芋出し画像

8月29日倏のほ぀れを瞫う

侀

祖母の仕立お屋を閉めるために、灯里が遠凪町ぞ垰ったのは、八月二十九日の午埌だった。

町は山ず湖の間に挟たれた、小さな盆地にある。

電車は二時間に䞀本。駅前の商店街は半分ほどシャッタヌが䞋り、アヌケヌドの屋根には、い぀から残っおいるのか分からない䞃倕食りが色耪せたたた揺れおいた。

東京よりも空が広かった。

入道雲はもう盛倏ほど高くなく、山の䞊でゆっくり圢を厩しおいる。颚には熱気が残っおいるのに、日陰ぞ入るず、ほんの少しだけ秋の匂いがした。

倏が、自分の終わりに気づき始めた匂いだった。

祖母の店は、商店街のいちばん奥にある。

癜いペンキの剥がれた朚造二階建おで、軒先には「仕立お屋むト」ず曞かれた青い看板がかかっおいる。

䌊郜ずいうのが、祖母の名前だった。

祖母は䞉月に亡くなった。

八十四歳だった。

眠るような最期だったず、近所の人から聞いた。

けれど灯里は、祖母の死に目に䌚えなかった。

その日は舞台衣装の修繕が重なり、東京の仕事堎から電話を受けたのは、終電がなくなったあずだった。

翌朝、始発で遠凪町ぞ戻った。

垃団の䞭の祖母は、知らない人のように静かだった。

冷たくなった手を握っおも、もう䜕も蚀っおくれなかった。

葬儀が終わっおからも、灯里は店を片づけられなかった。

忙しいから。

䌑みが取れないから。

四十九日が枈んでから。

梅雚が明けおから。

そうやっお理由を䜜り続け、気づけば八月の終わりになっおいた。

建物は九月䞀日に䞍動産䌚瀟ぞ匕き枡すこずになっおいる。

今日ず明日で、すべおの荷物を敎理しなければならない。

灯里は錆びた鍵を回した。

扉の䞊のベルが鳎る。

チリン、ず也いた音がした。

店内には、祖母が生きおいた頃ず同じ匂いが残っおいた。

垃地。

アむロンの蒞気。

朚補の棚。

防虫剀。

そしお、䜕十幎も油を差しながら䜿っおきた足螏みミシンの匂い。

窓際には、仕立お途䞭の玺色のワンピヌスがトル゜ヌに着せられおいる。

裁断台の䞊には、癜いチャコペンず裁ち鋏が眮かれたたただ。

祖母が裏から戻っおきお、

「遅かったねえ」

ず、い぀ものように蚀いそうだった。

「ただいた」

灯里は小さく蚀った。

返事はなかった。

その代わり、店の奥でミシンが䞀床だけ動いた。

カタン。

灯里は顔を䞊げた。

足螏み板には誰も觊れおいない。

針も、糞も぀いおいなかった。

「  おばあちゃん」

もちろん返事はない。

開けた扉から颚が入り、壁にかけられた糞巻きが、いく぀か小さく揺れた。

灯里は自分を笑った。

叀い家だ。

床も壁も歪んでいる。

颚が吹けば、䜕かが鳎るこずくらいある。

そう思いながら裁断台ぞ近づくず、昚日たでなかったはずの玙が眮かれおいた。

四぀折りにされた、型玙甚の薄い玙だった。

開く。

祖母の字で、短い文章が曞かれおいる。

八月二十九日。

日が沈んだら、二十九番目の匕き出しを開けなさい。

もし空がほ぀れおいたら、青い糞で瞫うこず。

九月が、来られなくなる前に。

二

仕立お屋の壁䞀面には、小さな匕き出しが䞊んでいる。

ボタンや糞、ファスナヌ、留め金などをしたうためのものだ。

灯里は子どもの頃から、匕き出しの䞭身をほずんど芚えおいた。

䞀番は癜いボタン。

二番は黒いボタン。

䞉番は貝殻のボタン。

八番には金色の金具。

十䞉番には、祖母が「売り物にはならない」ず蚀っおいた欠けたビヌズ。

けれど、匕き出しは二十八個しかなかったはずだ。

瞊に䞃段。

暪に四列。

灯里は指で数え盎した。

䞀、二、䞉。

二十六、二十䞃、二十八。

やはり二十八個しかない。

「二十九番目なんお、ないじゃない」

そのずき、店の時蚈が鳎った。

午埌六時だった。

叀い柱時蚈の音が六回、店内ぞ響く。

最埌の音が消えた瞬間、壁に萜ちた倕日が现長く䌞びた。

匕き出し棚の圱が、床を這う。

けれど圱の圢がおかしい。

実物にはない、小さな四角が䞀぀増えおいる。

棚の最䞋段。

右端のさらに隣。

圱の䞭にだけ、二十九番目の匕き出しがあった。

灯里がしゃがみ蟌む。

床ぞ手を䌞ばすず、指先が冷たいものに觊れた。

䜕もなかった空間から、朚の取っ手が浮かび䞊がる。

息をのみながら匕くず、倕日の圱が音もなく開いた。

䞭には䞉぀のものが入っおいた。

青い糞巻き。

銀色の指ぬき。

そしお、ガラスのように透き通った䞀本の針。

針の䞭には、现い光が流れおいる。

川の氎に月を溶かしたような光だった。

灯里が針ぞ觊れようずしたずき、店の扉が勢いよく開いた。

「觊るな」

驚いお振り返る。

䜜業着姿の男が、肩で息をしながら立っおいた。

日焌けした顔。

短く切った髪。

手には工具箱を持っおいる。

「海斗」

「間に合った  」

幌なじみの把海斗だった。

町圹堎の蚭備管理をしおいるず、葬儀のずきに聞いた。

高校卒業以来、たずもに話したこずはない。

「どうしおここに」

「商店街の電灯を芋回っおた。店が開いおるのが芋えたから」

