
食事をどうか、愉しんでほしい
食べることが大好きだ。
ただそれだけで、いろいろなお店を、味を巡った
「この世で一番美味しいと感じるものに出会いたい」
その好奇心が、私の毎日を彩っていた
口コミ、評価、写真
今はお店に入る前から“味”がなんとなくわかってしまう時代
期待というフィルターが本当の味を曇らせているように感じている
食べにいくのはお金がかかるから、できれば失敗はしたくない
どうせ行くなら美味しいものが食べたい
きっと、そんな思いで口コミや評価を見る
味覚や雰囲気など感じ方は人それぞれなのに、気づけば誰かの評価をなぞるように食事をしている
「思ったたのと違う」
「まぁ、美味しいけど」
期待しすぎた時にこう思ってしまったことはないだろうか
「ない」と言い切れるだろうか
いつの間にか、食事が“評価”の時間になっていないだろうか
鮮度が悪い?味がパッとしない?まずい?
ミシュランの審査員でも、フーディでもないのに、誰かが手間と時間をかけて作ってくれたその一皿に、手間暇がかかっていることを、命があることを忘れている
コスト、仕入れ、仕込み
その時間を、数字に変えるのはあまりに虚しい
何が星だ、数字だ、そこになんの意味があるのか
食べるということは
生きるということ
命をいただくということ
目の前の一皿に、遠くの畑や海がつながっていること
誰かの汗が、努力が、そこにあるということ
口コミを書くのも評価するのも、その人の自由だけど、
評価を書くなら、想像してほしい
その一言が、お店の空気を変え、従業員の心を沈め、従業員の家族さえも、生産者の未来さえも変えてしまうかもしれないことを
気に入らないなら、もう食べに行かなきゃいい
備忘録のつもりなら、公開にしなくていい
でもまた、料理を提供する側も忘れてはいけない
その一皿が誰かの心を満たし、
お客さんの存在が、あなたの周りにいる人が
お店を支えているということを
自分の料理でお金を、努力を、命をいただくのなら、
その対価に見合う一皿を食材に感謝し、丁寧に調理し、
「これが私の料理です」と胸を張って出してほしい
最近、SNSでは飲食店を紹介するアカウントが増えている
ふと、疑問に思うことがある
その活動は誰のためのものなのだろうか
お店のためか、フォロワーを増やすためか、収益のためか
「映える」料理、話題の新店、流行しているお店
そういうお店ばかりが次々と紹介されていく
良いことばかりが書かれる情報に簡単に流されていく人たち
そして皮肉なことに、そんなお店ばかりが人気になっていく
あなたが拾える情報に、どれだけの価値があるのだろうか
そのお店を、知ることができているのだろうか
知る必要はあるのだろうか
人間は欲に満ちている
だからたまに、人間が嫌になる
私たちは何様なのか
ただ「食事を愉しむ」
その幸せを知っている人でありたい
どうか忘れないでほしい
食べることは、感じること、分かち合うこと、生きること
そして、感謝すること
食事は「評価」に左右されてするものではない
今日も目の前の誰かと
「うまいなぁ」「美味しいね!」って笑いながら
心から命と人にありがとうを込めて
いただきます