メインコンテンツへスキップ
見出し画像

【完結】小説「ロマンス、キャピタル、ダイナー」#5|有益じゃない話

    あらすじ(ネタバレあり)

    香水開発者アデル・モローは、仲間たちと作ったローズ・エカルラットを世に出すため、投資会社ノーススター・キャピタルと契約する。だが若き副社長ベネディクトは、アデルの美貌と経歴を高級香水の物語として売り出し、彼女は「それは私じゃない」と反発する。やがて香水は成功するが、アデルは自分自身まで市場価値に変えられた痛みを抱える。一方、ベネディクトもまた、金と権力と有益性だけを求められてきた男だった。庶民的なダイナーで顔を合わせるうち、二人は互いの孤独を知っていく。

    🔽連載収録マガジン【全5回】

    連載全話リンク
    その1/その2/その3/その4/その5(ここ)

     

    「ロマンス、キャピタル、ダイナー」#5

    ──有益じゃない話

     

    .

     昼近くに、アデルの元にはノーラから昨夜の泥酔介抱のお礼とお詫びのメッセージが届いた。またスケジュールを後倒しにしてしまったらしく「今から高速で納品物がある。ママのとこで謝るゆるして」と混沌とした文面で話は途切れていた。

     アデルは目を覚ますために、ラップトップを持っていつものカフェに朝食を食べに出かけた。ハムとチーズのベーグルとオーツミルクラテにする。少し力が欲しかった。大手香水メーカーに頼まれた企画案をまとめるつもりだった。
     ある程度まで進めて、アデルはカフェを出た。

     七月の日差しがだいぶ強まっている。この後は、家に戻って企画案の続きを考えながら、外部委託している生産工場の資料確認の予定もある。

     企画案をまとめ切るまで考えないことにするつもりだったが、一息つくたびに、40ドルのヘアミストのことを思い出す。

     ──あれは、夢。

     どうやりくりしても、40ドルのヘアミストの新規立ち上げと販売導線の確立までは、一人で回せそうにない。資金繰りも現実的ではない。大手香水メーカーの案件の方が、遥かにコスト安で利益が良い。

     アデルは思う。きっと間違った理想を抱いているわけではない、と。低価格帯で多くの人に喜んでもらえる商品。誰にでも開かれた商品を作りたい。しかし、その道は、思った以上に困難だった。

     低価格帯の事業を考えると、日に日にアデルは気が重くなった。一度その道が開けた後の高級路線の仕事に比べると、低価格帯の事業はゼロからすべてを組み立てなくてはならない荒地そのものだった。ヘアミストそのものの商品設計以外に、販路、容器、製造工場を含めて企画するべきものが膨大。ある程度を計画書として組み上げることができても、次はそれぞれの企業の体力が不安だった。どこかで未払いや納品の遅れが発生すれば、吸収するだけの余力がないだけに即事業はショートするだろう。取引先担当者たちが期限や企画の厳守にルーズなのも大きな不安要素だった。高級路線のビジネスでは考えもしなかった不安とリスクがいくらでもある。

     アデルは頭を抱えた。青ざめ、泣きたくなる。
     なぜこうなのか。

     多くの人に気軽に楽しんでもらえる良質なものを作りたい。得意なことを生かしたい。そのために努力してきた。それは悪いことでも、間違ったことでもなかったはずだ。それなのに、その実現は、あまりにも遠い。思ってもいなかったことよりも、ずっと、遠い。

     アデルはデスク下の袖机からファイルを取り出した。デザイナーに作ってもらった、ヘアミストの商品イメージだった。これができたとき、心から嬉しかった。あの嬉しさこそ、仕事のやりがいのはずだ。アデルはそう、自分に言い聞かせた。
     アデルは壁にヘアミストの商品イメージ写真を貼った。

     ──あれは夢。忘れない。

     そして、大手香水メーカーの企画書の仕上げに掛かる。

     

       ✦

     

    「ま、でかしたってことだよ、あんたの泥酔」
     日の暮れたダイナーのいつもの席で、サブリナが斜め向かいのノーラに向かって腕を組んでそう言った。
    「何それ。私寝てる間にそんな進展があったの?」

     サブリナは笑いながらスマートフォンを取り出し、アデルの返信を開いた。
     ──違う!!!!
     サブリナの問いに対して、素朴な否定文が返信になっていた。