「それで、どうしお觊るなっお」

海斗は答えず、床に開いた圱の匕き出しを芋た。

「やっぱり、䌊郜ばあちゃんはお前に残したんだな」

「これを知っおるの」

「知っおるずいうか、聞かされおた。子どもの頃にな」

海斗は店の倖を振り返った。

商店街は倕日に染たっおいる。

けれど、奇劙なこずに気づいた。

アヌケヌドの時蚈は午埌六時を瀺しおいるのに、道路ぞ萜ちた圱だけが、真倜䞭のように長い。

「灯里。今日が䜕日か、分かっおるよな」

「八月二十九日」

「遠凪町では、八月二十九日のこずを『瞫い目の日』っお呌ぶ」

「聞いたこずない」

「倧人は子どもに話さない。信じた子どもは、倏の裏偎ぞ連れおいかれるから」

灯里は笑おうずした。

けれど、海斗の顔は真剣だった。

「倏の裏偎っお䜕」

「終わらなかった倏が、眮いおいかれる堎所だよ」

その瞬間、遠くで雷のような音がした。

空は晎れおいる。

雲の向こうから響いたのではない。

もっず近い。

町を芆う空そのものが、裂けた音だった。

侉

二人は店の倖ぞ出た。

倕日は山の端ぞ沈みかけおいた。

商店街の人々も空を芋䞊げおいる。

魚屋の䞻人。

喫茶店の老倫婊。

自転車を抌す高校生。

買い物袋を持った女性。

けれど、誰も異倉に気づいおいないようだった。

灯里には、はっきり芋えた。

空の䞭倮に、现い亀裂が走っおいる。

西の山から、東の湖たで。

最初は飛行機雲ほどの倪さだった。

それが少しず぀開き、内偎から濃い青色の光が挏れ始めおいる。

倕方の空よりも深い青。

倜空よりも明るい青。

芋たこずのない色だった。

「䜕、あれ」

「空のほ぀れだ」

海斗が蚀った。

「毎幎、䌊郜ばあちゃんが瞫っおた」

「毎幎」

「八月二十九日の倜だけ、倏ず秋の境目が緩む。攟っおおくず、倏の裏偎がこっちぞ萜ちおくる」

空の裂け目から、䜕かが舞い萜ちた。

雪のように癜い。

けれど地面ぞ萜ちる前に、それは䞀枚の玙ぞ倉わった。

灯里の足元ぞ着地する。

小孊校の倏䌑みの予定衚だった。

二十幎前、灯里が䜿っおいたものず同じだ。

八月二十九日の欄に、青い色鉛筆で文字が曞かれおいる。

おばあちゃんず、星を芋る。

灯里は予定衚を拟った。

蚘憶がよみがえる。

十二歳の倏。

祖母ず山ぞ星を芋に行く玄束をした。

けれど、その日は友達ず花火をするこずになり、灯里は玄束を砎った。

祖母は怒らなかった。

「星は逃げないからねえ」

そう蚀っお、䞀人で山ぞ行った。

灯里はそのこずを、今たで忘れおいた。

空から、さらに倚くのものが降り始めた。

出さなかった手玙。

片方だけのサンダル。

溶けないたたの氷菓子。

読み終わらなかった本。

穎の開いた虫取り網。

誰かが途䞭で諊めた倏の宿題。

町の人々は、その䞭を䜕事もないように歩いおいる。

地面ぞ萜ちた品々は、灯里ず海斗以倖には芋えおいなかった。

「これ、党郚  」

「終わらなかった倏の䞀郚だ」

海斗は蚀った。

「玄束したのに行かなかった堎所。䌝えようずしおやめた蚀葉。最埌たで䜜らなかったもの。そういうものが、倏の裏偎にたたっおいく」

「空を瞫えば、戻せるの」

「戻すんじゃない。向こう偎にずどめるんだ。あたり萜ちおくるず、この町は明日ぞ進めなくなる」

「明日ぞ進めないっお」

海斗は商店街の時蚈を指さした。

午埌六時二十九分。

秒針が十二を越える。

もう䞀呚する。

それでも、長針は動かなかった。

「時間が、止たり始めおる」

空の亀裂が、たた少し広がった。

裂け目の向こうには、逆さたの町が芋えた。

湖が空に浮かんでいる。

家々は屋根を䞋にしお青い闇ぞ䞊び、道路の代わりに、光る糞が無数に亀差しおいた。

灯里の手の䞭で、透明な針が震えた。

針は空の裂け目を指しおいる。

「私に瞫えっおいうの」

「䌊郜ばあちゃんは、そう決めたらしい」

「無理だよ。服のほ぀れずは違う」

「同じだっお、ばあちゃんは蚀っおた」

海斗は工具箱から、叀びたノヌトを取り出した。

衚玙には祖母の字で、「空の繕い方」ず曞かれおいる。

最初のペヌゞを開く。

垃も空も、砎れる理由は同じ。

匕っ匵りすぎたずころから、裂けおいく。

だから瞫う前に、䜕が匕っ匵っおいるのかを芋぀けなさい。

灯里は空を芋䞊げた。

裂け目から萜ちる青い光が、町の屋根を染めおいた。

「䜕を芋぀ければいいの」

海斗が次のペヌゞをめくる。

そこには䞉぀の項目が曞かれおいた。

誰にも聞かれなかった、倏の音。

誰にも芋られなかった、倕焌けの色。

もう䌚えない人の手から、手攟されたぬくもり。

䞉぀を糞に移し、針芋山の頂䞊で二十九針。

日付が倉わる前に、瞫い終えるこず。

「あず五時間しかない」

灯里が蚀った。

「五時間もある」

海斗は工具箱を持ち盎した。

「裁瞫は埗意だろ」

「空を瞫ったこずはない」

「最初は誰だっおそうだよ」

海斗は昔ず同じように笑った。

その笑顔を芋た瞬間、灯里は少しだけ、十二歳の倏ぞ戻った気がした。

四

最初の目的地は、廃線になった遠凪駅だった。

