分の姿をうつす鏡になっていた、ということもあるかもしれません。
    日記はその時の空気をしまっておける「箱」でもあります。しっかり鍵をかけてもいいし、いつでも開けておいたっていい、おもしろい箱です。
    これからもお客さんとの会話やワークショップ、イベントなどを通して日記についての考えを更新していきながら、毎回少しずつ違って新しい日記祭を企画していきたいと考えています。
     
    どのような方とも一緒に、日記の魅力について共有していくことができたら嬉しいです。

    写真:赤木遥
    テキスト、トークレポートまとめ:久木(日記屋 月日)

     
     
     
    「日記」のためのお店です。 私たちは、日記を書くこと、読むこと、そして日記に書かれる言葉に関心を持つ方々の拠点でありたいと考えています。 その思いのもと、店舗の運営や雑誌の刊行、ワークショップ、イベントの開催などを行っています。

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