    「あの子もほんと正直だよね。寝てないけどなんかあったんだよこれ」
     ノーラは画面を覗き込み、「おおお、これは……」と大仰に唸った。サブリナは顔を近づけてノーラに耳打ちする。
    「だから今夜は、様子見て、私たち帰ろう。二人ともいい雰囲気だったら」
     ノーラは、胸元からサムズアップを突き出して答える。

     
     

     かくて、夜も更ける頃、ダイナーには本人たちだけが知らぬ主役二人が集った。
     いつもの通りなら、ボックス席の対角に座るベネディクトとアデルだが、先に来ていたサブリナとノーラが、隣り合って並んでいる。アデルはその席順に少し決まりが悪そうにしながらも、何も言わずに奥へ進んで座る。少し遅れて、ベネディクトが到着した。今夜も表情はない。しかしボックス席の前にいつもなら挟まない一拍を挟んで佇んだベネディクトは、それもなかったようにアデルの隣に座った。

     並んだ二人は、こんばんは、と、挨拶したきり、黙り込んでいる。
     二人の様子を観察し、サブリナはノーラに「先に出よう」と合図を送った。再び、胸元からの密かなサムズアップでノーラは答える。

     サブリナは、昨晩の会計をベネディクトが立て替えていたことをお礼し、支払うと言った。不要だが払いたいのならとベネディクトが言う。サブリナは払いたいといい、ママが次の会計から調整しておくと言ってくれた。ママと話していたはずが、そのままサブリナは消えた。

    「戻って来ないね」
     アデルが心配そうに聞くと、ノーラは「友達に呼ばれたみたい」とスマートフォンを見ながら答えた。
    「私も仕事! また依頼もらったんだ! もう地獄を見たくないから、早めに着手ー」
     ノーラは、続いて元気よく立ち上がる。

    「じゃあね、アデル、ワカモレ王子。良い夜を」
     投げキッスをして、ノーラは軽快に去って行く。

     こうして、その場には二人が残された。

     アデルはシードルの追加を頼んだ。「何も食べないのかい」とママが聞きに来たが、アデルは首を振る。「王子様の泡水はまだあるね」とベネディクトの手元のペリエをチェックし、ママも去って行った。

    「置いていかれちゃったみたいだね」
     アデルが言った。

     少し沈黙を挟んで、ペリエに手を伸ばしながらベネディクトが口を開く。
    「昨日家に帰って、はしゃいでしまって」
    「え?」
     ベネディクトは右手首をさすっている。アデルが視線を送ると、絆創膏らしきものが貼られていた。擦り傷でも作ったのだろうかと、思われた。
    「社会的立場があるので詳細は省きますが、寝付くまでにだいぶ時間がかかりました」
     この喋り方は、きっと変わらないのだろうとアデルは思った。しかし珍しい。この男は今、感情報告を始めている。

    「こんなに嬉しいと思ったのは、いつ以来だろうと。仕事の成功とまったく違いました。成功した仕事はもうどこかで、予定通りに展開するだけのもの。──自分で望みはしましたが、たった一人の人が、私を家にあげてくれる。時間を過ごしてくれる。それをこんなに素朴に喜ぶなんて、自分でも思わなかった」

     そう言われてみて、アデルも構えずに言葉が出た。

    「私だって、男の人を家にあげたことなんてないよ……。でもなんだか、いつも肝心なことを話していない気がして。このお店でないところなら、話してもらえるかもしれないと」

     アデルは言葉を切り、そして、思い切ったように言った。

    「あなたはいつも有益なことしか言わない。でも、そうじゃない話も、聞きたかったんだと思う」

     ベネディクトは横にいるアデルを見つめた。顔を伏せたアデルがそう言う。

    「有益じゃない話?」

     ベネディクトはそう言われて、かすかに心臓が冷えた気がした。ベネディクトは隣のアデルに視線を送った。答えるように、アデルは視線を返す。

     有益じゃない、とは、なんのことなのか。
     有益ではない話に一体、なんの意味があるというのか。

     アデルはさらに続ける。
    「そうだよ! 有益かどうかなんてどうでもいい。あなたは、気管支が弱くて、視力が高い。私はそういうことを知りたい。でも、あなたはどんな人間か、ほとんどの人に興味を持たれない。あなたがどんな人間かなんて相手にとって、余計なことなの。──私がそうされて来たのと同じ。あなたは私と同じ」

     ──あの子たちとどうやって友達になったっけ? いつ?