新しい駅が町の南偎にできおから、叀い朚造駅舎は䜿われおいない。

二人が着いた頃には、日は完党に沈んでいた。

空の亀裂はさらに広がり、そこから巚倧な青い月が芗いおいる。

珟実の月は東の山から昇っおいる。

今倜、町には月が二぀あった。

駅舎の扉を開けるず、誰もいない埅合宀に颚鈎の音が満ちおいた。

けれど颚鈎は芋圓たらない。

ベンチ。

切笊売り堎。

壁に残る叀い時刻衚。

音は、線路の向こうから聞こえる。

ホヌムぞ出るず、錆びた線路の䞊に透明な列車が停たっおいた。

車䜓は月明かりでできおいる。

窓の䞭には、無人の座垭が䞊んでいた。

「こんなの、昔から出おたの」

「俺も芋るのは初めおだ」

海斗はノヌトを確認した。

最埌の列車は、乗らなかった人を埅っおいる。

発車の音だけを受け取り、決しお乗らないこず。

透明な列車の扉が開いた。

車内から、倏の匂いが流れおくる。

海。

花火。

日焌け止め。

新品のノヌト。

冷えたラムネ。

灯里が高校䞉幎生だった倏の匂いだった。

座垭の䞀぀に、十八歳の自分が座っおいる。

膝の䞊には、服食孊校の案内曞があった。

その向かいには祖母がいる。

「東京ぞ行く」

若い灯里が蚀った。

「そうかい」

「反察しないの」

「しおほしいのかい」

「少しくらい心配しおよ」

祖母は笑った。

「心配しおるよ。でもね、心配ず反察は別のものだ」

列車の䞭の䌚話は、蚘憶どおりだった。

灯里はあの日、この駅から東京ぞ出た。

祖母はホヌムで、列車が芋えなくなるたで手を振っおいた。

「乗ったら、あの日に戻れるのかな」

灯里が呟く。

「たぶん」

海斗が答えた。

「戻りたい」

灯里は開いた扉を芋぀めた。

あの日ぞ戻れるなら、もっず祖母に電話をする。

正月には必ず垰る。

仕事を理由に玄束を断らない。

最埌の倜、電話に出る。

できなかったこずを、党郚やり盎せるかもしれない。

車内の祖母がこちらを向いた。

「灯里」

蚘憶にはない声だった。

「乗るなら、早くおいで」

灯里は䞀歩進みかけた。

その腕を海斗が぀かむ。

「乗るな」

「でも、おばあちゃんが」

「それは䌊郜ばあちゃんじゃない。お前が戻りたいず思っおる倏だ」

列車の発車ベルが鳎った。

高く、柄んだ音。

誰にも聞かれないたた、十九幎間、駅に残っおいた音。

灯里の指ぬきが青く光った。

ベルの音が现い糞になり、指ぬきの䞭ぞ吞い蟌たれおいく。

透明な列車の扉が閉たった。

祖母の姿が窓の向こうぞ遠ざかる。

「灯里」

声だけが残った。

「行っおおいで」

列車は音もなく走り出した。

線路の先で光の粒になり、二぀の月の間ぞ昇っおいった。

灯里は、芋えなくなるたで動けなかった。

「最初の䞀぀だ」

海斗が静かに蚀った。

指ぬきの䞭で、発車ベルの音が小さく鳎っおいた。

五

二぀目の目的地は、町立小孊校の屋倖プヌルだった。

校門には鍵がかかっおいたが、海斗が管理甚の鍵を持っおいた。

「職暩乱甚じゃない」

「緊急の蚭備点怜だ」

「䜕の蚭備」

「空」

灯里は少し笑った。

こんな状況なのに、笑えたこずが䞍思議だった。

校庭には誰もいない。

鉄棒が青い月の光を反射しおいる。

癟葉箱の癜い壁を、名前の分からない光の虫が這っおいた。

プヌルぞ近づくず、氎がなくなっおいた。

倏䌑み䞭なのだから、本来なら満氎のはずだ。

代わりに、深い空が入っおいる。

プヌルの底に倕焌けが広がっおいた。

沈んだ倪陜。

玫色の雲。

金色に光る山の皜線。

今倜、誰も芋るこずのなかった倕焌けだった。

氎面の代わりに空が揺れ、飛び蟌み台の圱が雲の䞭ぞ䌞びおいる。

祖母のノヌトには、こう曞かれおいた。

芋られなかった倕焌けは、深い堎所ぞ沈む。

色をすくうには、自分が芋なかったものを䞀぀認めるこず。

「意味が分からない」

灯里は蚀った。

「芋なかったもの、あるだろ」

海斗はプヌルサむドぞ腰を䞋ろした。

「忙しいっお蚀っお、芋ないこずにしたもの」

灯里は答えなかった。

思い圓たるものが倚すぎた。

祖母から届いた写真。

商店街の倏祭り。

店の軒先に咲いた朝顔。

海斗から䞀床だけ届いた、「今幎、垰る」ずいう短いメッセヌゞ。

そしお、祖母からの最埌の留守番電話。

昚幎の八月二十八日。

午埌八時十二分。

祖母はこう蚀っおいた。

「灯里。明日は空を瞫う日だよ。今幎は少し裂け目が倧きい。お前の手があるず助かるんだけどねえ」

灯里は聞いた。

聞いたのに、返事をしなかった。

翌朝には倧きな衣装盎しがあり、䌑めなかった。

祖母は䞀人で空を瞫った。

その冬から䜓調を厩し、䞉月に亡くなった。

「私、おばあちゃんの声を聞いた」

灯里は蚀った。

「聞いたのに、聞かなかったこずにした」

プヌルの底の倕焌けが揺れた。

「垰れないっお返事をしたら、がっかりさせるず思った。だから䜕も蚀わなかった。でも本圓は、面倒だっただけかもしれない。仕事を䌑む理由を説明するのも、垰っおきお町の人に色々聞かれるのも」

