
『夜翔』』第二話 桜の下の違和感
参道の桜は、七分咲きだった。
風が吹くたび、花びらが数枚ずつ舞い落ちる。その一枚が、淳子の膝の上、白い指先のすぐそばに落ちた。
男は、それを拾おうとはしなかった。
視線は、静かに重ねられた指先へ落ちる。指先が、落ち着かないようにそっと動いた。
淳子は居心地の悪さをごまかすように、頬へ流れた髪を耳へ掛ける。
艶のある黒髪がさらりと肩を滑り、白い首筋が桜色の光の中に浮かび上がった。
男は小さく微笑んだ。
「その癖は、昔からですか」
「……癖?」
「考え込むと、髪に触れる。」
淳子は思わず指を止めた。
「ずいぶん、人を見ておられるんですね。」
「あなたが目立つからでしょう。」
「私が?」
「ええ。」
それだけだった。
視線を逸らした淳子の頭上を、風がもう一度通り過ぎる。
花びらが二人の間を斜めに横切り、地面へ落ちるまでの短い間だけ、白く光った。
淳子は小さく息を吐いた。唇が乾いていることに気づき、無意識にそっと湿らせる。その何気ない仕草に、自分で気づき、恥ずかしくなる。
男は何も言わない。
沈黙の中を、参道を歩く人々の笑い声だけが遠く流れていく。
誰かが「もう散り始めてるね」と言うのが、切れ切れに聞こえた。
「ご主人とは……」
男が静かに口を開く。
淳子は反射的に答えていた。
「家のことは……聞かないでください。」
言った瞬間、自分ではっとする。
男は少しだけ目を細めた。
「失礼しました。」
責めることも、慰めることもしない。
淳子は膝の上で指を組み直す。
細い指先が、自分でも気づかないほど震えていた。
散った花びらが一枚、その指先の上にそっと乗り、風もないのに、やがて滑り落ちた。
「淳子さん。」
ふいに名前を呼ばれる。
その瞬間、淳子はわずかに息を止めた。
「あなたは……ずいぶん長い間、耐えてこられたのでしょう。」
その言葉に、淳子は何も返せない。
ただ俯いたまま、小さく唇を噛む。
春風が吹く。乱れた前髪が頬へ落ちる。
淳子はそれを払おうとして手を伸ばしたが、その手は途中で止まった。
男が静かに手を伸ばす。
「失礼。」
長い指先が、頬に触れることなく、一筋の髪だけをそっと耳へ掛けた。
指先は髪を整えただけだった。それなのに、淳子の呼吸はわずかに乱れた。
頭上で、桜がまた一斉に揺れた。
花びらが、二人の頭上から降るように舞い、淳子の膝の上に、白い指先の上に、静かに積もっていく。
淳子は目を閉じた。
——この人は、いつまでここにいるのだろう。
そう思った自分に、淳子は少しだけ戸惑った。
#創作大賞2026 #創作大賞2026小説部門 #夜翔 #桜の下の違和感 #小説 #恋愛小説 #文学 #純文学 #大人の恋 #心の距離 #孤独と再生 #桜 #春の記憶 #静かな余韻 #物語 #創作