     いつ友達になったかなんて思い出せない。たくさん話したけどほとんどの話を覚えていない。だけど何度も会ううちに、アデルにとってサブリナもノーラも友達だった。お互いにそう思っていた。なにか役に立つことをしてくれたからではない。得だったからでもない。迷惑をかけられても、口論するときがあっても、なぜだかわからないけれどもアデルは二人が好きだった。だからずっと一緒にいた。

    「きれいだとか頭がいいとか仕事でどれだけ成果を挙げたとか、お家柄がどうだとか夕暮れのブルックリン橋の風景を高層階からだとか、もうたくさん。私は、あなたのなんの役にも立たないどうでもいい話を聞きたい。そして、私のどうでもいい話も、もっと聞いてほしい。それだけだよ」

     アデルはみるみる目を赤く潤ませた。アデルは涙をたたえようが、鼻も出なければ顔を腫らすこともない。完璧に美しいままの顔で涙を見せる。
     こんなふうだから、この人の言葉は届きにくいのか──と、ベネディクトは思った。なにを喋っても見惚れさせるのが先で、相手が頭を働かせるのを許さない。けれどそんな状態でも、ベネディクトの頭はクリアにアデルの言葉を理解した。自分の自覚のなかった思いをいま、目の前の人が口に出しているだけだったのだから。

     ずっと、なんなのかわからないまま、胸の奥に閉ざしていた自分を。
     目の前の人は自分をよく映す鏡だった。──お互いに。

     だからベネディクトにはわかった。だからこの人は、自分を家にあげたのだと。自分と同じ傷をそこに、見つけたのだから。そうなって、どうして拒否を続けられるだろう。痛みながら拒否し続けて、そうしてずっと探していた理解の可能性がそこにあるのに。

    「子供の頃にエンゼルフィッシュを飼っていました」

     ベネディクトは語り始めた。
     それは自分も同じだった。ずっと探していた、どこにもないと思っていた、夢。

    「きみといると、そのときのことを思い出す。見たこともないくらいきれいで、夢中で眺めていました。学校に行くのも惜しくて、帰ってもすぐ水槽に駆けつけた。いい場所で快適に泳いでほしくて、世話をするのも楽しかった。──私になにを応えてくれるわけでなくても」

    「魚が好きだったんだ」

    「なにかを飼ったのは、あれきりでした。忙しくなると世話も人任せで、そうなると、飼う意味があるのかもあやふやになって。ただ鑑賞するだけなら、生きたものでないほうが良い。そう思うようになりました。あの熱帯魚は例外、そう思っていました。それきり、そんな気持ちで生きたなにかを眺めたことなんて、ない──なかった」

     アデルはベネディクトを見つめたまま、テーブルの下で手を伸ばした。その手をベネディクトが捕まえる。アデルはベネディクトの肩に寄り添った。

     その後、ノーススター・キャピタル副社長ベネディクトから、ウエストエンドダイナーの脇の道で社用車と共に待機する第一秘書マーカスに連絡があった。

    「本日の業務は終了する」
    「自分の業務が片付き次第、きみも帰ってよい」
     その後、時間を置いて、さらにマーカスの元に連絡が届いた。
    「今夜は外泊する。居所は追って伝える。おそらくはワシントンハイツ近辺」


     

    9.

     アデルは生活のペースを崩すのを好まず、ベネディクトは翌朝早々に彼女の家を出た。早朝なので配車サービスを呼び、自宅へ戻る。昨夜の部屋は、この手の車の座席で寝るより正直なところ酷かった。どうも背中が痛む。

     しかし帰宅してさらにうんざりした。
     ここは自分の帰る家にもかかわらず、一切家ではない。
     ただただ利便性が高く、快適。

     こんなところにアデルを招くと考えると背筋が冷える。頭に浮かぶタスクと工程が、全てを寒々しいものへと変えていくのだ。

     とはいえ、昨夜のように、なにをするでもなくただ寝落ちするまで取り止めのないことを喋るのにも、もう少し翌朝の身体の負担のない広さがあるといいと思った。

     そう考えてもベネディクトの頭の中に思い浮かぶのは、この自宅と似たようなレジデンス、コンドミニアム、物件。建物のことを考えると、すぐに先週の不動産案件がどうなったのかを思い出す。気がついたらシャワーを終えて、またスタイリストに会社の顔として服も髪も仕立て上げられるのも終えていた。
     ここまで体が整うと、もう仕事に戻る気分になっていた。

     
     