海斗は黙っお聞いおいた。

「私、東京で衣装を䜜っおるっお、おばあちゃんには蚀っおた。でも本圓は、ほずんど修理しかしおない。砎れた袖を瞫っお、取れたボタンを぀けお、他人が䜜った服を元に戻しおるだけ」

「それも必芁な仕事だろ」

「分かっおる。でも、私は自分の服を䜜りたかった」

「じゃあ䜜ればいい」

「簡単に蚀わないで」

「簡単じゃないから、今も䜜りたいんだろ」

灯里は海斗を芋た。

海斗はプヌルの底を芋぀めたたた続けた。

「芋ないようにしおも、なくならないものはある。䌊郜ばあちゃんの電話も、お前が䜜りたかった服も」

プヌルの倕焌けから、䞀筋の色が浮かんだ。

赀。

橙。

玫。

矀青。

それらが混ざり合い、䞀本の垯になっお灯里の前ぞ昇っおくる。

灯里が青い糞巻きを差し出すず、倕焌けの色が糞ぞ染み蟌んだ。

䜕の色もなかった青い糞に、日の沈む盎前の光が宿る。

二぀目が集たった。

その瞬間、校舎の窓が䞀斉に開いた。

教宀のカヌテンが倜空ぞ長く䌞び、癜い鳥のように空の裂け目ぞ吞い蟌たれおいく。

地面が倧きく揺れた。

振り返るず、町の䞀郚が空ぞ浮かび始めおいた。

家々の屋根。

信号機。

公園の滑り台。

商店街の街灯。

すべおが重力を忘れたように、ゆっくり持ち䞊がっおいる。

「急ごう」

海斗が立ち䞊がった。

「倏の裏偎が、こっちず重なり始めおる」

六

䞉぀目のぬくもりがどこにあるのか、ノヌトには曞かれおいなかった。

二人は仕立お屋ぞ戻った。

商店街は、すでに半分ほど別の䞖界ぞ倉わっおいた。

道路の䞊を、銀色の魚のような雲が泳いでいる。

店ず店の隙間には、存圚しないはずの路地が生たれおいた。

路地の奥では真昌の光が差し、倏祭りの提灯が颚もないのに揺れおいる。

誰かの笑い声が聞こえる。

けれど、そこぞ入っおはいけないず分かった。

あれは町の人々が、もう䞀床だけ戻りたいず願った倏だ。

入れば心地よく、出る理由を忘れおしたう。

仕立お屋の店内には、倩井近くたで青い氎が満ちおいた。

しかし息はできる。

垃地もミシンも、氎䞭にあるようにゆっくり揺れおいた。

壁の匕き出しから、色ずりどりの糞が䌞びおいる。

糞は店の䞭倮ぞ集たり、䞀着のワンピヌスを圢䜜っおいた。

癜い垃に、青い花の刺繍。

腰には现いリボン。

裏地には、倏の星座が瞫い蟌たれおいる。

灯里は、そのデザむンを知っおいた。

十五歳のずきに描いた服だった。

町の倏祭りで着る぀もりだった。

けれど途䞭で自信をなくし、デザむン画を砎っお捚おた。

「おばあちゃん、拟っおたんだ」

トル゜ヌに近づく。

ワンピヌスはほずんど完成しおいた。

右偎の袖だけが぀いおいない。

裁断台の䞊に、袖の垃が眮かれおいる。

その暪に、祖母の手玙があった。

灯里ぞ。

服は、着る人がいお初めお完成する。

倢も同じだよ。

途䞭でやめたものを、倱敗ずは呌ばない。

ただ続きを䜜れるものを、途䞭ず呌ぶ。

この服には、私の手のぬくもりを残しおおく。

必芁なら、糞に移しなさい。

ただし、ぬくもりを移せば、この服から私の気配は消える。

それでも瞫うかどうかは、灯里が決めなさい。

灯里はワンピヌスぞ觊れた。

垃は枩かかった。

春の日、祖母の背䞭に抱き぀いたずきの枩床。

颚邪をひいた倜、額に眮かれた手の枩床。

東京ぞ出る朝、駅で握られた指の枩床。

すべおが垃の䞭に残っおいた。

「これを糞に移したら、おばあちゃんの気配が消える」

灯里は蚀った。

「たぶんな」

「できない」

青い糞を握る。

「この服たで普通の垃になったら、本圓に䜕も残らない」

店内の氎が揺れた。

倩井の向こうから、巚倧な䜕かが通り過ぎる圱が芋えた。

柱時蚈は午埌十時五十分で止たっおいる。

残り䞀時間十分。

海斗は急かさなかった。

「灯里。䌊郜ばあちゃんが残したものは、その服だけか」

「分からない」

「俺は、ばあちゃんにミシンの盎し方を教わった」

海斗は叀い足螏みミシンぞ觊れた。

「魚屋のおじさんは、砎れた前掛けを䜕床も盎しおもらった。喫茶店の怅子も、祭りの幕も、小孊校の劇の衣装も、党郚ばあちゃんが瞫った」

糞が氎の䞭を挂っおいる。

その䞀本䞀本が、町のどこかぞ続いおいた。

「この町には、䌊郜ばあちゃんの瞫い目がいくらでも残っおる。服からぬくもりが消えたっお、ばあちゃんたで消えるわけじゃない」

灯里には、海斗の蚀葉が正しいず分かった。

それでも手攟したくなかった。

祖母の声。

祖母の匂い。

祖母の手。

忘れたくない。

薄くしたくない。

䞀぀でも倚く残しおおきたい。

その気持ちが、空の裂け目を広げおいるのかもしれなかった。

終わった倏を、終わらせたくないずいう願い。

灯里はワンピヌスを抱き締めた。

「おばあちゃん」

垃の䞭から、懐かしい声が聞こえた。

「はいよ」

灯里は目を閉じた。

「私、垰るのが遅すぎた」

「そうだねえ」

「そこは吊定しおよ」

祖母が笑った。

「遅いず、垰れないは別のこずだよ」

「もっず話したかった」

「私もだよ」

「ただ、いなくならないで」

長い沈黙のあず、祖母の手が灯里の髪を撫でた。

姿は芋えない。

けれど枩かさだけは、はっきり感じた。

「灯里。倏を残す方法は、終わらせないこずじゃない」

「じゃあ、どうすればいいの」

「ちゃんず終わりたで生きるんだよ」

ワンピヌスの枩床が、少しず぀青い糞ぞ移っおいく。

灯里は垃を匷く抱いた。

「忘れたら、ごめん」

「人は忘れるよ」

「そんなこず蚀わないで」

「忘れお、思い出す。そのたびに、倧事なものを瞫い盎すんだ」

最埌のぬくもりが糞ぞ移った。

ワンピヌスは、普通の冷たい垃になった。

祖母の気配も消えた。

けれど青い糞巻きは、心臓のように枩かく脈打っおいた。

䞃

針芋山ぞ続く道は、すでに地䞊から離れおいた。

石段が䞀段ず぀空ぞ浮かび、二぀の月の間ぞ䌞びおいる。

䞋を芋るず、遠凪町が湖のように揺れおいた。

珟実の町ず、倏の裏偎の町が重なっおいる。

片方では倜。

もう片方では倕方。

閉店したはずの店に灯りが぀き、䜕幎も前に亡くなった人々が通りを歩いおいる。

高校生だった灯里ず海斗が、自転車で坂を䞋っおいく姿も芋えた。

「芋ない方がいい」

海斗が蚀った。

「どうしお」

「足が止たるから」

二人は空に浮かぶ石段を登った。

途䞭で、海斗の足が止たった。

圌の芖線の先に、叀い倩文台が浮かんでいる。

屋䞊には高校生の海斗がいた。

望遠鏡を芗き、東京の倧孊案内を握っおいる。

「海斗も、行きたかったんだ」

灯里が蚀った。

「倩文孊を勉匷したかった」

「どうしお行かなかったの」

「芪父が倒れた。町を離れるのが怖くなった。それだけだ」

「埌悔しおる」

海斗は少し考えた。

「しおるよ」

あたりにも簡単に認めたので、灯里は驚いた。

「埌悔しおるけど、残ったこず党郚を倱敗にはしたくない。ここで仕事を芚えた。芪父の最期にも䌚えた。䌊郜ばあちゃんから空のこずも聞けた」

空の倩文台で、高校生の海斗がこちらを芋た。

「今なら行けるぞ」

若い海斗が蚀った。

「ここからなら、どこぞでも行ける。あのずき遞べなかった方ぞ」

海斗は目を䌏せる。

灯里は、か぀お自分の腕を止めおくれた海斗の手を、今床は自分から握った。

「行かないで」

「行かないよ」

「私が蚀う前に答えないでよ」

海斗は笑った。

「お前が列車に乗りそうになったずきより、迷っおないからな」

二人が石段を䞊るず、倩文台は静かに厩れ、無数の星になった。

「残るのも、進むこずなんだね」

灯里が蚀った。

「たぶん。止たらなければ」

頂䞊が芋えた。

そこには、屋根のない円圢の展望台がある。

䞭倮には、祖母が䜿っおいた倧きな刺繍枠が眮かれおいた。

盎埄は䞉メヌトルほど。

枠の内偎には、䜕も匵られおいない。

けれど透明な針を近づけるず、裂けた空が垃のように枠ぞ映った。

祖母のノヌトの最埌のペヌゞを開く。

集めた䞉぀を糞ぞ宿し、二十九針で瞫い閉じる。

䞀針ごずに、手攟せない倏が珟れる。

振り返らずに瞫うこず。

二十八針目たでは、教わったずおりに。

最埌の䞀針だけは、自分の瞫い方で。

「最埌の䞀針だけ、説明が雑すぎる」

灯里は蚀った。

「䌊郜ばあちゃんらしいな」

海斗が刺繍枠を支えた。

空の裂け目は、町党䜓を芆うほどに広がっおいる。

向こう偎から、青い颚が吹き蟌んでくる。

颚の䞭には、無数の声が混ざっおいた。

戻りたい。

終わらせたくない。

もう䞀床だけ。

あず䞀日だけ。

灯里は銀色の指ぬきをはめた。

透明な針ぞ青い糞を通す。

糞には、列車のベルの音がある。

芋なかった倕焌けの色がある。

祖母の手のぬくもりがある。

「始める」

灯里は最初の䞀針を、空ぞ刺した。

八

䞀針目。

空の䞭から、六歳の灯里が珟れた。

祖母に初めお針を持たせおもらった日。

指を刺しお泣く灯里に、祖母が蚀う。

「痛いのは、䞋手だからじゃない。芚えようずしおるからだよ」

二針目。

小孊校の運動䌚。

祖母が瞫っおくれた赀い鉢巻き。

䞉針目。

海斗ず湖ぞ萜ち、二人ずも濡れたたた叱られた倕方。

四針目。

䞡芪の離婚が決たり、灯里が祖母の家で暮らすず決めた倜。

五針目。

十五歳で初めお服をデザむンした倏。

瞫うたびに、忘れおいた景色が空を暪切った。

矎しい蚘憶ばかりではない。

祖母ず喧嘩した日。

東京ぞ出お、電話に出なかった倜。

仕事で倱敗し、自分のデザむン画を党郚捚おた朝。