     結局、ベネディクトはいつもの出勤時刻とほとんど変わらずに出勤した。キャンセルになった予定の一つも出していない。執務室の前で、第一秘書のマーカスが待っていた。挨拶を交わすと、彼は今日一日の予定を語り始める。ベネディクトは執務室の扉を開けた。

     デスクの脇に、薔薇の花束が飾られている。しかも、主張が激しい。普段から植物が飾られてはいたが、大抵香りもなければ色も穏やかなものだった。

    「なんですかあれは」
     ベネディクトが尋ねると、マーカスはかしこまって答える。
    「はい。ミスター・アシュフォードが少しでも寂しくないように」
    「………」
    「業務中はご一緒にいられないでしょうから、代わりに」
     マーカスは明確にアデルのことを言っている。
    「余計な気を回すな」
    「失礼しました」
    「まあ……、結構」

     ベネディクトは席に着いた。ラップトップを開き、起動するのを待ちながらマーカスに言う。

    「ところで今週の土曜日は休暇を取ります」
     マーカスは早速スマートフォンのスケジュール帳を開いた。

    「全日休暇でしょうか? 半年ぶりですね」
    「必要な連絡は受け付けます」
    「ありがたいことですが、もう少し休暇を増やされてもいいのでは」
    「そうかもしれません。インフルエンザできみと私が寝込んだ時、滞った業務が目立った。ある程度は仕方ありませんが、私がいない影響が大きすぎるのも業務の設計に問題があるように思います」
    「私どもも、副社長に頼りすぎているところがあるかと」
    「もう少し分散しましょう。いい機会です。私も自分の時間がもっと欲しくなりました」

     業務にかまけて、マーカスはつい好奇心を発揮した。
    「土曜日はどちらへ」

    「クロイスターズ美術館に。ハーブ園が見頃らしい」

     ベネディクトは薔薇の花束に目をやった。ブラインドから注ぐ日差しが赤い花弁を生き生きと見せる。 クロイスターズ美術館は、中世ヨーロッパ期の大修道院を模してデザインされた、クラシカルな建物が特徴だった。庭園が見所で、美術館としては西洋中世美術を多数収蔵している。

    「アデル嬢と?」
     マーカスはわかりきったことを聞く。「ほかに誰が?」とベネディクトはそっけなく答えた。

    「大変よろしいですね。よい気分転換をされてください」
     マーカスは微笑みを浮かべた。するとベネディクトは満足げに言う。「また業務効率が上がるでしょう。いや、……そういうことは、考えないでおきますか」
     ベネディクトは機嫌よく、饒舌にマーカスにあれこれと喋る。
    「アデルはハーブ園で安価なヘアミストを作るヒントを探したいと言っていましたが、流されないようにします。プライベートなのだから」
     マーカスは微笑しながら応答した。
    「あまりご無理なさらずに。それも、あなたらしさかと存じます」

     それからベネディクトはしばらくラップトップに向かった。会議の時間になり、席を立つ。マーカスをともなって、執務室を出た。
    「そう。フードフランチャイズの件、第三秘書のボブがだいぶまとめたようですね。不動産部門から報告がありました」
     マーカスは速やかにスマートフォンをチェックする。
    「そうですね。彼は思いの外頑張りましたよ。ライフスタイル部門との連携も相当力を入れていましたから」
    「たまには直接ねぎらいますか。彼も私の秘書です。なにがいいでしょうね──そうだ、あのダイナーに連れて行きましょう。いい店です。食事も普段あまり馴染みのないものが揃っている。ジャケットを脱いでも構わないのでくつろげるでしょう」

     ベネディクトは名案と言わんばかりに、いつもらしからぬ明るい声を出す。マーカスは微笑し、落ちついて答えた。

    「それはどうかまたの機会に。ボブにとってダイナーは日常です。彼をねぎらうおつもりなら、まずはラグジュアリーホスピタリティがよろしいかと、副社長」

     

    (了)


     最後までお読みくださり、ありがとうございました!

    🔽連載収録マガジン【全5回】




     
     
    創作大賞2026参加中。純文学を源流に、寓話性のある小説を書いています。心理ホラー系純文学と、恋愛・仕事を描くエンタメ系寓話が中心。人文学講座のスタッフとして、寄稿・対談にも参加してきました。好きなものは、物語にひそむ思想、階級、欲望、笑い。作品投稿中心、交流は控えめです。

    あなたへのおすすめ