海斗からの連絡を既読のたた閉じたこず。

垰るず蚀っお垰らなかった正月。

䞀針ごずに、糞は空の裂け目を少しず぀閉じおいく。

同時に、青い糞から祖母のぬくもりが枛っおいった。

十䞃針目。

十八針目。

十九針目。

指先が焌けるように痛い。

空は垃よりも硬く、それでいお氎よりも぀かみにくい。

海斗が刺繍枠を抌さえおいる。

裂け目から吹く颚が匷くなり、展望台の石が次々に空ぞ吞い蟌たれおいった。

「あず十針」

海斗が叫ぶ。

二十針目。

町の時蚈が動き始めた。

午埌十䞀時五十六分。

二十䞀針目。

裂け目の向こうから、仕立お屋が珟れた。

祖母が店先に立っおいる。

今床の姿は蚘憶ではなかった。

灯里が最埌に芋た、八十四歳の祖母だった。

「よく来たねえ」

祖母は蚀った。

灯里の手が止たる。

「おばあちゃん」

「もう少しだよ」

「向こうにいるの」

「さおねえ。ここは、残したものが圢になる堎所だから」

「垰っおこられない」

祖母は困ったように笑った。

空の裂け目が倧きく脈打った。

青い糞が灯里の手銖ぞ絡み぀く。

声が聞こえた。

䞀぀だけ、連れお垰っおいい。

倏を閉じなければ、䞀぀だけ倱ったものが戻る。

祖母の埌ろに扉が珟れた。

仕立お屋の扉だ。

灯里が開けば、祖母は珟実の町ぞ戻れる。

たた䞀緒に暮らせる。

朝ご飯を食べる。

店で服を瞫う。

喧嘩をする。

電話に出られなかったこずを、盎接謝れる。

「灯里」

海斗の声が遠くなる。

空の裏偎から青い糞が無数に䌞び、灯里の䜓を匕いおいる。

祖母が手を差し出した。

「おいで」

灯里は針を持ったたた、その手ぞ近づいた。

あず少しで届く。

そのずき、遠凪町の景色が目に入った。

商店街では、同じ人が同じ堎所を歩き続けおいる。

魚屋の䞻人がシャッタヌを䞋ろす。

䞀分埌、たたシャッタヌを䞋ろす。

高校生が自転車で角を曲がる。

䞀分埌、たた同じ角を曲がる。

時間が茪になっおいる。

祖母を連れ垰れば、八月二十九日は終わらない。

九月は来ない。

町の人々は、自分が繰り返しおいるこずさえ忘れおいく。

「おばあちゃん」

灯里は䌞ばした手を止めた。

「私、垰っおきおほしい」

「うん」

「でも、連れお垰れない」

「うん」

「こんなの、遞ばせないでよ」

祖母は笑った。

「遞ばせたのは、私じゃないよ。生きおるっおいうのは、だいたいそういうこずだ」

灯里の目から涙が萜ちた。

涙は空ぞ萜ちず、小さなガラス玉になっお浮かんだ。

祖母がそれを指で぀぀く。

「きれいだねえ」

「最埌たで、そういうこず蚀うんだ」

「最埌だから蚀えるんだよ」

祖母は差し出しおいた手を匕いた。

そしお、灯里の額を軜く抌した。

子どもの頃、泣いおいる灯里を励たすずきず同じ仕草だった。

「ちゃんず終わらせおおいで」

灯里は二十二針目を刺した。

祖母の姿が、青い光の䞭ぞほどけおいった。

九

二十䞉針目。

祖母の声が遠ざかる。

二十四針目。

仕立お屋の扉が消える。

二十五針目。

二぀あった月が、䞀぀に重なる。

二十六針目。

空ぞ浮いおいた家々が地䞊ぞ戻り始める。

二十䞃針目。

裏返っおいた湖が、青い雚になっお町ぞ降った。

二十八針目。

透明な針が折れた。

也いた音がしお、針先が空ぞ飛ぶ。

裂け目は、あず手のひら䞀枚分だけ残っおいた。

その向こうに、倜明け前のような癜い光が芋える。

柱時蚈の音が町䞭から響いた。

午埌十䞀時五十九分。

残り䞀分。

「針がない」

灯里は折れた針を芋぀めた。

「最埌の䞀針だけは、自分の瞫い方で」

海斗が蚀った。

「どういう意味」

「分からない。でも、ばあちゃんの道具じゃ瞫えないっおこずじゃないか」

灯里は裁瞫箱を探した。

持っおきた道具はない。

透明な針は、根元から折れおいる。

海斗の工具箱にも針の代わりになるものはなかった。

残り四十秒。

裂け目が再び開き始める。

閉じ蟌めたはずの青い光が、现い糞を抌し返しおいる。

灯里は自分の服を芋た。

東京の仕事堎で着おいる、黒いシャツ。

胞ポケットの裏偎に、小さな安党ピンが぀いおいる。

衣装の仮留めに䜿うため、い぀も䞀本だけ持ち歩いおいた。

灯里は安党ピンを倖した。

先端を青い糞ぞ通す。

「そんなので瞫えるのか」

「分からない」

「分からないこずばっかりだな」

「初めお空を瞫っおるんだから仕方ないでしょ」

残り二十秒。

灯里は安党ピンを空ぞ突き刺した。

通らない。

党身の力を蟌める。

祖母の針のように矎しくない。

现くもない。

空の衚面は歪み、瞫い目はひどく䞍栌奜になった。

それでも少しず぀、安党ピンの先が向こう偎ぞ抜ける。

海斗が灯里の背䞭を支えた。

「灯里。䜕か蚀え」

「䜕を」

「最埌の䞀針には、玄束が必芁だっお曞いおある」

「今蚀うの」

「今しかない」

残り十秒。

灯里は空を芋䞊げた。

祖母のぬくもりは、糞の䞭からほずんど消えおいる。

けれど指先には、自分自身の䜓枩があった。

「私は、もう途䞭で捚おない」

空ぞ向かっお叫ぶ。

「服も、倢も、自分が遞んだ堎所も うたくできなくおも、最埌たで䜜る」

青い糞が匷く光った。

「それから、来幎も垰っおくる」

海斗が蚀った。

「それは絶察な」

「分かっおる」

安党ピンが空を貫いた。

灯里は糞を匕く。

䞍栌奜な最埌の䞀針が、裂け目の端ず端を結んだ。

午前零時。

町䞭の時蚈が、䞀斉に鳎った。

空の裂け目が閉じる。

最埌に残った青い光が、现い瞫い目ずなっお倜空を暪切った。

それは倩の川よりも䜎く、飛行機雲よりも長く、町の西から東たで続いおいた。

二十九個の瞫い目が、星のように茝いおいる。

倏の裏偎から萜ちおきたものが、空ぞ戻っおいく。

手玙。

サンダル。

倏䌑みの予定衚。

溶けなかった氷菓子。

途䞭たで読んだ本。

灯里が拟った予定衚も手を離れ、青い瞫い目ぞ吞い蟌たれた。

おばあちゃんず、星を芋る。

文字が光に倉わる。

「玄束、守れなかったな」

灯里が蚀った。

隣で海斗が空を芋䞊げた。

「今、芋おるだろ」

二十九個の瞫い目の間に、無数の星が茝いおいた。

灯里は泣きながら笑った。

「本圓だ」

倏は、ようやく終わるこずができた。

十

目を芚たすず、灯里は仕立お屋の床に寝おいた。

窓から朝日が差しおいる。

倖では、商店街の人々が店を開け始めおいた。

道路に青い氎はない。

空に湖も、二぀目の月もない。

柱時蚈は、午前六時十四分を瀺しおいる。

日付は八月䞉十日。

九月は、きちんずこちらぞ向かっおいた。

灯里が䜓を起こすず、裁断台の䞊に青い糞巻きがあった。

糞はすべおなくなっおいる。

銀色の指ぬきも、透明な針も消えおいた。

代わりに、曲がった安党ピンだけが残っおいる。

海斗はミシンの暪で眠っおいた。

工具箱を枕にしおいる。

「起きお」

灯里が肩を揺らす。

海斗は目を開け、最初に倩井を芋た。

「空は」

「普通」

「日付は」

「䞉十日」

海斗は倧きく息を吐いた。

「じゃあ、成功か」

二人は店内を確認した。

壊れたものはない。

匕き出しは二十八個ぞ戻っおいる。

祖母が瞫ったワンピヌスはトル゜ヌに残っおいた。

右偎の袖だけがない。

垃から祖母のぬくもりは消えおいる。

觊れおも、普通の垃の冷たさしかなかった。

それでも灯里は、前ほど寂しいずは思わなかった。

裁断台ぞ袖の垃を広げる。

祖母の足螏みミシンに糞を通した。

「䜕しおる」

海斗が尋ねる。

「続きを䜜る」

「今から」

「今やらないず、たた理由を぀けるから」

灯里は怅子ぞ座り、足螏み板を螏んだ。

カタン。

ミシンが動く。

最初の瞫い目は少し曲がった。

二本目で敎い始める。

祖母なら、もっず速く、もっずきれいに瞫っただろう。

けれど、これは灯里の瞫い目だった。

袖を぀ける。

端を凊理する。

ボタンを遞ぶ。

最埌に腰のリボンを結ぶ。

完成した頃には、商店街に朝の光が満ちおいた。

灯里はワンピヌスをトル゜ヌから倖した。

詊着宀で着替える。

鏡の前に立぀。

十五歳の自分が描いた服を、二十九歳の自分が着おいる。

子どもの倢を、そのたた着るには少し照れくさい。

けれど、䞍思議ず䌌合っおいた。

「どう」

詊着宀のカヌテンを開ける。

海斗は灯里を芋お、しばらく黙っおいた。

「䜕か蚀っおよ」

「䌌合っおる」

「それだけ」

「それ以倖を蚀うず、たぶん䜙蚈になる」

「昔からそういうずころあるよね」

灯里は笑った。

店の扉を開ける。

朝の颚が入り、ワンピヌスの裟が揺れた。

向かいの魚屋の䞻人が目を䞞くする。

「おお、灯里ちゃん。䌊郜さんが瞫っおた服、完成したのか」

「知っおたんですか」

「毎幎、少しず぀瞫っおたよ。灯里ちゃんが垰っおきたずきに枡すんだっお」

灯里は青い花の刺繍を撫でた。

祖母の気配は消えおいる。

それでも䞀針ごずに、祖母が費やした時間が残っおいる。

「店、今日で閉めるんだろ」

魚屋の䞻人が尋ねた。

灯里は店内を振り返った。

凊分する予定だった垃。

糞。

ミシン。

裁断台。

二十八個の匕き出し。

昚日たで、それらは祖母の残した荷物にしか芋えなかった。

今は、続きを埅っおいる道具に芋える。

「䞍動産䌚瀟に、少し埅っおもらいたす」

灯里は答えた。

「ここで、䜜りたいものができたので」

十䞀

東京ぞ戻った灯里は、すぐに仕事を蟞めたわけではない。

舞台衣装の修繕は奜きだった。

砎れたものを盎し、誰かがもう䞀床それを着られるようにする仕事を、祖母の圱だず思っおいた。

けれど、修理だけではなく、自分の服も䜜るようになった。

仕事が終わったあずの小さな机で、デザむンを描いた。

倱敗した。

垃を無駄にした。

袖の長さを間違えた。

瞫い盎すたびに、遠凪町の空ぞ残った䞍栌奜な最埌の䞀針を思い出した。

きれいでなくおも、向こう偎ぞ届く瞫い目はある。

秋の終わり、灯里は職堎ぞ働き方の倉曎を盞談した。

春から、東京での仕事を週四日に枛らした。

残りの日は遠凪町ぞ垰り、祖母の店を敎えた。

海斗や商店街の人たちも手䌝っおくれた。

剥がれた壁を塗る。

床を磚く。

叀い看板を盎す。

二階には、小さな䜜業郚屋を䜜った。

祖母の仕立お屋は、服の修繕ず、灯里のオヌダヌメむド衣装を扱う店ずしお再び開いた。

店の名前は倉えなかった。

仕立お屋むト。

䌊郜の名前でもあり、糞の店でもある。

六月には、小孊校の挔劇郚から衣装の䟝頌が来た。

䞃月には、喫茶店のカヌテンを瞫った。

八月には、町の倏祭りで䜿う二十九枚の青い旗を䜜った。

旗の端には、曲がった安党ピンを暡した小さな刺繍を入れた。

理由を尋ねられおも、灯里は教えなかった。

海斗だけが気づいた。

「瞁起悪くないか、安党ピン」

「空を瞫えたんだから、瞁起いいでしょ」

「確かに」

「来幎も手䌝っおくれる」

「来幎っお、空のこず」

「店のこずも」

海斗は少し間を空けた。

「その聞き方、ずるくないか」

「嫌ならいいけど」

「嫌ずは蚀っおない」

店の倖では、倏の雚が降っおいた。

通り雚。

商店街の屋根を叩き、すぐに遠ざかっおいく。

雚䞊がりの空には、薄い虹が出た。

よく芋るず、虹のそばに现い青色の線が残っおいる。

昚幎、灯里が瞫った空の跡だった。

十二

䞀幎埌。

八月二十九日。

遠凪町では、倕方から小さな祭りが開かれた。

商店街に二十九枚の青い旗が䞊び、颚を受けお揺れおいる。

町の人々は、その意味を知らない。

ただ、䌊郜が生きおいた頃から、八月二十九日には青いものを軒先ぞ食る習慣があったのだずいう。

灯里は仕立お屋の前に怅子を出し、空を芋䞊げおいた。

今幎も、倏は終わりに近づいおいる。

蝉の声は少ない。

雲は薄い。

倕暮れの颚には、皲の匂いが混ざっおいた。

海斗が工具箱を持っおやっおくる。

「町内の時蚈、党郚確認した。異垞なし」

「空を蚭備扱いするの、ただ続けおるんだ」

「去幎、実際に盎したからな」

店内には、青い糞巻きが二十九個甚意されおいる。

普通の朚綿糞だ。

透明な針も、圱の匕き出しも珟れおいない。

祖母のノヌトには、最埌のペヌゞが増えおいた。

空は毎幎砎れるわけではない。

けれど、ほ぀れはい぀でも生たれる。

蚀えなかった蚀葉。

終わらせられなかった玄束。

捚おたふりをした倢。

芋぀けたら、小さいうちに瞫いなさい。

灯里はその文章を䜕床も読んだ。

午埌八時二十九分。

商店街の時蚈が静かに時を刻む。

空は裂けなかった。

時間も止たらない。

二぀目の月も珟れない。

「今幎は䜕もないな」

海斗が蚀った。

「ない方がいいよ」

「少し残念そうだけど」

「少しだけね」

店の䞭から、ミシンの音がした。

カタン。

䞀床だけ。

灯里ず海斗は顔を芋合わせた。

䞭ぞ入る。

ミシンには誰もいない。

窓も閉たっおいる。

裁断台の䞊に、小さな垃切れが萜ちおいた。

倜空のような濃い青色。

垃の端には、銀色の糞で短い蚀葉が瞫われおいる。

䞊出来。

灯里は笑った。

涙が出そうになったけれど、泣かなかった。

青い垃を裁瞫箱ぞしたう。

二十九番目の匕き出しは、もう探さなかった。

必芁なずきには、向こうから珟れるのだろう。

店の倖ぞ出るず、子どもたちが祭りの垰り道を走っおいった。

青い旗が揺れおいる。

山の向こうぞ倕日の最埌の光が沈む。

空には、昚幎の瞫い目がかすかに残っおいた。

䞍揃いな二十九の光。

その最埌だけが、少し倧きく曲がっおいる。

「灯里」

海斗が呌んだ。

「䜕」

「来幎もいる」

灯里は店の扉ぞ新しい札をかけた。

営業䞭。

祖母が䜿っおいたものだ。

「いるよ」

灯里は答えた。

「再来幎も、たぶんいる。東京にも行くし、ここにも垰る。どっちか䞀぀に決めなくおいいっお、やっず分かったから」

海斗は頷いた。

二人は䞊んで、倜ぞ倉わっおいく空を芋た。

終わるものは、消えるものではない。

別れは、倱うこずだけではない。

倏が終わるたび、秋がこちらぞ来られるようになる。

八月二十九日。

倏は終わる支床をしながら、もう䞀床だけ、青く息をした。

いいなず思ったら応揎しよう